4章
闇の中で、私は抱かれていた。
背を包む腕は熱を帯び、頬に触れる吐息は静かに甘い。
その温もりはかつて一度だけ知った――雨の夜に許された、あの短い安らぎを思い出させる。
深く、優しく、私を壊そうとする気配はない。
「……セラフィナ」
マスターが、優しく私の名を呼ぶ。
二度と戻らぬはずの人。
その声が、今は私を赦し、慰め、眠りへと誘っていた。
胸の奥が震え、呼吸が細く乱れた。
「……マスター……」
掠れた声で呼んだ瞬間、唇を奪われ、舌が絡み、息が甘く吸い取られる。
苦しくはなかった。むしろ心地よい。
熱が流れ込むたび、罪が溶け、涙が赦しに変わっていく。
「その身も、心も、未来も……すべてを私に委ねろ」
耳元の囁きは、命令ではなく、優しい調べだった。
それはかつての夢で与えられた私の罪を問う言葉ではなく、赦しの言葉に聞こえた。
私は頷き、小さな声で答えた。
「……はい……」
頬を撫でる指は涙を拭い、髪を梳き、背を優しく撫でる。
その柔らかな仕草に包まれ、私は思った。
すべてを委ねたい、と。
疲れ果て、砕かれ続けた心は、抗うことを望まなかった。
ただ眠りたい。この甘さの中に沈み、安堵の腕に抱かれていたい。
「セラフィナ……」
名を呼ぶ声が、わずかに濁る。
闇の底で、別の音が重なった。
「……お前の全てを私に差し出せ」
あの声だ――夢の中で私を導いた、あの囁き。
マスターの言葉に重なるようにその声色が微かに笑っている。
「……はい……」
黒い影が揺らめき、腕を、足を、胸を包む。
ひやりとした感触が肌を撫で、やがて私を包み込んでゆく。
本来なら恐ろしいはずの感覚だった。
けれど涙は止まらず、唇から零れたのは拒絶ではなく安堵の吐息だった。
やがてそれは私を外からも、内からも侵食していく。
心地よく、抱き締められるように、優しく支配されていく。
「その身も、心も、未来も……差し出せば、すべては救われる」
もはやそれはマスターの声ではなかった。
低く濁り、重く沈んだ調べ。
甘美な囁きに包まれ、私はただ安堵に浸っていた。
触手が腰を撫で、髪を梳き、胸の奥に冷たい熱を流し込む。
私は拒まなかった。
むしろそれを抱擁と錯覚し、心地よい抱き締めに酔うように受け入れた。
涙が頬を伝う。
それを拭う影もまた甘美で、優しかった。
――差し出せ。
――差し出せ。
声は重なり、子守唄のように繰り返される。
私は頷いた。
その声に、その抱擁に、抗うことなくその身を差し出していた。
*
目を覚ましたとき、世界はまだ夢の残り香に包まれていた。
無機質な天井がぼやけ、皮膚には確かに誰かに抱かれていた温もりが残っている。
腕の重み。胸を撫でていた影。
外からも、内からも、私を包み込んでいた感触。
普通なら恐怖で跳ね起きるはずの異質なものを、私は温かく優しい抱擁に感じられた。
あの瞬間、確かに心地よさを感じていたのだ。
差し出せと囁かれたとき、私は頷いた。
唇から零れたのは否定ではなく、安堵の吐息だった。
――それでよい。
――委ねれば救われる。
子守唄のような声がまだ耳の奥で響いている。
夢の残響は、私を罰するのではなく、むしろ背を押していた。
思い出すだけで胸が温かくなる。
身を委ねたあの瞬間、確かに私は軽くなった。
背負っていたものすべてが溶け、赦されたように思えた。
もしあれが夢であっても、そこに映ったのは私自身の望みだ。
涙がひと筋、頬を伝う。
だがそれは悲しみではなかった。決意の印。
夢は私を壊したのではなく、進むべき道を指し示していたのだ。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
私はいつものように彼の隣に立つだろう。
だが胸の奥には確かに残っている。
甘美な抱擁と、子守唄のような声が。
あの声が言うように、私は従う。
静かに、迷いなく。
もう決めているのだ。
この身を、今日、差し出すと。
*
実験室は、朝の気配を拒むように白い光で満たされていた。
冷却装置の低い唸り。循環空調の乾いた息。モニターの微かな明滅。
ここでは時間が凍りついている。
私はいつもの位置に立つ。
昨夜の出来事はすべて拭い去った顔で。
隣にはウェスカーが立つ。
彼もまた何も言わない。
その横顔は、相変わらず冷徹という名の仮面を寸分違わず保っていた。
「始めろ」
低い声が、空気の骨格を正すように響いた。
研究員たちは黙って動き出す。
被験体はガラスの中に固定され、投与が始まった。
痙攣。
皮膚に浮かぶ黒い網目。
呼吸が途切れ、そして静寂。
モニターには赤い線が一本、ただ真っすぐに伸び続けていた。
失敗は、いつもと同じように滑らかに起こり、そして滑らかに処理された。
処理班が引き上げるあいだ、私はガラスの向こうで揺れる白光を見つめていた。
研究は進まない。
やはり、ここで足を取られる。
「このまま数を重ねても、誰も適合することはない……」
だから、もう――私にできることはひとつしかない。
胸の奥で、夢の残響が静かに起き上がる。
――その身も、心も、未来も。
差し出せば、すべては救われる。
子守唄のような甘さで、拒む筋を一本ずつほどいていく声。
もう分かっている。
あの声が、私に示してきた意味を理解した今、私はその通りに運命を委ねるだけだ。
私は器具台に歩いた。
滅菌布の上に規則正しく並ぶ銀色の影の中から、一本の注射器を取る。
金属の冷たさが掌の線に沿って沈み、皮膚の内側に小さな震えを残す。
試料管の栓を開け、針を挿す。
黒くゆらめく液がゆっくりと持ち上がり、気泡がひとつ、喉を鳴らすように弾けた。
静寂が厚くなる。
音が消え、静寂だけが形を持ちはじめる。
背にいくつもの視線が集まるのが伝わった。
まだ誰も気づかない。私が何を選ぶのか。
そんなこと、誰も想像していない。
「……セラ」
名を呼ぶ声が低く、慎重に響いた。
彼の視線が、私の手元を捉え止まった。
「それを置け」
私はそれを無視して袖を押し上げる。
薄い皮膚の下で血管が淡い線を描く。
何をしようとしているのか――その意味を、おそらく彼は理解した。
そして目の奥に、一瞬だけ“あり得ない”という感情が閃く。
私は息を一つ吐き、針先を肌に触れさせた。
――そうだ。
「やめろ――!」
怒号が白光を震わせた。
次の瞬間、閃光のような影が走る。
ウェスカーが瞬きよりも早く間合いを詰め、私の手首を弾いた。
注射器が宙を舞い、金属の音が白い床を裂く。
彼の呼吸は荒れていた。
けれど、その瞬間にはもう――
針は皮膚を破り、冷たい液が体内へ流れ込んでいた。
ピストンは底に触れている。
胸の内側が熱を噴き、背中へ、腹へ、指先へと走る。
肺が浅く痙攣し、吸気と呼気の順番がわずかに入れ替わる。膝がきしみ、床が近づく。
体が床に落ちる前に、抱きとめられた。
肩と腰を同時に掴まれ、胸骨の前で強い圧がかかる。彼の腕は筋が固く、だが震えていた。
「なぜ……なぜそんなことをした!」
その声は荒く、息が滲んでいた。
いつもの冷たさではない。
ただ、どうしようもない焦りが喉を押し上げていた。
強い吐き気が波のように打ち寄せ、視界の輪郭が柔く解ける。天井の光が滲み、白に薄い赤が混じる。
彼の手が私の頬を掴む。指の節が食い込み、顔の向きを真っすぐ戻される。
「見ろ」
それは命令の形を借りた懇願のような響きだった。
赤い瞳が、すぐそこにあった。
慌てていたのだろうか、いつものサングラスは影も形もない。
仮面を失ったその瞳は、生々しい熱を宿していた。
そこにあるのは冷たさではなく、見たことのない熱。
焦りとも怒りとも違う、名もない炎が赤の底で揺らめいていた。
……ああ、知らなかった。
あなたの瞳が、こんな温度を持つことがあるなんて。
「セラ……!見失うな!制御しろ……!」
その声は普段の冷徹な彼と同じ口からこぼれたとは思えないほど、掠れていた。冷徹な仮面が一瞬で揺らぎ、人間の音色が滲む。
胸板に顔が触れ、衣服越しに伝わる鼓動は乱れていた。初めて聞くその速さに、胸が締め付けられる。
笑ってしまいそうだった。
こんなに動揺する姿など、見たことがない。
けれど笑うことはできず、代わりに小さく息が零れた。
「……これで、いいんです」
自分の声が他人のもののように遠く聞こえる。
彼の腕がさらに強く締まる。
「何を言っている……!」
その言葉の温度に、彼のすべてが露出していた。
微笑んだように唇が動く。
「これで、あなたは進める」
これが、あなたのために私が選んだ道。
私にしかできないこと。
ウロボロスが完成しなければ、あなたはまた同じ未来へ進む。
ならば――私が、鍵になる。
私の中に眠る“それ”が、あなたの絶望を変えられるのなら。
夢の残響が耳裏で揺れる。あの子守唄。
あの抱擁。
――身も心も、運命も、すべて差し出せ。
私は抗わない。
「セラ!」
視界の端で、彼の喉仏が上下するのが見えた。必死に、私の名を呼んでくれている。
世界が、黒の縁から静かに色を失っていく。
彼の手が首筋の脈を探り、確かめる。
ただそこに「私」がまだいるかどうかを。
「お前は、何を考えている……!」
呼ぶ声が、だんだんと水に沈むように遠ざかる。
「お前は……なぜ、そんなふうに自分を捨てる!私から離れようとする!」
最後に赤い瞳がわずかに揺れた。
光が歪む。
視界のどこかがぼやける。
それが彼の瞳の揺らぎなのか、私の視界の震えなのか――もう分からない。
「……どちらの“あなた”も……私を見つけてくれた。
なら……わた、し――」
音が途切れる。
言葉は形を保てず、空気の中で静かに溶けていく。
意識が、闇へと沈んでいった。
静かに、深く。
冷たいはずの闇は、なぜか柔らかかった。
あの夜の腕に似ていて――
罰と赦しが、同じ形で私を抱いていた。
すべての音が遠ざかっていく。
セラフィナ……
意識が最後の薄皮まで薄くなり、世界が完全に閉じる。
その直前、耳の奥で、かすかに心地よい低音が私の名を呼んだ。
もう二度と戻らないはずのその心地よい響きが、暗闇の奥から私を呼んでいた。
私はそれに抱かれたまま、その闇に沈み切った。