4章




交渉は、予定通りウェスカーが一人で臨んだ。

私は背後に控えることすら許されなかった。
当然だ。エクセラという女は、己の野心と美貌を武器にする女。
彼女を相手にするのに、私のような影を連れて行く必要はない。

そして、結果はただ一つ。
ウェスカーは、彼女を巧みに利用した。
トライセルの資金と設備をまるごと引き入れ、自らの研究基盤を移すことに成功した。




数週間後、私たちは新拠点へと移った。
そこはこれまでの隠れ家めいた施設とは比べものにならない、研究施設だった。

際限なく並ぶ最新鋭の機材、無尽蔵に供給される資金と人員。
そのすべてが、トライセルという企業の規模を雄弁に物語っていた。
贅沢でありながら冷ややかで、無機質な匂いに満ちた空間。
だが、その中心に立つのはあくまでウェスカーであり、彼の存在こそがこの拠点を支配していた。

エクセラは彼の隣に立ち続けた。
まるでその座を自らのものとするかのように、絡みつき、媚びるような笑みを浮かべる。
研究室でも廊下でも、彼女は当然のようにウェスカーの腕へと身を寄せ、笑声を零した。


私はそれを見ても、何も感じなかった。
羨望も、苛立ちも、嫉妬も、そんなものは一切湧かない。

あの夜を抱えた心はすでに砕かれ、甘さを否認する冷徹さだけが残っていたから。


けれど、不意に視線を感じることがあった。
彼女と並ぶウェスカーが、ふとこちらへ視線を向ける。
探るような、問いかけるような視線。
その温度を、私は見なかった。
私にはもう不要なもの。
ただ、私は冷たい影として立ち続ける。



白く冷たい研究室。
培養槽の液体が低い唸りを立て、機械の振動が床を伝う。
エクセラは滑らかな仕草で歩み寄り、ヒールの音を響かせながらウェスカーの横に並んだ。

「アルバート……あなたのために、トライセルは莫大な資金を投じているのよ」
唇の端に笑みを刻みつつ、横目で彼を見上げる。

「けれど、私はただのスポンサーじゃない。あなたが何を求めているのか……正確に知る権利があるはず」

ウェスカーは計器から視線を外さず、低く答える。

「知る必要があると思うのか?」

「ええ。だって――」

エクセラはさらりと彼のデスクに手を置き、爪先で資料の角をなぞる。

「人類の未来を変える研究なのでしょう。あなたの夢を、私の手で現実にしてあげてもいい。けれどその見返りは、相応でなければならないわ」

挑むような微笑み。
だが、その奥に隠れているのは「権力を分け与えられる」という渇望だ。

ウェスカーはその視線を受け止め、赤い瞳で淡々と告げた。

「私が目指すのは単なる進化ではない。人類全体を……選別にかける」

エクセラの眉がわずかに動いた。

「選別……?」

「弱者は淘汰される。強き者だけが生き残る。その自然の理を加速させるだけだ。
真に適応する者を選び取る。私はその理を支配するだけだ」

ウェスカーは書類を閉じ、エクセラの方へゆっくりと向き直った。

「そのための究極のウィルス。それが……ウロボロスだ」

静かに告げられた名が、研究室の空気を一瞬にして凍らせた。
エクセラの唇がわずかに開き、興味と野心の光が同時に宿る。

「ウロボロス……自らを喰らい、再生する蛇。終焉と再生の象徴……」

彼女は小さく笑い、囁くように続けた。
「ふふ……壮大な神話ね。あなたにふさわしいわ」

「神話ではない。いずれ現実となる」

ウェスカーの声には微かな熱が混じる。
「人類は膨れ上がり、脆弱な群れに堕している。このままでは破滅だ。ならば……ふさわしき者だけを残す。それが私の計画だ」

エクセラは目を細めた。
「なるほど……その計画が成功すれば、世界はあなたの掌の中。そして、その隣に立つのは、この私」

「……そうだな」
ウェスカーはわずかに笑んだ。

「だが勘違いするな。主導権は私にある」

その声に、エクセラは一瞬だけ瞳を細め、挑発するように唇を吊り上げた。

「アルバート……あなたって本当に冷たいのね。でもその冷たさ、嫌いじゃない」

そう言い残して、エクセラは踵を返し、実験室を出ていった。


――ウロボロス。

その名を耳にした瞬間、胸の奥に冷たい刃が突き立つような感覚が走った。
脳裏に、忘れられぬ光景がよみがえる。

――炎と溶岩に呑まれ、黒い触手に覆われて朽ちていったマスター。
叫びもなく、ただ崩れ落ちていった背中。


その光景を、私はもう一度見たくはなかった。

だが、運命は再びそこに至ろうと向かっているのだ。
どれほど足掻こうと、この道を避けることはできないのだろうか。

それとも、マスターが夢で言っていた私の“救いの欺瞞“が嘲笑うかのように、未来を再びあの地獄に向かう道へ繋げてしまったのだろうか……。
 

胸がきしむ。
その痛みは、鈍く光る刃のように私を貫き、逃げ場のない冷たさが骨の奥まで染みていく。


幻想でも、錯覚でもいい。
せめて、あの夜のように甘く、心地よい夢に溶けて、現実から遠ざかりたい。


けれど、それすらも許されないというのなら――
避けられない運命が彼を、そして私を、あの未来へと引きずり込むというのなら。
抗うことに意味はない。
私はただ、その流れに身を委ねるしかない。

『その身も、心も、未来も。すべてを差し出せ』
あの夢で、マスターが――あの声が、私に囁いたように。


「……セラ」

名を呼ばれて、思考の底から浮かび上がった。
漂っていた思考が現実に戻る。

「何を考えている」

エクセラの去った部屋には、循環音だけが残っていた。
ウェスカーはしばらく無言のまま計器を見つめていたが、
ふいに私へ視線を向けていたらしい。

「あなたが進む未来がどうなるのかを少し想像していただけです」

「……そうか」
低く返す声に、わずかな間が落ちた。
そして――試すような響きが続く。

「お前はどう思う?」
「何を、でしょうか」
「さきほどの話だ。聞いていたのだろう?
淘汰と選別。……お前の見解を聞こう」

視線が絡む。
逃げ場はない。

「強い者だけが生き残るのか、という話ですか?」
「それ以外に何がある」

短い沈黙。
私は少し息を整え、静かに答えた。

「……私は、逆だと思います」
「逆?」

「本当に強いものが生き残るのか、私には分かりません。ただ、そういった選別や死を越えてなお立っている者こそが、理によって選ばれた真の強者だとするならば、生き延びた者は結果として“強者”になる。……あなたのように」

ウェスカーの赤い瞳が、わずかに動いた。
その光の底に、一瞬だけ反射のようなものが走る。

「……ほう」
「あなたはすでに一度死を凌ぎ、その理を超えた。
選ばれた者だけが、その先に立てるのだとしたら、まだ選ばれてもいない者が、強者を語ることなどできません」

静寂が訪れる。
機械の循環音が、遠くで呼吸のように鳴っていた。

ウェスカーの唇がわずかに動く。
「ふむ……。あの傲慢な女とは、まるで違うな」

「……」
「多くの者は、自分こそ選ばれる側だと信じて疑わない。あるいは、生き残るために必死に足掻く。
だが——お前は違うようだ。自分が選ばれることに興味がない……いや、他人事のようだな」

「他人事、ですか」

「ああ。ウロボロスが完成すれば、世界は篩にかけられる。その渦中にいるはずのお前が、まるでそれを外から見ているような顔をしている」


その声音には、探るような響きが混じっていた。
何かを答えるべきか迷い、言葉は喉で止まる。
彼は私の沈黙を見越したように続けた。


「……不思議な女だ。お前はあらゆることに恐怖も、欲もない。初めて会ったときからずっとそうだ。私が言わずとも求めるものを拾い、疑問も口にしない。それでいて見返りを求める様子もない」

「私は――」
思わず口を開きかけたが、その先を言わせぬように彼の声がかぶさる。

「まるで、己の意志そのものをどこかに置いてきたかのようだ。そして時には——先に起こる事を、すでに知っているかのように振る舞う」


低く呟く声に、わずかに熱が滲んでいた。
……ウェスカーは私の特異に気づき始めている。

「理解不能で……実に不気味だ」

その言葉を残し、ウェスカーはわずかに顎を上げた。
指先がサングラスの縁に触れ、ゆっくりと外す。
黒いレンズの奥から現れた瞳は、光を受けて生々しく揺れる。

「だが――理解不能なものほど、興味を惹く」

低い声とともに、彼は一歩、また一歩と近づいてきた。
白い照明の中で、二つの影が重なり合う。

指先が頬に触れる。
冷たい手袋越しの感触が、触れた場所からじわじわと熱に変わっていく。
その動きはまるで、答えを探るように慎重だった。

やがて指は頬から顎を伝い、唇の上で止まる。
親指の腹が、ゆっくりと唇をなぞった。

息が詰まる。
触れたのか、撫でたのか、それすら曖昧な圧。
熱がそこから滲み、喉の奥がかすかに鳴る。

私は反射的に顔を逸らそうとする。
だが、その動きより早く顎を掴まれる。

「……逃げるな」

低く押し殺した声が、耳の奥に響く。
顎をくっと持ち上げられ、視線を逸らすことを許されない。

「お前は、私を求めるように見るわりに……近づくと拒む」


赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「……私を見ているようで、見ていない」


やがて固く絡んでいた視線が、次の瞬間には唇を捉える。

「まるで、私を通して何かを見ているようだな」


ウェスカーがわずかに身を屈めた。
息が触れ合うほどの距離になり、空気が熱を帯びる。彼の輪郭が近づく。


「お前は……私を通して何を見ている」

唇の距離が一息ぶんに縮まり、息が交わった。
彼の指の力がほんの僅かに緩む。


その瞬間に私は反射的に顔を逸らす。
肩が彼の胸に触れ、空気がわずかに揺れる。


「……まあいい」

囁きが頬をかすめ、彼の手が動く。
逸らした私の顔へと伸び、指先で髪をすくい上げて耳の後ろへかける。
その仕草は穏やかでありながら、まるで「逃げ場などない」と告げているようだった。


「お前が何者なのか……いずれ分かるだろう。手放すつもりはない」

唇を耳元に寄せ、吐息が触れるほどの距離で囁いたその声は、低く、微かな熱を孕んでいた。

彼の手が離れたあとも、頬に残った温度だけが、いつまでも消えなかった。







トライセルの豊富な資金と設備を得て研究は順調に進んでいった。
試作型のウロボロスウィルスは短期間で形を成し、隔離室には次々と被験体が運ばれていった。

幾人もが苦悶のうちに絶命し、幾つもの慣れ果てが焼却されていった。

しかしながら、投与後の変異は一瞬で、適合の兆しを見る事は全くない。
実験室は常に血と腐臭に包まれた。
私はその光景を、ただの過程として見届けながら、死体……もとい残骸を無感情に処理する。



時折、ウェスカーの視線が背に突き刺さるが、私はその視線を無視し続けた。


求めていたはずの温もりなのに。
あの夜、夢の中で刻まれた言葉が今も焼き付いて離れない。

『私を救うと口にしながら己の欲望に縋るなど浅ましい。お前は結局、自分が救われたいだけだ。』

甘さを望むたび、あの夢で与えられた罰が蘇る。
触れられるたび、あの“声”が私の中で目を覚ます。

けれど、いま目の前にいる彼は確かに“マスターの過去”でありながら、別の時間を歩み、別の出会いを経て、私の知らないウェスカーになっている。

彼から、あの冷たく私を支配したマスターの影を感じる事はない。

同じ顔で、同じ声で、まったく逆の言葉を告げる。

「逃げるな」

それは、触れ合いを拒む私への言葉。

求める事をやめても、求められている。

触れられるたびに、あの夢の罰が蘇る。
温もりを罪として焼きつけられた記憶が、疼き続ける。

かつて手を伸ばしても決して届かなかったマスターと、触れてくる手を拒んでも求めてくるアルバート。

その矛盾が、心を切り裂いていく。

私はどちらを選ぶべきなのか。
自らの宿命を果たすべきなのか。
それとも——向けられる彼の手を取るべきなのか。

その問いが、心臓の奥で何度もぶつかり合う。
息をするたび、どちらかが崩れ落ちそうになる。

もし“救い”が罪であるなら、私は何を信じればいいのだろうか。


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