4章



数日が過ぎた。

あの夜のことは、あれから一度も口にしていない。
私はただ、雑務をこなし続けた。
必要な作業を機械のように積み重ね、心を無にすれば、それはなかったことになる。
甘い熱も、頬を伝った涙も、存在しない。

あの夢でマスターが言った言葉が、今も胸の奥に残っている。

私は、彼を救いたいと願っていた。
だが本当は、その望みの中に、私自身の救いを求めていたのだ。

彼に“見てほしい”という渇き。
それは過去、マスターに抱いた願いの焼き直し。
私は今の彼を通して、過去の救われなかった自分をやり直そうとしていただけなのだ。

なんと愚かで、浅ましい願いだろう。
認められることを救いと錯覚した、堕ちた存在。
私に許されるのは、熱ではなく沈黙。
彼に触れることではなく、彼を支える影であること。



研究室の机の上に並べられたサンプルケースか冷たい光を放っている。


間近に控えたトライセルとの交渉に向け、準備を整える。
私はラベルを確認し、必要な番号を端末に入力していく。

「暗号化は完了しているか」

背後から静かな声が落ちた。
私は端末から目を離さず、短く答える。

「最高水準で施しました。第三者からの解読は不可能です」

「……ふむ」

小さな足音が近づく。
影がモニターにかかり、赤い光が横顔をかすめた。
向けられた視線を、私は決して見なかった。
探るような熱があるのは分かっていた。
だが見てしまえば、あの夜が存在したと認めることになる。
だから、私は目を逸らし、指先に意識を集中させる。

サンプルを封印し終えると、今度は武器と輸送ケースの確認に移った。
マガジンを抜き、残弾を数える。
銃口を覗き、清掃状態を確かめる。
ナイフを鞘から抜き、刃を光にかざす。
乾いた音でケースのロックを閉じると、掌に重みが伝わった。

背後からの視線は、途切れない。
私の動き一つひとつを、観察するように追っている。
銃を構える姿、刃を握る仕草、ケースを抱える手の力加減。すべてを静かに測られている。


「……相変わらず、動きに迷いはないな」

独り言のような声が背に落ちた。
評価とも観察ともつかぬ響き。
けれどその底に、あの夜を思い返す温度を感じ取ってしまう。

胸の奥がわずかに軋む。
だが私は気づかないふりをした。
銃口をケースに収め、短く答える。


「交渉の準備に、問題はありません」

無機質な声。
それ以上の感情を混ぜる必要はない。


沈黙が落ちた。
視線だけが重く突き刺さる。
私は机の上に残ったデータ端末を閉じ、整理を終える。

「そうか。……だが、今回の交渉は、私一人で行う」

静かな声が、部屋の空気を切った。
私は一瞬だけ指を止めたが、顔は上げない。 


「……承知しました」


彼がそう決めたなら、それが正しい。
私はただの駒のひとつ。
常に隣に立つ理由はないのだから。


道理としては理解している。
だが、心の奥が冷たく沈む。


はじめから彼の隣に立つ資格はないのはわかっている。

私はただの道具。
彼のために動き、彼の歩む道から再び破滅を遠ざけるために動く影。
感情を殺し、己を消し、淡々と道を整える——それだけでよかったはずだ。

それ以上を望んだのが過ちだった。
救いを願ったのは、堕落だったのだ。

この胸の痛みが事実を突き付ける罰のよう。


「お前は拠点で待機しろ。通信と監視を任せる」

「了解しました」

赤い瞳が、私を探るように射抜いてくる。
彼は言葉にしない。
非合理なことを口にしないが、観察する視線は仄かな熱を帯びていた。


だから私は顔を上げる事ができなかった。


机の上の容器を並べ直し、最後のファイルを封じる。
準備はすべて完了した。

「以上です」

そう告げると、彼は小さく頷き、背を向けた。
去り際の一瞬、背中からでも視線が突き刺さるように感じた。
だが私は目を上げなかった。


その視線が交わってしまえば、また私の存在が揺らいでしまうから。

爪が掌に食い込み、白くなる。
私は無表情のまま、淡々と後始末を続けた。

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