4章



眠りは穏やかだった。
彼の隣で与えられた温もりに包まれ、心は安堵の海に沈んでいく。


――これは救いだ。
そう思ったのも束の間、世界は静かに反転する。


まぶたの裏に広がったのは戦場だった。
血と土の匂い。
崩れた塹壕、転がる亡骸。
夜の湿った風が肌を切る。
 

……また、ここ……

足元の泥がずるりと動き、影が立ち上がる。
少年――私が撃った少年兵。
額に穴を開け、血を滴らせたまま。


「なぜ、助けなかった」
「僕は、生きたかったのに」

白濁した瞳が私を射抜く。
息が詰まり、後ずさる。

背に冷たい気配。振り向けば、少女が立っていた。
実験で滅んだ村の実験室で処理したサンプル。
血管の浮いた腕を伸ばし、掠れた声を紡ぐ。


「あなたは私を殺した」
「見捨てた」
「選ばなかった」


その声が波のように幾重にも重なり、頭蓋を打つ。
耳を塞いでも無駄だった。
声は骨の奥から響いてくる。


「ちが……う……私は……」

掠れた否定は、闇に呑まれて消える。

大地が揺れ、赤黒い光が割れ目から吹き上がる。
轟音と熱風。炎が世界を呑み込む。



――火山。

崩れ落ちる岩の上に、影が立っていた。
焼け爛れ、沈みゆくマスターの姿。


「……マスター……」

名を呼んだ瞬間、赤い瞳がぎらりと燃えた。


「お前は私を救うと口にした」
「だが夜には、私を求めた」

低く掠れた声が胸を抉る。


「求めたのは私か? それとも――お前自身の赦しか」

喉が塞がれ、言葉が出ない。
亡霊は嗤う。


「救う? 導く? ――それは欺瞞だ」
「お前は結局、自分が救われたいだけだ」

胸が冷え、足が震える。


「……違う……私は……」

声を絞り出そうとした瞬間、彼の焼け爛れた腕から黒い触手が伸びた。
ぬるりと蠢き、空を切り裂きながら私に絡みつく。


「導くと言いながら、甘さに縋る」
「その自己憐憫に、私の名を貼りつけただけだ」

腕に巻きついた触手は冷たく、首を縛り、胸を締め、腰を固定する。
そして――体内へ侵入してきた。


「――っ!」

焼ける痺れが全身を駆け抜け、背筋が反る。
声が勝手に零れる。


「……っあ……」

否定のつもりが、甘い響きにしかならなかった。


「聞け、セラフィナ」
「その声は救いではない。
 己の欲望に縋る浅ましい呻きだ」

触手が奥を抉るたび、喉から声が漏れる。
否定すればするほど、甘い震えが滲む。


「違う……私は……救いたい……!」

必死に叫んだその瞬間、内側を強く抉られる。


「――っあ……!」

悲鳴は、救いの言葉を塗り潰すように響いた。
亡霊の目が細められる。


「見ろ。お前の“救いたい”は、この声と同じだ」
「救いではなく、赦しを乞う汚声だ」

「……違う……」

「否定もまた甘い。
 お前の口から出るものはすべて、己を救うための声」


触手が敏感な一点をなぞる。
腰が勝手に跳ね、喉が震える。

「……っ、や……」

亡霊の声が低く響く。


「その掠れも、喘ぎも――お前の罪を暴く証拠だ」

そうだ、と胸の奥で声が重なる。
否定すればするほど、私は自分を裏切っていく。


「……マス、ター……」

縋るように呼んだ瞬間、赤い瞳が烈火に燃えた。

「黙れ」
「その汚れた声で私の名を呼ぶな」
「救うなどと口にしながら、求めているのは自分の赦し」

胸が裂ける。涙が溢れる。

触手が一斉に収縮し、全身を痙攣させる。
声が絶叫に変わり、息が途切れる。


「――っあああ……!」

その悲鳴を、亡霊は断罪に変える。

「それは救いではない。罰だ」
「お前が抱いた浅ましい願いに下る、自己の罰だ」

声が重なる。
マスターの低声と、濁った異質な声。

「差し出せ」
「その身も、心も、未来も。すべてを私に差し出せ」

触手が心臓を締め上げる。
意識が赤黒い炎に溶けていく。

最後に突き刺さったのは、亡霊の嗤いだった。

「セラ。お前はもう二度と“救う”とは言えない」
「お前の声が、それを証明したのだから」


――差し出せ。

その言葉だけが、耳に、骨に、心にこびりついた。
甘い夜も、救いの願いも。
すべては自己救済の幻想だったのだと、私は理解した。

私は彼を救うと言いながら、救われたいだけだった。

だからこれは罰なのだ。

そう認めた瞬間、視界は真紅に呑まれた。





「――っ!」

飛び起きる。
胸が激しく上下し、汗と涙が頬を濡らす。

隣には安らかに眠る彼の姿。
冷徹さを忘れた横顔。静かな呼吸。

それは救いに見えた。
だが、耳の奥にはまだ残っている。


差し出せ。身も心も、未来でさえも。


そうだ。
私は錯覚していたのだ。
彼を救うために隣にいたはずが、自分が救われたいと願っただけだった。


「……私は……」

声は震え、涙に濡れる。
あの一夜すら、私の自己救済の幻想だった。


残された温もりを振り切るように、そっとベッドを離れる。
シーツの乱れも、首筋の痕も、安らかな寝息も……すべて誘惑にすぎない。


あの夢が告げたとおりだ。
この甘さを抱いたままでは、私は救いを願うただの女に堕ちてしまう。

救われたいなどという欺瞞を断ち切るために、私は差し出さねばならない。


宿命のために。
運命のために。
すべてを、この身ごと差し出すべきなのだ。


3/7ページ
スキ