4章
雨音が絶え間なく降り注ぎ、ガラスを叩いては波紋のように広がっていく。
部屋全体が水底に沈んでいるかのように、外の景色は揺らぎ、光は歪み、世界はすべて雨に覆い隠されていた。
窓に掌を当てたまま、私はその歪んだ光の粒をただ追い続けていた。
濡れたガラスに映るのは、見慣れたはずの自分の姿。
けれどそこにいたのは、影の役割を果たす冷徹な存在ではなく、壊れかけた人間の顔だった。
こんな姿を彼には見られたくない。
胸の奥でそう繰り返しながらも、背後に迫る気配から逃れることはできなかった。
彼がいる。
足音はしなかった。けれど、その沈黙の圧が私の背中を押し潰すように迫ってきていた。
振り返れば、何かが決定的に変わってしまう。
それが分かっているからこそ、私は視線を外に固定した。
ただの雨。冷たい水の粒。
それだけを見つめていれば、きっと影としての自分を繋ぎ止められる。
なのに、胸の奥がざわめく。
雨音に重なるように、もうひとつの音が届いた。
「……そんな顔をするな」
低く掠れた声。
その響きには、冷徹さではなく、抑えきれぬ熱が滲んでいた。
私は息を止めた。
窓に映る自分の顔を見つめる。
濡れたガラス越しの瞳は、確かに揺れていた。
なぜ今、この人の前で、こんな表情をしているのか。
「……セラ」
それは初めて聞く音色だった。
彼の声に宿る震え。理性や冷酷さでは覆い隠せない、人間の揺らぎ。
その温度が、背中から胸の奥へと突き刺さる。
私は振り返りたくなかった。
この脆さを、彼に見られたくなかった。
でも、その声に宿った震えは、抗えぬ力を持って私を揺さぶった。
気づけば、肩がわずかに震えていた。
そして、振り返っていた。
視線が交わる。
赤く燃える瞳が、そのまま私を射抜いた。
冷徹な観察でも、支配のための威圧でもない。
そこに宿っていたのは、名前を知らぬ熱。
理性ではなく、感情と呼ぶしかないもの。
胸が詰まった。
息を吸うことも、吐くことも忘れて、ただその色に囚われた。
「……どうして……」
本当は「どうして私を守ったのか」と問いたかった。
だが、唇から零れたのは不完全な言葉だけ。
そして、続けざまに押し殺したように呟いてしまう。
「私は……あなたの駒の一つでしかないのに……」
その言葉に、ウェスカーの表情がわずかに揺らいだ。
常に硬質で整えられた顔に、初めて陰りが差す。
理解できない何かに突き動かされているのだと、私には直感できた。
弱い自分の姿を見せたくないから、顔を背けようとした。
けれど、彼の視線があまりにも強く絡みついて、視線を外すことができなかった。
その瞬間、頬に一筋、涙が伝った。
自分でも気づかないうちに零れたもの。
止める術もなく、ただ静かに頬を滑り落ちていく。
その滴を、彼は迷わず指先で拭った。
ひやりとした感触。
けれど、その仕草は不器用なほど優しかった。
命令や支配の延長ではなく、ただ目の前の人間の涙を拭おうとする動作だった。
「……なぜ、涙を流す」
問われた。
けれど、答えられなかった。
心の奥に積もり続けた矛盾と痛みが、ただ溢れただけなのだ。
言葉になどできるはずもなかった。
私は首を振った。
声にならない拒絶。
けれど、その仕草さえも彼は逃さなかった。
短い沈黙のあと、彼の顔が近づいた。
そして、唇が重なった。
一瞬、思考が止まった。
冷たい空気の中で、その温度だけが鮮明に胸へ刻まれる。
命令ではない。支配でもない。
理性を超えた衝動が、彼の動きを突き動かしていた。
私は抗えなかった。
彼の口付けは熱を帯び、胸の奥を焼き尽くすようだった。
これが感情なのか、欲望なのか、それすらも判別できない。
ただ、すべてを溶かし、何も残さない温度。
唇が離れた。
けれど、視線は絡んだまま解けなかった。
互いの奥に宿る熱が、言葉を超えて伝わってくる。
彼の瞳。
そこに映っていたのは、私を「駒」として切り捨てる冷徹さではなかった。
もっと原始的で、説明できない熱。
「……」
息が震え、胸の奥が張り裂けそうになり、涙がもう一筋流れ落ちた。
その滴も、彼は指で拭った。
そして今度は、唇ではなく頬に触れ、まるで確かめるように撫でた。
私の心は揺れていた。
「これは許されない」
「求めてはいけない」
そう囁く声が奥底で響く。
けれど、その声を塗り潰すように、「触れてほしい」という願いがせり上がる。
彼の手が肩を掴んだ。
強く、けれど決して壊さぬように。
その力が、私を影ではなく人間として求めていることを告げていた。
背中に感じる掌の熱。
支配でも命令でもなく、ただ私を抱き寄せる温度。
胸の奥で何かが崩れ落ち、私は抗う力を失った。
体が沈む。
彼の胸へと、自然に預けられていく。
耳に響く心臓の音が、自分のものか彼のものか判別できない。
ただ、ひとつの熱に包まれていく感覚。
絡んだ腕が解かれることはなかった。
彼の視線も、私の視線も、絡み合ったまま。
そこにはもはや、理性も命令も存在していなかった。
足元から力が抜ける。
支えられたまま、導かれるように歩き出す。
窓辺から離れる。
雨音が背後へ遠ざかる。
代わりに近づいてくるのは、静かな寝室の気配。
ベッドの縁に背が触れた瞬間、私は悟った。
もう抗うすべは残っていない。
理性も使命も、声の囁きも、すべてが遠のいていく。
残るのはただ一つ。
彼に触れられたい。
その願いだけが、胸の奥を焼いていた。
私は目を閉じた。
次に訪れる熱を拒むことはなかった。