3章
拠点に戻ると、いつもの乾いた空気が、濡れた衣服の内側に入り込み体温を奪った。
廊下のコンクリートは足音を吸い、天井の蛍光灯は白く眠たげに瞬いている。
同じ風景のはずなのに、皮膚の裏側だけがざわついていた。
私はケースを検体室に引き渡し、封緘記録を手渡した。
技師は「了解」とだけ告げ、背を向けて処理を始める。
その淡々としたやり取りでさえ、今日はどこか遠い世界の出来事のようだった。
トライセル。
その名が胸の奥にこびりついて離れない。
私は彼を破滅の未来から救うためにここにいるのではなかったのか。
それでも流れは同じ地点へと収束していくのだろうか。
どれほどの犠牲を置いても、未来の軌道は変えられないのだろうか。
いったい「私にしかできないこと」とはなんなのだろうか。
……資金も消えた。
ブローカーを皆殺しにした時点で、予定していた金はすべて霧散した。
別の計画を進めるためにも、資金が要る。
その必要性は痛いほど理解している。だからこそ、焦りが胸の奥に沈んでいく。
だが同時に、あの場で取引が破壊されたことに救われた感覚も消えなかった。
誰にも触れられずに済んだ。
あの汚れた視線も、笑い声も、二度と私に届くことはない。
それは安堵であり、確かに救いだった。
矛盾が心を裂いていく。
資金を失った不安。守られた安堵。破滅の未来へ向かう恐怖。
それらが胸の奥に渦を巻き、いつまでも重く居座り続けていた。
*
自室に戻り、無意識にシャワーの栓を捻った。
冷たい蛍光灯の下、水音が反響して狭い空間に満ちていく。
滴が肌を叩くたび、わずかな痛みが神経を刺激した。
ふと視界の端で、浴槽に溜まった水面がゆらりと揺れる。
ただの揺らぎのはずだった。けれど次の瞬間、それは井戸の底に重なった。
あの村で、暗闇から伸びてきた声が再び耳の奥にこびりつく。
たすけて。
少女の掠れた声が脳を締めつけ、呼吸が止まる。
銃口を向けた時に見た血の涙が、ありありと眼前に広がった。
その赤が浴槽に滲んで水面を染めていく錯覚。
「……っ」
さらに足元へ視線を落とした瞬間、流れていくシャワーの水が血のように見えた。
排水溝へ広がる赤黒い染み。少女を撃った後に足元を覆った血の海が、今また再現されたかのように。
慌てて顔を上げると、正面の鏡に自分の顔が映っていた。
だがそこにいたのは今の私ではない。
血に濡れ、怯えきった幼い自分だった。
「違う……ちがう……」
喉が勝手に声を押し出した。
胸をわし掴みにされるように息が入らず、肺が焼ける。
頭の奥で鈍い音が鳴り続け、世界が遠のいていく。
軽い眩暈に視界が傾き、足がすくんだ。
慌ててシャワーを止める。
だが、滴が床に落ちる音でさえ井戸の底から響く声に重なって聞こえる。
タオルを掴んだまま浴室を飛び出した。
心臓が速すぎて鼓動の間隔がわからない。
ただ、走らなければならない。
何から逃げているのか分からない。
けれど、このまま留まれば飲み込まれてしまう。
その直感だけが全身を突き動かした。
訓練場へ行こう。
銃でも、体術でもいい。無心に繰り返していれば、雑念をかき消せる。
そう思うことでしか、自分を繋ぎ止められなかった。
私は濡れた髪を乱暴に拭い、最低限の衣服に身を包んだ。
ジッパーを閉める手が、妙に震えている。
落ち着け、と心の中で繰り返し唱えながら、靴を引っかけるように履き、ベルトにホルスターを括りつけた。
まるで何かに追われているかのようだった。
汗なのか水滴なのか分からない雫が首筋を伝い落ちていく。
とにかく動かねばならない。
留まれば、またあの錯覚に飲み込まれる気がしてならなかった。
私はドアを開け放ち、足早に廊下を進んだ。
靴底がコンクリートを打つ音が、妙に大きく響く。
だが、角を曲がったところで不意に足が止まる。
ウェスカーがいた。
長い影を落として立ち尽くし、こちらを見ている。
一瞬、あの交渉の場で感じた視線の熱が脳裏に蘇り、息が詰まった。
慌てて顔を背ける。私の不安や焦りを見透かされるのが、恐ろしくて仕方なかった。
すれ違おうとした瞬間、低い声が落ちる。
「今日は動くな。次の作戦まで休め」
短く平板な声音。
ただの指示にすぎないはずなのに、その声が胸の奥を縫いとめた。
今はただ、現実から逃げたいのに。
心の奥で小さな抵抗が揺らめいた。
だが私が「了解」と返すあいだ、彼の視線は確かに私をなぞっていた。
確認か、監視か。あるいは……
そこから先を考えるのが怖くて、私は小さく頷き、回れ右をして自室へ戻った。
疲れ切っていた。
ごちゃごちゃとした思考を整理する気力も残っていない。
ただ、ベッドに身を投げ出すしかなかった。
*
それから数日が経った。
拠点の一角に与えられた小部屋は、無機質な白壁と簡素なベッド、金属の机だけが置かれた空洞のような空間だった。
ウェスカーから「休め」と言われて以来、任務もなく、装備を整える以外にすることはなかった。
休息というより、ただ思考の檻に閉じ込められているような時間だった。
銃を手に取り、分解と組み立てを繰り返す。
冷えた金属を扱うたび、規律に沿った動作が指に沁み込んでいく。
それでしか、自分を繋ぎ止められなかった。
破滅の未来。資金の喪失。あの血塗られた取引。
思考は何度も同じ地点へ戻り、胸の奥で渦を巻く。
考えるな。
それでも最後に掠めるのは、あの燃え盛るような視線だ。
サングラスの奥から閃いた赤。私の思考をすべて焼き尽くそうとするように強烈で、抗えなかった。
不安も焦りも、その炎に焼き払われるなら……
それは救いに似て、胸を満たした。
変えられないかもしれない未来への不安。
そして、汚辱に踏み出さず壊れた取引に安堵している自分。
「……矛盾してる」
呟きは小さく壁に吸い込まれていく。
二つの感情が拮抗し、思考は一向にまとまらない。
思えば、彼と出会ってからずっとそうだった。
光と影。救いと罰。希望と絶望。
相反する両極に引き裂かれるたび、心は削られていく。
それでも私は彼を救いたいと願っている。
その願いが嘘でないことだけは、確かだった。
——恐れるな。
——それはお前にしかできない。
あの声が、また胸の奥で響いた。
甘美に、優しく。まるで導きのように。
それに従えば、私は迷わず前へ進める。
彼の隣に立ち続けることができる。
しかし、それが救いなのか、堕落なのか……もう判別できなかった。
*
その夜、雨が降り始めた。
最初は小さな滴が木々の天蓋を叩くだけだった。やがて密林全体がざわめき、屋根を打つ音が轟きに変わる。
私は窓辺……正確には偽窓に立ち、外を覗いた。
ぼやけた視界に、無数の水筋が縦横無尽に走り、光の反射を歪ませている。
窓は外の景色というよりも私自身の様子を映しているかのよう。
それを見ていると、不思議と胸が締め付けられた。
これ以上ないほど単純な「雨」という現象に、なぜか涙のような脆さを重ねてしまう。
あの日も、雨が降っていた。
焼け落ちた村。嗄れた悲鳴。
濡れた土の匂いと、肌を打ちつける冷たさだけは、今も骨の奥に張り付いて離れない。
誰も助からなかった夜。誰にも手を伸ばせなかった夜。
そして……私だけが生き残った夜。
細部は霞んでいるのに、匂いと冷たさだけは鮮明に蘇る。
まるで雨粒に混じって、あの夜の残滓が今も降り続けているかのようだ。
……なぜ、今になって思い出すのだろう。
前に進むためには感傷など不要なはずなのに。
弱さを晒すだけの記憶に、縋る理由などどこにもないはずなのに。
掌をガラスへ当てる。ひやりとした感触が指先から腕へ駆け上がり、体温を奪った。
自分が壊れかけていることを、認めたくはなかった。
けれど、心のどこかで、それを自覚していた。
雨音が脳内のノイズになり、私はそのざわめきに思考を委ねていた。
その時、足音がした。
振り返らなくても分かる。彼の足音だった。
視線を交わさなくても、その圧は確かに伝わる。
ウェスカーは部屋の入り口に立っていた。
無言のまま、私の背中を見つめている。
視線を交わすことはなかったが、その圧は確かに伝わってきた。
雨粒を追って窓に視線を落としたまま、私は息を整える。
彼が何を考えているのかは分からない。
合理や計算だけでは説明がつかないあの行動も。
私を貫くように向けてくる視線も。
けれど、その答えを問いただす勇気はなかった。
沈黙が流れた。
ただ雨音だけが部屋を満たす。
私は窓に映る自分の姿を見た。
濡れたガラスに歪んだ顔。
そこに映っているのは、影の役割を果たしながら、もう限界に近い人間だった。
その脆さを、彼が見ていることに気づきたくなかった。
「……」
言葉を探したが、声は喉に張り付いたまま出なかった。
背後で、彼の気配がわずかに近づいた。
その存在が、雨音よりもはっきりと胸に響いた。
彼は冷徹で、揺るぎない支配者。
昔も今も、私を駒としか見ないはずの人間。
それは私自身がそうあり続けているから、当然の帰結だ。
けれど今、背後に立つ彼の沈黙には、違うものが宿っている気がした。
それは私にとって名前を知らない…説明できない感情。
それはまるで窓辺で冷え切った私を包み込むような、確かな温度を帯びていた。
私は窓から視線を離せなかった。
振り返れば、何かが決定的に変わってしまうと分かっていたから。
雨音が強くなる。
その轟きにかき消されるように、背後からわずかな吐息が届いた。
次の瞬間、彼の気配がさらに近づいた。
もし今、この背中に触れられたら。
彼の影として生きるのではなく、その腕に沈むことができたら
未来や私の使命、何もかも捨て去り、しがらみからのがれ、ただ確かめ合うような時を過ごせるのなら
それが私にとって救いになるのか、崩壊につながるのかは分からない。
ただ、ずっと願っていたものに触れられる気がして、胸が張り裂けそうだった。
だが、今はただ。
雨に打たれる窓の前で、壊れそうな自分を抱え、彼の影を背後に感じて震えていた。