3章



銃声の残響が消え、湿った風だけが吹き抜けた。
川沿いの廃材置き場には、血と硝煙の匂いが混ざり合って漂っている。
ブローカーも手下も、誰ひとり残っていなかった。

私は立ち尽くしたまま、呼吸を整える。 

資金は消えた。交渉は水泡に帰した。
けれど胸の奥では、不思議な安堵が広がっていく。
彼らが私に触れる未来は、もう存在しないのだ。

視線を向ければ、ウェスカーは血を浴びたまま銃を収めていた。
サングラスの奥から放たれた、あの燃え立つような光。
理屈や計算では割り切れない、何か。
それが私を震わせたまま、まだ離さない。


「……行くぞ」
低く短い声。
それ以上の説明はなく、彼は車へと歩き出した。

私はケースを拾い上げ、泥を踏みしめてその背中を追う。
足元に残る血の跡が、やけに鮮明に見えた。


雨は突然、空気の温度をひとつ落として降り出した。
車に向かうと私は自然と運転席へと向かった。行きの道は私が握っていたからだ。
だが、ドアに手をかけた瞬間、低く短い声が落ちた。

「代われ」

言葉はただの命令にすぎないはずなのに、拒むという選択肢は浮かばなかった。
振り返ると、ウェスカーは無言のまま立っていた。サングラス越しの視線は掴めない。
だがその沈黙の圧は、命令以上の重みを持って胸に沈み込んだ。

「……承知しました」

わずかに息を整え、助手席へ回る。
座席の革は冷たく湿っていた。
背中が沈み込むと同時に、息苦しいほどの沈黙が車内を満たす。

エンジンがかかる。
低い唸りとともに車体が揺れ、ぬかるんだ地面を押し切るように進んでいく。
ハンドルを握る彼の横顔は暗がりに沈んでいたが、ときおり稲光が遠くで走ると、その輪郭が白く切り抜かれた。
サングラスのレンズにワイパーの軌跡が細く流れ、その奥で何が燃えていたのか、思い返すだけで背筋が粟立つ。

なぜ。

交渉は成立していた。
資金も確保できるはずだった。
私が奥に消えれば、現金は即座に動くはずだった。
彼なら、そこで止めないはずだ。
それなのに彼は、あの場を血で塗り潰した。
そして資金は水泡に帰した。
なぜ、取引を壊したのだろうか。


けれど胸の奥に広がるのは、不安と同時に奇妙な安堵だった。
あの下卑た視線に晒されずに済んだ。あの汚れた手に触れられることなく終わった。
その事実が、震える背中を包むように温かい。


……だが、それでは説明がつかない。
彼はなぜ……


車内は静まり返っていた。
聞こえるのはワイパーが動く鈍い音と、車体を打つ雨粒だけ。
私は視線を窓の外に向けた。流れる闇、濡れた木々の影。だが何も頭に入ってこなかった。


彼の横顔に問いを投げかけたい。けれど、言葉を選ぶほどに口は重くなる。
私が沈黙に沈んでいると、不意に彼の声が落ちた。

「食いつきと相場が分かれば十分だ」
抑揚のない声だった。


「……指標が取れたから、交渉自体は不要だったと?」

「そうだ」

抑揚のない声。
「金は他から引き出す」

まるで当然のことのように告げられた。

胸がかすかに震える。
確かに、彼の言う通りかもしれない。あの場で得られた情報は貴重だ。

だが……本当に、それだけで、あの殺戮を正当化できるのだろうか。


あの瞬間……あのサングラス越しに赤く燃えるような視線や、瞬く速さで伸びた手が、状況を破壊していく。理性や合理で行動する彼が、まるで感情に動かされているように。


「……本当に、それでよかったのですか」
言葉が零れた。視線は前方に向けたまま。


答えは返らない。ワイパーが水膜を切り裂く音が続く。

私は息を整え、問いを重ねた。
「次の取引先は、どうするつもりですか」

また沈黙。
長い間、彼は口を開かなかった。
その間、私の胸の奥では不安が膨らみ続けた。資金は失われた。計画はどうなる。彼は何を考えているのか。


やがて、低く重い声が静寂を破った。


「……接触を考えている相手は既にいる」


言葉の端に、硬質な響きが混じっていた。
嫌な予感が背筋を撫でる。


「資金力と設備を両立させられる人間だ。抜け目がなく、権力に欲深いが……私の求めるものを揃えさせるには、十分だ。少々気に食わない部分もある女だが……」


「……権力?女性?なにか…組織でしょうか?」


ワイパーが水を裂くたび、濡れた闇に稲光が走り、視界をひと瞬きの白で焼く。
胸の奥で、心臓が不規則に早鐘を打つ。
その響きは待ち望むものの前触れではなく、逃げ場のない予感の影を広げていった。


どうか、彼が放つその言葉が私の想像するものとは違う事であってほしい…


しかし、彼の口から零れ落ちたのは、願いとは裏腹に、容赦のない事実を突きつける残酷な響きだった。


「……トライセルを利用する」


耳に届いた瞬間、思考が途切れた。

心臓が大きく跳ね、次の鼓動を忘れたように胸の奥が空白になる。

トライセル。
それは私もよく知る組織の名。

私は……

私は彼を救うために導いているのではなかったのか。

結局、彼はそこへ歩もうとしているのか。

 

窓を叩く雨の音が一層激しくなった。
頭の中に白いざわめきが広がり、視界の端まで染み込んでいく。
声を返そうとしたが、喉が塞がり、言葉は形にならなかった。


私はただ、真っ白になった思考の中で、彼の横顔を見つめていた。
その先にある未来が、再び手のひらから零れ落ちていくのを恐れるように。 

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