1章


朝の光がまだ柔らかく差し込むS.T.A.R.S.のオフィスは、いつもと同じざわめきに包まれていた。
書類をめくる音や無線の交信、遠くから響く笑い声が重なり、コーヒーの香りが漂っている。
表面は平和に見えても、その奥で私の「新しい日常」が根を下ろし始めていることに、私はまだ慣れようとできていなかった。

昨夜の夢が体の底に残っている。
熱と轟音が押し寄せ、大地が崩れ、赤い光の中で背中が遠ざかっていく。
汗と涙で飛び起きたときの鼓動が、今も胸の奥でうずくように響いていた。

「……セラ?」

名を呼ばれて、現実に引き戻された。
私は顔を上げるのが一瞬遅れた。

「セラ!」

隣のデスクから覗き込むジルが、怪訝そうに眉を寄せている。
どうやら二度か三度は呼ばれていたらしい。

「あ、はい……!」

慌てて返事をすると、声が少し裏返った。
ジルは「大丈夫?」と小声で確かめ、肩をすくめて席に戻った。
何か用件があったのかもしれないが、私はしばらく彼女の背中を目で追った。

――セラ。
その名前で呼ばれることに、そろそろ慣れたはずだった。
ここに配属されて一週間。書類にも、IDにも、制服の名札にも、その名前が刻まれている。
それでも響きが内側に馴染まず、呼ばれるたびに一拍遅れて「自分のことだ」と理解してしまう。

理由は分かっている気がした。
夜ごと繰り返す悪夢のせいかもしれない。熱と落下の感覚が、目覚めのたびに肌にこびりつく。
あるいは夢の中で囁く声のせいかもしれない――「目を開けろ」「終わらせるな」と命じるあの声が、私の輪郭を別の誰かへとずらしていく。

報告書に視線を落とすと、指先が小さく震えた。
私は知っている。ここに「突然現れた」ことを。
気づいたときには、セラ・モーガンとしてのすべてが整っていた。

経歴も、住所も、過去の記録も、周囲の人の記憶でさえも、最初から「セラ・モーガン」を前提に組み上げられていた。
舞台が出来上がり、私はそこに立つ役者として置かれていた。

――私は目覚めた瞬間、新しい自分になっていた。

見た目は以前と同じだが、年齢も経歴も「過去」さえも、私が知っている私と一致しない。
セラ・モーガンという名前には、知らない物語が幾重にも積み重なっている。
脳はそれを当然のように処理するのに、心は追いつけない。

呼ばれても返事が遅れるのは、そのずれのせいだ。
ここがR.P.D.で、私はS.T.A.R.S.のルーキーだと理解しても、心が反発する。
セラという名も、セラ・モーガンという人間像も、まだ私の血肉になりきらない。

ペンを置いて、深く呼吸を整えた。
意識の底には、あの日の光景が絡みついて離れない。
――私が「目覚めた日」のことを思い出す。





目を開けたとき、私は見知らぬ場所に立っていた。
光の加減も壁の色も空気の匂いも、どれも記憶と一致しない。
高い天井と石の柱が並ぶ広いロビー。受付の奥では制服姿の職員が忙しなく行き交っている。

私は自分の意思とは関係なく、そこに立っていた。
手には書類の入った薄いフォルダ。胸元には見慣れない制服。
バッジには「S.T.A.R.S.」の文字が刻まれている。

頭では理解できた。ここはラクーン市警。特殊部隊S.T.A.R.S.の拠点で、今日が私の正式配属の日だ。
それでも心は追いつけず、ここにいる理由も来た経路も、すべてが空白のままだった。

戸惑いで足が止まると、背後から声がかかった。

「よお、ルーキー!」

振り返ると、陽気な笑顔の男が近づいてくる。
短く整えた髪、わずかに着崩した制服。肩の力は抜けているのに、眼差しは真っすぐだった。

「どうした、初日から迷子か? 困ったことがあれば遠慮なく言えよ」

口を開こうとして、言葉が出なかった。
知っている気がするのに、知らないように感じる。
脳が答えを用意しようとして、心が拒む。

「大丈夫か? ……名前、なんだっけ?」

反射で口が動いた。

「セラ……」

自分の声に私が驚いた。
本来呼ばれたい名――セラフィナが頭をかすめたのに、口からこぼれたのは“セラ”だった。
違和感はあるのに、この場に自然に馴染む響きだと脳が判断していた。

「セラ・モーガンです」

馴染みのない姓を添えながら、名乗るしかなかった。

男は眉をひそめたが、すぐに笑ってみせた。

「ああ、そうだったな。悪い、俺は物覚えが悪くてさ。よろしくな、セラ。俺はクリス・レッドフィールド。お前のFTOだ」

FTO――フィールドトレーニングオフィサー。新人の指導役。
意味は分かる。役割も理解できる。
それでも胸の奥がざわついた。

「緊張してるか。まあ無理はない。まずはオフィスを案内する。ついてこい」

クリスが歩き出し、私はその背中を追った。

廊下を進みながら、彼は気さくに説明を続けた。
「ここが共有スペース。コーヒーはこっち、書類はこっちに出す。すぐ慣れるさ」

私は頷きながらついていく。
頭はすべてを理解しても、胸の奥は冷えて、映像だけをなぞっているようだった。

「で、隊長のオフィスがこっちだ」

クリスは足を止め、ドアの前で振り向いた。

「一応言っとく。うちの隊長は優秀だが堅物だ。冗談は通じない。最初は緊張して当然だ。気にするな」

軽く笑い、ドアをノックする。
「入れ」と低い声が返った。

クリスがドアを開ける。
そして私は、息を呑んだ。

そこには、S.T.A.R.S.の制服を隙なく着こなした男が立っていた。
暗いブロンドの髪は撫でつけられ、蛍光灯を受けて鈍い光を返す。
端正な輪郭と鋭い鼻筋が硬質な影を作っている。

黒縁のサングラスが光を反射し、眼差しの温度を完全に隠していた。
熱を持つのか冷たいのか、表情の奥は読み取れない。

――アルバート・ウェスカー。

彼が生きている。
ありえないはずの現実が目の前にあり、胸の奥から声がせり上がった。

「ま……マスター――」

喉の手前まで出かかった言葉を、私は歯を食いしばって飲み込んだ。
息を止め、体を硬くして、こぼれる前に押し戻した。
口にした瞬間、すべてが崩れると分かっていても、感情はそれを望んでいた。

心臓が喉元まで跳ね上がり、耳鳴りが爆ぜる。背中を汗が伝うのに、呼吸が止まりそうになる。
それでも視線をそらせなかった。体は凍ったように動かなくても、目だけは彼から離れなかった。

記憶の“マスター”より、彼は少し若く見える。
肉体の鋭さは変わらないが、漂う空気が違っていた。
冷徹な完成形ではなく、まだ人間としての理性と静けさをまとっているように思えた。
異質なのに、懐かしい。

――彼だ。
私を作り上げた存在。私が「マスター」と呼んだ人。

ウェスカーはサングラス越しに私を見た。
数秒の沈黙が続き、観察する気配が空気を硬くした。
鼓動がそのテンポに連動して速くなる。

「君がセラ・モーガンか」

私は頷くのが精一杯だった。
心は荒れ狂うのに、脳は整えられた舞台の手順をなぞっている。

「優秀な経歴だ。軍での特殊戦闘経験、市街戦での功績。射撃成績は群を抜き、判断も冷静だ。――S.T.A.R.S.アルファに相応しい」

私は知らない。そんな人生を歩んだ覚えがない。
それでも、書類に記された過去を脳は肯定する。
心と頭がずれたまま、私は頷くしかなかった。

「明日から正式に任務に就け。緊張しているのは分かるが、表に出すな。仲間に伝染する」

叱責の調子に、どこかで配慮の温度が混じって聞こえた。
私は言葉を返さず、小さく頷いた。

ウェスカーは一枚の書類を閉じ、机の上に置いた。
わずかに口角を上げる。

「期待している」

その一言が胸の中心を撃ち抜いた。
鋼の響きなのに、私には救いのように聞こえた。

彼は確かに「ここにいる」。
死から蘇ったのではなく、最初から存在していたかのように。
涙がにじみ、私は必死に堪えた。

面談はそれで終わった。
クリスに促され、私はオフィスを後にした。
通りすがりの隊員が「新入りか?」と笑いかけ、私は曖昧に笑みを返した。

帰路につくと、すぐに気づいた。
帰り道を知っている。自宅の場所も鍵の位置も、間取りさえも。
最初から住んでいたかのように、足が迷わず動く。

私は誰なのか。
本来の名はセラフィナ。今の私はセラ・モーガンとして存在している。
姓は見知らぬものだが、履歴の一部として体裁を整えている。
容姿は同じでも、年齢は二十四歳。以前より少し大人び、輪郭に女性らしさが増した。
経歴も過去も、新しい色で上塗りされている。

知らない場所で目覚め、知らない人々に囲まれても、すべてを理解して動けてしまう。
そして何より、アルバート・ウェスカーが生きている。

鼓動が高鳴り、夢で見た絶望が現実の手触りで上書きされていく。
――あの声が囁いたとおりだ。「目を開けろ」「やり直せ」と。
私は新しい世界でやり直している。彼を救うために。





背後でファイルが閉じる音がして、オフィスのざわめきが輪郭を取り戻した。
蛍光灯の白が眩しく、紙をめくる音やキーボードの打鍵がやけに鮮明に聞こえる。

――救う。口にするのは簡単だが、方法が見えない。
悪夢の声に導かれて「やり直す」と誓った。決意は強かったはずなのに、実際には何をどう動かせばいいのか掴めていない。
混乱と戸惑いのまま、この世界に足を踏み入れて、一週間が過ぎた。

思えば私は、アルバート・ウェスカーの「以前」をほとんど知らない。
今ここにいる彼はS.T.A.R.S.のキャプテンで、私の直属の上司だ。
それでも、本当にかつて警官だったのかと自問してしまう。
私の知る彼の姿と、この「キャプテン・ウェスカー」は、あまりに隔たりがある。

壁のカレンダーに目をやると、1998年5月の数字が並んでいる。
これが「本当の過去」なのか、それとも私と同じように別の歴史へ分岐した時間なのか、私には判断できない。
彼の過去を、私は知らない。

ただ、悪夢とともに現れるあの声は、訪れるたびに同じことを告げる。
「彼を救わせてやろう」と。
その響きが、次第に私の使命へと変わっていく。

S.T.A.R.S.の一員として生まれ変わった私に、何ができるのか。
窓の外にはラクーンシティの街並みが広がり、車が往来し、人々が歩道を忙しなく行き交っている。
私は知っている。この都市がいずれアウトブレイクで地図から消えることを。
それでも今は活気に満ち、滲む光が朝の空気に揺れている。
それがいつ起きるのか、私は知らない。

窓の外を見ていると、背後から足音が戻ってきた。
先ほど私を呼んであきれた様子で去ったジルが、こちらへ顔を向ける。

「……あんた、本当に大丈夫?」

抑えた声に、心配の色が混じる。
「すみません。考えごとしていて……」
「仕事中にぼーっとしてたら、ドアの向こうの鉄仮面様に目をつけられるわよ」

ジルは肩をすくめ、手に持っていた書類を私のデスクに置いた。
「この報告書、ファイリングお願い。ルーキーの仕事でしょ?」
「……はい」

私が答えると、ジルは軽く笑って踵を返した。
彼女の背中を見送り、私は深く息を吸い込んだ。

私は彼を救わなければならない。
そのためにここにいる。
けれど、何から始めればいいのかは、まだ見つかっていない。

1/6ページ
スキ