3章



川沿いの廃材置き場は、湿気と油の匂いで満ちていた。
錆びた鉄骨が無造作に積まれ、黒ずんだ木材には古い染みが幾重にも重なっている。
川面には薄い油膜が浮かび、風がよどむたび虹色の筋がゆっくりと形を変えた。
虫の羽音が耳の奥にまとわりつき、遠くでカラスが短く鳴いた。

私はケースの取っ手を握り直し、ウェスカーと肩を並べて歩いた。足元の泥はぬかるみ、踏みしめるたび鈍い音を立てる。

今回の相手を選んだ理由は単純だ。
今必要なのは「即金」と「反応の速さ」。
表の組織に持ち込めば信用と時間がいる。
だが、まずは小さな実績と即金を積み上げ、次の大きな交渉へ繋げていく。
そのための布石だった。
裏のブローカーなら、現物と数字さえあれば迷わない。
いずれ切り捨てる前提の関係。
それで十分だとウェスカーは判断している。


ブローカーは、鉄骨を組んだ簡易屋根の下に陣取っていた。
派手な柄のシャツに分厚い金の鎖。
胸元をはだけ、油に汚れたテーブルに肘を置き、安酒のコップを揺らしている。
取り巻きが四、五人、銃を持ちながら粗い笑いを浮かべてこちらを見ていた。


「ようこそ。空気の悪いところへ、わざわざな」
歯に埋め込まれた金属が、にやりと光る。

私はケースを台の上に置き、ラッチを外す。
冷気が白く立ち、密封容器と暗号化モジュールが現れた。
ウェスカーは無言で立ち、サングラス越しに視線を落とす。

「散布後、百人規模の村を一日で壊滅状態にした」
私は要点だけを告げ、ログを再生する。
モニターに、急激に落ちていく線が映し出された。体温、心拍、酸素飽和。
どれも一気に下降している。ブローカーの目が、数値に釘付けになった。


「へぇ……」
彼はコップを置き、身を乗り出した。
「いいじゃねえか。本当にやったんだな」


「実証済みだ」
ウェスカーの声は短く、冷徹に響いた。

「信用はする。ただな……」
ブローカーは笑い、周囲を見回す。
「これを欲しがる連中は山ほどいる。砂漠の軍閥も、中東の傭兵団も、アフリカの民間軍もな。たった一晩で村を消せる兵器だ。喉から手が出るさ」

手下の一人が下卑た笑いを漏らした。
「夢の商売だ。試しに一発でどれだけ殺せるか、賭けを始める奴らもいるだろうよ」

笑いは場の湿気に混じり、じっとりとまとわりついた。
 

「問題は値段だな」
ブローカーは椅子にもたれ直し、指を組んだ。

「この程度のサンプルなら、この額が妥当だろう」
彼は端末を差し出した。
提示された数字は悪くないが、ウェスカーは即座に切り捨てる。


「安すぎる」

「はっ、強気だな」

ブローカーは肩をすくめる。
「だが強気すぎりゃ取引は流れる。こっちは危険を背負うんだ」

数度の応酬が続く。
額が少しずつ上積みされ、条件が調整される。
やがて、互いに納得できる金額へと収束していった。

「よし、決まりだな。前金は今すぐに動かす。残りは納品確認後だ」
ブローカーはコップを持ち上げ、グラス越しに私たちを見た。


取引は成立した。
胸の奥に、かすかな緩みが生まれる。

数字が動き、資金は確保される。
これで計画は一歩進む。設備が整えば、無謀な実験に頼らずとも済むだろう。
同じ破滅の道は歩ませない。
  



「ただし」
グラスの縁を指でなぞりながら、ブローカーが言った。
わざと間を置き、湿った空気を濃くする。


「信用は、形で示してもらおうか」


笑いが広がった。
手下たちの視線が、一斉に私に集まる。
いやらしく舐めるように、下から上まで。


「担保はあるのか?」
ブローカーはわざとらしく首を傾ける。
「言葉と数字だけじゃ足りねえ。……その女を置いていけ」


安酒の臭いが鼻を刺した。
「今夜はうちで面倒を見させろ。誠意を見せりゃ、金はすぐに動く」


手下の笑いが一段高くなった。
テーブルの上に置いた私の手が、自然と強く握り込まれる。


ここで止まれば、未来は変わらない。
 

目の前のこの汚泥に沈むことでしか、あの未来を遠ざけられないのなら。


彼を救えるなら、誇りなどいらない。
尊厳など捨てても構わない。
影に沈むことが、私に与えられた役割なら。


焦りに駆られる彼を、もう二度と孤独に沈ませない。破滅へ走らせない。


 
一瞬、場が静まる。
ウェスカーは微動だにせず、サングラスの奥で沈黙していた。


私の胸に、あの声が甘く響いた。

——恐れるな。
——差し出せ。
——それがお前の役割だ。


呼吸が整っていく。
揺らぎは消え、決意が硬く結ばれていく。


私が彼を救い、導く。



「いいでしょう。担保は私で構いません」

声は自然に出ていた。

手下たちが歓声を上げ、ブローカーは指を鳴らした。

「交渉成立だ。よし、奥へ通せ」


これでいい。
もう二度と、彼を失ったりはしない。



ブローカーが立ち上がり、鉄板の扉を顎で示した。
「行こうか、お嬢さん。大歓迎だ」


隙間から黄色い灯りが漏れている。笑い声を抑えた息が、くぐもって聞こえた。


「金を用意して渡せ!」
ブローカーは手下に顎で指図した。

「それと……この後の順番を決めとけ」

欲望を隠さぬ視線が、背中を舐めるように刺さった。


私はケースから手を離し、足を踏み出す。
その一歩は泥に沈むように重かった。
だが確かに進んでいた。


この身ひとつで、彼を破滅の未来から遠ざけられるのなら。
汚辱など、どうでもいい。
泥などいくらでも自分が被ればいい。
彼にだけは、決して触れさせない。


振り返らない。

背後には、沈黙を保ったままのウェスカーの存在がある。
サングラスの奥の視線が、確かに私を追っている気配を感じた。
だが彼は何も言わない。止めない。
駒としての判断を、ただ受け入れているのだ。


数歩の距離。
けれど、それはどんな壁よりも厚かった。
私は彼から遠ざかり、扉の向こうの闇へと沈んでいく。


ブローカーの指が肩にのしかかり、腰を乱暴に引き寄せる。
黄ばんだ灯りが、鉄板の隙間から私を照らした。
扉の向こうに、湿った笑いが渦を巻いている。


私は胸を張り、歩を進める。
どんな汚辱も、希望に変えると信じて。
それが、私の役割だから。


私は目を閉じた。

扉が閉じる……



その瞬間、音がひとつ、折れた。


乾いた、骨の軋み。
目に映るより速く、ブローカーの体が半歩浮き、手首が不自然に捻じ曲がっていた。 

ウェスカーの手が袖口に埋もれ、動きは刃のように正確だった。
 

「……誰が触れていいと、許可した?」

低い声が、湿気を切り裂いた。
銃声もないのに、場の空気が一瞬で凍りつく。
手下たちが椅子を弾き飛ばして立ち上がる。


気づけばウェスカーが隣にいた。
片手でブローカーの手首を捻り上げ、もう片方でコートの内側から拳銃を半ば抜き、迷いなく最も近い男の眉間に狙いを据えていた。

空気が凍った。
手下たちが一斉に腰を浮かせる。銃に手をかけた者もいた。だが動き出すより先に、閃光が走る。

銃声。
続けざまにもう一発。

椅子が倒れ、血飛沫が散る。
悲鳴と怒号。狭い屋根の下が一瞬で地獄に変わる。

ウェスカーの動きは迷いがなく、速すぎて視線が追いつかない。
銃声と骨の砕ける音が重なり、男たちの体が次々と崩れ落ちる。
頭を撃ち抜かれ、喉を裂かれ、血が泥に混じって流れていく。

ブローカーの悲鳴も、やがて掻き消えた。
息をする音だけが残る。

私はただ立ち尽くし、呼吸を忘れていた。


資金も交渉も、一瞬で瓦解した。
あれほど冷静に計算を重ねる人間が、自らそれを壊すなど、本来あり得ない。
だが…

サングラスの奥から射す気配は、氷のような冷たさではなかった。
そこには、燃え立つような赤の光が潜んでいる気がした。 

恐ろしくて、息が詰まりそうだった。
けれど同時に、その眼差しは私にとって……どうしようもなく救いにも思えた。

冷徹な論理を超えたその気配は、私だけに注がれているようで。
恐怖と並んで、胸の奥に奇妙な安堵をもたらす。
まるで、影であるはずの私を強引に繋ぎ止める、鎖のように。


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