3章
夜通しの作戦で、疲れが顔に滲んでいたのだろうか。
ウェスカーが再び「休め」と言った。
声音は変わらず平板だったが、その視線が一瞬だけ、必要以上に長く留まった。
二度も同じことを言うのは珍しい。
おそらくこの先も長いのだろう。
彼が部下の状態を把握するのは当然のこと。
……使える駒なら、尚更だ。
冷却装置の低い唸りが遠ざかり、意識がふっと沈んでいった。
硬い椅子の背に体を預けながら、私は短い眠りに落ちていた。
*
夢の中で、私は再び村にいた。
あの井戸の縁に立ち、手にしたカプセルを覗き込んでいる。
琥珀色の液体が揺れて、月光を映す。
投げ入れたときの冷たい感触が指先にまだ残っていた。
「……助けて」
声が響いた。
井戸の底からか、それとも村の路地からか。
最初はひとりの少女の声に思えた。
だが、耳を澄ませば混じり合っている。
幾つもの声。泣き声、囁き声。
過去に置き去りにした誰か。
かつての私自身のような幼い響きまで混ざっていた。
胸がざわめく。
立ち止まりそうになる。
そのとき、もうひとつの声が重なった。
静かで、甘やかで、どこまでも優しい響き。
まるで背中に手を添えるように、耳の奥に直接届いた。
——恐れるな。
その声は私を責めなかった。
恐怖も与えなかった。
ただ私を肯定し、優しく導くように響いた。
「……でも、私は……」
言葉にならない迷いが口の端で途切れる。
——選ぶのだ。
——それは……お前にしかできない。
胸の奥が熱くなった。
氷のように冷えたはずの心臓が、確かに脈打つ。
涙がこみ上げそうになる。
私は間違っていない、と。
私の選択が、彼を救いへ導いているのだ、と。
その瞬間、目の前に少女が現れた。
広場に立ち尽くしていたあの影。
痙攣する体、裂けた皮膚。
それでも瞳だけは「助けて」と訴えていた。
私は銃を構えていた。
なぜだろう。夢の中の私は、ためらいなく引き金に指をかけていた。
指先にかすかな圧がかかる。
まるで、見えない誰かに添えられているように。
少女の瞳と、私の指の震え。
その間にあったはずの迷いは、すでに消えていた。
銃声が夢の中に響いた。
少女の声は潰れ、井戸の底へ沈んでいく。
それでも耳の奥では、あの甘い声が囁き続けていた。
——恐れるな。
——その血は道となり、彼を歩ませる。
——お前が成し遂げるのだ……。
私は涙を流していたのかもしれない。
だがその涙は冷たくなく、温かく、安堵に近い感覚を伴っていた。
*
目が覚めると、ランプの光が視界を刺した。
あの声がまだ耳の奥に残っている。
いつまでも耳に反響する囁きは、甘美な支えであり、同時に抜け出せない呪いのようでもあった。
覚悟なのか、囚われなのか。
私には、もう判別できなかった。
私はゆっくりと、観察ガラスへ近づいた。
指先が冷たい表面に触れる。
眠る少女を見つめながら、私は呼吸を整える。
背後から視線を感じた気がしたが、確かめることはしなかった。
*
ガラスに近づき、しばらく少女を観察していると、少女が小さく身じろぎした。
鎮静剤で沈んでいたはずの体が、不規則に震えている。
仮眠は1時間もないはずだ。もう鎮静が切れるのだろうか。
すると瞬く間にモニターが短い警告音を鳴らし、波形が荒れる。
「……覚醒が早いな」
背後でウェスカーの低い声がした。
その口元はわずかに楽しげに引き上がっている。
少女の瞳がぱちりと開く。
焦点の合わない視線が宙を泳ぎ、次の瞬間、ガラス越しにこちらを掴むように止まった。
その瞳は、夢で見たときと同じ「助けて」を宿していた。
胸が跳ねる。
だがその直後、少女の体に痙攣が走った。
白い腕の血管が黒ずみ、裂け目が皮膚を走る。
拘束具が軋み、椅子の金属が悲鳴を上げる。
「心拍数、急上昇! 脳波……これは——!」
技師の声が震えた。
少女の口から迸った声は、もはや人ではなかった。
高い悲鳴と低い唸りがぶつかり合い、ひとつの異音となって観察室を震わせる。
歯が口腔ガードを砕き、飛沫と共に床に散った。
「鎮静が効かない!」
「拘束が……!」
腕のベルトがちぎれた。
細い手首から伸びた指は、異様に長く膨張し、爪が鋭利に変形する。
痩せ細った脚が拘束を蹴り、金属の留め具が吹き飛んだ。
「制御不能!」
技師が叫んだ瞬間、少女の顎が外れるほどに開き、喉から獣のような咆哮が響いた。
声帯が裂ける音すら混ざっていた。
「……変異体だな」
ウェスカーの声は落ち着いていた。
むしろ愉悦を隠そうともせず、楽しげに口元を歪める。
「拒絶か適合か……その境目を踏み越えた結果だ。実に面白い」
少女——いや、すでに少女ではないそれが、獣のような動きで椅子を倒し、壁に爪を叩きつける。
血と唾液が飛び散り、観察ガラスに赤黒い筋を描いた。
「セラ。続きだ。データが必要だ」
ウェスカーの赤い視線が横に流れ、観察室の扉を指す。
その言葉の意味は明白だった。
バイタルの数字ではない。
戦闘のデータ。
呼吸が浅くなる。
だが、ためらう理由はなかった。
初めから、その役割を担うのは私だ。
私は駆け出した。
防護服を着込む時間すらない。
扉を押し開けると、薬品と鉄の匂いが濃く押し寄せた。
室内に足を踏み入れた瞬間、少女の赤黒い瞳がこちらに向いた。
獣の咆哮が喉奥から炸裂し、私の全身を震わせる。
だが、その咆哮の中に——確かに聞こえた。
「……た……すけて」
一瞬、心臓が止まった。
涙を流しているようにも見えた。
まだ、人の形を残しているのか。
視界が揺らぐ。
銃に手を伸ばす指先が、一瞬だけ止まりかける。
胸の奥で声が響いた。
甘く、低く、切り裂くようでありながら、温かさを装った声。
——恐れるな。
——その血は道となり、彼を歩ませる。
——選べ。お前にしかできぬことだ。
声が、釘のように胸を貫いた。
助けを求める少女の瞳と、その声が重なり、私を押し流す。
私は銃を抜いた。
銃口が自然と少女を捉える。
崩れ落ちそうな心を釘で打ち止めるように、私は引き金に指をかけた。
「待て。データは——」
技師の制止をかき消すように、ウェスカーの声が重なった。
「構わん。……やれ」
ウェスカーから合図が送られる。
少女の赤黒い瞳が、最後に一度揺れた。
そこには獣の光と、人の「助けて」が同居していた。
胸奥の声がさらに深く潜り込む。
——お前が成し遂げるのだ。
——殺せ。
銃声が轟いた。
弾丸が額を貫き、体が痙攣し、血が弧を描いた。
やがて力が抜け、崩れ落ちる。
モニターの波形がフラットラインを刻む。
耳に残るのは、機械音と自分の呼吸だけだった。
*
「……期待したが、いたって平凡だな」
ウェスカーは低く言い、口端をわずかに吊り上げる。
「だが、資金源としての証明は十分だ。処分しろ」
その声は冷徹で、愉悦を含んでいた。
退屈ではなく、むしろ満足の色を帯びて。
私は銃口を下ろし、震える指を必死に握りしめた。
床に横たわるのは、ただの“素材”のはずだ。
そう言い聞かせても、耳の奥にはまだあの囁きが残っていた。
その血は道となり、彼を歩ませる。
「……これは私にしかできないことだ」
それが自分の声か、囁きの反響か、判別がつかなかった。
足元に広がる赤黒い血が、じわじわと染み込み、靴底を濡らす。
その血がまるで、自分自身を塗り潰していくように思えた。
「……見事だ、セラ。この作戦は終了だ。村の始末をして引き上げるぞ」
背後から声が落ちる。
私は答えなかった。
答えれば、心が決壊してしまうから。
ただ確かに、胸の奥で何かが削られていく音がした。