3章
観察室は冷たく乾いていた。
壁の内側に貼られた銀白のパネル、床に埋め込まれた排水溝。
天井から吊られた照明は直線的で、光が影をつくらないよう計算されていた。
少女は手首と足首にはベルト、胸には横木、顎には口腔ガードで拘束されている。
細い首は汗で濡れ、髪が皮膚に張り付いていた。
「心拍数を安定化させろ。データを取り始める」
ウェスカーはガラス越しに立ち、短く言った。
技師たちが一斉に動き、モニターに数値が並び始める。
心拍、体温、脳波。どれも異常な振幅を示していた。
波形は崩壊寸前の乱高下を描き、数秒ごとに警告音が鳴った。
私はガラスに寄り、細い体の震えを見つめた。
まだ生きている。
それは「適合」ではなく、ただ沈みきっていないだけかもしれない。
けれど、この不安定な均衡そのものが、彼の目に光を灯していた。
「面白い」
サングラスの奥で赤い双眸が僅かに細められる。
「いまだに完全な拒絶も適合の兆候も見えず、揺らいでいる状態の個体だ」
その声音には、冷徹さと愉悦が同居していた。
観察者の理性と、捕食者の好奇心。
私は無言で立ち尽くし、次の行程の指示を技師に飛ばすウェスカーを見ていた。
視界の端で拘束された少女の肩が震えている。
私はもう一度ガラス越しに少女を見る。
ガラスは光を反射し、私の姿も同時に映し出した。
モニターの数値は依然として不安定な数字を刻み続けている。
「心拍数、安定しております」
技師のひとりが短く告げる。
「刺激を与えろ」
ウェスカーの声が室内に落ちる。
技師がボタンを押すと、椅子の拘束具に仕込まれた微弱電流が流れた。
少女の体が跳ねる。
喉奥から擦れるような声が漏れた。
その音は呻きとも、叫びともつかない。
私は奥歯を噛み、目を逸らさなかった。
指先が自然と拳を握り、爪が掌に食い込む。
モニターの波形が大きく振れる。
心拍数が跳ね上がり、脳波に不規則なスパイクが走る。
「やはり面白い。すぐに完全な沈黙には陥らん」
ウェスカーの口元が、わずかに吊り上がった。
「この個体には可能性がある。さらに追加の投与テストを行う」
サングラスの奥から覗く赤い光は、データではなく「未知」そのものを愉しんでいるように見えた。
停滞に押し込められていた彼が、今は確かに脈動を取り戻し、歩を進めていた。
「投与開始」
技師が琥珀色の液体を流し込む。
それは透明なチューブを通して、少女の静脈に静かに注入される。
液体が血管に入り込むと、少女の体が跳ねた。
心拍数が一気に上昇する。
モニターに映る波形が乱高下し、アラームが短く鳴った。
「……耐えるか」
ウェスカーが顎に手を当て、赤い双眸を細める。
少女は拘束に軋みを与えながら、体を捩った。
白い歯が口腔保護具を噛み、頬に涙が滑り落ちる。
だが、その瞳はまだ潰れていなかった。
焦点は揺らぎながらも、確かに何かを掴もうとしている。
私は無意識にガラスへ手を上げていた。
冷たい表面に触れた指先が現実を思い出させる。
技師がデータを読み上げる。
「血中酸素、低下。筋収縮、過剰反応。細胞分裂、加速。……持続は不安定です」
「なるほど」
ウェスカーは短く切り捨てた。
「持続しないからこそ試す価値がある。負荷を重ねろ」
しばらく観察が続き、二回目の投与が行われる。
今度は濃度を上げた投与がされる。
少女の体が激しく跳ね、ベルトが金属音を立てて引き絞られる。
モニターの数値はさらに乱れ、アラームが長く鳴り響く。
心拍は危険域を往復し、脳波は断片的な波を刻んだ。
「く……ぁ……」
器具を噛んだ口の隙間から、音が漏れる。
それは言葉にならない。
「反応が強すぎます!」
技師が思わず声を上げた。
「このままでは——」
「黙れ」
ウェスカーが低く叩きつける。
「観察を続けろ」
彼の視線はガラスの向こうに釘付けだった。
崩壊と適合、その境目で揺れる瞬間を、熱を帯びた眼差しで追っている。
私はガラス越しの少女から視線を外し、彼の横顔を見つめる。
サングラスの隙間から赤い光が輝いて見えた。
合理と愉悦が一つになった眼差しが、少女に釘付けられている。
分厚いガラスに阻まれているにも関わらず、粗い息遣いが私の耳に鮮明に届いてくる。
……あの時の彼もこの色を宿した目を向けていたのだろうか。
「セラ」
ぼんやりとした思考に沈んでいると、名前を呼ばれた。
返事が一拍遅れる。
「直接刺激を与える」
彼は少女ではなく私を見ていた。
サングラス越しの赤い双眸が、私を射抜く。
——お前がやれ。
呼吸が一拍、浅くなる。
一段と低いトーンの声がそう私に告げた。
彼の視線が、防護服の仕舞われているロッカーへ流れる。
ためらう理由はなかった。
初めからその役割を担うのは、私だ。
私は無言で防護服を纏い、観察室の扉を押した。
空気の圧が変わり、薬品と鉄の匂いが濃くなる。
椅子に拘束された少女が目に入った。
焦点の合わない瞳が揺れ、私を追おうとしているように見えた。
近づき、器具を確認する。
心拍モニター、注射器、鎮静剤。
私は一つずつ位置を確かめる。
——迷うな。
彼の前で止まることは許されない。
「反応を引き出せ」
背後のインカムからウェスカーの声が響く。
私は少女の肩に手を伸ばし、軽く押した。
その瞬間、少女の体が痙攣し、口から掠れ声が漏れる。
「……た……て」
心臓が一瞬、強く打った。
それでも私は手を離さなかった。
モニターが跳ね、警告音が鳴る。
「いい反応だ」
ウェスカーの声が冷ややかに満足を帯びる。
私は視線を伏せ、ただ指示された通りの動作を続けた。
*
テストは一時間に及んだ。
電流、刺激、鎮静。繰り返される負荷と回復。
そのたびに少女の体は揺れ、数値は乱れ、声はか細く残った。
私は何度もガラスを振り返りそうになる自分を押しとどめた。
ウェスカーはずっと立ち、サングラス越しにモニターと少女を見比べていた。
そこに映るのは苛立ちではなく、熱だった。
小さな可能性を目の前にして燃える光。
私の胸の奥では、釘の音が何度も鳴った。
そのたびに心の奥底で、「彼を歩ませるために必要なのだ」と言葉が反響し、沈みそうになる私を突き動かした。
テストが終了すると、少女は再び鎮静剤で眠らされた。
呼吸は浅く、不安定な波を刻んでいる。
それでもまだ耐え、生きている。
「……既存の限界に沈まない個体だ」
ウェスカーは低く言った。
「さらに次の段階に進める価値がある」
満足げな表情がその口元に浮かんでいた。
ここ最近はずっと、思ったように結果が出ず、焦りや怒り、疲れを隠せない顔ばかり見てきた気がする。
だが今の彼は生き生きとしていた。
新しい可能性を見つけたと言わんばかりの光を宿している。
私はその光を見つけた瞬間、暗く沈んでいた心が照らされた気がした。
私が選んだことが、彼を救いに導いているのだと。