3章
広場の隅に立つ影は、崩壊しかけた肉体にしがみつくようにしてなお立っていた。
痙攣で小刻みに震える膝。裂け目の走った皮膚。浮き出た血管は赤黒く光り、呼吸はかすれた悲鳴のように擦れている。
それでも、声だけは人の形を保っていた。
「……くるし…たすけて……」
少女に近づくたびに、呼吸の乱れと皮膚の裂け目から漏れる血の匂いが強くなる。
細い腕は震えながらもこちらに伸びかけていた。
助けを求める仕草か、掴みかかる本能か、それは判別できなかった。
右腰のホルスターから麻酔銃を引き抜く。
手の中で金属が冷たい。汗が薄く滲んでも、グリップはずれない。
親指で安全装置を外し、視界の端で少女の肩の付け根と上腕の間の柔らかさを拾う。
——ためらうな。
彼の前で立ち止まることは許されない。
少女の瞳孔は開き切っていたが、かすかに焦点を結ぼうと揺れている。
その揺らぎが「まだ人である」と告げていた。
心臓が強く打った。
撃てば倒れる。捕獲される。実験に回される。
その未来を、私は誰よりも知っている。
それでも私は撃った。
圧縮ガスが鳴る。
ダートは空気を割って飛び、白い肌に沈む。
少女の体が一瞬びくりと跳ね、膝が砕けるように落ちた。
喉から漏れた音は、人の叫びと獣の唸りがぶつかって裂けたみたいな音だった。
「抑えろ!」
左から駆けた傭兵が肩と手首を押さえ、右からもう一人が腰を落として膝を固定する。
小さな体。だが想像以上に強い。
痙攣と反射が混ざって、押さえる手が滑る。
少女の爪が傭兵の頬を掠め、赤い筋が走った。
血がぱっと散って、土の上に黒い斑点を作る。
私は滑り込む。
ケースから注射器型の鎮静剤を抜き、片膝をつく。
細い太腿の筋肉を避けて刺入角を探り、ためらわず貫く。
ピストンを押す間、少女の眼が私を見た。
焦点はもう合っていないのに、眼だけが「こちらを見よう」としていた。
薬液が入り、力が抜け始める。
痙攣の波が小刻みになり、細い指が埃の上で宙を掻くみたいに震え、やがて落ち着く。
押さえ込まれた少女の体に拘束具を回す。
ビニールのバンドが手首と足首に締まり、金具がかちりと噛み合う。
口腔保護具を噛ませると、喉の奥の異音が一段下がった。
周囲の路地から、まだ人の呻き声が漂ってくる。
門の影にうずくまった老人が、こちらをまるで幻を見るみたいに眺め、すぐに視線を落とした。
誰も近寄らない。助けを呼ぶ声もない。
村の空気はすでに静まり返っている。
「確保しました」
私はインカムに低く言い、担架を呼ぶ。
声が乾いていた。
高台から見下ろしていたウェスカーは、満足げに小さく頷いた。
その眼差しには退屈も苛立ちもなかった。
代わりに、危うい愉悦の熱が宿っていた。
私は担架の端を取り、もう端を傭兵に預けて持ち上げる。
馴染んだ重量。子供の体は軽すぎる。
軽いものほど落としやすい。
だから、指に余計な力をかけないように、肘で支える。
担架がふわりと浮き、足元の土がやわらかく沈む。
少女は担架の上で微かに震え、口の器具の間から薄い息を荒く繰り返した。
「——た……」
声の片割れだけが漏れ、言葉にならない。
だが、その弱い音が紡ごうとしている言葉を私は理解することができた。
*
収容用の車両に運び込み、担架をスライドして固定金具に噛ませる。
金属の爪が噛み、揺れ止めが作動する。
それでも小さな体は周期的に痙攣し、抑え込まれた呻きがこぼれる。
車内には冷却装置と簡易モニターが設置されていた。
心拍数、体温、血中酸素濃度。
数値は不安定に揺れ、時折、機械が短い警告音を発する。
ウェスカーが乗り込み、私はその対面に座る。
ドアが閉まり、世界の音がひとつ減る。
エンジンの低い振動だけが腹の底に入ってくる。
「興味深い。崩壊の波に呑まれかけているのに、完全には沈まない」
ウェスカーはモニターを覗き込み、口端をわずかに吊り上げた。
「この不安定さは素材としての可能性を孕む。……実に面白い」
私は無言で隣に立ち、少女の乱れた呼吸を見ていた。
一つ一つの吐息が短く、途切れがちで、それでも続いている。
まだ生きようとしている。
胸の奥に、熱く重い石が落ちた。
それを拾い上げることはできない。
拾えば進むことができなくなる。
彼を導くために私は歩まなければならない。
だから私は視線を落とし、手を組んだ。
爪が掌に食い込んでも、痛みは釘を打つための儀式のように感じられた。
*
キャンプへ戻る道中、車両の中は冷気で満ちていた。
少女の体温を抑えるための冷却が、まるで棺のような寒さを生み出している。
「セラ」
名を呼ばれ、私は顔を上げる。
「よくやった。お前がいなければ、このサンプルは手に入らなかった」
短い言葉。
だが、その響きは奇妙に重かった。
それはただの評価のはずなのに、心の奥のどこかを僅かに震わせた。
キャンプに辿り着くと、少女は収容施設の観察室に運び込まれた。
厚いガラス越しに、技師たちがモニターを設置し、採血と簡易検査を行う。
バタフライニードルが少女の腕に刺さり、血が繋がれたチューブに流れていく。
色は暗い。鉄の匂いが強い。
技師が機器を立ち上げ、数値が画面を埋め始める。
血液は黒みを帯び、凝固の兆候を見せている。
細胞は分裂を早め、代謝は異常なほど加速していた。
「適合とは言い難いが……拒絶一色でもない」
ウェスカーの声には興奮が滲んでいた。
「数値が示しているのは、壊れる寸前で踏みとどまっている状態だ。
適合にも拒絶にも、どちらに傾いてもおかしくない」
私はガラスの向こうで小さく痙攣する少女を見つめた。
その姿は「実験体」と呼ばれるにふさわしい。
けれども、耳の奥にこびりついたあの声が離れない。
「……次の段階に進める価値がある」
ウェスカーの口元に、またあの捕食者の笑みが浮かんだ。
合理と愉悦を同時に刻む笑み。
技師たちが手際よく少女に針を刺し、チューブが二本、三本と増える。
少女の指がわずかに動いた。
掴もうとする仕草。空を握ろうとして、握れない。
私の手が、無意識にガラスへ上がった。
冷たい面に指先が触れる。
その一瞬で我に返り、私は手を引く。
そこに温度を残してはならない。
「休むか」
珍しく、彼がこちらを見た。
「必要ありません」
「そうか」
彼はそれ以上、言わない。
それが信頼なのか、使える駒への最適な運用なのか、私にはわからない。
どちらでもいい。私は淡々と彼から与えられる手順をこなすだけだ。
観察室の時計は針の音を持たない。
代わりに、機器の微かな呼吸が時間を刻む。
私は呼吸を合わせる。
たすけて。
その欠片は耳の内側に棲みついたまま、息をする。
すぐにテストフェーズに移るだろう。
彼のために役割を担い、道をつないでいけばいい。