3章
夜はまだ沈んでいなかった。
湿った風が梢を擦り合わせ、密林全体が低くうなっているように聞こえる。
川沿いの仮設キャンプには、最低限の照明が設置されていた。
赤色灯は霧に飲まれ、光源から数歩離れれば闇に沈む。
人工の灯りは自然を押しのけるにはあまりにも頼りない。
テントの奥で、私は資材を一つずつ確認していった。
金属製のケースを開くと、冷たい匂いが立ちのぼる。
内部に並んでいるのは円筒状の透明カプセル。
外殻は特殊な樹脂で、一定時間で溶解するよう加工されている。
中には琥珀色や淡黄色の液体が収められていた。
肩部には黒いマーカーで符号が走り、
それぞれが実験区画で培養され、精査され、
この密林まで運ばれてきた新株のウィルス群であることを示していた。
声には出さず、心の中で本数を数える。
散布用のカプセル、予備、それぞれ揃っていた。
ステンレスのトレイには、スワブ、シリンジ、交換用パーツ。
指先に触れる冷たい感触は、
まるで自分の手が他人のものに変わるような錯覚を与えた。
足音が近づく。
硬い靴底が土を踏む音は虫の羽音や遠くの獣の咆哮と混ざらず、
律動だけで誰かがわかる。
「準備は?」
振り返ると、ウェスカーがテントの入り口に立っていた。
夜の蒸気を背負いながらも、その姿勢には揺らぎがない。
濡れた葉の匂いと薬品の匂いが混じる中、
サングラス越しに赤い双眸が不自然なほど鮮やかに光っているように見えた。
「滞りなく」
私は短く答えた。
彼の視線がケースの中に落ちる。
確実に中身を把握している眼差しだった。
「散布班には伝えてある。夜明け前に井戸を封鎖し、投下する」
私は頷いたが、胸の奥がわずかに揺れた。
水源。
村全体の命脈を汚染する一点。
そこに落とされるのは、琥珀色の液体。
まるで陽光を閉じ込めたように、ほんのりと温かく見えるその色は、
触れたものすべてを蝕む破壊の種となり、
誰も抗えぬ未来を呼ぶ。
「時間は?」
「三時を予定している」
「夜明けには感染が広がり始めるでしょう」
彼の声は淡々としていた。
予測でも憶測でもなく、すでに確定した未来を告げる口調で。
私は理解していた。これは合理そのものだ。
少量で広範囲を汚せる。観察は短期間で済む。成果はすぐに回収できる。
効率的で、無駄がない。
……だが、その合理がもたらす結末も、私は知っていた。
*
深夜二時過ぎ。
散布班の傭兵たちが井戸へ向けて動き出す。
私は最後尾からその背を追った。
背負われたケースの中で、樹脂のカプセル同士がわずかに触れ合い、
かすかな音を立てる。
それは命を運ぶには軽すぎる音だった。
村は眠っていた。
泥壁と藁葺き屋根の小さな家々。
焚き火の残りが赤く、煙がかすかに漂う。
犬が一声吠えたが、それ以上は続かなかった。
井戸は村の中央にあった。
石で囲まれた口に滑車が取り付けられ、古びた桶が垂れている。
傭兵たちは手際よく周囲を封鎖し、入口に板をかける。
私はケースから一つのカプセルを取り出した。
掌に収まる無色透明の殻。
その内側で液体が微かに揺れる。
指先で軽く回すと、殻の継ぎ目にわずかな感触がある。
投下すれば水面で静かに沈み、数分後に溶解して内容物を放つ仕組みだ。
私は迷わなかった。
井戸の縁に立ち、手を伸ばし、指を開いた。
カプセルは音もなく落ち、黒い水面に吸い込まれる。
波紋は小さく、闇の中ですぐに消えた。
背後で誰も声を出さない。
ただ一人、彼の視線だけが最後までその動きを追っていた。
*
投下は終わった。
封鎖を確認し、傭兵たちは散開する。
私は残り、井戸の縁に指先を添えた。
石の冷たさが皮膚に伝わる。
そこから始まる崩壊を、私はもう止められない。
「——これでいい」
背後から彼の声が落ちる。
私はゆっくりと立ち上がった。
胸の奥で硬い釘が再び鳴った。
東の空がわずかに白み始めている。
村はまだ眠っている。
だが、この静寂があと数時間もすれば別の音に変わることを、私は知っていた。
咳、悲鳴、呻き。
命が崩れていく音。
それを記録する眼が背後にある。
それを引き受ける手が、今ここにある。
私はその手を、自分のものとして動かすしかなかった。