3章
夜明けに出発した。
東の空にまだ頼りない光が滲むころ、私たちは都市を離れ、長距離の移動に身を委ねていた。
船は濃い霧を裂き、重い水を押し分けながら進む。
川面に映る影は細かく揺れ、両岸の木々は夜明けの光を拒むように濃い緑の壁となって迫っていた。
羽音を立てる無数の虫、獣の遠吠え。
そのざわめきの隙間に、人工の音が潜む。
発電機の低い唸り、金属の軋む音。
自然の只中に混ざるその異物の響きが、行く先がただの密林ではないことを告げていた。
彼は周到だった。
傭兵、船員、物資。
すべては闇のルートを経由して揃えられている。
霧の深い時間を選び、夜間航行で監視や検問を避ける。
川に沿った一本の道を利用し、外界の目から徹底して姿を隠す。
やがて辿り着いたのは旧軍事施設の跡地だった。
外観は荒れ果て、草に覆われた壁、錆びついた鉄骨。
誰の目にも、長く放棄された廃墟にしか見えない。
だが地下へ降りると空気は一変する。
発電機の振動が足元に響き、冷ややかに光を放つ研究設備が整えられていた。
実験区画、試料保管用のシリンダー群。
外見の朽廃とは裏腹に、中はすでに本格的な研究のために改造されていた。
周囲を覆うのは密林。
空からは葉に隠れ、地上からは道が塞がれている。
侵入は川の一本に限られ、同時にそれは逃げ道を奪う檻でもあった。
けれど、その孤立は恐怖を与えなかった。
むしろ静謐で、逃げられないからこそ自分の決意を確かめられる場所だった。
ここでなら、私は何度でも思い返すことができる。
なぜ彼の隣にいるのか、その理由を。
あの夜、幾度も投げかけられた問いに、私はただひとつの覚悟を返した。
合理でも理屈でもない。感情の奥に根ざした答え。
彼にとっては理解不能で、正気ではないと断じられるもの。
それでも切り捨てられなかったのは事実だった。
だから私は行動で証明した。
彼の影として、汚れ役を引き受け続ける。
血で濡れた床を洗い流し、外部との交渉を背負い、時に口封じを担った。
彼が面倒と判断したことを、私はためらいなく自分の手で処理した。
見返りを望んだことはなかった。
ただ「必要とされる理由」を積み重ねていくことだけが、私の存在を繋ぎ止めた。
それでも一度だけ、心の奥に小さな願いが芽生えたことがあった。
肩書きや苗字ではなく、与えられた名で呼んでほしい、と。
かつての私に授けられたその名は、今はもう口にできない。
だからせめて「セラ」と。
その音が彼の口から零れるたび、胸の奥に微かな温度が灯るのを感じた。
説明できない感覚だったが、それは確かに私にとって特別な響きだった。
同じように、私も彼を「キャプテン」とは呼ばなくなった。
肩書きは彼自身が切り捨てた過去の遺物。
だから、恐れ多くも直接その名を呼んだ。
最初は舌の奥で震えが走ったが、それでも呼んだ。
それは、彼が私を傍らに置いているという事実を、確かめるような行為でもあった。
彼の視線は幾度も私を射抜いた。
苛立ちを宿し、冷徹に測ろうとする眼差し。
だがその奥に、拒絶だけでは終わらない影が潜んでいるのを私は見ていた。
理解できないものを前にしたときの苛立ちと、それでも無視できない何か。
その揺らぎを深く追おうとはしなかった。
ただ証明すればいい。
理解不能と吐き捨てられても、正気ではないと切り捨てられても。
私は彼の隣に立ち続ける。
救うために。未来を変えるために。
この隔絶の拠点での暮らしは、私にとって苦痛ではなかった。
夜ごと虫の羽音が絶えず、昼は熱と湿気に体を蝕む。
それでも、鉄と薬品の匂いが混ざる地下の空気を吸い込みながら、私は落ち着きを覚えていた。
外界から遮断されたその空気の中で、私は役割を果たし続けることに疑いを抱かなかった。
孤立は檻ではなく、誓いを研ぎ澄ませるための場所となったのだ。
*
こうして計画は始まっていった。
密林に閉ざされた研究所で、時間は積み重なる。
彼は研究を進め、私はその影として動き続ける。
幾つもの季節を越え、幾つもの夜を経ても、その在り方は変わらなかった。
理解されることを望んだことはない。
ただ、切り捨てられなければそれでよかった。
それが私にできる唯一の証明だった。
彼の視線の奥に残る揺らぎは今も消えない。
鋭さと苛立ちの奥で曖昧な影が揺れている。
それが何を意味するのか、私は知らない。
知る必要もなかった。
私は選び続けなければならない。
この手を血で汚すことも恐れずに。
それが彼の道を開き、歩ませると信じている。
誰にもできないその役割を、私が担う。