3章



机から視線を上げた彼が、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、鉄骨が乾いた音を響かせた。
立ち上がった瞬間から、もう座る気配はない。

鋭い視線がこちらに注がれ、逃げ場が消える。

「……お前に聞きたいことはいくつもある」

靴音は軽いのに、近づくごとに胸の奥が圧迫される。
彼は机を離れ、真正面から歩を進めた。
距離は、言葉と同じ速さで削られていく。

「まず……エンリコの件だ」

淡々とした声が胸を抉る。
「理由もなしに仲間を撃つ人間を、私が無条件に信用できると思うか?」

怒鳴りでも激情でもない。
冷徹な合理そのものの刃。

ここで言葉を誤れば、命は残らない。

「……あの時、彼はすでに疑念に呑まれていました。
『裏切り者がいる』と繰り返し、仲間を疑い、私にも銃を向けていた。
判断を誤りかけていた」

脳裏に蘇る洞窟の湿気、揺らがぬ銃口の線。
戻れない地点を越えた目の色。

「銃を向けられた瞬間、選択肢はひとつでした。
私が撃たなければ、撃たれていた」

声に微かな震えが混じる。
胸の鈍痛が答えを裏打ちしていた。

彼は反応を見せない。
首をわずかに傾け、さらに半歩詰める。

視線が皮膚の下を測り、内側まで削り取ろうとする。

「恐怖に支配された人間は判断を誤る。隊を危うくする。
あの場では誰かが止めるしかなかった。
私が、その役を担いました」

沈黙。
鉄骨の奥で水滴がひとつ落ちた。

「だから撃ったと」
肯定ではない。圧を強めるための低音。

「はい」

端的に返す。

彼の双眸がさらに細くなる。
「……筋は通る。だが、お前は合理以上のものを隠している」

否定はしない。沈黙だけが答えになった。
数秒後、彼は短く吐息を落とす。

「……保留にしておこう」

だが足は止まらない。
真正面から歩を進め、さらに距離を削る。
背後の壁が、さっきよりも近い。

「次は、野犬の件だ」

声が鋭く落ちる。視線は逸れない。
「報告では『逃げた』と記した。だが現場には頭蓋を一点で撃ち抜かれた死骸。
しかも前脚は道の中央へ寄せられていた。……意図的な痕跡だ。なぜだ」

心拍が一瞬跳ねる。呼吸を整え、落として答える。

「……ただの犬ではありませんでした。
毛並みは爛れ、口から泡を吹き、腐臭がした。
このまま放置すれば誰かが襲われる。だから仕留めました」

彼はさらに一歩。私は自然と半歩退く。
壁までの空気が薄くなる。

「死骸を道に置いたのは警告のつもりです。
ああした異常が自然に存在するはずがない。
当然それに関わる者がいれば、警告の意図には必ず気づく。
警察の銃弾で仕留められていれば、なおさら警戒も深くなるはずです」

沈黙。
測られる視線が突き刺さる。

「ではなぜ、報告には『逃げた』と書いた」

「……信じてもらえないと思ったからです」

声はわずかに震えたが、目は逸らさなかった。
「私は配属間もない新人です。
異常な犬を仕留めたと主張しても、現場を乱すだけになる。
だから、あえて虚偽で整えました」

彼は表情を崩さない。沈黙は刃のまま。
やがて低く結ぶ。

「……理屈は通る。だが出来すぎている。
痕跡を残し、虚偽を報告し、結果として私の手に届いた。
お前が本当に『ただの新人』なら過剰だ」

胸が軋む。短く頷くだけに留めた。

「それでも、あの時はそうするしかなかったと思いました。
あなたが拾うことになるとは、想像もしていませんでした」

短い息。
彼は鼻先で息を吐き、さらに近づく。

背は壁まで、あと数歩。

「お前の戦い方についてもだ」

声は低く鋭い。赤い双眸が冷徹に射抜く。

「私はお前とハンターの戦い方を廊下の後方から見ていた。
普通の新人なら恐怖で弾を乱射する。だがお前は違った。
跳躍の始動を読み、頸部を正確に刺した。……音を抑えた?
冷静に対処した? そんな説明では到底足りん」

息を整え、落ち着きを装う。

「銃声を響かせれば、他の怪物を呼び寄せます。
だから一撃で終わらせるしかなかった。それだけです」

「まだ同じ答えを繰り返すか」

吐き捨てるような低音。さらに詰められる。
私は一歩退く。背が壁の冷たさに触れた。

「恐怖に呑まれた人間に、跳躍の癖を読む余裕はない。
頸部を一撃で貫く精度もない。……だが、お前は“知っていた”。
まるで訓練を積んできたかのように。そうでなければ説明できん」

足元から冷たいものが這い上がる。
それでも目を外さない。

「知っていたわけではありません。ただ……あの動きが妙に単調に見えた。
だから“できる”と思ってしまった。それ以上は、説明のしようがありません」

沈黙。

次の瞬間、残りの距離が切り捨てられた。

長い腕が伸び、喉を掴む。
背が壁に叩きつけられる。
鉄骨が低くうなり、肺から息が漏れた。

指の圧は均一で無駄がない。殺さない程度に、逃げ場を奪う力。

「……本当は何者だ」

低い声が喉元に突き刺さる。
眉一つ動かさず、目だけで抉る。

呼吸が細い管を通るように詰まり、肺が焼ける。
だが私は視線を逸らさなかった。

「……あなたが今、必要とする者です。だからここにいる」

掠れではない。
圧に潰されても、芯だけは揺るがせなかった。

数秒。睨み据えられたまま、時が止まる。
嘘か真か、強がりかを測る冷徹な器具のような目。

やがて指が、じりじりと緩んでいく。

完全に解放されるまで、喉には熱が残った。
一気に流れ込んだ空気が咳を引き起こす。

肩が震えても、崩れはしない。
顔を上げ、視線を返す。――終わっていない。

彼はなお沈黙を保ち、影を深く落として見下ろす。
承認ではなく、値踏みの圧そのものだった。

「……次はあの瞬間についてだ」

声は低く抑えられていた。
だがその響きは、先ほどまでの問いよりもさらに深く鋭い刃を帯びていた。

「私がタイラントに貫かれた時。倒れ、動かなくなった私を見ても……
お前は一歩も退かなかった。まるで最初から蘇ると知っていたかのように」

言葉の輪郭が胸の奥を刺す。
血と鉄の匂いが蘇る。
爪が肉を裂き、床に沈んだ彼の姿。赤黒い液が広がり、静寂に飲まれていく。

常識で言えば、あの瞬間が終わりだった。
誰もが「死」としか呼べない光景。

けれど、私には違って見えた。

脳裏に蘇るのは、もっと前から刻まれている姿。
人を超えた圧倒的な気配を背にまとい、立ち続ける背中。
限界を踏み越え、恐怖を置き去りにし、それでも歩みを止めなかった足音。
血に沈む私を何度でも引き上げた手の感触。

その記憶が、感覚が、否応なく告げていた。
――倒れるはずがない。ここで終わるはずがない、と。

唇を結び、視線を逸らさず答える。

「……あのときだけは、終わるはずがないと信じてしまった」

声は震えなかった。
だが、それが合理的な答えでないことは分かっていた。

ウェスカーの双眸がわずかに細められる。
そこに宿ったのは、苛立ちと戸惑い。

「信じた、だと?」
低く吐き捨てるように繰り返す。

「二ヶ月足らずの新人が、何を根拠にそう言い切れる」

突き刺すような声に胸が痛む。
理屈で答えれば破綻する。
けれど退くわけにはいかなかった。

「理由ではありません。ただ……そう思えたのです」
「あなたは倒れて終わる人ではない。どうしても、そう感じてしまった」

一音一音を置くたびに喉が乾く。
それでも声は揺れなかった。

沈黙。
工場の鉄骨が風に揺れて小さな音を立てる。

彼はなお見下ろし、動かない。
その双眸は冷徹に測ろうとしながらも、切り捨てる言葉を選びあぐねていた。

そこに残っているのは、理解できないものを前にした苛立ち。
だが同時に、切り捨てられない興味の色。

「……感情で判断したと?」
低い声が試すように落ちる。

「はい」
私ははっきりと頷いた。

一瞬、彼の呼吸がわずかに止まった気がした。
冷徹な秤のように揺らぎのないはずの眼差しの奥で、見えない火花が散る。

彼は短く息を吐き、顔をわずかに背ける。
「まったく理屈になっていない」

吐き捨てられた声音は冷たい。
だが、そこで終わらせはしなかった。

目はなお、私を離さない。
理屈で切り捨てられないからこそ、確かめようとする視線。

理解不能。
それでも切り捨てられない。
それが、この沈黙の意味だった。

「最後にひとつ。なぜ今も私に協力を続ける。これも感情での判断とでも言うのか?」

声はさらに低く落とされた。
夜気のように冷たく、だが重みを帯びていた。

ウェスカーは半歩詰め直し、肩越しの鉄骨へ片手をかける。
わずかに傾けた体躯が、壁と影とで退路を完全に塞ぐ。

「屋敷を出た時点で、お前は自由だった。
蘇生直後の私と行動を共にする理由もない。
あの状況なら、普通の人間は真っ先に逃げる。
……それなのに残った。なぜだ」

喉がかすかに詰まる。
合理を突きつけられている。

この人は余白を許さない。
感情や気まぐれでは通じない。

答えを誤れば、即座に切り捨てられる。

だが同時に、心の奥底に芽吹いた何かを偽りきることもできなかった。

ここで逃げれば、彼の前に立ち続ける理由はすべて失われる。
たとえ理解されなくても、私は告げなければならない。

胸の奥に沈んでいたものを掬い上げる。
声が震えぬよう、ひと呼吸を整えてから言った。

「……あなたに必要とされるなら、それでいい。
私がここにいる理由は、それだけです」

沈黙。

工場の奥で、水滴がひとつ落ちる音が響く。
その小さな音が、張り詰めた空気に波紋を広げた。

ウェスカーの眉がわずかに動く。
苛立ちか戸惑いか、判別できない。

「……お前の答えはどれも正気ではない」

喉奥で唸るような低音。
だが即断は下されなかった。

胸が痛む。分かっている。
合理に背く言葉だ。

生き残るための答えではない。
ただ、心の奥底から零れ落ちたもの。

私は視線を逸らさない。

「それでも、そうするしかなかったのです。
理屈には載せられません。けれど……あの時も、今も。
どうしても、そう思えてしまうのです」

彼の双眸が、さらに深く沈む。
理解できないものを測ろうとする眼差し。
嘘か、虚勢か、狂気か。
それでも、そのどれとも断じられない。

長い沈黙が訪れる。
鉄骨の隙間を抜ける風が、埃を揺らし頬を撫でた。

喉に残る乾きが疼く。
それでも私は息を整え、視線を返し続けた。

やがて、ウェスカーはゆっくりと息を吐いた。

「……理解不能だ」

吐き捨てるような声音。
だがそこにあるのは冷徹な拒絶だけではない。
苛立ちの奥に、説明のつかない熱が混じっていた。

喉に戻るはずだった指は、もう動かない。
彼は半歩退き、影を解く。

呼吸がわずかに楽になる。

背を向け、机へ歩む。
地図の上に指を置き、乾いた声を落とす。

「……いいだろう。利用できるうちは利用する」

結論は淡々としていた。
だが背中に漂う気配は、冷徹な合理だけではなかった。

私は浅く息を吐き、強張る胸を解く。

理解されない言葉。
理解されるはずのない感情。

それでも彼は切り捨てなかった。
それが、今の答えだった。

その背を見つめながら、私は心の奥で確信する。

合理に従う彼が、この言葉を排除できなかった理由。
――それは「理解不能」だからこそ、彼の中に棘のように残ったのだ。

工場の静寂は、二人の呼吸音だけを飲み込む。
遠くの鉄骨が風に軋み、埃が舞う。

その音さえ、問いの余韻に思えた。

彼は背を向けたまま動かない。
地図に指を置いた姿勢のまま、わずかに肩を動かす。
まるで、私の言葉を反芻しているかのように。

私は壁に残る冷たさを背で感じながら、呼吸を整えた。

喉にまだ残る圧迫の感覚が、鼓動のたびに疼く。
それでも姿勢を崩さず、視線を彼の背中に固定する。

理解されなくてもいい。理解されるはずがない。

けれど、ここに残るという選択だけは譲れなかった。

彼の中に芽生えた揺らぎが何を意味するのか。
それは私の知るところではない。

私はただ、彼がどんな結論を下そうとも、その背を追い続ける。

――もう二度と、彼を失わないために。



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