Prologue
——落ちる。
底のない奈落を落ち続ける感覚で胸が潰れた瞬間、私は息を吸い込んだ。
肺が焼ける。全身の血が逆流し、心臓が破裂するように跳ねる。
「っ——は……!」
叫びとも嗚咽ともつかない声が喉からこぼれ、私は飛び起きていた。
目を開けると、そこは赤でも白でもない。
暗い天井、狭い部屋。時計の針のかすかな音が耳に刺さる。
汗が額から顎へと滴り、寝衣を濡らしていた。息は荒く、胸は上下を繰り返して止まらない。
夢だ。
わかっているのに、すぐには現実に戻れない。
まだ足元が崩れているようで、心臓が落下の振動を追い続けていた。
布団を握りしめる手が震え、指先の感覚すら定まらない。
夢……悪夢。
また、あの夢を。
喉が乾いていた。
震える足で立ち上がり、暗がりの中をふらつく。
水を一口含んでも、舌の上に鉄の味が残っているかのよう。熱と血と鼻をつくような火山の硫黄のかおり
——すべては夢のはずなのに、曖昧に現実を汚す。
鏡の前に立つ。
そこに映ったのは、汗に濡れた私。
頬は蒼白で、唇はまだ震えていた。
夢……いや、ただの夢じゃない。
耳の奥にまだ残っている。あの声。
『——目を開けろ。お前はまだ終わらせることを許されていない。お前が願うのなら、彼を救わせてやろう』
低く、深く、恐ろしく、それでいて抗えない囁き。
夢の中の白い空間。
あの声に触れた瞬間、私はそうなることを望み……声にならない声でただ、お願い——と答えてしまっていた。
その記憶が身体の奥に焼き付いている。
汗よりも深く、呼吸よりも強く、心臓の鼓動に同調して。
——私は新しい自分になった。
そう言葉にするのは恐ろしい。
けれど、そうでなければならない。
彼を救うために。
胸の奥にまだ火照りが残っている。
あれは夢の熱ではない。白い空間で交わした取引の余熱だ。
現実と夢の境界は、もう揺らいでいた。
いや、もしかすると、あの声の言葉どおり——私は本当にやり直しているのかもしれない。
枕元の机に置かれたIDカードが目に入った。
「セラ・モーガン」と刻まれた文字。
それが「現実」である証。
深く息を吸い、吐く。
鼓動を整えようと繰り返す。
私はもう、以前の私ではない。
生まれ変わったのだ。
彼を救うために。
何を犠牲にしても。
汗に濡れた髪をかき上げ、もう一度鏡を見る。
そこに映るのは怯えた少女ではなかった。
紅潮した頬と、決意に縛られた瞳。
「……必ず……」
掠れた声で呟いた。
夜の静けさが、その誓いを飲み込む。
もう一度ベッドに腰を下ろす。
呼吸はまだ荒く、胸の鼓動は止まらない。
けれど意識ははっきりしている。
夢は悪夢だった。
だがその悪夢が、私を目覚めさせた。
彼を救うために。
そのためだけに、私はここにいる。
——彼を救う、それが私のすべて。