3章



瓦礫の影が広がっていた。
空は曖昧で、夜か昼かも判別できない。灰色の煙が漂い、焦げた布の匂いが肺を焼く。

耳の奥では、絶え間なく鳴り響く銃声と爆発の残響が渦を巻き、土と血の味が喉に貼りついて離れなかった。

私は銃を握っていた。
子供の細い手には不釣り合いな、黒い拳銃。

鉄の塊は重く、冷えた金属が汗と血で滑り、今にも落ちそうに指先から逃げようとする。

銃口の先には、少年がいた。
泥にまみれ、腕から血を流し、必死に傷を押さえながら後ずさっている。

目は涙で濡れ、唇は小刻みに震えていた。

「やめろ……撃たないでくれ……」
掠れた声。涙で濡れた目。

その瞬間、どうでもいいような光景が不意に脳裏をよぎった。

崩れかけた塹壕の中で、彼が泥に汚れた手を突っ込んで何かを拾った。
手のひらに載せられたのは、小さな石。

『お守りだ』と、子供じみた笑みで見せてきた。

傷だらけの手のひらに載ったそれは、ただの小石でしかなかったのに。
馬鹿だと思った。こんな戦場で何の役にも立たない。

けれど、妙にその笑顔だけが記憶に焼きついていた。

今、銃口の先で震えている少年と、その記憶の断片が重なり……指が動かなくなった。

背後から怒号が飛ぶ。
「撃て! 生き残りたいなら撃て!」
「ためらうな、その犠牲が道になる!」

その大人の怒声は、命令というより呪詛のように私の耳を満たし、心臓を握りつぶした。

撃てば生き残れる。撃たなければ、私が消える。
頭では理解している。
だが、体は動かなかった。

引き金にかけた指は凍りつき、呼吸は喉の奥で詰まる。
胸の奥が、何か硬いもので塞がれていく。

「……っ」

唇が震え、声にならない吐息が漏れる。
目の前の少年は泣きながら首を振っていた。

撃てない。どうしても。

その瞬間だった。

視界の端に、別の影が差し込んだ。
足元の瓦礫の隙間。そこに沈みかける黒い人影。

黒いコートの裾が炎に焼かれ、炎を映した双眸が瓦礫の下から私を見上げていた。

彼だ。

胸の奥が灼けるように熱くなる。
火山の縁、赤黒い溶岩に沈みゆくあの瞬間。
最後に交わした視線。助けられなかった悔恨。

二度と忘れるはずのない光景が、悪夢の中に再現されていた。

「ダメ……!」

声が漏れた。
二度と同じものを見たくない。
二度と、彼を失いたくない。

銃口の先の仲間の顔が、涙で濡れながら揺らぐ。
その背後に、沈む彼の影が重なる。
彼の目が「助けろ」と告げているように見えた。

気づけば胸を締めつける焦燥が、指を強張らせていた。
どうしようもなく引き金を絞っていた。

轟音。
火薬の衝撃が細い腕を突き抜け、鼓膜を破るように響く。

少年が崩れ落ちた。
その身体から溢れた血が、大地を赤く染めていく。

赤い液体は瓦礫を伝い、ゆっくりと流れていった。
そして、沈んでいた彼の胸を濡らす。

その双眸は血を映して揺らぎ、まるで再び息を吹き返したかのように輝いて見えた。

私は呆然とその光景を見つめていた。
自分の手が引いた引き金で、彼が救われたのだと、夢は囁いていた。

その歪んだ理屈が、夢の中では揺るがない真実のように胸に刻まれていった。

銃声の余韻が消えないうちに、耳の奥で声が囁いた。

「お前が選ぶ事が、救いに導いている。
恐れるな。その血は道となり、彼を歩ませる。
それは……お前にしかできないことだ。」

その声はただ、優しく背中を押すように響いた。

胸に空いた穴を埋めるように、ゆっくりと心の奥へ染みていく。

私は震える息を吐いた。
銃を握る手は、もう震えていない。
ただ、熱い血潮の感触だけが、現実のように残っていた。

「……っ!」

胸を突き上げるようにして目が覚めた。
喉が焼けるほどの息が漏れ、全身は冷や汗に濡れていた。

視界が揺れ、吐き気に似た眩暈が頭を締めつける。

夢の残滓がまだ指先に残っていた。
拳銃の冷たい感触。引き金を絞った反動。少年が崩れ落ちる姿。

それらが現実だったのか、記憶だったのか、境界が曖昧なまま混ざり合い、胸の奥に棘のように刺さっていた。

反射的に左手を見下ろす。
握ったはずの銃はどこにもない。

けれど、掌にはまだ血の温度が張りついている気がして、息が詰まった。

痛みに気づいて目を伏せると、左腕に白い包帯が巻かれていた。
タイラントの爪に裂かれた傷口だ。

致命傷には至らなかったが、鋭い爪痕は肉を抉り、未だ疼いていた。

背中に触れるのは硬いコンクリートの床。
割れたガラス窓から月光が差し込み、淡い光が室内の輪郭を浮かび上がらせる。

鉄骨が骨のようにむき出しになり、壁は煤と錆で斑に汚れていた。
そこは廃工場の一角だった。

錆びた匂いと油の臭気が混じり合い、肺にまとわりつく。
それでも、アークレイの森に比べれば安全だった。

目を閉じて、記憶を手繰る。

炎に包まれた森を、彼は私を肩に担いで走り抜けた。
揺れる振動と、背に伝わる熱。
あの感覚はいまも骨の奥に響いている。

やがて森を抜け、隠してあったジープに乗せられた。
ハンドルを握る彼の横顔を、疲労と安堵の狭間でぼんやりと見つめていた。

ラクーンシティの外れを回避し、人気の絶えた道路を外れ、辿り着いたのがこの工場跡。
彼が事前に用意していた、一時的な潜伏先だった。

工場には最低限の物資が隠されていた。
錆びた鉄扉の奥、小さな部屋。

そこに水と簡易シャワー、救急箱、そして黒い衣服の束が置かれていた。

私は彼の指示で冷水を浴び、血と泥と怪物の体液を洗い流した。

容赦なく叩きつける水は冷たく、負った傷に刺さるように痛んだが、その痛みこそがまだ生きている証のように思えた。

ボロボロになったS.T.A.R.S.の制服は、彼のものも私のものも同じように焼却炉に放り込まれ、炎に呑まれていった。

煤けた布と血の匂いが煙となって立ち上る。

二ヶ月だけ身に纏ったそれは、私にとってただの仮初の皮膚でしかない。
未練も郷愁もなかった。

必要がなくなれば、迷わず焼き捨てられるものだ。

ただ、燃え上がる炎の中で、彼と並んで立っているという事実だけが、妙に鮮明に胸に焼きついた。

衣服はもう使い物にならず、ウェスカーが用意していた黒のシャツとズボンに着替えた。

当然、大きすぎた。
裾は折り、袖は手首でまとめ、腰はベルトで締めた。
それでも裂け目だらけの服よりはましだった。

応急処置用の薬品を取り出し、無言で彼が手当てをしてくれた。
擦過傷、裂傷、打撲。

左腕の深い裂傷には消毒薬を浸したガーゼを当て、包帯を幾重にも巻いていく。

冷たい薬液が染みて、思わず呼吸が詰まった。
だが彼は表情ひとつ変えない。
ただ合理的に、必要だから手を動かしているだけだった。

終始、互いに会話と呼べる会話はなかった。

彼の指先が傷に触れるたび、私はわずかに身じろぎしたが、それ以上の反応はなかった。

冷ややかな静寂の中で、彼の指先と包帯の感触だけが確かに現実を刻んでいた。
それは体温を持たない機械のように正確で、だからこそ私には救いに思えた。

私がここに生きているのは、彼が選んだから。
その一点だけが確かな事実だった。

処置を終えた後、私は隅に敷かれた毛布の上で体を横たえ、すぐに眠りに落ちた。

そして、あの夢を見たのだ。

再び現実に戻った私は、荒い呼吸を整えながら上体を起こす。
工場の中は静まり返り、かすかな風が鉄骨を鳴らしていた。

水の滴る音が遠くで反響し、月光に照らされた埃が空気中に漂っている。

視線を巡らせると、薄闇の中に人影があった。
窓際の机に広げられた地図とメモ。

その上に置かれた長い指。
背の高い影が腰をかけ、外と紙面を交互に見やっている。

ウェスカーだった。

彼はシャワーを浴びていたが、眠ってはいなかった。
椅子に座り、ウィルスの力に裏打ちされた肉体は疲労を見せず、目は冴え冴えと輝いていた。
眠る必要などないかのように。

赤い双眸が月光を反射し、私の方へ向けられる。
その視線は揺るぎなく、射抜くように強い。

私は声をかけることができなかった。
ただ、その背を見つめるだけで、胸の奥に言葉にできない熱が広がった。

私が身を起こした気配に、彼が視線を寄越す。

「……眠れたか」
「少しだけ」
短い返答をすると、彼は地図に目を戻した。

「腕の傷は」
「……まだ痛みます。でも動けます」
包帯の下で脈打つ鈍痛が、言葉を裏付けるように響いた。

彼は一度だけ短く頷き、紙面から指を離した。
そのまま立ち上がる。

鉄骨が軋む音と、硬い靴音が静かな空間に響く。
背筋を伸ばしたその影が、ゆっくりとこちらへ歩を進める。
近づくたびに空気が圧し掛かり、胸の奥が強く脈打った。

私は動けず、ただその足音を数えながら見上げるしかなかった。
赤い双眸が月光を映し、射抜くように私を捕らえる。

「夜明けにはここを発つ。次の移動は長い」
「……わかりました」
私はそれ以上は問わなかった。ただ従うと告げることが、いまの自分にできる唯一の選択だった。

赤い目が、再びこちらを射抜く。
「その前に、確認しておくことがある」

工場跡の静寂が破られる。
私は一瞬、息を止めた。


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