2章



機械の唸りが、冷たい床をゆっくりと伝ってくる。
赤いランプが間欠に明滅し、金属のきしみが静けさの奥で擦れ合う。

暴君は通路の闇へ去り、クリスとレベッカも重い扉の向こうへ消えた。
ここに残ったのは、薬剤の匂いと、機械の脈と、私、そして倒れたままの彼だけだった。





私は片膝をつき、彼の呼吸の気配がない胸もとを一度だけ見てから、顔へそっと手を伸ばす。

サングラスのツルに指を掛けると、金属がかすかに鳴った。
フレームを丁寧に外し、床へそっと置く。
レンズが冷たい光を拾って、すぐに暗がりへ沈む。

額に落ちかかった金色の髪をつまみ上げ、撫で上げる。
頬には、すでに乾きはじめた血の筋。
指腹でそっと拭うと、赤が薄く伸びて、私の手のひらに移った。

その赤を見つめたまま、私は思い出す。

エンリコを撃った瞬間、私は迷わなかった。
ためらいは一片もなかった。
冷酷だからではない。
私の手は昔から、彼のために血で染まってきたからだ。

彼の命令に従い、要らないものを静かに消すたび、彼は満足げにうなずいた。
「必要だ」と言われた。

道具に与えられる評価であっても、私にはそれが唯一の温かさだった。
人として抱きしめられた記憶はない。褒められ、撫でられ、慈しまれた記憶もない。

けれど、任務を果たせば彼の視線が私を留め、冷たい声がたしかに私を呼んだ。
そのとき胸の奥に灯る微かな熱は、私にとっては愛情の代わり……
いや、そう呼ぶのかもしれない何か、だった。

だから私は撃てた。
誰かが見れば冷たく見える行為でも、私にとっては彼に届く唯一の言語だった。
血に濡れるほどに、この手は「彼のための手」になっていった。

そのたび、私は救われた。
価値があると教えられた。
歪んでいても、そこにしか私の温かさはなかった。

私は自分の手をじっと見つめる。
だけどこの瞬間だけは違う。

この手で誰かを殺すためではなく、彼の頬に触れるために指を伸ばしている。
同じ手なのに、意味が変わるとこんなにも重さが変わるのかと、可笑しいほど指先が震えた。

彼の輪郭を指でなぞり、血を拭った親指をもう一度そっと滑らせる。
まつげの影が静かに沈む。
閉じた瞼の境目へ視線が吸い込まれる。

視線が、唇へ落ちる。
呼吸が細くなる。吸い寄せられるように顔が近づく。

駄目だ、と身体のどこかが言う。
私は彼の道具だ。
自分から求める事は許されない。

私のこの胸の内の暗い望みが伝われば、使えないと捨てられるかもしれない、それが怖かった。

今なら彼は目を閉じている。

今なら……と思った。
けれど、ひとたび触れてしまえば、抑えてきたものが堰を切って押し寄せ、この覚悟が揺らぐ気がした。

愛をなぞるような仕草は、愛を知らない私には、あまりに怖かった。

唇が触れる寸前で、私は呼吸を止め、唇を逸らし、代わりに額へ短い口づけを落とした。
短く、静かに、彼の冷たい皮膚に自分の熱が吸い込まれていく。

額に落ちた髪をもう一度指で梳き、撫で上げる。
ほんのわずかでも、今の私の熱が彼に馴染むように。

「……起きて。あなたがいないと、私は何にもなれない」

声は誰にも届かない。ここには私しかいない。
けれど、言葉にしてしまわないと、胸の内の熱が形を失って壊れてしまいそうだった。

私は手を引き、掌についた彼の血を見つめる。

この赤は、かつての私にとって「承認の色」だった。
けれど、彼のこの血は違う。胸の奥が痛む。

二度とこの人の血を、自分の手の上で見たくないと、初めて思った。

それでも、必要なら私はまた汚れる。
彼が生きるために、私が彼のためにあるように。

その覚悟は、愛と呼ぶには歪んでいるだろう。
でも私は、これしか知らない。

呼吸を整え、彼の顔へ最後にそっと触れる。
頬の温度はゆっくり戻るはずだ、と信じたかった。

目覚めたとき、どんな目で私を映すのだろう。
灰と青が混じる冷たい光か。
それとも、すべてを焼き尽くす炎のような赤が開くのか。

どちらであっても、私は受け止める。
私の手は、彼の未来を守るためにある。
かつて血で証明してきたのと同じ熱で、今度は生を繋ぐために。

壁に背を預け、左腕の痛みをやり過ごしながら、呼ぶことが許されない彼の名を心の中で呼び続けた。

「……アルバート、戻ってきて」

彼のいない世界では、私はただの空っぽの道具に戻ってしまう。
彼に触れられたことでしか、私は人でいられない。

どれほど歪んだ真実でも、私の救いはそこにしかなかった。

だから、目を開けて。
もう一度、あの視線で……私を必要だと言って。




かすかな痙攣が、彼の睫毛を震わせた。
閉じたまぶたの裏で、色が芽吹くように動く。

灰と青の冷たい光が薄く覗き、そこに深紅の点が滲む。
じわり、と。内側から赤が広がる。

虹彩の縁に火が灯り、中心へ向かって燃え移る。

来た。

私は息を止め、掌をそっと離す。

胸が小さく上下し、喉の奥で粗い呼気が返る。
彼は膝をついた姿勢から、床を押してゆっくり上体を起こす。

床に置かれたサングラスへ視線を落とす。拾わない。
一歩踏み出した靴底が、ためらいなく黒いレンズを踏み砕いた。

硬質な破片が散り、乾いた音が床に弾ける。

床の銀色が反射し、彼の銃が目に入る。
無駄のない動きで拾い上げると、そのまま私へ。

照準は胸骨の中心。
けれど、引き金はすぐには落ちない。
赤い目が、ただ私だけを見る。

私は逃げない。両手も上げない。
真っ直ぐ受け止める。

「私はあなたにとって有用だと、ここまでで示したはずです。不要なら……今、撃てばいい」

短い沈黙。互いの呼吸が測られる。
疑念と興味がぶつかり、底で選別する冷たさが確かに光る。

やがて銃口が、ほんのわずかに下がった。

彼は顔を制御卓の端末へ戻し、赤い目にすぐ横の培養槽を照らす緑の反射を宿したままキーを打つ。

白い画面に冷たい文字列。

ACCESS DENIED
権限が剥奪されました
認証失敗

爪先から床の振動が一段深くなる。
唇が固く結ばれ、次の瞬間、端末の縁を横から叩き落とした。

薄いガラスが砕け、内部の光が消える。

怒りは長く留めない。別の手順へ、瞬時に切り替える。

天井のスピーカーが一斉に鳴り、赤色灯が回った。
耳を切るような警告音が空気を層にする。

〈警告。爆破シークエンス起動。全研究員は直ちに退避を開始してください〉
〈警告。爆破まで——十分〉

配管の継ぎ目から白い蒸気が噴き、空気の流れが変わる。

壊れたパネルから目を離した彼が、私を見る。
疑いは残っている。だが、今は測らない。

「……行くぞ」

その一言が胸の奥で点火し、熱が突き上げる。
左腕の痛みがただの雑音に変わった。

私は頷き、ホルスターから銃を抜いた。

扉のロックが外れる音。
開いた瞬間、私は半歩先に出て射線を作り、彼が右へ滑り込む余白を残す。

足音が重なり、テンポが揃う。

白衣の影が角から飛び出す。
私は額へ一発。
彼は横を抜けざま、壁際の配管を撃ち抜いた。

蒸気が勢いよく噴き出し、影が呻きながら目を覆う。
視界を奪われたその隙に、私たちは交差して死角を抜けた。

背後で蒸気の唸りが長く続く。
私と彼の足音だけが、前へと伸びる通路に重なった。

赤い灯の明滅が背中を押す。
私は彼と肩を並べ、爆破へ向かう残り時間を刻む警告音の中で、

闇の奥へ。出口へと踏み出した。

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