2章



扉を押し開けた瞬間、空気の質が変わった。
冷やされた金属と薬剤の匂いが肺の奥を薄く刺し、床下を走る配管の微振動が靴底から骨へと滲んでくる。

白い光が一点だけ強く落ち、その輪の中で背を向けた男が端末に手を置いていた。
振り返らない静けさは、ここに来る者の足音を最初から予測していたかのようだった。

キャプテン……ウェスカー。

彼は肩だけをこちらへ向け、サングラスに光を細く滑らせると、躊躇なく銃口を上げた。
狙いは胸骨の中心にぴたりと定まったまま、わずかも揺れない。

「そこから動くな」

命令というより、ただ台本をなぞるかのような淡々とした口ぶりだった。

私は腰のホルスターから右手を離し、両手をゆっくり開いて掌を見せる。
敵意のない仕草を示すと、彼の視線は私の顔を越えて奥へ突き抜け、皮膚の下を探るように鋭く射抜いてくる。

背筋に冷たい震えが走った。

沈黙が数秒。

灯りの下で、まるで測定器にかけられているかのように、目の奥まで覗き込まれる。
思わず背筋が小さく強張るほどの刺すような眼差しだった。

彼は銃を下ろさないまま、わずかに顎を傾けた。
「……なるほど。では、時間もあまりないのでな。いくつか手短に確かめてみよう」

銃口は下がらない。
代わりに、順序立てた問いが落ちてくる。

「まず、野犬についてだ」
低く焦点の合った声音。
「お前は『逃げた』と記録した。だが処理部隊の報告では現場に頭蓋一点貫通の死骸。

薬莢は消えていたが、着弾孔の縁に S.T.A.R.S. 支給弾特有のライフリング痕、薬室跡の癖も一致していた。
さらに前脚が道の中央へ故意に寄せられていた。……“拾え”という合図だな?」

喉の奥がわずかに熱を帯びる。
私は目を逸らさずに答える。

「確認してほしい相手がいたからです。『威嚇で追い払った』という報告では拾えない相手に」

「つまり、私だ」
決めつけない言い方で、余地は与えない。

「報告の整合性を犠牲にしてまで痕跡を置く。……ずいぶん落ち着いた“自己紹介”だ」

皮肉は薄く、声は平坦だった。
サングラスの奥の目は感情を寄せず、ただ冷ややかに形だけをなぞっていた。

「次にハンターについて。
銃を保持したまま、刃を選んだ。跳躍前の肩の落ちを見て、膝が伸び切る直前に頸部へ。……なぜ銃ではなく、わざわざナイフだ?」

「音を抑えたかった。その時点では、屋敷内をうろつく怪物の数や位置がまだ読めていませんでした」

「それだけか?」
間髪を入れず、深いところを突いてくる。
「お前は“知っていた”。あの個体の予備動作が粗いことを。まるで最初から覚えていたかのように」

暗い廊下の格子、単調な呼吸音、肩の筋束が落ちる瞬間だけを追い続けた夜の感覚が一瞬よみがえる。
私は肯定も否定もせず、呼吸を均す。

彼が測ろうとしているのは“事実の形”ではなく、私という材質だ。

「まあいい、だがこれは説明してもらおう。エンリコについて」

間を置き、再び視線が射す。

「洞窟の壁面反射で手元の角度まで見えた。サプレッサーをねじ込み、胸骨下へ一点。無駄がない……まるで“処理”だったな」

洞窟の湿気が喉に返る。
私は言葉を置く。正当化にも沈黙にも堕ちない足場を選ぶ。

「彼は“ここ”へ至る前に、危険な仮説に触れていました。あなたにとっても、この現場の隊員にとっても危険なほどに。だから速く、静かに、汚さずに終わらせた」

私は内ポケットから乾いたフィルムケースと、掠れた紙片を取り出す。
《裏切り者はウェス——》で途切れた線が折り畳まれ、彼の手に渡る。

「私のために?」

乾いた声の奥で、目がわずかに光を帯びる。
疑念と興味がせめぎ合い、その視線は答えを強引に引き出そうとする。

私が頷くと、彼は重心をわずかに前へ移し、一歩だけ床を踏みしめた。
間合いは保たれたままなのに、肩の張りと呼吸の重さが確かに押し寄せてくる。

「お前は、何者だ」

サングラスの奥から直截な問いが突き刺さる。
胸の奥が一度だけ高く跳ねる。

私は口を開く。

「私は……」

言い切る前に、硬い床を叩くリズムが近づいた。
二人分の足音。

私たちは同時に扉へ視線を向ける。
ウェスカーの銃口は私から逸れないまま、室内全体を制御する角度へわずかに転じた。

扉が開き、白い光が強く広がる。
クリス。そしてレベッカ。

レベッカは肩で息をし、クリスは銃を上げ、私とウェスカーの“図”に硬直する。

「ウェスカー!」
クリスの声が跳ねる。

私は首をわずかに横へ振り、目線だけで“撃つな”と告げる。
今この瞬間に誰が誰を撃っても、残るものはない。

ウェスカーは口元だけで笑いに近い形をつくり、淡々と告げた。
「やはり来たか。期待通りだな、クリス。私の部下だから当然だが」

彼はわずかに顎を傾け、余裕を作る仕草でテンポをずらす。
クリスが一歩踏み出し、吐き捨てる。

「そりゃどうも……いつからなんだ!」

クリスの声が、怒気を含んで室内に反響した。
銃口は揺れず、だが額には汗がにじんでいる。

ウェスカーは口角をわずかに動かし、肩をほんの少しすくめただけだった。

「悪いが何の事か分からんな」

淡々とした声音。否定ではなく、切り捨てる口ぶり。

「アンブレラの手先となって S.T.A.R.S. を裏切ったのは!」

クリスが踏み込み、銃口をさらに突きつける。
私は一瞬、身を固くした。ここで引き金が引かれれば、誰も助からない。

ウェスカーは動じない。片手を端末に置いたまま、視線だけを冷たく返した。

「君は何か勘違いをしているようだ。私は最初からアンブレラの人間だ。
そして、S.T.A.R.S. はアンブレラの……いや、私の私兵だ」

サングラスの奥の視線が一瞬だけ私に流れ、またクリスに戻る。

「だが、Tウィルスの汚染によってお気に入りの S.T.A.R.S. を失ってしまった……残念だよ」

「自ら手を下しておいてか!このゲス野郎!」

クリスの叫びが火花のように弾け、銃口がさらに近づいた。
レベッカはその言葉に息を呑み、わずかに後退する。

「そんな……」
かすかな声が零れる。

ウェスカーは彼女へ銃口を滑らせ、口元に冷たい笑みを刻んだ。
「そうだ、こんな風にな」

乾いた銃声が、間を裂いた。
レベッカの胸に鈍い衝撃が走り、彼女の体が崩れる。

「レベッカ!」
クリスの叫びが割れる。

「動くな!」
ウェスカーの低い制止が重なる。

「死に急ぐこともあるまい。面白いものを見せてやろう」

彼は端末へ手を伸ばし、最後のロックに触れた。
「——これが究極の生命体、タイラントだ」

培養槽の表面に波紋が走り、液面が降りる。
露出した巨大な心臓が鼓動し、筋束が連鎖して収縮を始めた。

硬質な指先がガラスを引っかき、鋼の爪が白い火花を散らす。

「ウェスカー……ヤキがまわったな」

クリスが吐き捨て、彼は静かに言い返す。

「クリス お前には一生理解できないだろう」

短く吐息を洩らし、ウェスカーはゆっくりと両腕を掲げた。
まるで自らの創造物に祝福を与えるかのように、肩幅いっぱいに広げた掌が白い光を受ける。

「実に美しい」

サングラスの奥から放たれる視線は、陶酔の光を帯びていた。


刹那、空気が裂けた。

影が跳び、鋼の刃が一直線に突き出される。

ウェスカーの胸を貫く音が遅れて鼓膜に届き、彼の身体が制御卓へ弾き飛ばされた。
銃が床を滑る。

時間が止まる。

視界の中心から彼の色が抜け落ち、世界の縁だけが極端に鮮明になる。
理解が遅れる。まさか、ここで。

「キャプテン!」

自分の声だと気づくまで、一瞬かかった。
私は制御卓へ駆け寄る。

反射で、タイラントの視線を切る軌道を横切ってしまう。

刃が横薙ぎに飛ぶ。
身体が遅れて反応し、半身で潜る。

左上腕に熱い線が走り、制服の布が裂ける。
浅い。けれど、痛みは鮮やかに残る。

傷は負ったが、動ける。
動ける痛みは道具になる。

「セラ、退け!」

クリスの叫びが響く。
私は頷く代わりに足元の金属片を拾い、タイラントの膝の内側へ投げ込む。

狙いは傷ではない。踏み込みの半拍ずれ。

巨体が一瞬だけ軌道を誤り、爪が床を叩く。

その隙に、クリスがレベッカの肩を抱き起こす。
彼女は防弾チョッキの下で息を荒くし、目を瞬かせる。

意識は戻ったが、足取りは覚束ない。

「クリス、レベッカを連れて離脱して」

私は血に濡れた左腕を押さえ、大きく崩れて“見せる”。
クリスの視線がこちらに跳ね、眉間の皺が深くなる。

「大丈夫か、セラ!」

「……傷が深い。走れない。……ここに残ると二人とも危ない」

事実は浅い切創だ。布を裂き、出血を派手に演出する。
傷をわざと緩く押さえ、赤を広げる。

彼を引かせるために。

「諦めるな!」
仲間を捨てない男の声が真正面からぶつかってくる。

「失血で長く持たない」私は息を荒くして言う。
「ここで私に構ったら、二人ともやられる。頼む、行って」

背後でタイラントが姿勢を作り直し、唸りが低く重くなる。

クリスは歯を食いしばり、半歩こちらへ踏み出しかけて、レベッカの体重に引き戻される。
レベッカは小さく首を振り、目で“先に”と訴える。

「こっちだ!」

クリスがタイラントの正面へ回り込み、意図的に音を立てて注意を引く。
巨体がそちらへ向きを変える。

「セラ、すぐに追いつけ!」

叫ぶ声が胸に刺さる。
私は首を横に振る。

ここで彼から離れられない。
私のマスターである彼は、“ここでは終わらない”。

赤い目。鋭く縦に裂けた瞳孔。黒いコートに身を包んだ姿がよぎる。

私を拾い、最高の“作品”に仕上げた、マスター。
私の知っている彼は、ここから始まるのだ。

私は制御卓の陰へ視線を走らせ、彼の倒れた位置を確かめる。
胸を貫いた刃は引き抜かれ、床に血の軌跡が短く伸びている。

「レベッカを頼む。私は動けない。足手纏いになるだけ」

私はさらに血を散らし、膝をつく。
レベッカがこちらへ手を伸ばしかけ、クリスがその手を握る。

顔が歪む。

「……分かった。だが、諦めるな。何とか動いて追いついてこい!」

扉へ退く直前まで、彼は私を見ていた。
私は頷かない。

頭の内側は彼がどうなるのかという思考で満ちている。

クリスがレベッカを支え、扉の向こうへ退く。
タイラントが唸り、厚い足が床を叩く。

巨体はクリスの作った音を追って通路へ進む。
扉の縁で、彼はもう一度だけ振り返った。

「絶対にだ、セラ!」

仲間の中に戻るつもりは最初からない。
私の立つべき場所は、この場だ。
彼の側で。

暴君の影が去り、室内に残ったのは機械の唸りと、私自身の呼吸だけになった。

私は壁に背を当てて立ち上がり、左腕の圧迫を最小限に整える。

制御卓の陰へ身を滑らせる。
床に滑ったウェスカーの銃を視界に収めるが、拾わない。

「……マスター」

唇から零れた声は、炎にくべる薪のように胸の奥を灼いた。

私は片膝をつき、自分の呼吸のリズムを整える。
ここから先に残されたのはただ一つ。

彼が再び立ち上がるまで、この場を繋ぐことだけだ。

遠い通路で金属が叩かれる音が再び響く。
私は非常シャッターのレバーを半分だけ引き、部屋を隔離する。

だが、完全には閉めない。
戻る道と時間だけを作る。

血のにおい、薬剤のきしみ、機械の低音。
私は左腕の痛みを壁に預け、意識を一点に狭める。

彼が目を開いたとき、その赤い眼差しは私をどう映すのだろう。

死の静寂に横たわるその人と、まだ見ぬ目覚めの時を思いながら。
疑念と興味のあいだにある“執着”が、こちらと向こうで同じ形に育ちつつあるのを、私ははっきりと感じていた。

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