2章
リサの姿が闇に溶けていったあと、私はしばらくその場に立ち尽くした。
鎖の残響が洞窟にこだまし、耳の奥で金属音が消えない。
胸の奥には冷たい痛みが残り、あれが私の「もしも」だという確信は揺らがなかった。
私は足を動かし、湿った通路を進む。
水滴の音が少しずつ規則性を帯び、やがて細い流れになって足元を撫でた。
前方がわずかに明るみ、洞窟の出口に辿り着いたとき、視界が開ける。
そこは高い壁に囲まれた噴水広場。
夜空を映す水面が細かく揺れ、中央の石造りの噴水が静かに佇んでいる。
苔むした石畳は濡れ、月光を鈍く返していた。
私は懐から二枚のメダリオンを取り出した。獅子と鷲。
指先に伝わるのは、よく冷えた金属の硬さと、はめ込まれるのを待つような確かな重み。
台座の溝に差し込むと、硬い金属音が重なり、内部の歯車が噛み合った。
低い唸りが地の底から響き、噴水が沈み始める。
水面が割れ、石の構造物がゆっくりと下へ飲み込まれていく。
現れたのは地の底へ続く螺旋階段。
月光から切り離され、懐中電灯の小さな光輪だけが私の視界に残った。
地下へ向かう。
彼が必ず目指している場所へ。
階段を下りきると、無骨な気密扉が一枚、無言で私を待っていた。
黄色い三角のバイオハザードマークは擦り切れていても、まだ十分に牙を見せている。
「許可なき立入禁止」のラベルが縦に並び、金属の冷たさが掌に張り付いた。
耳を寄せて送風音と機械の駆動音を確かめ、問題なしと判断してハンドルを押し下げる。
薄い空気が細く鳴り、薬品と金属の匂いが流れ込んだ。
壁は石からコンクリートへ。
天井を走る配線は整然と整えられ、青白い蛍光灯が間欠的に灯っている。
機械の唸りが低く重なり、空間の静けさを底から震わせていた。
最初に入ったのは研究員の詰所らしき部屋。
机の上には書類が散らばり、コーヒーの輪染みが乾いて残る。
椅子は倒れ、床には乾いた靴跡が交錯していた。
人影はない。
それでも、ここで人間が働き続けていた痕跡は充分すぎるほど濃厚だった。
廊下の硝子越しに、冷却庫の列がのぞいた。
赤いランプが点滅し、内部には試薬や血液パックが整然と並んでいる。
扉のひとつを押し開けた瞬間、白衣の影が呻きながら飛びかかってきた。
血に塗れた顔が近づき、腐敗臭が一気に鼻腔を焼く。
額へ一発。
弾丸は後頭部を貫き、影は壁に叩きつけられて崩れ落ちた。
狭い室内に火薬と血の匂いが広がり、呼吸は少しだけ重くなった。
残弾を確かめ、足音が一体分だけだったことを確認する。
机上に束ねられた紙があり、私はそれを手に取った。
日付と荒い筆跡が、短く、だが生々しく並んでいた。
5/11 早朝。宇宙服みたいな防護衣を着せられた。事故らしい。
5/14 背中の腫れが悪化。足にも出た。犬舎がやけに静かだ。数が足りない。
5/16 腕が痛い。熱が下がらない。あつい。かゆい。肉がくさり落ち——
…4 かゆい うま
文字は途中で崩れ、紙は最後に引き裂かれていた。
私はしばらく紙面を見つめる。
ここで事故が起き、何かが漏れ、研究員自身が変わっていった。
犬舎から犬がいなくなった。
森で見た化け物の出自は、これでほぼ確定だ。
数匹の脱走が山中で増殖の核になり、感染が広がって群れを作ったのだろう。
この施設が発生源であるという理解は、推測から事実へ変わった。
別の束を取ると、表紙にはっきりと見出しがあった。
「t-Virus Project」。
見慣れない頭文字の説明が箇条書きで続き、感染特性と用途が淡々と記されている。
目的は軍事運用。副次的な行動強化。
欄外には手書きでいくつかのコードネーム——「Cerberus」「Neptune」「Hunter」「Tyrant」。
ページをめくる指先に、わずかな既視感が走った。
鉄格子越しの低い唸り。
遠い昔、無機質な廊下の向かい側の格子で、犬型の兵器が歯を鳴らしていた。
あれも“ケルベロス”と呼ばれていたのかもしれない。
呼び名が同じでも、今の私にはもはやどうでもいい。
問題は、ここが意図して怪物を生み出す場所だという一点だけだった。
ハンターの項には初期個体の運動パターンが記録されている。
映像で見た跳躍軌道は単調で、私が何度も教え込まれた“後年型”より粗い。
つまり、ここにあるのは初期世代のものだろう。改良される前で、凶悪さが増幅される前のもの。
映写機のある部屋へ入ると、パネルは待機状態で点灯していた。
スイッチを押す。
薄い幕に古い映像が浮かび、檻の中で牙を剥く犬、巨大な影を水面に揺らすサメ、跳躍して格子を叩く爬虫類、棺のようなカプセルに封じられた巨躯が次々に映る。
画質は粗くても、意図は明確だ。
偶発ではない。設計され、飼育され、試されている。
ここは怪物を作り、実験し、記録し続けるための場所。
映像が終わり、照明が戻る。
スクリーン脇の机に一枚の写真が置かれていることに気づいた。
白衣の研究員たちが並び、その右端に見覚えのある横顔が写っている。
キャプテン——いや、ドクター・ウェスカー。
表情は冷たく、他の研究員と同じ立ち位置に立っていた。
喉の奥が冷える。
エンリコの声が蘇る——「裏切り者がいる」「アンブレラ」。
彼は事実の手前まで辿り着いていた。
私は息を整え、写真を懐に収める。
彼をここで黙らせた判断は、やはり正しかった。
この真実に他の隊員が先に触れれば、彼の計画は狂う。
私は彼のために、最短を選び続ける。
さらに下層へ。
鉄扉をくぐるたびに空気は冷え、機械音は重くなる。
通路は細くなり、壁の蛍光灯は不規則に点滅した。
足元の水たまりを踏むたび、靴底が湿った音を立てる。
目の前には無音の圧で立ちはだかった重厚な扉。
継ぎ目から冷気が滲み、向こう側から低い唸りが伝わってくる。
ここがこの研究所の最奥だと直感した。
おそらくこの先に彼がいる。
証拠と、真実と、選択が待っている。
そして——彼の正体も、私の正体も、ここで暴かれる。
私は銃を握り直し、深呼吸をひとつ置いた。
冷たい鉄のハンドルに指をかけ、ゆっくり押し開ける。
闇の奥から、機械が眠りから醒め続けるような低音が、途切れずに響いていた。