2章
湿った岩肌を抜けると、木の板で無理やり塞がれたような古い扉が現れた。
湿気で膨らんだ板が押すたびに軋み、短い悲鳴のような音が洞窟の奥へ吸い込まれていく。
手袋越しに伝わる木の繊維は水を含んで柔らかく、金属の留め具は手の熱を奪うほど冷たかった。
私はゆっくりと均等な力で押し込み、音を必要以上に響かせないように呼吸を整えた。
中へ踏み込んだ瞬間、冷たい空気が肌にまとわりついた。
岩壁に囲まれた狭い部屋で、灯りを向けるたびに埃が光の粒となって揺れた。
そこには、人が「暮らそうとした」痕跡が確かに残っていた。
破れた毛布が敷かれた狭い寝台が壁に押し付けられ、薄いマットの縁が擦り切れて糸を引いていた。
釘一本でかろうじて留められた小さな額が傾き、幼い少女の肖像画がこちらを見ていた。
机の上には色褪せた家族の写真がいくつも並び、その一枚の余白には《私の最愛のリサ》と、震えながらも丁寧に書かれた文字が残っていた。
紙は黄ばみ、インクは掠れていたが、書いた者の指先の温度だけは鮮やかにそこに留まっているように感じられた。
愛情とは、時間に削られても消えずに残る痕跡だと、私は改めて思い知らされた。
冷たい石の匂いに、かすかな鉄の臭気が混じり、喉の奥が乾いた。
この部屋は「守られる」ための場所ではなく、閉じ込められ、ただ「生かされる」ために形だけ整えられた場所だと理解できた。
必要最小限の物だけが置かれ、必要最小限の温度だけが許され、必要最小限の記憶だけが残されている。
天井から水滴が落ち、岩を打って鈍い音を立てた。
その一定の間隔が心臓の鼓動と微妙にずれて、胸の奥で不快なゆらぎを作った。
私はそこで初めて、自分の肩がわずかに強張っていることに気づき、息を吐いて力を抜いた。
——あの頃。
雨漏りが止まらない小屋の一角で、土を掘って少しだけ平らにした床に擦り切れた毛布を投げ出し、そこを寝床として受け入れる以外に選択がなかった。
濡れた服を乾かすための時間など与えられず、骨ばった肩を寄せ合い、泥の冷たさを体温で押し返す以外の方法を知らなかった。
火薬と汗と血の臭いが染みついた空気の中で、夢を見る余裕を最初から奪われていた。
生き延びることがそのまま価値であり、役立つ体であり続けることが、唯一の明日だった。
目の前の寝台と、あのときの泥まみれの毛布が重なって見えた。
現実の湿気と記憶の雨音が溶け合い、境界が曖昧になっていく感覚に、私は足を一歩引き、視界の焦点を意識して遠くへ置き直した。
ここに閉じ込められていた少女も、きっと生き延びても「少女ではいられなかった者」なのだろうと考えたとき、胸の奥に小さな痛みが走った。
ふと視線を巡らせると、埃を被った小さな鏡が隅に置かれていた。
斜めにひびが走ったガラスは顔を正しく映さず、光が割れるたびに輪郭が歪んだ。
そこに映ったのは今の私ではなく、痩せ細り、冷えた銃を胸に抱えたまま眠りに落ちるしかなかった過去の自分の影だった。
私は目を逸らさず、その影が消えるまで数拍だけ見つめ続けた。
写真立てを元の角度に戻し、扉の方へ体を向けた。
この部屋に長くとどまれば、必要のない記憶まで引き出されると分かっていた。
湿った岩肌の通路へ戻ると、さっきまでの水滴の音に異質な響きが忍び込んできた。
鎖の擦れる音が、距離を詰めながら岩盤に重い線を引いていた。
鉄と石が軋み合う鈍い音が一定の間隔で繰り返され、洞窟全体がゆっくりと呼吸しているように感じられた。
私は歩幅を半分に落とし、靴底を岩の凹みに合わせた。
光の輪を狭めて前方だけを切り取り、耳は左右へ開いて反響の差を拾った。
やがて、鎖の音に混じって呻き声が聞こえ始めた。
低く掠れたその声は言葉にはならず、獣の鳴き声に似ていながら、どこかで人間の喉が絞り出す音を忘れていないように聞こえた。
影の奥から姿を現したのは、女の形をした異形だった。
ただれた皮膚が何層にも重なり、縫い付けられた仮面が表情を奪っていた。
腕には太い鎖が巻き付き、引きずるたびに岩床が削れて火花が短く散った。
足取りは重く、しかし迷いが薄く、過去に刻まれた道筋を何度も辿っているように見えた。
「……マ……マァ……」
呻き声の隙間から、はっきりとそう聞こえた。
母を呼ぶ声が掠れ、潰れ、それでも少女の名残を離さずにこちらへ届いた。
私は一瞬だけ息を止め、喉の奥でその響きを受け止めた。
机の上の写真、その余白に記された「リサ」という名が頭の中でゆっくり浮かび上がり、目の前の異形と静かに重なった。
愛されたはずの少女の像が、ここで落とされた時間と鎖の音に塗りつぶされ、別の輪郭に変えられていったのだと理解した。
私はそこで初めて、目の前にいるのがリサだと確信した。
しかし、今ここに立っているのは人間としてのリサではない。
愛情の記憶ごと閉じ込められ、姿も時間も奪われ、別の意図のために形を変えられた存在がそこにいた。
私は銃口を彼女の胸と頭の間に置き、引き金にかけた指の力をわずかに抜いた。
無機質な部屋での記憶が、望まない順序でよみがえった。
整然と並ぶ寝具が夜を均等に切り分け、定刻の食事が空腹の叫びを黙らせ、白い壁が感情の起伏を押しつぶすように平坦な時間を流し続けた。
観察されるためだけに在り続ける日々が、呼吸という動作にまで意味を貼り付けていた。
それは、生きていることの形を保ちながら、生きる意味を取り上げる過程だった。
リサの姿は、私の「もしも」を映していた。
ほんの少しの違いで道が曲がっていたなら、私は鎖の重さを自分の骨に覚え込ませ、この暗闇を何度も同じ足取りで往復するだけの存在になっていたかもしれない。
その想像が胸の奥で静かに疼き、銃を握る手の内側に汗が滲んだ。
リサの仮面の奥の眼差しが、ゆっくりとこちらをとらえた。
怒りでも敵意でもなく、痛みと迷いが混じった光が一瞬だけ浮かび、すぐに霧のように薄れた。
少女でいられなくなった者同士の、言葉を持たない共鳴だけがそこで確かに起きていた。
おそらく彼女も、私から同じ匂いを嗅ぎ取ったのだと私は思った。
私は深く息を吐き、銃口を下ろした。
光の輪が彼女の足元から外れ、鎖の銀色だけが揺れて見えた。
引き金から指を離し、両手の力を丁寧に抜いて、声が岩壁で割れないように低く落とした。
「……行きなさい」
私の声は岩の面で跳ね返り、すぐに空気に溶けた。
命令でも懇願でもなく、ただ通路の先へと流れを作るための言葉として放たれた。
リサは鎖を一度だけ強く揺らし、呻き声を上げた。
その声には迷いが混じり、過去と現在が擦れ合う音が重なっていた。
彼女はしばらくその場に留まり、仮面の奥で何かを探すように首を傾けてから、背を向けた。
鎖が床を引っかき、火花が短く散り、その光がすぐに湿った闇へ飲み込まれていった。
残されたのは湿った冷気と、胸にこびりつく痛みだった。
私は一歩だけその場に根を下ろし、鎖の響きが遠ざかるのを耳で追い続けた。
水滴の音が戻ってきて、洞窟の呼吸がいつもの調子を取り戻した。
それでも、耳の奥ではまだ微かな金属音が尾を引き、心臓の鼓動とわずかにずれたまま並走していた。
私は銃を握り直し、左右の指でグリップの汗を拭い、ライトの角度を少し下げて足元の段差を確かめた。
ここで立ち止まる理由はどこにもなく、戻るべき場所もどこにもなかった。
進む先に何が待っていようと、私が選ぶのはただ一つの行動だけだと分かっていた。
私は振り返らず、闇の奥へ足を運んだ。
鎖の音はとうに消え、代わりに私自身の靴裏が岩に触れる乾いた音が、次の薄明かりへ向けて一定の拍を刻み続けた。