2章



「……気をつけろ。S.T.A.R.S.の中に、裏切り者がいる」

エンリコの声は低く、湿った岩壁で幾重にも反響した。
洞窟の空気はすでに淀んでいたが、その一言が密度をさらに上げ、喉の奥で呼吸が重く引っかかった。

銃口を向けられているのに、不思議と恐怖は胸の表面まで上がってこない。
代わりに、彼の警戒が研がれた刃のように皮膚を越えて侵入し、内側の静けさを切り裂いていく感覚があった。

「……裏切り者?」

私は声を落として問い返した。
ライトの照度をひと段階絞り、彼の顔に強い影を作らないように角度を変える。
こちらの表情も読ませない配慮を保ちつつ、視線だけはまっすぐ彼へ合わせた。

「そうだ」

エンリコの指はトリガーから離れず、手首の角度もぶれなかった。
額に浮いた汗が側頭部を伝い、顎の縁で滴となって落ちていく。
呼吸は荒いのに、銃口は私の胸郭へまっすぐと通りを刻み続けている。

「そいつは……この作戦を仕組み、俺たちをここへ誘い込んだ。表向きは冷静で頼れる人間に見せて、実際にはアンブレラと通じている」

唇は乾き、声はかすれていたが、瞳の底に揺るぎのない確信が灯っていた。
疑念ではなく、既知の事実を告げる者の焦燥だけがその目に残っていた。

「アンブレラ……」

私はその名を短く反芻した。
散発的に拾ってきた断片が線で結ばれ、屋敷の奥に隠された研究施設、ゾンビや犬、ハンターが偶然ではなく“造られ、試され、放たれた”存在だと明確に輪郭を持った。
その背後にいる組織がアンブレラで、エンリコは“キャプテン”がそこに通じていると疑っているのだと理解した。

私は小さく頷き、声の温度をさらに落とした。

「なるほど……だから、私にも銃を向けているのですね」

「……ああ」

呼吸の乱れに混じって、彼の声は細い震えを含んでいた。
疲労だけでは片づけられない焦りがにじみ、仲間を信じきれなくなった人間の疲弊がそこにあった。

「お前も例外じゃない。アルファの新人が、どうしてここまで無傷で来られた? 落ち着きすぎている。普通じゃない」

銃口がさらに近づき、冷たい円が胸の中心へ狙いを据える。
彼の目からは疲労の濁りが消え、切迫した意思だけが鋭さを増していた。
裏切り者を突き止めようとする矢が、今や私の中心を射抜こうとしているのを肌で感じた。

「……あんたが違うと言える証拠はあるか?」

鋭い言葉が暗がりを裂き、疑念は戻れない地点を踏み越えた。
私は両手を肩の高さより少し上まで上げ、銃口を下げるよう促す仕草だけを見せたが、視線は外さなかった。

「証拠、ですか。今ここに提示できるものはありません。ただ――」

言葉をいったん切り、胸と腹の間で呼吸を整えた。

「もし私が裏切り者なら、とっくにあなたはここで倒れているはずです」

エンリコの眉がわずかに動き、額の筋肉が硬く引き締まった。
警戒は解けず、むしろ一段深い層へ潜った。
滴る水音が洞窟の奥で拍を刻み、時間が伸び縮みする錯覚を生んだ。

「……裏切り者がいるのは事実でしょう。だから気をつけるべきは私ではなく、あなた自身です」

自分の声が驚くほど冷えて聞こえ、言葉が状況を切断するための刃に変わっていた。
エンリコの銃口は揺れず、視線は私の一挙手一投足を計測し続けている。
そこにあるのは、「お前こそが怪しい」と告げる静かな圧力だけだった。

その時、背後の闇で小さな石が転がる音が生まれ、岩肌を擦る微かな響きが続いた。
私は即座に人差し指を唇に当て、息よりも低い声で合図を送った。

「……シー」

エンリコは反射で周囲へ視線を走らせ、銃口は私を捉えたまま、注意だけを背後へ分配した。
滴る水音が増幅して聞こえ、洞窟の奥に何かが潜んでいると錯覚させる条件が揃っていく。

私は答えず、構えを崩さないまま、ホルスターの手前ポーチへ指先だけを滑らせた。
金属の筒が手袋に触れ、ひやりとした温度が掌へ移った。
サプレッサーを引き抜き、銃口へねじ込む際に生じる金属の擦過音が、過度に大きく洞窟へ広がっていく。

「……そうだな、ここで音を立てるのはまずい……」

エンリコは納得したように呟き、視線を闇と私の間で往復させた。
私は装着を終えると同時に呼吸の間隔を測り、次の拍で銃口を滑らせるように持ち上げた。

狙いは胸郭の中心よりわずかに上。
ライトの輪が小さく揺れ、彼の瞳孔が驚愕に開いた。

「……セラ?」

名前を呼ぶ声に戸惑いと疑念が混じり、問いただす言葉が続く前に引き金が落ちた。
抑え込まれた発砲音が短く洞窟を走り、湿った空気がすぐに音を呑み込んだ。

エンリコの体が一瞬硬直し、銃口がわずかに上を向いた。
喉が空気を掴もうとして震え、次の瞬間には壁際へと崩れ込んだ。
手から離れた銃が岩に当たり、乾いた音で二度転がって止まった。

彼の瞳はなお何かを伝えようとしていた。
仲間を守る意思と、真実に手を伸ばす執念が最後まで目に残っていたが、声へなる前に光は静かに薄れていった。
残ったのは、疑念と理解しかけた驚きが交錯した、固く凍った表情だけだった。

私は銃口を落とし、肺の奥に溜まった空気を細く吐き出した。
サプレッサーの先で白い煙が細い糸のように揺れ、岩肌の冷気の中で形を失っていく。

「……だから言ったでしょう」

足元へ落ちた影へ向けて、私は温度を欠いた声を投げた。

「気をつけるべきは、あなた自身、だと」

膝を折って近づき、視線を傷口へ落とした。
脈を測る必要はなかった。胸に穿たれた小さな穴が、ここで終わったことを簡潔に示していた。
短い間だけ同じ制服を着た事実があったが、今の私にとって彼は、キャプテンのために取り除くべき障害でしかなかった。

私は銃を収め、サプレッサーを外した。
金属が擦れる音がもう一度だけ洞窟に走り、音は濡れた岩で柔らいで消えた。

死体へ手を伸ばし、ジャケットの内側を探る。
指先に硬い感触が触れ、小さなクリック音とともに留め具が外れた。
引き抜いたのはS.T.A.R.S.各員に支給された行動記録用の小型装置で、薄いフィルムケースが血と体温で湿っていた。
掌に収めると微かな振動が伝わり、そこに彼が見たもの、聞いたもの、最後に刻もうとした全てが閉じ込められていると分かった。

さらに胸ポケットを探ると、折り畳まれた紙片が指先に触れた。
私はそれを開き、インクの滲みを追うように目でなぞった。

《裏切り者はウェスーー》

筆圧の強い線は途中で掠れ、そこで止まっていた。
最後の一筆に到達する前に、彼はここで立ち止まったのだと直感した。

私は紙片を一瞥し、ためらいなく折り畳み直して内ポケットへ滑らせた。
冷えた指先で確実に角を合わせ、ケースの縁が衣服に引っかからないように押し込んだ。
フィルムと走り書きを自分の重心の内側へ収め、証拠を掌から離さない位置に固定した。

私はゆっくり立ち上がり、ライトを少し上向きにして通路の闇をなぞった。
背後のさらに深い暗がりに、視線だけを送り込む。
そこには目には見えない気配があり、湿った空気がわずかに流れを変えていた。
呼吸の音を殺し、私はほんの一呼吸だけ、無言の報告を終えた者のように顎をわずかに上げた。


キャプテン。
今の行動を、あなたが見ていたことを私は知っている。

私はライトの円を前へ戻し、足場の段差を確認してから歩き出した。
水滴の音がまた一定の拍を刻み始め、遠くの方で空気が入れ替わる小さな気配がした。
ここでの判断は完了し、進むべき方向はひとつしか残っていなかった。
靴底が岩を踏むたび、洞窟の暗さは濃さを変えながら後退し、私の呼吸は作業のリズムへ戻っていった。
背後に横たわる沈黙は動かず、手の内に収めた薄い証拠だけが、次の目的地の輪郭を静かに確かに示し続けた。

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