2章



扉を押し開けると、湿った夜気が肌にまとわりつき、肺の奥へ沈んでいった。

屋敷のよどんだ空気から解放されたと思ったのも束の間、外の空気には別の重さがあった。
腐臭と土の湿りが絡み合い、吸うほどに胸を圧迫してくる。

石畳の中庭に足を踏み入れると、月光が高い壁に反射して地表をまだらに照らした。
どこかで規則的に水滴が落ち、石に当たる乾いた音が距離感を奪っていく。

視界は屋敷の内部より広がったのに、見張られている感覚が皮膚に張り付いたまま離れない。
背後の影が延び縮みし、誰かの視線が首筋に触れているように錯覚した。

低い唸り声が足元の石畳を這い、闇の溜まりに波紋を広げた。

影の奥から二匹の犬が躍り出て、牙を露わにして距離を詰めてきた。
裂けた皮膚から筋肉が覗き、濁った赤い眼球が光を跳ね返していた。

これまで何度か見てきた野犬だ。
それはここで生み出された犬型の生物兵器だろうと考えつつ、私は狙いを最短で固定した。

最も近い個体の頭蓋を一点で抜くために、呼吸の底で間を取り、引き金を絞った。

弾丸は骨を割り抜け、巨体が石畳を転がる。

二匹目は反射で突進に移り、横の加速で射線を外したが、着地の瞬間を逃さずに弾道を合わせる。
二発を続けて送り込み、肩から腰を貫く衝撃で、その体も地に沈んだ。

破裂音が壁に弾かれ、重苦しい反響が夜を揺らす。

直後、黒い群れが夜空に舞い上がった。

カラスの羽ばたきが空の薄皮を裂くように響き、甲高い鳴き声が弧を描いて降ってきた。

無駄弾を避けるために銃口をわずかに上げ、軌道を乱す一発だけを空へ放った。
群れは弧を描き、森の奥へ吸い込まれるように散っていった。



曲がりくねった中庭を進む間も、背中に貼りつく視線の感触が消えなかった。

伸びた枝が夜気の中で指のように重なり、崩れかけた墓石が横倒しのまま重なっていた。
彫り込まれた文字は風雨に削られて判読できず、そこに刻まれていたはずの名は音もなく失われていた。

闇が時間とともに濃度を増し、月光の淡さが周縁に追いやられていく。

やがて、森の切れ目から小さな山小屋が姿をあらわした。

外壁は剥離し、窓ガラスは内側から割れた痕跡を残していた。

扉に手をかけて押し開けると、湿りを含んだ木の匂いが鼻腔へ流れ込んでくる。
床板が体重を受けて低く軋み、古い家の呼吸のような音が背後で閉じた扉へ戻っていった。

内部は乱雑に荒らされていて、
薄汚れた寝具が床に散らばり、机には色褪せた写真が数枚、無造作に置かれていた。

写真の中で笑う顔はすでに淡い輪郭しか残さず、そこにいたはずの生活の熱が冷え切っているのを感じた。

かつて自分が過ごした質素な部屋の断片が一瞬だけ脳裏を掠めたが、記憶の扉は自動的に閉まり、足は次の一歩を運んでいく。



そのとき、どこかで鎖が石を擦る音が生まれ、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。

重い金属が床の節に引っかかる鈍い音が間隔を詰め、続けて床板を踏む足音が湿りを帯びて響いた。

私は体を反転させ、脇の窓から外へ身を滑らせる。

湿った空気が頬に触れ、背後で扉が弾けるように開いて木が悲鳴を上げている。

視線が交差する前に距離を取り、闇へ走り出して息を整えた。



中庭の縁を抜け、湿り気を帯びた石の階段を下った。

足元の泥水が靴底を吸い、踏み出すたびに粘る音が残る。

通路の先は完全に浸水していたが、壁際のバルブを二段階で開放すると、古いポンプが軋みながら動き、濁った水が低い唸りとともに引いていく。

膝下を撫でていく冷気が、溜まっていた湿度を押し流すように感じられた。

照明の少ない暗い通路をさらに進むと、別棟の玄関が見えてきた。

灯りは不規則に瞬き、ガラス窓の周囲には蛾が群れてる。
羽音が壁に反響してひとつの不快な膜を作り、胸の奥へ重さを加えた。

私は呼吸を浅く切り替え、視界の端で動く黒い影を敵と誤認しないように意識し進んでいく。



廊下は湿気で膨らみ、壁のひびから植物の根が覗いている。

太く伸びた根が床板をせり上げ、薬品と腐敗の臭気が空気を満たしている。

踏み込むたびに靴底が水気を含んだ音を立て、金属のきしむ音が壁の向こうで遠くに連なる。

奥の部屋では、巨大な蜘蛛が数体、天井と床を連結するように陣取っていた。

毛の立った脚が空気を掻き、赤い複眼が光を鈍く反射していた。

私は発砲による誘引を避け、机を蹴り上げて即席の遮蔽に変える。

最短距離に入ってきた個体の脚節をナイフで断ち、動きが乱れた瞬間に横を抜け、走り抜ける。

倒す必要はなかった。
今は時間がすべてだ。



通路の突き当たりに置かれた木のテーブルには、濡れた紙片が複数重なっていた。

インクが滲んだ走り書きの中から、いくつかの単語だけが浮かび上がり、視線を捕まえた。

「V-Jolt」
「植物兵器」

胸の奥で呼吸が荒く波立っているが、目は紙片から離れなかった。

ここがただの屋敷ではなく、ウィルスを用いて怪物を造り出す拠点だという推測が、散らばった痕跡と結びついて一本の線となっていく。

館内に溢れたゾンビも、徘徊した犬も、廊下で遭遇したハンターも、偶発の産物ではなく計画の産物だと確信へ変換された。



私は紙片を元の位置へ戻し、呼吸の速さだけを意識して落とした。

戻る通路の湿気はさらに濃く、壁を這う根が増え、床材の軋みが音だけでなく振動として脚へ伝わる。

腐食した鉄の匂いが以前より濃く、建物そのものが何かに侵食され、内部から形を変えられているように感じられた。

階段を下りた先で、重い鉄扉が行く手を塞いだ。

錆びたハンドルは確かな冷たさを残し、隙間から潮の匂いを含んだ冷気が頬を撫でる。

扉を押し開けると、耳の奥に水音が一気に満ち、空気の密度が変わる。

壁面は石からコンクリートへ切り替わり、配管とケーブルが縦横に走っている。

青白い照明の下で観察窓が連なり、その向こうに濁った水が揺れていた。

大きな影が一度だけ横切り、重たい波紋がガラスへ押し寄せ、振動が掌へ伝わる。

制御室の窓越しに計器の点滅と警告灯の明滅が見え、屋敷の外観が仮面でしかなかったことを最終的に理解した。

ここは最初から研究施設の一部で、偶然の廃墟ではないと確信できた。



ここでの確認は必要十分だと判断し、私はさらに下層を目指す。

コンクリートの通路を抜けると材質が途切れ、湿った岩肌が再び現れた。

土と石の匂いが濃度を上げ、人工の光が途切れ、懐中電灯の円だけが足元を選んだ。

天井から水滴が落ち、岩へ小さく跳ねる音が連打のように続く。

道は狭く、崩れかけた足場がいくつもあり、回避のための動きが体力を少しずつ削った。

奥へ進むにつれて、岩壁に沿って古い支柱が立ち並んだ。

採掘の痕跡が残り、人の手が入った名残があるのに、今は完全に放棄され、油と錆の匂いだけが場を占めていた。

遠くの方で低い唸り声が絡み合い、風の抜け道がないはずの場所で空気が揺れた。

私は銃を構え、音の方向へ角を曲がる。

ライトの輪の先に、S.T.A.R.S.の制服が浮かび上がった。

暗闇の底から声が跳ね返り、湿った壁で音色を失った。

「……誰だ」

私は即座に構え直し、光を胸元から顔へ滑らせる。

岩肌を舐める光の縁がひとつの輪郭を拾い、見覚えのある顔が現れた。

「……エンリコ隊長」

名を呼ぶと同時に、銃口が私の胸の中心へ吸い寄せられた。

彼の頬は土で汚れ、汗で濡れていたが、照準は一切ぶれず、トリガーにかかる指は動かす準備を済ませていた。

視線が鋭さを増し、私の動きを一つ残らず数える意志がそこに宿っていた。

「……セラか」

確認の声は落ちても、銃口は下がらない。
むしろ鋭さを増していた。

湿った洞窟に呼吸と水滴の音だけが響き、均衡は薄氷の上にあった。

私は足幅を半歩だけ調整し、ライトの角度を胸元へ下げて彼の視界に余白を作った。

彼はその余白を疑いとして受け取り、銃口の位置をわずかに上げて狙いを深くした。

緊張の綱が細く張り詰め、触れればすぐに切れる段階まで伸びきった。

その緊張を裂くように、彼が口を開いた。

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