2章
クリスと別れて右の廊下へ入った。
足音を床板に吸わせ、ライトは円の直径を最小まで絞った。
マガジンの残弾を親指で押して確認し、予備二本の位置を指先でなぞった。
ナイフは鞘から半指だけ抜いて重心を確かめ、すぐに戻した。
本来なら隊員と行動を合わせて生存率を上げるのが定石だとわかっていた。
単独行動は不利を招きやすく、判断の誤りがそのまま死に繋がると知っていた。
それでも今は一人で動いた。
キャプテンの動きを掴み、先回りするために、ここで足を止めたくなかった。
クリスが渋ったのは当然だ。
外での射撃、先ほどの対処で最低限の信頼は得たはずだが、本当の目的を明かす選択肢は最初から存在しなかった。
角の手前でライトを切り、耳に空気の表情を集めた。
送風の流れを感じず、遠音はない。
利き足を半歩前へ出し、肩を壁へ沿わせて角を切った。
視線を右から左へ素早く掃き、死角を二つに絞る。
最寄りの扉に触れて温度と歪みを読み、ノブをゆっくり回して蝶番へ負荷をかけない角度で押し開ける。
腐敗臭が鼻腔を刺し、血の鉄と濡れた布の匂いが重なった。
視線の先で人影が揺れ、足取りが遅く、重心が前へ倒れていた。
ゾンビだと判断し、照準を眉間に合わせて呼気の底で引き金を絞る。
短い破裂音のあと、頭が弾かれ、体が後ろへ倒れかけた。
床に叩きつける音を避けるため、一歩詰めて足首を払って横へ落とす。
転がる薬莢の位置を視界の端に固定し、周囲の気配を洗った。
追尾音はなく、薄い静けさが戻った。
残弾を頭の中で数え直しす。
予備は二本。無駄撃ちを許す余白はない。
通路の先に二体の影が立ち、距離は十メートルほどに見えた。
一体がこちらへ顔を向けた瞬間に二歩詰め、顎下から斜め上に弾道を入れた。
角度で脳幹を断ち切り、反応を止めた。
残る一体は反応が遅れた。
横移動で射線を外しながら距離を詰め、ナイフへ切り替えた。
左手で肩を引き、倒れ込みの勢いを利用して喉元を一息で裂いた。
痙攣が止まるのを待ち、周囲の音に乱れがないことを確かめて先へ進んだ。
*
歩きながら、彼に「協力者」だと信じさせる方法を反芻した。
未来から来たと口にした瞬間、錯乱した危険人物として切り捨てられる未来しか見えない。
B.O.W.の知識を証拠のように並べれば、逆にスパイとして処理される可能性が高いとわかっていた。
研究の進捗がこの時点でどの段階にあるのかも読み切れず、存在しないはずの情報を出した瞬間に状況が崩壊すると理解していた。
だから今は黙って機会を待つと決めた。
言葉ではなく行動で示すと決め、命令からはみ出さずに必要な場所を確保し、隊員を正しい方向へ流し、退路を確保すると誓った。
データがあれば先に見つけて回収し、彼が欲しがるものを先回りで差し出す。
それが最短の道となるだろう。
*
次の部屋に入って四方を確認する。
机も棚も古びていたが、配置は整っていた。
静けさの底から床下の機械音が伝わってくる。送風かポンプの稼働だろうか。
薬品の匂いが一瞬だけ空気の温度を下げ、皮膚に冷気の膜が張り付いた。
地下があると確信し、しかも今も稼働していると考えて良さそうだ。
キャプテンはそこを目指していると確信し、追う必要があると決めた。
*
梯子を降り、薄暗い廊下で足裏に床の質感を馴染ませた瞬間、耳の奥で低い引っかき音が生まれた。
反射で体を回し、銃を肩口に乗せる。
光を走らせた先で、扉の隙間から影が伸びた。
二足で進む人型だが、重心が人間から外れている。
膝の屈伸が深く、床を掠める爪が規則的に音を刻んだ。
爬虫類めいた皮膚が光を鈍く返し、姿が完全に出た。
これは……ハンターだ。
肺を大きく膨らませ、吐く息で脈を落とした。
喉が乾かないよう舌を押さえ、足位置を半歩ずらして近くの机を挟む角度を取る。
視線は顔ではなく肩と腰に置き、跳躍前の筋束の崩れを待つ。
初動は肩に出ると叩き込まれてきたことを、体が先に思い出した。
鼻に馴染みのある匂いが一瞬だけ戻ってきた。
コンクリートの湿り、鉄の味、血と汗の混ざった空気。
背後で金属扉が閉じる乾いた音。
格子の向こうに黒いコートの男が腕を組んで立ち、抑揚のない声で価値を測ると告げた記憶が浮上した。
「生き残れ」と一言だけ残され、無機質な空間へ放り出された日が体温ごと戻ってくる。
頬を爪が掠め、熱が走り、唯一のナイフが石のように重く感じられた。
生きるために足を前へ出し、肩の動き、膝の落ち方、爪の角度だけを見て回避と反撃を組み立てる。
刃の角度を間違えれば終わる状況で、血にまみれながらどうにか仕留めた。
「悪くはない」と短い評価が落ち、続けて「戦い方を教える」と告げられた。
その日を境に、その地獄は反復する訓練へ変わった。
観察し、潜り込み、頸部へ滑らせる手順が骨に刻まれ、彼の視線から哀れみが消えて時折満足が混じる瞬間が報酬になっていたのだ。
*
目の前の個体が肩を一段落としたのを捕らえ、思考が目下の現実を捉える。
来ると判断し、私は一歩前へ出た。
避けるのではなく、跳躍の軌道をこちらに縛るために正面を半歩詰めた。
「さあおいで、カエルちゃん」
低く挑発してナイフを構える。
空気の密度が変わり、音より早く肩の筋束が落ちる。
膝が伸び切る直前に前へ踏み込み、線の内側へ潜った。
右へ半身を切って伸び切った前脚の外側に刃を入れ、支えを奪った瞬間に顎を左手で上げ、頸部へ斜めに刃を滑らせていく。
手応えは短く、返り血を避ける角度が成功した。
床が鈍く鳴り、痙攣が小刻みに収束する。
刃を抜いて布で拭い、鞘へ戻した。
かつては殺されかけた相手を、今は工程どおり処理できる。それはこの身体であっても同様だ。胸の奥で冷たい納得が広がった。
ここまで来られたのは、あの人に叩き込まれた術が骨に残っているからだと理解した。
*
再び歩き出そうとしたとき、背中に細い視線の線がかかった。
振り返らずに廊下の情報を拾い、二つ目の角の先に注意を集中させる。
銃を抜いて低く構え、角の手前で軸足の向きを変えた。
直後に乾いた銃声が一発鳴り、角を切るとキャプテンがゾンビの頭を正確に撃ち抜いていた。
「キャプテン」
私は銃口を下ろした。
視界は安定し、彼の立ち位置に無駄がないと再確認した。
「大丈夫か」と抑揚の少ない声が落ちる。
「怪我はありません。キャプテンこそご無事ですか」
「問題ない」と短く返ってきた。
彼は私が来た方向へ歩き、床に残った血の跡へ視線を落とした。
切創に手袋越しの指をそっと添え、液体の伸びを確かめてから離した。
視線が私へ戻り、無言の問いが投げられた。
それは何者だと探るような目だった。
「鋭い爪を持ち、ゾンビより速く動きました。狙いも正確で、わずかに手順を学習しているように見えました。危険で厄介です」
報告の形式で伝え、彼が当然のように知っているだろう事実をあえて並べる。
「危険か。……これは君が仕留めたのか」
「はい。飛びかかられたので、近接で頸を落としました」
「咄嗟に、か」と彼は短く反芻した。
サングラス越しでも、視線の硬さがわかった。
余計な詮索が起きる前に、私は話題を切り替える。
「ホールで別れた後にゾンビと遭遇しました。ケネスは、おそらくそれに襲われています。先に聞こえた銃声も彼のものだと推測します。
ホールへ戻りましたが誰もおらず、クリスと相談して手分けして探索する方が効率的だと判断しました」
必要な情報だけを共有し、野外の犬、屋敷内のゾンビ、今処理した個体の危険性を淡々と積み上げた。
彼は顎をわずかに引き、「なるほど」とだけ言った。
「今後はどうしますか。捜索を継続しますか。それとも退却を優先しますか」
「捜索を優先する」
「了解。以後、いかなる指示にも従います。必要なものがあれば命じてください」
その間も懐疑と興味が混じる視線が向けられている。
一利用価値の計算が行われているのだろう。
少しの沈黙の後、彼は探るように問いかけてきた。
「君はいつも落ち着いているな。いや、落ち着きすぎている。先ほどの野犬も、今も」
「ありがとうございます。私を鍛えた師匠は、危険な状況で感情は不要だと言いました。私はその教えを守っています」
「訓練、か」と口元がわずかに動いた。
笑みではなく、確認に近い反応だった。
短い沈黙が通路に降り、遠くの窓が風で鳴った。
「クリスはまだ近くにいるはずです」と伝えると、彼は廊下の奥を測るように見やり、
「この屋敷には何かがある。地下施設かもしれん。私はそこに向かう。君は途中で隊員を見かけたら同行させろ」と告げた。
言い切りではないが、確信を含んだ声音だった。
「了解。他の隊員を探しながら、情報や資料を確保します」
「無線は切らすな」
「はい」
互いに背を向け、足音が二つの方向へ離れていく。
彼はまだ私を疑っていると感じたが、同時に使える駒として棚に上げたとも感じた。
そして利用価値を量る眼の奥に、かすかな期待の色が生まれたのを捉えた気がした。
目的は同じ場所へ向いているだろう。
私は仲間の数は重要ではなかった。
私は彼の歩く先に追いつくことだけを考え、廊下の闇へ再び身を滑らせた。