それはこの身を焦がすほどの、

 一階のエレベーターホールに降りる。曇り空の所為で、外はもうずいぶんと暗い。ビルの出入口付近には、懐中時計で時間を確認する広津さんと、それから。降誕祭に相応しく、青い衣装に身を包んだ中原さんがいた。
 小さく息を呑む。遠目にも、中原さんはひときわ輝いて見えた。深い青色のロングコートは、いつもの黒外套よりも細身のシルエットを作っていて、新鮮だ。相変わらず、脚が長くて惚れ惚れする。トレードマークの黒い帽子が定位置に収まっていることに安心したいのに、いつ見てもよく似合っているから、心拍数が上がってしまう。広津さんと何やら談笑している、その、横顔。
 知らず、尾崎幹部の背中に隠れるように一歩移動してしまう。窺うようにもう一度覗き込んで、ほう、と息を吐くと、細めた目で見下ろされた。
「お主が見惚れて如何する。というか、まだ十メートルはあるのじゃが」
 呆れたような流し目に小さく謝罪するのと、中原さんがこちらに気づくのとが、ほぼ同時だった。尾崎幹部と目が合ったのだろう、彼のきりりとした眦がやわらかく緩められる。広津さんも私たちの姿を確認して、どこかに電話をかけ始めた。きっと、表に車を回すよう手配してくれているのだ。
 こつこつと革靴を鳴らしながら、中原さんがやってくる。帽子を脱いで胸元に当てるさまは、御伽噺の王子様みたいだ。
「待たせたかえ?」
「いえ、全く。素敵なドレスですね。よくお似合いです」
「ふふ。悪い気はせんがのう、私より先に褒めてやるべき相手が居るじゃろう。……ほれ、いつまで隠れておる気じゃ?」
 促されて、おずおずと前に出る。中原さんと上手く目を合わせられない。尾崎幹部の見立てだ、彼から見ても似合っていないということはないだろうけれど、普段の飾り気のない私を知っているひとに見られるというのは、なんとも居心地が悪い。どう見目を取り繕おうと、彼にとっては、ただの私にすぎないのだ。
 背中に触れた尾崎幹部の手に、くっと背筋を伸ばす。縮こまっていたら護衛なんて務まらないと、己の弱気を叱咤する。どうにか中原さんの顔を見ると、彼は目を丸くして私を見つめていた。真っ直ぐ視線が合ってしまって、つい顔を逸らしそうになる。けれど、何故だかそれは許されていない気がした。
 数秒経っても、中原さんは何も云わない。怖くなって、そっと口を開く。
「あ……あの……お気に召しませんでしたか……?」
 私なんかが、こんなに綺麗な服を着ていて。中原さんは数度瞬きをしてから、
「ああ」
と短く返した。やっぱり、なんて落胆するより早く、続く言葉が紡がれる。
「お前をこれだけ綺麗に見立ててやったのが俺じゃねえってのは、心の底から気に入らねえな」
 時間が止まる。脳みそが回転するのをやめて、今聞いた言葉を耳の奥で繰り返し響かせた。たった一度か二度瞬きしただけの時間を、永遠だと錯覚する。顔がじわじわと熱くなっていくのがわかる。
 思わず後退るより早く、中原さんの手が伸ばされた。耳の近く、尾崎幹部が付けてくれた髪飾りに、黒い手袋に包まれた指先が触れる。
「……姐さんの差し金ですか」
「似合うておるじゃろ?」
 寄せられた眉の意味がわからずにいるうちに、中原さんのコートの胸元で輝く白銀に、視線が吸い寄せられた。ホワイトゴールドの、雪で染まったような、柊。私の髪飾りと同じ意匠のラペルピンが、深い青色に飾られている。それに気づいた瞬間、呼吸が上手くできずに、喉がひゅっと鳴った。
 中原さんは私に何か云おうと口を開いて、閉じて、それから諦めたように尾崎幹部に向き直った。
「今日の此奴は、姐さんの護衛ですよ」
「何を云う。このほうが、お主にも都合が良かろ?」
「……ですが」
「此奴を護衛役に選んだのはお主じゃろう。今更照れるでないわ」
 ぐ、と中原さんが言葉を詰まらせる。さっぱり話が見えないまま、彼が折れたことだけは理解した。その顔を見つめる目に不安が表れていたのだろう、彼は黙って私と数秒目を合わせてから、
「心配すんな。……似合ってる」
と云ってくれた。どっと鳴る心臓を抑えられない。ありがとうございます、と返した声はひどく小さくなってしまったけれど、彼はちゃんと聞き取ってくれたようだった。

 車を降りる。会場となる建物の前には何台もの車が止まっていて、美しく着飾った人々が幾人も降りてくる。その中でも、真っ白なファーの付いたコートを羽織った尾崎幹部と、恭しく彼女の手をとる中原さんとは、遠い異国の王族のようで、その場の誰もが見惚れて立ち止まった。ふたりの背景になると、きらきらと装飾されライトアップされた建物も、魔法のお城みたいに見えてくる。青を基調とした降誕祭の飾りが、彼らの衣装とよく合っている。夢みたいな光景に目を奪われながら、心の奥が急速に、この宵の空気と同じ温度になっていくのがわかった。
 中原さんは、ああして今日の私を褒めてくれた。真っ直ぐ向けられた視線が嘘だなんて思わないし、あの言葉は色褪せず光っている。けれど、浮かれてはいけないのだ。もちろんそれは、護衛の任務に集中しなくてはいけないということもあるが、それよりも、変な気を起こすんじゃないぞ、という自戒のほうが強い。地べたを這いつくばって生きてきた私には、高く輝く星を見上げることまでしか許されてはいないのだ。
 ぎゅっと手を固く握りしめて、短く息を吐く。大丈夫だ、弁えている。そもそも私に、彼に良く思われたいだとか、ましてや私のほうを見てほしいだとかいう感情は、存在しない。部下として、護衛役として、彼の役に立てるなら、それで十分だ。そう云い聞かせて歩き出そうとすると、中原さんが、お、と声を零した。白い息が浮かぶ。
「雪か」
 つられて見上げると、彼の言葉通り、暗い雲を背景として、白いものがふわふわと降りてきていた。
「道理で寒いわけだ。姐さん、中に入りましょう」
「そうじゃのう」
 尾崎幹部をエスコートする中原さんにちらりと一瞥されて、彼女の斜め後ろに控える。広津さんは少し離れたところから、全体を眺めつつ行くようだ。
 青いアーチをくぐって会場に入るなり、人々のざわめきが少しだけ小さくなる。ポートマフィア幹部がふたりと黒蜥蜴の百人長が揃っているのだ、無理もない。畏れや崇敬の込められた視線に、けれど三人は動じない。気にも留めていないように歩く彼らに、会場もやがて元通りの賑やかさを取り戻した。
 周囲を警戒しつつ見回すと、青と白を基調に赤や金で降誕祭らしさを演出した装飾が、きらきらと目に飛び込んできた。天井には、ひときわ豪華なシャンデリアを中心として、小さいながらも緻密で煌びやかないくつものシャンデリアが吊るされている。それが、異国の宮殿よろしく壁に嵌め込まれた豪奢で大きな鏡に映り込んでいて、巨大な万華鏡を覗いたみたいな光景だ。壁一面の大きな窓からは、外の巨大なツリーが見えた。趣向を凝らした装飾に、中原さんも感嘆の声を上げる。
「へえ……こりゃすげえな」
「お褒めに預かり、光栄です」
 そう云いながら、ふたりの護衛らしき人間を引き連れて、壮年の男が近づいてきた。背はそう高くはなく、鍛え上げた筋肉を無理矢理スーツに押し込んでいる。口元のやわらかな笑みとは対照的に、狡猾そうな目。この顔は、事前に渡された参加者リストで見たことがある。一番上に記されていたこの男は、今夜の招宴を主催した企業の会長だ。ごく普通の貿易会社に、こんな軍人上がりのような会長は相応しくない。……有り体に云うと、彼の会社はポートマフィアのフロント企業だ。私が住まわせてもらっている社宅の、書類上の所有者でもある。首領からの信頼もあるその男に、尾崎幹部は鷹揚に微笑んだ。
「久しいのう、会長殿。しばらく前に腰をいわせたと聞いたが、元気そうじゃな」
「いやはや、お恥ずかしい。私ももう年でして。そろそろ引退したいのですが、後継者が見つかりませんでなあ」
「ふ。何処の組織の長も、似たようなことで苦労しておるのう」
「ははは、何を仰る。お宅には中原殿がいらっしゃるではないですか」
 和やかな談笑に多くの人々が耳をそばだてているのが、気配でわかる。無理もない。彼らの一挙手一投足が死に直結する人間が大勢いるのだ。あるいは、この会話から拾える僅かな情報に縋って取り入るつもりだろうか。誰もが神経を尖らせてはいるものの、怪しい動きは見えない。
 いったいどれほど彼らが語らっていたのかは、もはやわからない。実際にはほんの数分だったのであろうが、気を張っているともっと長く感じられた。今夜はゆっくりと楽しんでいってください、という言葉とともに、男が去っていく。周囲の人々も、平静を装いながらそそくさと散っていった。少しだけ深く呼吸ができるようになる。尾崎幹部のお傍に控えていただけで、じわりと背中に冷や汗が滲んでいた。この状態が、あと何時間続くのだろう。そっと様子を窺っても、中原さんも広津さんも平気そうな顔をしている。私と違って、いくらか会話に参加していたというのに。
 でも、私だって、疲れてばかりいられない。護衛役にと指名してくれた中原さんの期待に応えないと。背筋を伸ばして、先を行く尾崎幹部の背中を追いかけようとしたところで、
「お嬢さん」
と、声をかけられた。突然のことに警戒しつつ振り返ると、またもよく見知った──紙の上で、だが──男が立っていた。ポートマフィアと取引のある人材派遣会社の幹部だ。年の頃は三十手前、背が高く細身。妻帯者だが、指輪はしていない。尾崎幹部にお近づきになろうとしている不届き者、という事前情報を思い出し、警戒のレベルを引き上げた。
「君、見ない顔だね。尾崎殿の新しい部下かな?」
「いえ。ただの護衛です」
「へえ、護衛。護衛か……」
 真意の読めない微笑に一歩引きそうになる脚を、どうにか留める。私が適切に対処しなければ、この男は尾崎幹部のもとへ向かうだろう。お仕事とはいえ、今夜は降誕祭の招宴だ。こんな面倒ごとなどに心を砕かずにいてほしい。
 どう追い払えば波風が立たないかと考えていると、男が指の細い手を私に差し出してきた。私を見下ろす、やわらかな笑み。
「護衛なんてつまらない仕事は放り出してさ、僕と一緒に抜け出さないかい?」
 ……は?
 意味がわからずに、男の顔を見つめ返してしまう。真剣な目ではない。当然だ、遊びの誘いなのだから。ただ、そうなると、揶揄われているだけなのか、本気で誘われているのか、判別がつかなかった。どちらにせよ、こういうときのあしらい方は、心得がない。重たい前髪の向こうから、嫌な視線が突き刺さる。腰に隠した拳銃が、重さを増す。
 肩に、手が触れた。目の前の男のものではない、見慣れた黒手袋。しっかりと骨張ったその手で力強く引き寄せられると、覚えのある香りがふわりと鼻腔をくすぐった。男性ものの香水と、それから、珈琲の香り。
「俺の部下に、何か御用ですか?」
 ぱっと華のある声だ。男のひとらしい低さがあるけれど、招宴の喧騒の中にあっても、決してかき消されることはない。真っ直ぐ耳に届いて、私のこころを揺さぶる声。
 穏やかに投げられた言葉に、目の前の男はひくりと頬を引き攣らせた。
「中原殿……いえ、こちらのお嬢さんとは、少し話をしていただけでして、」
 そこまで云って、ぴたりと口を噤む。私と中原さんとを見比べて、さあっと目に見えて顔が青くなった。
「し、失礼、用事を思い出した。話は、またの機会に」
「ねえよ」
 遠雷と紛うような声だった。先程とは打って変わって、床を這うような低い声で、中原さんが唸る。男だけでなく、すぐそばで聞いてしまった私も、無意識に背筋を震わせた。
「次の機会なんざねえ。二度と此奴に近づくな」
 ひゅ、と男の喉が鳴ったのが聞こえた。腰が引けて、一歩、二歩下がり、そのまま、脱兎のごとく逃げていった。
 無様にも駆けていく背中を見送る。私の拍動は、まだ速いままだ。男が廊下に出ていったのを見届けて、中原さんからそっと離れようとすると、ぎゅっと肩を掴む手に力が込められた。おそるおそる見上げれば、彼の秀眉の間に、深く皺が刻まれていた。
「云い訳はあるか?」
 鋭い視線で射抜かれて、言葉に詰まる。
「リストに、尾崎幹部への下心があると書いてあったので……その、上手くあしらえたら、と……」
「で、手前が口説かれたと?」
 視線が落ちる。勝手に動いて、失敗して、中原さんに助けられる、なんて。本当は、私が彼を助けて、守れるようにならなくてはいけないのに。彼の胸元のチャームが光を反射して、目の奥が痛い。
「……申し訳ありません」
 絞り出すようにそう云うと、ため息が降ってきた。失望、されただろうか。この程度のアクシデントにも対処できないようでは、護衛なんて務まらない。けれど。
「そこまで責めちゃいねえよ。彼奴を姐さんから遠ざけようとしたんだろ? 渡したリストも、ちゃんと覚えてたみてえだしな」
 弾かれたように顔を上げる。向けられた視線はやわらかい。
「ですが、中原さんのお手を煩わせてしまって」
「気にすんな、適材適所ってやつだ。男を追い払うなら、男が出張ったほうがはやい」
 云いながら、中原さんが私の髪飾りに触れた。彼のチャームと同じ、ホワイトゴールドの柊。
「姐さんに感謝しねえとな」
「え……?」
「俺と揃いのコイツのおかげで、手間が省けた」
 投げかけられた言葉を、時間をかけて咀嚼する。あの男が突然顔色を変えた理由を今更理解した。じんわりと顔が熱くなって、頭が沸騰しそうになった。
 涙の滲みそうな目で中原さんを真っ直ぐ見つめ返すと、ふ、とやさしく目を細められる。
「もうはぐれんなよ」
 くるりと踵を返した彼の背中を追いかける。あんなにきらきらと輝いていた会場の装飾の明かりさえ、もう目に入らなかった。

 尾崎幹部らと合流して、会場をゆっくりと見て回る。途中、彼女の勧めで少しだけお酒を飲んだら、普段の安居酒屋とは比べものにならないほど美味しくてびっくりした。中原さんも飲んでいたけれど、こういう場だからか、あるいは一杯だけだったからか、酔ってはいないようだ。小さく胸を撫で下ろしていると、広津さんが、
「中也君も、そのくらいは弁えているとも」
と小声で云った。……中原さんは覚えていないようなのだが、私は一度、彼がひどく酔っているところに遭遇したことがある。その場には広津さんもいて、プライベートでお酒を飲んでいたらしかった。
 ひと通り会場を見て回って、尾崎幹部に大きな窓の近くのラウンジチェアで休んでいただくことになった。中原さんが、飲みもののお替わりを取りに行くと云う。
「それなら、私が行きます」
 そんな使い走りみたいなこと、中原さんにさせられない。けれど、彼はちょっと私を見つめてから、
「なら、お前もついてこい」
と云った。広津さんと尾崎幹部に一礼して、さっさと歩き始めた中原さんについていく。外套の裾が翻って、ああ、やっぱり王子様みたいだな、なんて。
 会場の壁際、真っ白いクロスのかかった大きなテーブルには、ビュッフェスタイルの食事が並んでいる。色鮮やかなサラダやお魚のカルパッチョ、綺麗な薔薇色のローストビーフに、宝石みたいなケーキ……他にもたくさん。一番端の小さめのテーブルには何種類もの葡萄酒が並べられていて、すぐ近くにソムリエさんが控えていた。中原さんは、尾崎幹部のためにどの葡萄酒を選ぶのだろう。そんなことを考えていたのに、彼は並んだ杯には目もくれず、テーブルの横を素通りしていく。
「え……あ、あの、中原さん」
 思わず声をかけると、ちらりと私を振り返ってくれた。
「葡萄酒の前に、ちょっと仕事だ」
 小声でそう云って、黙ってついてくるよう目で促される。その視線の先には、何やら談笑しているふたりの男がいた。
 降誕祭という名目とはいえ、ポートマフィア幹部が参加する招宴が、真に穏当なものであるはずがない。主催者が企業舎弟である以上、敵対組織が入り込む隙などないが、それでも、他組織の有力者らと挨拶を交わして威光を示すことは、幹部の重要な仕事なのだ。無意識のうちに、唾を呑み込む。
 中原さんは真っ直ぐに、男たちの元へと歩を進めた。靴音に気づいて、男たちがこちらを向く。懐っこい笑顔を浮かべた小太りの男と、神経質そうな眼鏡の男。ヨコハマに本社を置く医療機器メーカーの社長と、その秘書だ。おお、と社長が朗らかな声を出す。
「中原殿! どうも、ご無沙汰しております」
「お元気そうで何よりです、社長」
 にこり、と中原さんも笑顔を返す。秘書のほうは、私と同様、己の主人の後ろに控えた。彼らの会社は、ポートマフィアで使われている医療機器の三割ほどを供給しているところだ。そのわりには表社会での評判も良く、社長の立ち回りの上手さが窺える。
 中原さんと社長は、先月成立した商談の件にも触れながら、穏やかに談笑している。関係性は良好そうで、会話はつつがなく終わりそうだった。少しだけ安心した、そのとき。
「ああ、そういえば」
 何かを思いついたかのように、中原さんが秘書のほうを向く。
「娘さんはお元気ですか?」
 切れ長の目が、怪訝そうに細められる。この男には、たしか、一人娘がいる。十代後半の、大人しそうな見た目の子だ。
「娘なら……ええ、元気ですよ。今日も友人と遊びに行っています」
 ちらりと私を一瞥して、顔に浮かべた疑問の色を濃くする。私だって中原さんの真意はわからないのに、こちらを見られても困るのだが。
 中原さんは相変わらず、よその組織の人間にしか見せないような、温度のない笑顔を浮かべている。
「おや、そうですか」
「……娘に、何か?」
「いえね、薬を随分買い込んでいらっしゃるという話を聞きまして。何かあったのかと」
 その瞬間、秘書の顔つきがさっと変わった。ただでさえ生真面目そうな表情が、ますます固くなる。中原さんに向けた目には、怯えの色が見えた。
「薬? 何の話かね」
 社長が呑気に問うが、答えはない。ふたりを見比べて、なるほど、と私は小さく納得した。
 この男が買い込んでいたという薬とは、たぶん、正規の医薬品ではないのだ。違法薬物。儲けは大きいが、リスクも大きい。われらが首領が嫌う商売のひとつだ。それくらいのことはこの男も承知の上であろうが、きっと金に目が眩んだのだろう。そういう手合いは、結構多い。社長と共謀したのか、それとも単独犯なのかをたしかめるために、中原さんはこの場で鎌をかけたのだ。
 狼狽を必死に隠す男に、中原さんが優しい声をかける。
「お元気なら何よりです。お互い、家族は大事にしたいですからね」
 呼び止めてしまってすみません。中原さんがそう云うと、社長はにこにこと笑って会釈した。秘書はぐっと拳を握りしめて、社長についていく。うなじにうっすらと冷や汗がにじんでいるのが、ちらりと見えた。
 男たちが去ると、中原さんは小さくため息を吐いた。軽く首を回してから、私に笑いかける。
「悪いな、付き合わせて」
「いえ。……あの秘書の方、どうなるのでしょう?」
「彼奴次第だな。これで大人しく手ェ引けばいいが、もし駄目なら」
 細められた目には、光がない。底なしの地獄みたいな色は、けれどたった一度の瞬きのうちに見えなくなった。うつくしいだけに見える星は、その実、冷たい宇宙であかあかと燃えている。
 に、と中原さんの口の端が上がった。さっきの男たちに向けていたのとは違う、あたたかな笑顔。
「よし、面倒ごとも片付いたし……葡萄酒選んで戻るか」
 その言葉に、ある可能性を思いつく。
「あの……中原さん」
「ん?」
「もしかして、葡萄酒よりも、彼らが目的でしたか?」
 控えめに問えば、中原さんは一瞬だけ目を丸くしてから、へえ、と零した。どこか満足そうな声。
「やっぱりよく見てるよな、お前」
 頭の上に控えめに手のひらが置かれる。髪型が崩れない程度に軽く、ぽふぽふと撫でられて、照れたらいいのか喜んだらいいのかわからなかった。
「姐さんも広津も、薬で駄目になった部下がいたからな。俺が代わりに、首領から仰せつかってきた」
 声に少しだけ、寂しげな色が混じる。裏社会において、薬に手を出した人間と出会わないほうが難しい。中原さんにだって、そういう部下がいたのだろう。大事な人間を壊されて、傷つかなかったはずがない。それなのに、彼は。
「中原さんって、やっぱり優しいですよね」
 ため息のようにそう云うと、
「ただの仕事だ」
と彼は笑った。
 ビュッフェのテーブルに戻って、葡萄酒を選ぶ中原さんの背中を眺める。ソムリエさんとの会話から、彼は相当に葡萄酒に詳しいのだと知った。応酬される単語が地名なのか品種なのか、私にはさっぱり判別できない。しばらくして、中原さんは一杯の葡萄酒を手に取る。どうやら、最初に目をつけていたそれに決めたらしかった。
 尾崎幹部の元へ戻って、外の景色を眺めていた彼女に杯を渡す。中原さんが告げた耳慣れない名前に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。くるりと杯を回して口に含む。お礼を云ったその声は、春の陽みたいにあたたかかった。

 冬の夜は長く、招宴はまだ終わらない。私は今、尾崎幹部の勧めで、会場の外の装飾を見に出ていた。護衛がお傍を離れるなんて、と一度は辞退したのだが、尾崎幹部は鷹揚に笑んで、
「優秀な護衛はきちんと労ってやらねばなるまいて」
と云って、私を送り出してしまった。彼女曰く、女好きのあの不届き者は、今夜はもう逃げ帰ったらしい。一通りの挨拶も終わったから、あとはゆっくり招宴を楽しんでいけば良いとのことだった。……後で知ったことだが、尾崎幹部も強力な戦闘系異能者であり、彼女の護衛は中原さんのそれと同じく、他組織への牽制という意味合いが強いのだそうだ。
 そんなわけでしばしの休憩をもらったわけだが、落ち着いてなんていられなかった。何故なら隣には、私と一緒に送り出された、中原さんがいるからだ。ちらちらと降る雪の向こうの横顔を、直視できない。
 暴れだしそうな心臓を押さえつつ、しんと冷える空を見上げる。厚い雲の所為で星は見えないけれど、その代わり、星の標本で飾りつけたような煌びやかなツリーが立っていた。
 会場の装飾と同じく、青を基調としたツリー。真ん丸いオーナメントが、ストリングライトの光をぴかぴか反射している。息を呑むほど立派だけれど、定番よりもデザインを重視したのか、そのてっぺんには星がなかった。救世主の誕生を祝福する光。ベツレヘムの星と呼ばれるそれのことが、私は幼い頃から無性に好きだった。まだ両親が健在だった頃、商店街のツリーを指さして、あのお星さまが欲しいと駄々を捏ねた記憶が、かすかに残っている。いつしか自分の心臓を抱えるのに手一杯になって、星に伸ばす腕なんてなくなってしまったけれど。
 眩しさと寒さに目が潤んで、視線を落とす。指先がかじかむ。ちらりと見ても、隣の中原さんは平然としていた。冷たい雪も、目の奥を刺すような煌めきも、彼はほんの少し目を細めただけで、静かな顔をして眺めている。
 尾崎幹部は足止めに感謝してくれたけれど、彼女に近づこうとしたあの男を実際に追い払ってくれたのは、中原さんだった。お揃いの意匠の髪飾りは私を守ってくれて、でも、私は彼の役に立てていない。冷たい空気が肺に溜まっていく。ため息が白い。
「中原さん」
 呼びかけると、ツリーを見上げていた視線が私に移る。きらきらした光が、まだ彼の目に残っていた。
「今日は、すみませんでした。全然、護衛として役に立てていなくて」
 こんな私じゃ、もう護衛になんて指名してもらえないだろうな。そう落胆すれば俯きそうになるけれど、ぐっと堪えて彼を見る。自分の非力さから、目を逸らしちゃいけない。それなのに。
 じっと私の顔を見つめてから、中原さんは小さく笑う。
「役に立ってるぜ。お前も知らねえうちにな」
「……え……?」
 咄嗟に思い返してみても、私が何かした覚えはない。疑問が顔に出ていたのだろう、中原さんは雪も融かせそうな優しい声で云う。
「姐さんの葡萄酒取りに行ったとき、女に一度も話しかけられなかった。あんなのは初めてだ。お前が隣にいたからだろ」
 首を傾げて少し考えてから、顔が火のついたように熱くなる。
「そ、そんな……すみません……」
「何で謝んだよ。助かったって云ってんだぜ。いつも面倒くせえからな」
 そう笑って、中原さんは私の髪飾りに触れた。肩が跳ねそうになるのは、ただびっくりしたからで、別に何の意味もない。心の中で必死に云い訳をしても、瞬きの回数は減ってくれない。
 少し黙って何かを考えてから、中原さんがぽつりと呟く。
「お前を護衛に選んだ理由、知りたいか」
「……聞いても、よろしいのですか?」
「ああ。本当は、ちゃんと最初から云うべきだったんだろうが……そんなことしたら、お前、逃げそうだからな」
 真っ直ぐ私を見据える彼の瞳は、いつだって、目を逸らすことを許さない。簡単に行先を見失ってしまう私には、それが心地好くもある。輝く星を、ずっと見上げていたかった。中原さんの役に立てるなら、私はきっと逃げ出さない。けれどその決意も、続く彼の言葉で揺らぎかけてしまう。
「俺は今度、よその企業が主催するダンスパーティーに出なきゃならねえ。そんとき、護衛としてだけじゃなく、相手役として、お前についてきてほしくてな」
 声が上手く出ない。降る雪から重力が消えて、空中に止まっているように錯覚する。中原さんの顔は真剣で、揶揄っているとか、巫山戯てるとか、そんなふうには一切見えなかった。
 ダンスパーティーの、相手役。それは、つまり。
「む……無理です……!」
 絞り出した声は、情けなく掠れてしまう。
「私なんかじゃ、そんな……中原さんの相手役なんて、務まりません」
 だって彼は、さっき自分で云った通り、女性から引く手数多なのだ。容姿、性格、どれをとっても、彼に憧れないひとなんていないだろう。男性としてだけじゃなく、ポートマフィア幹部という地位を目当てに近づいてくるひとだっているはずだ。そんな彼が選んだ女性のふりなんて、私にできるはずがない。
 私の言葉を聞いて、中原さんは眉を下げて仕方なさそうに笑った。
「そう云うと思ったぜ」
 彼が髪飾りのふちをなぞると、指先が少しだけ耳に当たる。ひ、と声が漏れそうになるのをどうにか堪えた。寒さとは違う何かで、背筋がぞわぞわする。
 雪がちらちら光りながら降っている。ひいやりと沁みる空気の中で、中原さんはあたたかな視線を向けてくれる。
「なァ、云ったろ。今日の招宴にいた奴らは、俺とお前をそういう仲だと思ったってよ」
 顔が真っ赤になったのが、自分でわかる。それと同時に、全部中原さんの思惑通りなのだと理解した。私じゃ相応しくない、という言葉を否定するために、彼は今日、私をここに連れてきたのだ。そしておそらく、尾崎幹部もそれを知っていたのだろう。髪飾りを付けてくれたときの言葉を思い出す。私が護衛として退けるべき相手は、暗殺者だけじゃ、ない。
 眦をやさしく緩ませる中原さんに、何と返せばいいのかわからない。あらゆる反論を封じられて、頷く以外の選択肢はいつの間にか消えていた。雪が降り積もる音がかすかに聞こえる。
「……わかり、ました」
 観念して、呟く。
「私で良ければ、お伴致します」
 いっそ雪みたいに融けてしまえば良かったのに、中原さんはいつも、私の声を聞き逃さないでくれる。髪飾りから離れた手が、私にそっと差し出された。
「お前以外に、誰と踊れって云うんだよ」
 黒手袋に包まれた手を取ろうとして、動きが止まる。こんなこと、本当に私に許されているのだろうか。どうしても消せない逡巡を打ち破るように、中原さんが私の手を捕まえた。力強く引かれて、一歩、彼に近付く。白い息がかかりそうな距離。
「俺はお前のもんだって、よその女にちゃんと見せつけてやってくれよ」
 なァ、ハニー?
 悪戯っぽくにやりと笑われて、鼓動が逸る。あくまでも、彼が円滑に動くための偽装だと、頭ではちゃんとわかっている。それなのに体温が上がってしまって、雪降る夜の冷たさなんて、もう、少しもわからなかった。あなたはいつもそうやって、私の心臓を支配する。
 初めて会ったあの夜から、あなたはずっと、私を導く一等星だ。
4/4ページ
スキ