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【2026.5.6 超異譚レナトス2026】桜色狂想曲Ⅲ【中原中也夢小説】

(前略)

 放課後、いつものように校門へ向かう。抱えた鞄には、ふわふわのシュナウザーのストラップと、羊の青い缶バッジが付いている。以前、シュナウザーくんを可愛いと云ってくれたクラスメイトたちに「ちゅうちゃんがくれたんだよ」と答えたら、いつものように「リア充め!」と小突かれた。かといって、羨ましがっているふうでもない。どうやら、私がちゅうちゃんを大好きなのが、見ていて面白いらしい。
 別に普通のことなんだけどな、と思いながら、大好きな彼の姿を探す。門を出て見回すと、真っ黒な鳥みたいな影が立っていた。黒い学帽の下に覗く、明るい茶髪。ちゅうちゃんだ。私を見つけるといつも嬉しそうに細められる昏い色の瞳は、今日はじっと伏せられたまま。私に気付きすらせずに、手許のノートを真剣に見つめている。どこか厳しい雰囲気の目許も、きゅっと結ばれた唇も、王子様が持つ白い剣みたいで素敵だ。
 そっと近づいて声をかけようとしてから、ふと思いつく。鞄からシュナウザーくんを外すと、改めて、
「ちゅうちゃん」
 と彼を呼んだ。急に電源が入ったみたいに、ちゅうちゃんの顔がぱっと上がる。そうして私のほうを振り向くと、きりっとした眉がやさしく下がった。その目線の先で、私は顔の前に掲げたシュナウザーくんをふりふりと動かす。
「『ちゅうちゃん、お勉強? ぼくもそのノート、見ていい?』」
「ああ」と、彼は笑ってシュナウザーくんの額を撫でた。「けどその前に、俺のお姫様の顔も見せてくれ。寂しいじゃねえか」
 恥ずかしげもなく云ってくれるのが嬉しくて、へにゃへにゃと頬が緩んでしまう。顔の前からシュナウザーくんを退かすと、ちゅうちゃんは楽しげに口角を上げた。私の頭をわしわしと撫でて、それから、頬の輪郭を手のひらで包んでくれる。大好きな温度に頬擦りして、ちゅうちゃんを見上げる。
「今日もお迎えありがとう。どこか寄っていく?」
「俺は特に用はねえよ。お前は?」
「私も大丈夫。今日はまっすぐ帰ろっか」
 頷いた彼が差し出してくれた手に、迷わず自分のそれを重ねる。あたたかい。そろそろ慣れてもいい頃合いなのに、今でも心臓がどきどきして、ふわふわと足取りが軽くなる。そのくすぐったさですら、たまらなくいとおしい。きゅっと恋人繋ぎに指を絡めてから、反対の手でシュナウザーくんを掲げた。
「『ちゅうちゃん、何の勉強してたの?』」
「ん? 嗚呼……ちょっとな」と云いながら、ノートのページを見せてくれる。横向きの罫線が入ったノートを回転させて、縦書きで使っているらしい。
「これって……古今集の仮名序?」
 書かれたものを数行読んでからそう呟くと、ちゅうちゃんも頷く。
「前に云ったろ、暗記のテストがあるって」
「百人一首とか平家物語とかじゃないんだね」
 少し意外に思ってそう云うと、ちゅうちゃんは不思議そうに、
「白瀬と同じ事云うなァ」
 と呟いた。え、と溢すと、
「ああ、悪い」
 と、後頭部を掻く。
「昼飯食いながらノート見てたら、白瀬も同じ事云ってたんだよ。『百人一首なら覚えてるのに』『せめて平家なら面白いのにな』ってよ。そしたら、阿呆鳥と外科医までそうだそうだって云いやがって。どれでも同じじゃねえかと思ってたんだが……」
 そう首を捻るちゅうちゃんに、なるほど、と心の中で呟く。
「日本の学校だとね、そのあたりの暗唱って、よくあるんだよ。私たちが通ってた小学校なんて、百人一首の大会もあったりして。白瀬くんが覚えてるって云ってたのは、その所為じゃないかな」
 私の言葉に、目を丸くするちゅうちゃん。やっぱり、なんて思う。
 ちゅうちゃんはついこの前まで、フランスの学校に通っていた。彼が何でもできるから忘れていたけど、向こうとこちらでは、習う内容だって、当然違う。平家物語も百人一首も暗唱しない国から、ちゅうちゃんは、たったひとりで帰ってきてくれたのだ。私との約束があったから。
「……ちゅうちゃんって、本当に王子様なんだねえ」
「は? 何だよ急に。日本に居たって、俺はお前の事、ずっと大事にしてたぜ?」
 怪訝な顔でそう云い募るちゅうちゃんに、笑って首を振る。
「私のこと、ちゃんと迎えに来てくれて嬉しいなあって。噛み締めてたの」
 なおも首を傾げるちゅうちゃん。彼と繋いだ手を少し大袈裟に振りながら、彼を見上げる。
「仮名序、どうやって覚えるのがいいんだろうね。せっかくだから、一緒に暗唱してみる?」
 それもちょっと楽しいかも、なんて思いながら云ってみたのに、彼は目を逸らして、
「いや……大丈夫だ。自分で何とかする」
 と答えた。
「でも、こうやって勉強してるってことは、結構大変なんでしょ?」
「だとしても、お前に迷惑は掛けらんねえよ」
 ちゅうちゃんはそうやって、平然とした横顔で、何でもないような声を出す。それを少し黙って見つめてから、えいっとシュナウザーくんを顔に押し付けた。
「う、わ……急に如何した?」
「ちゅうちゃんがひとりでかっこつけてる!」
「は? 別に恰好付けてる訳じゃ、」
「つけてるもん!」
 頬を膨らませると、ちゅうちゃんは、視線だけをふいと遠くに逸らした。
「そもそもお前だってテストあるんだろ。俺の事構ってる場合かよ」
「構い倒してほしいって云ってたくせに!」
 云いながら、彼の頬にシュナウザーくんをぐりぐりとめり込ませる。
「ちゅうちゃんのかっこつけ! 頑固者! ふわふわを食らえー!」
 何か云おうとする唇にも近づければ、毛が入らないように口を閉じた。そのまま、灰色のふわふわで猛攻を続ける。しばらくそうしていれば、彼はきゅっと目を瞑って黙ってから、シュナウザーくんごと、私を抱き締めた。耳許で、深いため息が聞こえる。
「頑固とか、お前にだけは云われたくねえよ」低い呟き。それから、かすかな笑い声が耳朶をくすぐる。「ったく……良いじゃねえか、少しくらい恰好付けたってよ。惚れた女の前だぜ?」
「私の前だから、変な意地張らないでほしいの」
 肩口に額を押し付けると、やわらかな髪がふさふさと鼻先に触れる。
「私ね、ちゅうちゃんにこの前教えてもらったところ、ちゃんとテストで答えられたんだよ。テストになると焦っちゃって、せっかく覚えたことも全部失くしちゃう私が、忘れなかったの。だからちゅうちゃんも、私と一緒に勉強したほうが、いい点取れるよ」
 少しだけ顔を上げて、彼の耳許に唇を寄せた。
「ちゅうちゃん、私とのことは、ひとつも忘れないんだもんね」
 ちょっと離れて顔を見上げると、ちゅうちゃんは目を真ん丸く見開いていた。何度か瞬きを繰り返してから、ふっと息を吐いて笑う。私の頬を指先でつついて、名前を呼んでくれる。低くて、やさしい声。
「しょうがねえ。今日は俺の負けだ。惚れた弱み、ってやつだな」
「ふふ」と笑って、シュナウザーくんをふりふりと踊らせる。「ちゅうちゃんと〜お勉強〜うれしい〜」
「また変な歌歌ってやがる……」
 呆れたように零しながらも、私に手を引かれるままについてきてくれる。風が肌寒い季節になってきて、繋いだ手の温度がいっそう心地好い。
 そうして横断歩道までやってくると、信号を待っている間に、シュナウザーくんを鞄に付け直した。迷子になってしまわないようにしっかりと金具を留めて、よしよしと頭を撫でる。ふと気付いて見上げると、目を細めたちゅうちゃんと視線がぶつかる。ずいぶん静かだと思ったら、私の一連の動作を眺めていたらしい。
「ちゅうちゃんも」と云って手を伸ばすと、軽くかがんで、頭を撫でさせてくれた。

(後略)
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