【2025.10.19 異譚レナトス30】桜色狂想曲Ⅱ【中原中也夢小説】

 がこん、と音を立てて、アルミ缶が落ちる。取り出すと、手のひらにひいやりと心地好い。ぬるくならないように指先でふちを掴んで、蝉時雨の公園を歩く。
 木の葉の隙間から漏れた眩しい陽光。かすかな風に合わせてゆらゆらと揺れる陽だまりに、目を細める。深い色の葉を誇る大きな桜の木の下、ベンチで頭を抱えた彼に、自販機で買ったサイダーを差し出した。彼はひどく疲れた顔をしながらも、
「ありがとな」
と笑って受け取ってくれる。缶のプルバックを倒す、軽やかな音。
 七月中旬、昼下がり。長かった梅雨も明け、久しぶりの太陽が燦々と照る公園で、私と彼——ちゅうちゃんは、テスト終わりの身体を休めていた。
 通っている高校は違えど、お互い、今日が期末テスト期間の最終日である。来る夏休みに向けて、私の心は踊るけれど。
「あー……帰りたくねえ……」
 サイダー片手にうなだれるちゅうちゃんは、そうもいかないらしかった。
 ことの発端は、二週間ほど前。ちゅうちゃんの家で、みんなで勉強会をしていた日に遡る。
 雨降る休日にやってきた、新しい隣人。〝中也の兄〟と名乗った彼は、ポール・ヴェルレエヌ。今年の九月から近くの大学に留学する、ちゅうちゃんの従兄いとこだという。
「フランスで、親戚の家に厄介になってた時期があってな。俺も彼奴アイツも一人っ子だって云うんで、大人がまとめて放っといたんだよ」
というのが、ちゅうちゃんの説明。対して、ヴェルレエヌさんは、
「あの頃の中也は可愛かった。俺の事を、兄と呼んで慕っていてな。最近は反抗期のようだが」
と語っていた。ちゅうちゃんは、兄と呼んだことなんてないとか、反抗期でもないだとか、色々反論していたけれど。結局、どちらが本当のことを云っているのかは、わからず終いである。様子を見に来た蘭堂さんを捕まえたちゅうちゃんが、私たちを追い出してしまったからだ。
「埋め合わせは、今度必ずする」
 そう云い残して閉じられた、玄関の扉。その向こうからは、すぐにちゅうちゃんの怒鳴り声が響いてきて。たくさんの袋を抱えて戻ってきたピアノマンさんたちと話し合って、その日は、阿呆鳥アルバトロスくんの家で勉強会の続きをすることになった。……ちゅうちゃんがいないと、場の収拾がつかなくて、勉強は少しも進まなかったのだけれど。
 壁を挟んだ向こうから、ちゅうちゃんの声が聞こえてきたのを思い出す。ずいぶんと揉めたようだけれど、結局はどうしようもなく、今のちゅうちゃんの部屋は、片方の隣には阿呆鳥アルバトロスくん、もう片側にはヴェルレエヌさんが住んでいる形となっている。この環境が、ちゅうちゃんには相当なストレスらしい。
 曰く、夕飯を作り終えて手を合わせたタイミングで、「ギョウザ・パーティーをしないか。もう準備はできている」と声をかけられる。曰く、とうに深夜零時を回ったというのに、隣からギターの練習音が聞こえてくる。曰く、休日には「自転車チャリでそこの県道を海まで走ろう」、「兄弟二人で、服でも見に行かないか」、「ピアノマンから変な菓子貰ったから、君にやるよ」、「あの彼女とは上手くやっているのか? 兄として心配だ」、他にもたくさんエトセトラ……。阿呆鳥アルバトロスくんについては、騒音と、遊びに来る頻度にさえ目を瞑れば、文句はないのだとか。問題は、ヴェルレエヌさんのほうである。
 どうやらちゅうちゃんは、彼に弟扱いされるのが、ずいぶんと気に入らないようだった。厳密には、無闇に心配されて世話を焼かれるのが嫌なのだと思う。私と同い年だというのに、彼は立派にひとり暮らしをしている。家はいつお邪魔しても綺麗に片付けられているし、自炊もしているうえ、最近は「夕飯のついで」と、お弁当まで用意しているらしい。それなのに、幼い頃の記憶のまま、手のかかる弟として扱われるのが、我慢ならないのだ。
 同じようにサイダーを飲みながら、隣に座るちゅうちゃんの横顔を眺める。私にとっての彼は、仲の良い幼馴染で、初恋の王子様で、世界一素敵な恋人だ。ゆうちゃんや白瀬くんにとっても、十年の月日を感じさせない〝羊〟の仲間で幼馴染。阿呆鳥アルバトロスくんやピアノマンさんたちにとっては、気の置けない友人であり、かけがえのない仲間なのだと思う。そしてきっと、ヴェルレエヌさんにとってのちゅうちゃんは、たったひとりのなのだろう。
 私もひとりっ子だから、多少なりとも経験はある。親戚の集まりで、自分より年下の子と初めて出会ったときの高揚感。そのうえ、いつも私を可愛がってくれるような大人に「一緒に遊んであげてね」なんて云われたら、何だか急にお姉さんになったような気さえした。そして、その親戚の子がたまらなく可愛く見えて、何だってしてあげたい気になったものだ。
 流石に、今その子と会ったとしても、お世話を焼くつもりはない。だから、ヴェルレエヌさんのことは、ちょっとやりすぎじゃないかとは思うけど。ちゅうちゃんの話だけを聞いて、「嫌なひとだな」と思うことは、できなかった。
 隣で唸り続けるちゅうちゃん。何とか彼に笑ってほしくて、アルミ缶に付いたしずくをつつきながら考える。そうして、ぱちぱちと弾ける炭酸で喉を潤してから、
「ねえ、ちゅうちゃん」と呼びかけた。「夏休み、楽しみだね」
 当たり障りはないけれど、学生なんて、みんな夏休みが大好きなはずだ。でも、彼は眉間にしわを寄せて、
「俺は楽しみじゃねえ」
と唇を尖らせた。そっか、と息を吐く前に、彼が続ける。
「折角お前と毎日会えてたのに、それも暫くなくなっちまうって事だろ」
 至極当然みたいに零された言葉に、ぽかんと口が開いてしまう。それを眺めたちゅうちゃんは、また不機嫌そうに唇を歪めた。
「お前は寂しくねえのかよ」
「え……あ、ううん」と慌てて首を振る。「会えなくなるのは、寂しいよ。でも、家も近いから、いつでも会いに行けると思ってたし」
 云って良いものかわからずに口を閉ざす。だけど、彼が怪訝そうにこちらを見つめるから、おそるおそる続けてみる。
「ヴェルレエヌさんに困ってるみたいだから、それで嫌なんだと思っちゃった」
「ああ……そういう事か」
 呟いて、彼はまたひと口、サイダーを煽る。そうして、握っていた缶で冷えた手のひらで、私の頬を撫でた。
彼奴アイツの愚痴ばっか云ってて悪かった」
「ううん。何でも話してくれるの、嬉しいよ。私にもできること、見つけられるかもしれないし」
 そう答えると、彼はちょっと笑って、私の頭をわしわしと撫でてくれた。ようやく見せてくれた笑顔が嬉しくて、私も彼の頬をむにむにと触る。こうやって一緒にいられる機会が減ってしまうのは、たしかに私も嫌だった。何か予定は立てられないかと、毎年恒例のイベントを思い起こす。夏祭りは八月だから、少し先。今月は、たしか。
「そうだ」と声を上げて、ちゅうちゃんに問う。「ねえ、来週末って空いてる?」
「あー……そうだな、特に何もなかったはずだぜ」
「それなら、

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