【2024.5.5 超異譚レナトス】星の王子さま【中原中也夢小説】
ぼろぼろと泣く私の名を、彼が呼ぶ。
「なくなよ!」
そう云って私の頬にタオルハンカチをぐいぐいと押し当ててくる彼だって、必死に涙を堪えている。彼はいつもそうだった。転んでも、喧嘩をしても、決して泣かない。むしろ、怪我をした彼を見た私のほうが大泣きして、そのたびに彼は、かわいい犬のアップリケがついたちいちゃなタオルハンカチで、私の涙を拭ってくれた。
ぐずぐず鼻を鳴らしながら、彼に抱きつく。幼いが故にまろさのそう変わらない肩。
「だって……だって、ちゅうちゃんがぁ……!」
ぎゅうっと抱きしめ返してくれる細い腕。
ちゅうちゃん。おうちがお隣で、朝から夕方まで、泣き虫で弱虫な私といつも一緒にいてくれた、元気いっぱいの男の子。〝おうちのじじょう〟でどこか遠くへ行ってしまう、私のだいすきなちゅうちゃん。
一緒にいたい。離れたくない。ちゅうちゃんがいないようちえんなら、もう行きたくなんかない。
「……わかった」
頑是なく泣き続ける私の目を真っ直ぐに見つめて、ちゅうちゃんが云った。潤んでも、決して下を向くことのない目。
「おれ、ちゃんとおまえのことむかえにくる。せかいでいちばんつよくてかっこいいおとこになって、おまえのことむかえにきてやるから。だから、なくな」
目の前に見せられた、小さな指。
「……やくそく?」
「ああ、やくそくだ」
「ほんとに? ほんとのほんとに、また、ちゅうちゃんとあえる?」
「ほんとのほんとだ。ぜったい、あいにくる。だからまってろ」
涙を堪えて、ぎゅっと寄った眉。震える唇を抑えて私の名前を呼ぶ、小鳥みたいな声。
「……うん」
目許をぐしぐしと擦りながら、片手を差し出す。ちゅうちゃんの小指と私の小指を絡めて、きゅっと握った。
「まってる。ちゅうちゃんは、わたしのおうじさまだもん」
私がそうやって笑うと、こくん、と頷いて、ちゅうちゃんは絡めた小指に力を込めた。
ゆびきりげんまん、のあの感触を、私は今も、鮮明に覚えている。
✴︎✴︎✴︎
「おーい、起きろー」
遠くから、声が聞こえる。聞き慣れた声。重たい瞼をうっすらと持ち上げると、ふわりと舞う白いカーテンと私を見下ろす友人の影とが、ぼんやりと霞んでいる。
小さく唸って、突っ伏していた机から身体を起こす。ずっと頭を乗せていたから、腕が少しだけ痺れていた。
「おはよー寝坊助。授業、もう終わったぞ」
「うーん……」
ぱしぱしと瞬きしながら、教室を見廻す。英語の例文が並んだ板書はもう半分くらい消されていて、みんなもおしゃべりしながら帰り支度を始めている。
「今日の夢も、例の王子君?」
「うん。今日もかっこよかった」
まだ少し眠気の残ったまま答えると、
「拗らせてんなー」
と呆れられる。いつも通りだ。
伸びをして、起こしてくれた友人に眉を下げて笑いかける。
「ごめん、ノート見せてもらってもいい?」
「また数学教えてくれるならいいよ」
「もちろん!」
よし、と小さくガッツポーズする彼女は中等部から同じクラスの友人で、互いに英語と数学のノートを交換することで、どうにか一緒に進級している仲だ。それを見て、またやってんのーと笑うクラスメイト。
高校一年生、四月。誰もが不安と期待でいっぱいなこの季節も、私は心穏やかに笑っている。
ここは、中高一貫の女子校だ。クラスの半分は外部からの編入生だけど、内部進学組である私は、隣の校舎にお引越ししてきた程度の感慨しかない。
入学して一週間。今は見知った友人に囲まれているけれど、少しずつ、新しい友人も増えていくだろう。知り合いがひとりもいないところに飛び込んでいくときの不安を、私はもうほとんど覚えていない。
真っ白なノートを鞄にしまっていると、スマートフォンが震えて、画面に通知が踊る。ママからのメッセージだ。内容を見ようと思ったのに、すぐにスタンプが送られてきて、通知が上書きされてしまった。もちもちしたねこのスタンプの背後、初めてスマホを持ったときからずっと変わらず背景に設定している写真の中で、幼いちゅうちゃんと私が並んで笑う。スマホは開かずに、そのまま視線を外す。きっと、夕飯の献立が決まったとか、そういう連絡だろうから。
特に放課後の予定もないから、のんびりと帰り支度を進める。ファミレス寄ってく?なんて言葉に生返事を返していると、ドタバタと廊下から足音が聞こえて、さっき教室を出ていったはずのクラスメイトが勢い良く扉を開けた。息を切らした彼女が、ひどく興奮した様子で私を呼ぶ。
「王子様!」
「え?」
「門のところに、王子様がいる!」
「なくなよ!」
そう云って私の頬にタオルハンカチをぐいぐいと押し当ててくる彼だって、必死に涙を堪えている。彼はいつもそうだった。転んでも、喧嘩をしても、決して泣かない。むしろ、怪我をした彼を見た私のほうが大泣きして、そのたびに彼は、かわいい犬のアップリケがついたちいちゃなタオルハンカチで、私の涙を拭ってくれた。
ぐずぐず鼻を鳴らしながら、彼に抱きつく。幼いが故にまろさのそう変わらない肩。
「だって……だって、ちゅうちゃんがぁ……!」
ぎゅうっと抱きしめ返してくれる細い腕。
ちゅうちゃん。おうちがお隣で、朝から夕方まで、泣き虫で弱虫な私といつも一緒にいてくれた、元気いっぱいの男の子。〝おうちのじじょう〟でどこか遠くへ行ってしまう、私のだいすきなちゅうちゃん。
一緒にいたい。離れたくない。ちゅうちゃんがいないようちえんなら、もう行きたくなんかない。
「……わかった」
頑是なく泣き続ける私の目を真っ直ぐに見つめて、ちゅうちゃんが云った。潤んでも、決して下を向くことのない目。
「おれ、ちゃんとおまえのことむかえにくる。せかいでいちばんつよくてかっこいいおとこになって、おまえのことむかえにきてやるから。だから、なくな」
目の前に見せられた、小さな指。
「……やくそく?」
「ああ、やくそくだ」
「ほんとに? ほんとのほんとに、また、ちゅうちゃんとあえる?」
「ほんとのほんとだ。ぜったい、あいにくる。だからまってろ」
涙を堪えて、ぎゅっと寄った眉。震える唇を抑えて私の名前を呼ぶ、小鳥みたいな声。
「……うん」
目許をぐしぐしと擦りながら、片手を差し出す。ちゅうちゃんの小指と私の小指を絡めて、きゅっと握った。
「まってる。ちゅうちゃんは、わたしのおうじさまだもん」
私がそうやって笑うと、こくん、と頷いて、ちゅうちゃんは絡めた小指に力を込めた。
ゆびきりげんまん、のあの感触を、私は今も、鮮明に覚えている。
✴︎✴︎✴︎
「おーい、起きろー」
遠くから、声が聞こえる。聞き慣れた声。重たい瞼をうっすらと持ち上げると、ふわりと舞う白いカーテンと私を見下ろす友人の影とが、ぼんやりと霞んでいる。
小さく唸って、突っ伏していた机から身体を起こす。ずっと頭を乗せていたから、腕が少しだけ痺れていた。
「おはよー寝坊助。授業、もう終わったぞ」
「うーん……」
ぱしぱしと瞬きしながら、教室を見廻す。英語の例文が並んだ板書はもう半分くらい消されていて、みんなもおしゃべりしながら帰り支度を始めている。
「今日の夢も、例の王子君?」
「うん。今日もかっこよかった」
まだ少し眠気の残ったまま答えると、
「拗らせてんなー」
と呆れられる。いつも通りだ。
伸びをして、起こしてくれた友人に眉を下げて笑いかける。
「ごめん、ノート見せてもらってもいい?」
「また数学教えてくれるならいいよ」
「もちろん!」
よし、と小さくガッツポーズする彼女は中等部から同じクラスの友人で、互いに英語と数学のノートを交換することで、どうにか一緒に進級している仲だ。それを見て、またやってんのーと笑うクラスメイト。
高校一年生、四月。誰もが不安と期待でいっぱいなこの季節も、私は心穏やかに笑っている。
ここは、中高一貫の女子校だ。クラスの半分は外部からの編入生だけど、内部進学組である私は、隣の校舎にお引越ししてきた程度の感慨しかない。
入学して一週間。今は見知った友人に囲まれているけれど、少しずつ、新しい友人も増えていくだろう。知り合いがひとりもいないところに飛び込んでいくときの不安を、私はもうほとんど覚えていない。
真っ白なノートを鞄にしまっていると、スマートフォンが震えて、画面に通知が踊る。ママからのメッセージだ。内容を見ようと思ったのに、すぐにスタンプが送られてきて、通知が上書きされてしまった。もちもちしたねこのスタンプの背後、初めてスマホを持ったときからずっと変わらず背景に設定している写真の中で、幼いちゅうちゃんと私が並んで笑う。スマホは開かずに、そのまま視線を外す。きっと、夕飯の献立が決まったとか、そういう連絡だろうから。
特に放課後の予定もないから、のんびりと帰り支度を進める。ファミレス寄ってく?なんて言葉に生返事を返していると、ドタバタと廊下から足音が聞こえて、さっき教室を出ていったはずのクラスメイトが勢い良く扉を開けた。息を切らした彼女が、ひどく興奮した様子で私を呼ぶ。
「王子様!」
「え?」
「門のところに、王子様がいる!」
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