【2024.5.5 超異譚レナトス】私の愛しの一等星【中原中也夢小説】

 月明かりもさない真っ暗な中、携帯端末の着信音が鳴り響く。ねずみの足音さえわかる部屋だから、その音はひときわうるさく聞こえた。
 今日もとろとろと浅い睡眠しか取れなかった。仕事詰めでろくに掃除もできていない部屋の、埃っぽい匂い。身体を小さく折り畳んだまま、腕だけを伸ばして、枕元の携帯端末を探り当てた。目元を擦りながら見た画面には、見慣れた文字が踊っている。案の定、本部からの呼び出しだった。ため息を吐く力すら、もう残っていない。服を着替えながら、死にたくないなあ、なんて、何度目かわからない言葉を零した。
 星空の下、深夜の街を急いで向かうと、事務所兼倉庫に同僚たちが集まっている。同僚とは云っても、挨拶を交わすほどの仲ではない。互いに命を預け合うなんて柄じゃなく、実を云うと、名前だってあやふやだ。ただ、何度か見たことのある顔だから、かろうじて同じ部隊だと判別できる程度。もしもよその組織のスパイが交じっていても、私にはきっとわからないだろう。
 弾倉を準備しながら、部隊長の話を聞く。私たちはこれから、ポートマフィアの武器庫を襲撃に行くらしかった。上層部と件の組織との間に何があったかなんて、使い捨ての駒でしかない私にはわからない。やることなんて、どことの小競り合いでも大差ないのだ。下っ端同士で適当に撃ち合って、撤収の指示がかかるまでやり過ごせばいい。組織のために命を賭けるような人間なんて、敵でも味方でも、ひとりだって出会ったことがない。そもそも、私がこの組織に入ってから、抗争らしい抗争なんて起こったことはないのだ。かつての八十八日間を噂に聞いたことはあるけれど、あんなもの、神話か御伽噺みたいなものだ。
 トラックに詰め込まれて、目的地に辿り着く。深夜二時、港近くの武器庫の見張りを撃ち殺して、同僚が速やかに侵入しても、私たちの呑気は変わらなかった。
 武器庫外での待機を命じられた私は、マフィアの増援を食い止めるための、いわばおとり役だ。こんな組織のために死ぬ気はないけれど、与えられた仕事をこなさなくては、生きていけない。組織は、裏切り者を許さないから。スーツの上着の上から、内ポケットの中身に触れる。生きることを諦めないための、私のお守り。生きて帰る以外に道はない。同様に配置されている二人と連絡を取り合いながら、周囲を警戒する。
 入口を無理矢理突破したから、襲撃にはとっくに気付かれているはずだ。寄越されるのは、噂のくろ蜥蜴とかげか、はたまた、指名手配犯の芥川龍之介か。そんな軽口を叩いていた同僚の通信が、突然途絶える。
 ——来た。ポートマフィアだ。
 しかし、狙撃音もなければ、同僚が抵抗した様子もない。消音器サイレンサでも使っているのだろうか。先ほど彼が名前を挙げたような大物が、私たちのような虫ケラを相手に現れるわけはないけれど。私たちには見合わないほど有能な構成員が来たらしいことは、すぐに理解できた。撤退の二文字が脳裏を過ぎる。素早く物陰に身を隠して、武器庫内にいる同僚との連絡を試みる。だが、それよりも早く、背後から大きな破壊音が響いた。
 振り返って仰ぎ見ると、武器庫の天井から土煙が上がっている。小さな星は、もう見えない。夜空を覆う、死の気配。マフィアが、自分の所有する建物ごと、内部の同僚を攻撃したのだ。背筋が凍る。相手は、私たちを何としても皆殺しにするつもりだ。

 武器庫内部。数メートル先から、同僚たちの悲鳴が聞こえる。ぐらぐらと地面が揺れて、先ほど瓦礫ガレキで掠った脚の傷がうずいた。頭を必死に回転させる。手の中の拳銃、残る弾丸は、あと五発。たったこれだけで、あの怪物を仕留めなくてはならない。
 悲鳴とともに、機関銃の連射音が響く。白い光が明滅して、遠くに転がった同僚の死体が、幽霊のように浮かんで見える。今の攻撃で、部隊長が殺された。おそらくは、他の全員、とっくに死んでいるのだろう。残っているのは、私だけだ。
 コツコツと鳴る足音が途中で軋んだと思えば、凄まじい轟音とともに向こうの壁が崩れ落ちる。攻撃手段とその苛烈さから、が私たちを殺しに来たのか、見当はついている。しかし、私はまだ、相手の姿を目撃できてはいなかった。
 ふと、ばかな考えが脳裏をよぎった。こうしてこのまま息を潜めていれば、見つからずに済むかもしれない。芋虫のように無価値な私なら。そうだ、私なんか、生かしても殺しても意味なんてないのだ。だから、どうか。ぎゅっと目を瞑って、両手で祈るように銃を握る。だが、無慈悲にも、相手は私のすぐ後ろまで迫ってきていた。身体を三角に折りたたんで、後悔にガンガンと鳴る頭を押さえる。
 ああ、そうだ。あのとき、すぐに逃げれば良かったのだ。表向きは運送業者勤務の女だという身分や戸籍、血に塗れたこの数年間が詰まった六畳間のボロアパート。それから、死んだセンパイが私に教えてくれた、たったひとつの生き方。そういう、今の私を構成する全てを捨てて、逃げ出してしまえば。こんなところで惨めに死ぬことには、ならなかったのかもしれなかった。
 軽くしなやかな足音。距離にして、およそ二メートル。足元に這い回る虫を残らず潰す、そんなたしかな意志が滲んでいる。その響きに、ようやく覚悟を決める。人を殺したことがないわけでは、ない。やるしかない。私は、逃げ帰るわけにはいかないのだ。
 隠れていた瓦礫が麩菓子ふがしみたいに粉々に破壊されるのと同時に、その陰から転がり出る。拳銃を構えて、狙いはただひとつ。
「まだいたか」
 その男は、夜よりも黒く重い闇を纏って、私の前に立っている。
 息が、止まりそうだった。
 夜よりも黒く、星よりも重い、このヨコハマにおける最大の厄災。ポートマフィアに楯突く者は、例外なく、苛烈な重力によって潰される。都市伝説の如き、その男は。
 ——この世のものとは思えないほど、うつくしかった。
 鍔付きの洒落た帽子に、春風を孕んで膨らむ長い外套を肩にかけて。やわらかく靡く髪は、百獣の王のたてがみと同じ色だ。白い頬に、同僚の誰かの血が滲んでいた。口元は、ここを地獄にした張本人だなんて思えないような、愉しげな笑みを形作っている。暗闇にあって爛々と輝く瞳が、最後の獲物である私を見据える。気まぐれでこの地上に落っこちてきた、燃える星のような。目が眩みそうになった。ぐっと奥歯を噛みしめて、真っ直ぐ睨み返す。
「ヘェ、佳い目じゃねえか」
 帽子の下、すう、と細められた目に、くらくらする。逆上のぼせそうな頭を振りながら拳銃を握り直して、彼の額に照準を合わせた。
「撃てんのか? 手前テメエに」
「……撃たなきゃ……殺される」
 私の魂が。私自身に。
 ずっとずっと、何者にもなれずに生きてきた。この瞬間の生き方さえ他人からの借り物で、自分だけの夢さえ見られない、愚かな名無し。私なんかには生きる価値なんてないのだと、そんなこと、心臓が張り裂けそうなくらいにわかっている。それでも、小さく灯ってしまったこの炎を自分の手で消すことだけは、できない。
 やれなくても、やるしかない。このうつくしき厄災に殺されるとしても、私は、前だけを見る私でいなくちゃならない。それだけが、私をここまで生かしてきた、ただひとつの理由だった。
 にい、と、獣の口角が上がった。
「いいぜ」
「……は?」
「一発、撃たせてやるよ。俺は優しいからな」
 ハスキーボイス、と云うのだろうか。楽しげに掠れた声。怒りや悔しさを覚えるべきなのに、その嘲笑うような言葉すら、一篇の甘い恋愛詩うたみたいに聞こえてしまう。
 手が震える。呼吸が浅い。喉の奥で血の味がして、視界が涙で滲む。かすかにじろぎすると、うっすらと固い感触を服の中に感じた。
 胸元に聖書を収める軍人のように、私は一冊の文庫本をスーツの内ポケットに入れている。神もなく、信仰もなく、地を這う芋虫のように生きてきた。がんがんとうるさく鳴る頭の奥に、何度も読んだ句が浮かぶ。私に生き方を教えてくれたセンパイの、唯一の形見。一冊の詩集。その中の、自我像と題された歌が私は好きだった。
「……『陽気で、坦々として、しかも己を売らないことをと、
    わが魂の願ふことであつた!』……」
 指先に、血が戻る。焦点が定まる。——やれる。
 銃声が響く。渾身の一発、永遠みたいな一瞬。それは真っ直ぐに吸い込まれた。彼の額、その秀眉の間に、確実に。呼吸を止めていたことに気付いて、そっと息を吐く。手応えはたしかにあった。けれど彼は倒れもせず、仰け反りもしない。ただ、愉快そうな笑みを濃くするだけだった。
 ぱらりと、ひしゃげた銃弾が地面に落ちる。涙みたいに。
「俺に銃は効かねえ。知らなかったか?」
 彼はそう云いながら、腰を抜かして動けなくなった私に近付いてくる。月夜の浜辺を散歩するみたいな、軽やかな足取り。かすかな光を艶やかに受ける外套は、春の夜の空気によく馴染む。身を包む衣裳は黒で統一されているのに、彼は薄く光を放っていた。
 終わりだ、と思った。殺される。それでも不思議と、身体は少しも震えなかった。
 私は撃った。それだけで、十分だった。
 それに。
 このひとに——このうつくしき厄災にし潰されて死ぬならば。それはきっと、私のろくでもない走馬灯には不釣り合いなほど、目映まばゆ最期エンディングだ。センパイもきっと羨むだろう、なんて、そんなくだらないことさえ思ってしまう。
 目は閉じない。私の死を真っ直ぐに見つめる。訪れるはずの痛みに耐えようと力んだ私の腕を、しかし彼は、力強く掴んだ。何の意味もなくなった銃が零れ落ちる。
「気に入った」
 ぐいと引き上げられて、ボロボロの脚で立ち上がる。身体が変に軽かった。言葉の意味がわからずに彼を見上げると、天井の向こうに星空が抜けている。いつの間にか、土煙は晴れていた。ぼんやりとあたたかな風を受けながら、彼は笑った。
「皆殺しの心算つもりだったが……気が変わった。手前テメエの命、俺に売ってみる気はねえか?」
 何度かまばたきをして、理解する。マフィアに寝返れ、さもなくば命はないと、そういう取引だ。部隊の同僚たちは残らず死に、今この場で生きているのは、彼と私のふたりだけ。寒くなどないのに、歯の根が合わない。
「……どうして」
「あ?」
「私なんて、何の役にも立たないのに」
 厄災に、人の力など必要ない。足元をうごめく芋虫なんて、目障りなだけだろうに。けれど彼は少しだけ帽子を傾けて、小さく鼻で笑った。いちいち仕草が華やかなひとだ、と頭の片隅で思った。
「役に立つかどうかは俺が決める。俺はな、手前のその目が気に入ったんだ。ポートマフィアでもそうは見ねえ、佳い目をな」
 そう云う彼は、どうにも底の見えない目をしていた。何の色もない目や、憎しみに染まった目は、何度も見たことがある。けれど、彼の目はそのどれとも違っていて。暗いのに、絶望ではなく。眩いのに、太陽ではなく。夜の闇に浮かぶ、しかし月のやわらかさとも違う光。どんなに遠くともたしかに熱く燃えている、それは。
 爛々と輝く目で、彼は射抜いた。
「此処で死ぬか、俺に付いてきてみるか。選ばせてやるよ」
 身一つで息を繋いできた私には、あいにく、心臓くらいしか、彼に渡せる手持ちはない。どんな未来を選んでも、私の命は彼の手の中だった。月のない闇に、小さな星たちが遠く光っている。
 全天で一番明るい星は、鋭い犬歯を見せて笑っていた。
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