吸血姫
つけっぱなしのテレビから、歌が聞こえる。今年流行った映画だかアニメだかの主題歌で、ふざけたパロディなんかもよく聞いた。うろ覚えの歌詞をふんふんと口ずさみながら、リリィは中也の手元を眺めている。
とんとんとん、と手際よくネギを刻み、紅白のかまぼこは少し厚めに、ぶ厚い油揚げは二等分に切る。キッチンタイマーが鳴ったので、茹だった蕎麦をざるに上げた。ざっと水気を切ってから、ふたつのお碗に分ける。ひとつは普通の蕎麦碗で、もうひとつは、味噌汁を飲むような少し小ぶりのお碗だ。ことこと火にかけていたつゆをかける。そこにさっき切ったネギとかまぼこ、油揚げ、それから、予め作っておいた三葉のおひたしを乗せた。
できあがったふたつのお碗に、リリィがほわあと気の抜けた声を上げる。
「これが、年越し蕎麦……!」
「食い切れるかわかんねえから、リリィは小さいほうな」
そっちに持ってっといてくれ、と云われて、リリィが神妙に頷く。もこもこのスリッパで殺された足音。その目は、お盆の上に並んだ蕎麦に釘付けだ。
吸血鬼であるリリィにとって、普通の人間が摂る食事は嗜好品にすぎない。内臓は存在するので物理的に腹は膨れるが、生物の本能としての飢餓感が薄れることはない。だから、普段彼女が口にするのは、某コーヒーチェーン店の期間限定フラペチーノとか、中也の家で一緒に飲むココアとか、そういうものばかりだった。そんなリリィが突然「中也センパイと同じものが食べたい」と云い出したのは、つい先日のこと。
「この前テレビで、おいしいもの一緒に食べてるカップルのドラマやってたんス。喧嘩してもご飯食べて仲直りしてね、記念日にも、一緒においしいご飯作ったりして」
私もやりたいっス!と目をきらきらさせるリリィに、中也は少しだけ驚いていた。
怪物にも喩えられるほど強力な異能者とはいえ、リリィと違って、中也は人間だ。当然、一般的な食事が必要になる。そんなふたりの食事風景は、リリィの徒然なるおしゃべりに、中也がご飯を食べながら相槌を打つ、というのが常だ。お互いそれに不満などないことを、中也も承知していた。の、だが。
中也とリリィの付き合いは長い。何と云っても、互いが初恋の相手だった。同じ街に住み、同じ組織に属し、同じ感情を向け合ってきた。けれど、なるほど、食事だけは、同じものを口にする機会などほぼなかった。つまり彼女は、羨ましいのだ。中也と同じもので生きてみたい、たとえ真似事であったとしても。
俺の血で生きてんのになァ、なんて思いながら、中也は冷蔵庫から七味唐辛子を取り出す。吸血鬼だけがもつ特権で恋人を喰らっておきながら、普通の人間のささやかな幸福に憧れる。そんなふうにどこまでも中也を求めてやまないリリィのことが、可愛くないはずがない。
「中也センパイ! 早く来てくださいよ!」
テーブルにお碗を並べたリリィが、ぴょこぴょこと跳ねながら中也を呼ぶ。待ちきれない、と顔に書いてあるのを見て、中也は頬を綻ばせた。
「へいへい。ほらこれ、欲しかったらかけろよ」
そう云いながら唐辛子の瓶を目の前に置いてやると、リリィはちょっとだけ顔を顰めた。
「これ、痛いやつっスよね」
「……痛い?」
「昔、これ触って、酷い目に遭いました」
きっと、その手で目を擦ったりなんかしたのだろう。小さいリリィがわんわんと泣いているさまが、中也には容易に想像できた。ふ、と笑いが零れる。
「無理して使うことはねえよ。お好みで、ってやつだ」
よし、と中也が手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます!」
中也に倣って手を合わせて、見よう見まねで箸を持つ。子供みたいだ、と思いながら中也が蕎麦を啜ってみせると、リリィもやはり同じように蕎麦を口にした。
「ん!」
想像よりも熱かったのか、リリィはちょっと目を見開く。とはいえ、熱さはココアで慣れているから、はふはふ云いながらも無事に咀嚼して飲み込んだ。箸を持った手がふるふると震える。
「……おいしい……!」
「ふは、そりゃ良かった」
夢中になって食べ進めるリリィを見て、中也はやわらかく笑う。料理なんて、今まで自分のためにしかしたことはなかった。それに特に不満はなかったが、こうして自分が作った食事を恋人が喜んで食べてくれるのを一度目の当たりにしてしまうと、今後はどうにも満足いかないかもしれない。リリィが好きそうなもん、考えとかねえとなァ、なんて。拍子抜けしそうなほど平和な悩みに、ふっとあたたかなため息を吐く。
リリィは中也お手製の年越し蕎麦がずいぶんと気に入ったようで、あっという間に自分の分を食べ終えてしまった。つゆまでみんな飲み干して、はふ、と息をつく。林檎みたいに赤い瞳を真ん丸く見開いて、じいっとお碗を見つめる。
「なくなっちゃった……」
眉を八の字に下げてあんまり悲しそうに呟くから、中也は思わず噴き出してしまった。くつくつと喉の奥で笑いながら、愛おしそうに目を細める。
「そんなに気に入るなら、一人前作っても良かったな」
「ん……でも、すごく美味しかったっス! ありがとうございます!」
「おう。他にも何か食いてえもん見つけたら、いつでも云えよ。俺に作れるもんなら作ってやるし、そうでなけりゃ、いい店探しといてやる」
中也の言葉に、リリィは目をぱちぱちさせて、両手でそうっと口元を覆った。ため息みたいに声を零す。
「完璧で究極のダーリン……」
「手前にだけだぜ、ハニー」
ふたりでおしゃべりしながら台所を片付けて、テレビの前のソファに座る。手にはお揃いのマグカップを持って、身体をくっつけながら、神社の中継映像を眺めた。
「もう今年も終わりっスねえ……」
熱いココアをふうふうと冷まして、リリィが呟く。
「この一年も、中也センパイと一緒にいた時間が一番長かった気がします」
「ああ……考えてみりゃ、そうかもな」
「えへへ。中也センパイは私のっスからね」
リリィが擦り寄ると、中也は小さく笑って、彼女の綺麗な黒髪に口付ける。そのまま、すん、と髪の香りを吸ったので、リリィはくすぐったそうに身を捩った。
鐘の音を中継越しに聞きながら、どちらからともなく手を握る。貝殻みたいにきゅっと指を絡めて、その中に隠したのは、きっと真珠より大事な宝物だ。センターテーブルのお揃いのマグカップは、今日も仲良く寄り添っている。
テレビの中、神社の盛り上がりは最高潮だ。カウントダウンの数字が減っていき、時計の針がかちり、と鳴る、その、直前。レポーターの姿が消えて、暗転したテレビ画面に、ソファに座ったふたりの姿が反射する。
突然テレビの電源を切った中也のほうを、リリィが怪訝そうに見つめる。
「あれ? 中也センパイ、ど──」
どうしたんスか、という言葉は、中也の唇に食まれてしまった。何度か啄むようにキスをしてから、端正な顔がゆっくりと離れていく。きょとんとしたリリィの頬を指でなぞって、中也は穏やかに笑う。
「明けましておめでとう、リリィ」
「え……あ、明けましておめでとうございます……?」
首を傾げたまま答えれば、満足そうな中也によしよしと頭を撫でられる。それを目を細めて堪能してから、リリィははたと気がついた。
もしかしてこのひと、誰よりも早く、私に「明けましておめでとう」を云いたかったのでは?
こんなふうに穏やかな年越しは久しぶりで、あまりよく覚えていないけれど。各地の除夜の鐘を中継しながらカウントダウンをするあの番組は、日付が変わった瞬間に、明けましておめでとうと高らかに告げるはずだ。そういえば、友人や家族からのメッセージでうるさいはずの携帯端末は、どこにやったのだっけ。
見上げるリリィの唇に、中也はまたキスを落とす。なんだかご満悦な彼の瞳に映っているのが自分だけであることが、リリィにはたまらなく嬉しかった。
「中也センパイって、たまにすっごく可愛いっスよね」
「あ? 可愛いのは手前だろうが」
ちゅ、ちゅ、と音を立てながら、リリィの頬や首筋に唇を落とす。くふくふと笑ってそれを受け入れていた彼女だったが、手のひらがするりと服の中に入ってくると、「ちょっとセンパイ!」と声を上げた。
「煩悩、なくなったんじゃないんスか!」
「去年の分はな」
云いながら、やさしくリリィを押し倒す。林檎色の真ん丸い瞳に、にやりと笑った中也が映る。楽しそうな目に射抜かれて、リリィの背筋がぞわりと粟立った。
「な、いいだろ。可愛い恋人の頼みだぜ?」
「やだ! 今の中也センパイは可愛くないっス!」
スキンシップを嫌がる猫みたいに、ぐぐっと中也の顔を押し返す。その手のひらに唇を落としてから、彼は笑いながら身体を起こした。それを追いかけるようにそうっと起き上がって、リリィはちょっとだけ中也から距離を置いて座り直した。
「そんなに警戒すんなって。傷つくじゃねえか」
「だって、中也センパイが!」
別にリリィとて、中也に触れられるのは嫌いではない。いざそういうシチュエーションになれば、彼女のほうが、もっとと強請るときもある。それでも、今夜彼女がこうも抵抗するのは。
「わかってるっての。初詣だろ?」
そう。珍しく大晦日から元日にかけての休日をもぎ取れたふたりは、元旦から初詣に行く約束をしていた。もしもここで中也に流されてしまったら、お昼頃までベッドでくっついて過ごすことになるに決まっている。そういう休日もリリィは嫌いでないけれど、今日しかできないことがしたいのだ。それを理解しているから、中也も今夜は大人しく引き下がったのだろう。
「ほら、こっち来いって。もう変なことしねえから」
軽くソファの座面を叩いて、中也が呼ぶ。眉を下げたその表情をちょっとだけ見つめてから、リリィは
「……しょうがないっスね」
と呟いた。そうっと近づいてきた彼女の肩を抱いて、頬に唇を触れさせる。
「リリィは優しいなァ」
「中也センパイは私の嫌がることしないって、知ってるので」
「手前に嫌われたら、死んじまうからな」
大袈裟な、なんて、リリィは云わなかった。だって、彼女も同じだから。
何度か触れるだけのキスをしてから、中也の頭がリリィの肩に預けられた。ぐりぐりと押しつけられるその重さが、心地好い。やわらかくあたたかな色の癖毛を撫でる。形の良い耳がちらりと覗く。
「中也センパイ」
「ん?」
「今年も、来年も。ずうっと、よろしくお願いしますね」
ささやくようなリリィの言葉を、中也は静かに聞いていた。それから、ゆっくりと首をもたげて、真っ直ぐ彼女の目を見つめる。情欲でも、恋情でもなく、もっとあたたかで重たいものを乗せた視線。
「ああ、末永くよろしくな。……逃げんじゃねえぞ?」
「センパイこそ、私のこと置いてっちゃ嫌っスよ?」
「莫迦云え、死んでも離してやらねえよ」
ふたり見つめ合って、くすくすと笑う。見えない力で引き寄せ合うように、こつんと額をくっつけた。
「大好きっス、中也センパイ」
「ああ。愛してるぜ、リリィ」
YOASOBI「アイドル」歌詞
https://www.uta-net.com/song/335761/
ドラマ「きのう何食べた? season2」公式HP
https://www.tv-tokyo.co.jp/kinounanitabeta2/
とんとんとん、と手際よくネギを刻み、紅白のかまぼこは少し厚めに、ぶ厚い油揚げは二等分に切る。キッチンタイマーが鳴ったので、茹だった蕎麦をざるに上げた。ざっと水気を切ってから、ふたつのお碗に分ける。ひとつは普通の蕎麦碗で、もうひとつは、味噌汁を飲むような少し小ぶりのお碗だ。ことこと火にかけていたつゆをかける。そこにさっき切ったネギとかまぼこ、油揚げ、それから、予め作っておいた三葉のおひたしを乗せた。
できあがったふたつのお碗に、リリィがほわあと気の抜けた声を上げる。
「これが、年越し蕎麦……!」
「食い切れるかわかんねえから、リリィは小さいほうな」
そっちに持ってっといてくれ、と云われて、リリィが神妙に頷く。もこもこのスリッパで殺された足音。その目は、お盆の上に並んだ蕎麦に釘付けだ。
吸血鬼であるリリィにとって、普通の人間が摂る食事は嗜好品にすぎない。内臓は存在するので物理的に腹は膨れるが、生物の本能としての飢餓感が薄れることはない。だから、普段彼女が口にするのは、某コーヒーチェーン店の期間限定フラペチーノとか、中也の家で一緒に飲むココアとか、そういうものばかりだった。そんなリリィが突然「中也センパイと同じものが食べたい」と云い出したのは、つい先日のこと。
「この前テレビで、おいしいもの一緒に食べてるカップルのドラマやってたんス。喧嘩してもご飯食べて仲直りしてね、記念日にも、一緒においしいご飯作ったりして」
私もやりたいっス!と目をきらきらさせるリリィに、中也は少しだけ驚いていた。
怪物にも喩えられるほど強力な異能者とはいえ、リリィと違って、中也は人間だ。当然、一般的な食事が必要になる。そんなふたりの食事風景は、リリィの徒然なるおしゃべりに、中也がご飯を食べながら相槌を打つ、というのが常だ。お互いそれに不満などないことを、中也も承知していた。の、だが。
中也とリリィの付き合いは長い。何と云っても、互いが初恋の相手だった。同じ街に住み、同じ組織に属し、同じ感情を向け合ってきた。けれど、なるほど、食事だけは、同じものを口にする機会などほぼなかった。つまり彼女は、羨ましいのだ。中也と同じもので生きてみたい、たとえ真似事であったとしても。
俺の血で生きてんのになァ、なんて思いながら、中也は冷蔵庫から七味唐辛子を取り出す。吸血鬼だけがもつ特権で恋人を喰らっておきながら、普通の人間のささやかな幸福に憧れる。そんなふうにどこまでも中也を求めてやまないリリィのことが、可愛くないはずがない。
「中也センパイ! 早く来てくださいよ!」
テーブルにお碗を並べたリリィが、ぴょこぴょこと跳ねながら中也を呼ぶ。待ちきれない、と顔に書いてあるのを見て、中也は頬を綻ばせた。
「へいへい。ほらこれ、欲しかったらかけろよ」
そう云いながら唐辛子の瓶を目の前に置いてやると、リリィはちょっとだけ顔を顰めた。
「これ、痛いやつっスよね」
「……痛い?」
「昔、これ触って、酷い目に遭いました」
きっと、その手で目を擦ったりなんかしたのだろう。小さいリリィがわんわんと泣いているさまが、中也には容易に想像できた。ふ、と笑いが零れる。
「無理して使うことはねえよ。お好みで、ってやつだ」
よし、と中也が手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます!」
中也に倣って手を合わせて、見よう見まねで箸を持つ。子供みたいだ、と思いながら中也が蕎麦を啜ってみせると、リリィもやはり同じように蕎麦を口にした。
「ん!」
想像よりも熱かったのか、リリィはちょっと目を見開く。とはいえ、熱さはココアで慣れているから、はふはふ云いながらも無事に咀嚼して飲み込んだ。箸を持った手がふるふると震える。
「……おいしい……!」
「ふは、そりゃ良かった」
夢中になって食べ進めるリリィを見て、中也はやわらかく笑う。料理なんて、今まで自分のためにしかしたことはなかった。それに特に不満はなかったが、こうして自分が作った食事を恋人が喜んで食べてくれるのを一度目の当たりにしてしまうと、今後はどうにも満足いかないかもしれない。リリィが好きそうなもん、考えとかねえとなァ、なんて。拍子抜けしそうなほど平和な悩みに、ふっとあたたかなため息を吐く。
リリィは中也お手製の年越し蕎麦がずいぶんと気に入ったようで、あっという間に自分の分を食べ終えてしまった。つゆまでみんな飲み干して、はふ、と息をつく。林檎みたいに赤い瞳を真ん丸く見開いて、じいっとお碗を見つめる。
「なくなっちゃった……」
眉を八の字に下げてあんまり悲しそうに呟くから、中也は思わず噴き出してしまった。くつくつと喉の奥で笑いながら、愛おしそうに目を細める。
「そんなに気に入るなら、一人前作っても良かったな」
「ん……でも、すごく美味しかったっス! ありがとうございます!」
「おう。他にも何か食いてえもん見つけたら、いつでも云えよ。俺に作れるもんなら作ってやるし、そうでなけりゃ、いい店探しといてやる」
中也の言葉に、リリィは目をぱちぱちさせて、両手でそうっと口元を覆った。ため息みたいに声を零す。
「完璧で究極のダーリン……」
「手前にだけだぜ、ハニー」
ふたりでおしゃべりしながら台所を片付けて、テレビの前のソファに座る。手にはお揃いのマグカップを持って、身体をくっつけながら、神社の中継映像を眺めた。
「もう今年も終わりっスねえ……」
熱いココアをふうふうと冷まして、リリィが呟く。
「この一年も、中也センパイと一緒にいた時間が一番長かった気がします」
「ああ……考えてみりゃ、そうかもな」
「えへへ。中也センパイは私のっスからね」
リリィが擦り寄ると、中也は小さく笑って、彼女の綺麗な黒髪に口付ける。そのまま、すん、と髪の香りを吸ったので、リリィはくすぐったそうに身を捩った。
鐘の音を中継越しに聞きながら、どちらからともなく手を握る。貝殻みたいにきゅっと指を絡めて、その中に隠したのは、きっと真珠より大事な宝物だ。センターテーブルのお揃いのマグカップは、今日も仲良く寄り添っている。
テレビの中、神社の盛り上がりは最高潮だ。カウントダウンの数字が減っていき、時計の針がかちり、と鳴る、その、直前。レポーターの姿が消えて、暗転したテレビ画面に、ソファに座ったふたりの姿が反射する。
突然テレビの電源を切った中也のほうを、リリィが怪訝そうに見つめる。
「あれ? 中也センパイ、ど──」
どうしたんスか、という言葉は、中也の唇に食まれてしまった。何度か啄むようにキスをしてから、端正な顔がゆっくりと離れていく。きょとんとしたリリィの頬を指でなぞって、中也は穏やかに笑う。
「明けましておめでとう、リリィ」
「え……あ、明けましておめでとうございます……?」
首を傾げたまま答えれば、満足そうな中也によしよしと頭を撫でられる。それを目を細めて堪能してから、リリィははたと気がついた。
もしかしてこのひと、誰よりも早く、私に「明けましておめでとう」を云いたかったのでは?
こんなふうに穏やかな年越しは久しぶりで、あまりよく覚えていないけれど。各地の除夜の鐘を中継しながらカウントダウンをするあの番組は、日付が変わった瞬間に、明けましておめでとうと高らかに告げるはずだ。そういえば、友人や家族からのメッセージでうるさいはずの携帯端末は、どこにやったのだっけ。
見上げるリリィの唇に、中也はまたキスを落とす。なんだかご満悦な彼の瞳に映っているのが自分だけであることが、リリィにはたまらなく嬉しかった。
「中也センパイって、たまにすっごく可愛いっスよね」
「あ? 可愛いのは手前だろうが」
ちゅ、ちゅ、と音を立てながら、リリィの頬や首筋に唇を落とす。くふくふと笑ってそれを受け入れていた彼女だったが、手のひらがするりと服の中に入ってくると、「ちょっとセンパイ!」と声を上げた。
「煩悩、なくなったんじゃないんスか!」
「去年の分はな」
云いながら、やさしくリリィを押し倒す。林檎色の真ん丸い瞳に、にやりと笑った中也が映る。楽しそうな目に射抜かれて、リリィの背筋がぞわりと粟立った。
「な、いいだろ。可愛い恋人の頼みだぜ?」
「やだ! 今の中也センパイは可愛くないっス!」
スキンシップを嫌がる猫みたいに、ぐぐっと中也の顔を押し返す。その手のひらに唇を落としてから、彼は笑いながら身体を起こした。それを追いかけるようにそうっと起き上がって、リリィはちょっとだけ中也から距離を置いて座り直した。
「そんなに警戒すんなって。傷つくじゃねえか」
「だって、中也センパイが!」
別にリリィとて、中也に触れられるのは嫌いではない。いざそういうシチュエーションになれば、彼女のほうが、もっとと強請るときもある。それでも、今夜彼女がこうも抵抗するのは。
「わかってるっての。初詣だろ?」
そう。珍しく大晦日から元日にかけての休日をもぎ取れたふたりは、元旦から初詣に行く約束をしていた。もしもここで中也に流されてしまったら、お昼頃までベッドでくっついて過ごすことになるに決まっている。そういう休日もリリィは嫌いでないけれど、今日しかできないことがしたいのだ。それを理解しているから、中也も今夜は大人しく引き下がったのだろう。
「ほら、こっち来いって。もう変なことしねえから」
軽くソファの座面を叩いて、中也が呼ぶ。眉を下げたその表情をちょっとだけ見つめてから、リリィは
「……しょうがないっスね」
と呟いた。そうっと近づいてきた彼女の肩を抱いて、頬に唇を触れさせる。
「リリィは優しいなァ」
「中也センパイは私の嫌がることしないって、知ってるので」
「手前に嫌われたら、死んじまうからな」
大袈裟な、なんて、リリィは云わなかった。だって、彼女も同じだから。
何度か触れるだけのキスをしてから、中也の頭がリリィの肩に預けられた。ぐりぐりと押しつけられるその重さが、心地好い。やわらかくあたたかな色の癖毛を撫でる。形の良い耳がちらりと覗く。
「中也センパイ」
「ん?」
「今年も、来年も。ずうっと、よろしくお願いしますね」
ささやくようなリリィの言葉を、中也は静かに聞いていた。それから、ゆっくりと首をもたげて、真っ直ぐ彼女の目を見つめる。情欲でも、恋情でもなく、もっとあたたかで重たいものを乗せた視線。
「ああ、末永くよろしくな。……逃げんじゃねえぞ?」
「センパイこそ、私のこと置いてっちゃ嫌っスよ?」
「莫迦云え、死んでも離してやらねえよ」
ふたり見つめ合って、くすくすと笑う。見えない力で引き寄せ合うように、こつんと額をくっつけた。
「大好きっス、中也センパイ」
「ああ。愛してるぜ、リリィ」
YOASOBI「アイドル」歌詞
https://www.uta-net.com/song/335761/
ドラマ「きのう何食べた? season2」公式HP
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