それはこの身を焦がすほどの、

「──護衛、ですか」
 慣れない言葉を、舌の上で転がす。中原さんの執務室、窓から見える空はキンと冷えていて、氷の張った湖みたいだ。ビル群と薄青の空を背景にして、中原さんは軽く頷く。
「一ヶ月後、降誕祭の夜だ。紅葉の姐さんの仕事に付いてきてもらう」
 淡々とした事務連絡の中に入る降誕祭という単語は、なんだか妙に浮いている。けれど、ポートマフィアの仕事なのだから、かつていた組織のどんちゃん騒ぎなどとは、その重みは較べるべくもないのだろう。無意識のうちに、背筋が伸びた。
 中原さんは持っていた書類をくるりと返して私に差し出す。受け取ってみると、主催の企業や参加組織、出席してくるであろうメンバーの顔・名前・肩書き・家族構成などが記されたリストだった。
「お前の仕事は、姐さんの護衛。つっても、俺と広津が主だから、護衛補佐ってとこだな」
「……私、必要でしょうか?」
 ポートマフィアの武闘派集団・黒蜥蜴の広津柳浪。ヨコハマ黒社会において、その名を聞いたことのない者はおらず、また、顔を知る者は少ない。彼と相対して生き残った人間が、極端に少ないからだ。そんな彼と中原さんがいるならば、他の、ましてや私のような非異能者の手など必要ないように思える。今回は降誕祭の招宴という穏当な名目だから、尚更。
 当然の疑問を口にすれば、中原さんは小さく笑った。
「まァ、そうなんだがな。俺ら男だけじゃ護衛しづらいときもあんだろ。……それと、今回は練習だ」
「練習、と云いますと」
「姐さんだけじゃなく、俺もこういう招宴やら会合やらに顔出すときがある。今まで護衛なんざ付けたことはねえんだが、いい加減、幹部の威厳がねえって話になってな。せめてひとりくらい、部下を連れて行けと」
 中原さんは、こうして他の幹部の護衛を任されるほどの実力者で、誰かに守られる必要なんてない。なんと云っても、前線で私たち部下を庇うことさえあるひとだ。それでも、幹部ともあろう人間が護衛を全く付けないとなれば、ポートマフィアという組織そのものの力を侮る人間も出てくるのだろう。そういう手合いは、早晩、彼の重力に圧し潰されることになると相場が決まっている。けれど、そのような経費をかけずとも済むならばそちらのほうが良いと、われらが首領は考えているらしい。首領本人に直接会ったことはほとんどないが、組織運営の方向性と中原さんから聞く話の端々から、その合理的かつ経済的な志向は少しだけ読み取れた。
 私が納得したような顔をしていたからか、中原さんは続けた。
「姐さんにも許可は取ってある。つうか、むしろ姐さんが云い出した。今回は、うちが出る招宴にしちゃあ小規模だからな。ちょうどいい実践練習だ」
 目眩がする。リストに載っていたのは、およそ十社・二十人ほどの名前だった。出席する他組織の幹部らにも護衛は当然付くだろうから、当日の会場には五、六十人程度の人間がいる計算になる。たしかに、ポートマフィアの組織規模からすれば、小さな招宴ではあるのだろうが。
 リストをじっと見つめながら、下された任務内容を咀嚼する。中原さんの護衛、の、練習。
「……あの。質問、よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「何故、私なのでしょう?」
 中原さんの部下は多くいる。私を含めて、彼のためならば命を差し出しても惜しくはない人間ばかり。多かれ少なかれ、彼に救われたことがあるからだ。そんな中で、異能も持たず、小柄な女である私が護衛役に選ばれた理由について、さっぱり見当がつかなかった。
 数秒、沈黙が訪れる。中原さんはしばらくじっと私の目を見つめてから、
「俺の采配に文句あんのか?」
と静かに云った。風が吹き抜けるような声に、すっと背筋が冷える。反対に、脳みそはじりじりと熱をもって、沸騰していく。
「いいえ、ありません。失礼致しました」
 できるだけ声の震えを抑えてそう返すと、小さくため息を吐かれる。
「……お前が適任だと、俺が判断した。当面はそれだけ理解しとけ」
「はい」
 彼と初めて出会ったときに似て、心臓が逸る。目の前にいるのは決して怪物でも厄災でもないけれど、私など簡単に灼き殺せる星であることに変わりはなかった。目の奥に小さな光が舞う。資料を持った指先が燃えるように熱い。ぎゅっと握りしめると、紙がくしゃりと鳴った。
 両の手を机の上で組んで、中原さんが私を見る。その眼差しは冬空のように透明だ。
「一ヶ月で、護衛のいろはを叩き込んでやる。射撃訓練の内容も一新する。さっきのリストに載ってるやつの顔と名前は、幹部級だけでも覚えておけ」
「承知しました」
 返す声も、自然、固くなる。それに頷いてから、中原さんはふと視線を逸らした。少し考えるように執務机の木目を目でなぞって、それから、と零した。
「明日、紅葉の姐さんのところに行ってこい。……まァ、なんだ。顔合わせみてえなもんだ」
 なんとなく歯切れが悪いのが気になったけれど、了解の意を伝える。中原さんからの用件はそれで全てのようで、私は一礼してから、重厚なドアのノブに手をかけた。
「おい、」
 名前を呼ばれて、振り返る。中原さんは何かに迷ってから、囁くように問うた。
「今更だが、降誕祭の予定はなかったのか?」
 思いがけない言葉に、数度、瞬きを繰り返す。今の私には、降誕祭をともに過ごすような家族も親しい友人もいない。恋人など、以ての外だ。心臓さえ彼に明け渡して、そうしてマフィアに来たのだから。
「ありません」
「……なら、善い」
 どことなくやわらかくなった声を疑問に感じながらも、失礼します、と云って部屋を出る。廊下に出てしばらく歩いて、ようやく、深く息を吐けた。
 必死に意識から遠ざけていたものが、まとめて脳に押し寄せる。中原さんの執務室は、いつでもやわらかな香りが漂っている。たぶん、彼がつけている香水と、よく飲んでいる珈琲の香りだ。穏やかな香りではあるのだけれど、どうにも落ち着かない。
 握りしめてシワの付いてしまった資料を見る。まとめられた一番上の表紙には、中原さんの判が捺してある。赤く滲んだその名前にさえ拍動が乱されてしまうのだから、重症だ。ぐっと唇を噛んで、押し殺す。
 もう一度大きく深呼吸して、エレベーターホールへ向かった。護衛を任されるのは、前の組織での経験も含めて、初めてのことだ。気を引き締めないと。尾崎幹部は中原さんの元上司だというし、絶対に失礼のないようにしなくては。よし、と小さく呟いて、地下の射撃訓練施設に降りていった。

 そう。尾崎幹部には、絶対に失礼のないようにしなくてはならない。私は中原さんに恩のある身なのだから。──だというのに、どうして私は、色とりどりの布地に囲まれているのだろう?
 ポートマフィアお抱えだという仕立て屋さんに採寸されながら、必死に考える。私は中原さんに云われた通り、尾崎幹部にご挨拶に来たはずだ。彼女の執務室のドアをノックしたところまでは、たしかに合っていた、ように思う。そこから、気づけば執務室横の広い部屋に通され、薄手の服に着替えさせられてしまった。
 脚の長さから胸囲から、果ては指の太さまで、身体中のあらゆる寸法を測られる。仕立て屋さんは無表情かつ無口で、余計に緊張してしまう。それを横目に、尾崎幹部は何やら布地の色を選んでいるらしかった。
「お主、ドレスも似合うじゃろうに……本当にパンツスーツで佳いのかえ?」
 小さな顎に当てられた手は、白魚に喩うに相応しかった。眉は仕方のない弟妹を諭すときのような緩やかな曲線を描いている。まさに椛に似た艶やかな紅色の瞳が、長い睫毛の向こうから私を見下ろす。大輪の百合の花のような微笑みに圧倒されながら、どうにか言葉を紡いだ。
「はい。その、護衛ですし……」
「詰まらぬのう」
 落とされた言葉に、冷や汗が出る。とはいえ、護衛として同行する人間がドレスなど、いくら幹部の頼みでも着られるわけがない。と、いうか。
「……あの、尾崎幹部」
「なんじゃ?」
「どうして、その……私の衣装を仕立てることになっているのでしょう……?」
 今までの人生、着飾った機会などほとんどない。最低限の身だしなみに気を使う程度で、華やかさとか美しさとか、そういう概念とは無縁の、芋虫のごときものとして生きてきたのだ。場違いさからおそるおそる尋ねれば、尾崎幹部はきょとんと目を丸くしてから、ころころと笑った。口元を着物の袖で隠す仕草は恥じらう花のようで、ため息が出そうだ。
「中也から聞いておらぬのじゃな。ふふ、お主、謀られたのう」
 心底楽しそうに云いながら、採寸を終えた仕立て屋さんに軽く頷く。するとすぐに真っ白なパンツスーツ一式と薄青のブラウスが用意された。さっさと着ろ、とでも云うように差し出されて、思わず受け取ってしまう。そのまま、布で囲われた円形の簡易更衣室に押し込められた。
「お主、ポートマフィアには、中也に勧誘されて入ったのじゃったな?」
 厚い布地を隔てても、その声は凛と響く。慣れない高級な布地に緊張しながら、あの夜を思い出す。星の輝く、静かな夜。
「はい。中原さんに拾っていただきました」
「そうか、そうか。なるほどのう」
 よく理解できないまま、着替えを終える。少し、ジャケットの肩幅が広い気がする。更衣室のカーテンを開けると、横に控えていたらしい仕立て屋さんがさっと現れて、今度は夜の湖のように深い青色のブラウスが差し出された。そうして私をまじまじと眺めてから、同じ型でワンサイズ小さいジャケットも渡された。
 更衣室に引っ込むと、尾崎幹部が穏やかに語る。ため息のようにささやかに、けれどどこか嬉しそうに。
「お主、これから大変じゃぞ? 我儘は云えるだけ云うておけ。スーツ一式贈られた程度では、きっと割りに合わぬよ」
 手が、止まった。袖を通そうとしていたジャケットを見る。私でもわかるような高級品。ポートマフィアに入って約半年、これといった趣味もなく、多少の貯えもできていたから、いくらかの借金で賄えるだろうと考えていた。
「あ、あの、お代はちゃんと自分で払います」
 カーテンから顔を出しながらそう云うと、尾崎幹部はにこりと笑んだ。
「そう云われてものう。私は中也に、招宴に相応しい衣装を見立ててやってくれと頼まれただけじゃ」
 謀られた、という言葉の意味をようやく理解する。次いで、昨日の中原さんの様子を思い出した。今日のこれを顔合わせだと告げたときの、あの歯切れの悪さ。この場に彼がいればきっと私が抗議すると予測したうえで、彼は私をひとりで送り出したのだ。
 私がことの次第を理解したと表情から読み取ったのだろう、尾崎幹部は小さく頷いてから、一歩下がって、私の全身を眺めた。仕立て屋さんのほうに顔を傾ける。
「パンツはフレアが良いな。スリットのあるものを」
「かしこまりました」
 仕立て屋さんが指定された服を取りに行ったのを見送って、尾崎幹部が私に向き直る。
「もう一度云うがの。中也には、いくらでも我儘を云うてやれ。お主はこれから、彼奴の我儘に散々振り回される羽目になるのじゃから」
 愉快そうな微笑み。どういう意味だか、さっぱりわからない。私などが、中原さんに我儘を云う、なんて。ただでさえ、彼に拾われて、部下にしてもらった。たとえお飾りであろうとも、護衛役に選ばれて。挙句、服まで贈られてしまうらしい。かつての私に伝えたら、夢を語るにしたってもう少し現実的なものにしておけと笑われるような現状だ。これ以上望むことなんて、ありはしない。
 黙り込んでいると、仕立て屋さんが戻ってくる。今着ているジャケットと同じ生地のパンツが、尾崎幹部に差し出された。膝から下が緩く広がっており、裾から十センチほどの長さで入ったスリットからは、深い青色が覗いている。彼女がそれに頷くと、着替えるようにと渡された。
 着せ替え人形じみた扱いには慣れないが、私に反抗は許されていない。ため息を吐きそうになるのを堪えながら、簡易更衣室のカーテンを引いた。

 駆けてくる相手を目掛けて、二発撃つ。簡単に避けられてしまうが、問題はない。着地点を予測し、タイミングを合わせて、一発。狙った通りに太ももに着弾する。その衝撃で動きを止めたところで接近、銃を構えて、回避の姿勢を誘う。できた隙を狙って背後に回り、腕を捻りあげた。天井の照明を反射しながら、ナイフが手から零れ落ちた。体重をかけて床に押し倒し、後頭部に銃を突きつける。
「所属を吐け。それとも、拷問がお好みですか?」
 抵抗しようとする脚に、もう一発。万が一拘束を解かれても、これで逃亡は叶うまい。だが。
 がりり、と、嫌な音が鳴る。まさかと相手の顔を見れば、じっと無表情で虚空を見つめている。
「──そこまで」
 地下の訓練施設に、声が響く。低く、しかしよく通る声だ。声の主はスライド開閉式のドアをくぐって、硝子張りの向こうから、この真っ白な部屋に入ってくる。床のところどころに、私が撃ったペイント弾の蛍光グリーンが跳ねていた。それを避けて歩きながら、中原さんは笑う。
「どうだ、本職の暗殺者との訓練は?」
 そう、これは中原さんがセッティングしてくれた、マフィア屈指の暗殺者との実技訓練だった。先程まで組み敷いていた暗殺者の手を引いて、立ち上がらせる。細く繊細で、どことなく女性的な手。……などと云ったら、怒られるだろうか。マスクで表情はよく見えない。
 幹部を狙うような相手なら、首謀者を割り出し、次手を読み、先回りして潰すのが最適解だ。そのためには、手脚を多少折ろうとも、刺客を生け捕りにしなくてはならない。殺すための技術と、守るための技術は違うのだ。けれど。
「……手強いですね。自決薬、ですか」
「今回はラムネで代用させたけどな」
 駄菓子屋さんで売っているようなパッケージは、彼の手には似合わない。軽く振ると、からからと乾いた音が鳴る。これから護衛対象になるひとに護衛の何たるかを仕込まれている、というのはおかしな状況だと思うけれど、彼の指摘はいつだって的確だ。
「たいていの暗殺者は、口ン中に仕込んでる。気絶させるのが一番手っ取り早いな」
「わかりました」
「けどまァ、荒削りだが筋は悪くねえ。相変わらず銃の腕はいいしよ。護衛対象さえ守れるなら、いざってときはそれで殺せばいいからな。二週間でこれならたいしたもんだ」
 穏やかな声に、上手く呼吸ができなくなる。拍動が乱れるのは、恐怖からではない。星の光は眩しすぎて、けれど私の夜を照らしてくれるのは、あなたでなければ嫌なのだ。その光で灼き殺されてみたいだなんてくだらないことを、熱に浮かされたように、思う。あなたの前ではいつだって、正気の私じゃいられない。
 声の震えを必死に抑える。
「お褒めに預かり、光栄です」
「そのうち、俺のことも殺せるかもな?」
「……中原さん」
「は、怒るなよ。冗談だ」
 軽く笑っているけれど、その目はたしかにヨコハマの夜の色を映している。歪みも濁りもなく、真っ直ぐに。その目が血飛沫や傷に曇ることは、ありえない。あってはならない。
 私がふつふつと抱える熱に気づいているのかいないのか、中原さんは私の目から視線を外した。振り向いて、持っていたラムネを暗殺者の手に乗せる。
「今日はありがとな、銀。次は手加減なしで相手してやってくれ」
 銀と呼ばれたそのひとは、相変わらず無言のままで頷いた。暗殺者はふつう、正面から相手に挑むことはない。今日はきっと、中原さんから事前に云われていたのだ。忠実なる暗殺者とはどんなものか教えてやれ、と。
 銀さんは睫毛の長い目でちらりと私を見てから、訓練施設を後にした。ぱしゅ、と音を立てて、自動開閉式のドアが閉まる。
「ところで、」
 しんとした部屋に、中原さんの声がぽつりと落とされた。
「当日の服ができたと姐さんから聞いたが。どうだった?」
 一瞬だけ、時間が止まる。たしかに今日、私は尾崎幹部から、衣装ができあがったとの報せを受け取った。
「素敵に仕立てていただきました」
 サイズも色も、私にぴったり合うものを仕立ててもらった。尾崎幹部も褒めてくださって、もったいない言葉をいくつももらってしまった。初めての経験でしどろもどろになってしまったけれど、じんわりと上がった胸の温度を今も覚えている。
「それで、その、お代なのですが」
 中原さんの心遣いはありがたいけれど、素直に受け取るわけにはいかなかった。私なんかにそこまでしてくれなくても、という想いが、やっぱり消えない。それなのに、彼は少しも表情を変えてくれなかった。
「ああ。姐さんから聞いてんだろ。別にたいした出費じゃねえよ、心配すんな」
「ですが」
 食い下がろうとすると、低くため息を吐かれる。中原さんは私をじとりと見てから、呆れたように後頭部を軽く掻いた。
「お前には俺が、護衛で連れてく部下のスーツ一式も揃えてやれねえような甲斐性なしに見えてんのかよ?」
「そ、そういうわけでは」
「なら、大人しく受け取っとけ」
 上手く言葉が返せない。云いたいことはたくさんあるのに、中原さんの真っ直ぐな目で射すくめられると、どうにも舌が動かなかった。頭の中が、嵐の夜の海みたいにめちゃくちゃになる。
 押し込めた暴風を、雲を晴らすように少しだけ吐き出した。
「……このままだと、一生かけてもご恩を返しきれません……」
「あ? いいじゃねえか、一生、俺の部下でいれば」
 そんなふうに、なんてことないように云わないでほしい。一寸の虫にも五分の魂。私にとっては、たったひとつの心臓だった。覚悟して明け渡した私が莫迦みたいだ。
 でも中原さんは、揶揄うような目も嘲るような声もしていなくて。あなたはあの夜もそうやって、ただ地を這うだけの芋虫だった私の、眩いばかりの道標になってくれた。そういうところに、私は。
 嵐はやまない。それでも、その向こうで赤く輝くものを知っているから、旅人は歩みを止められないのだ。
「……中原さん」
「なんだ」
「手合わせ、お願いします」
 訓練用のペイント銃を、腰の後ろにしまう。護衛の任務が決まってから、中原さんには、体術の稽古をつけてもらっていた。当然、一本も取れたことはない。
「……疲れてねえのか?」
「強くならないといけないので」
 ずっと、中原さんの部下でいるために。異能もなく、小柄な女として生れた私には、こうして足掻くことしかできないのだ。気遣わしげな目をじっと見つめ返せば、小さくため息を吐かれる。けれどそれも一瞬のことで、中原さんは薄く笑って、羽織っていた外套を脱ぎ捨てた。
「いいぜ、来いよ」
 煽るような指の動き。息を吐く。真っ直ぐに彼を見据えて、無機質に白い床を、蹴る。

 降誕祭当日。長かった今年もおしまいに近づいてきた。窓の外の空は厚い雲が覆っていて、ビルの群れの向こうの海がどんよりと灰色に揺れている。昨日まで稽古に付き合ってもらったのに、結局、中原さんからは一本も取れなかった。惜しい、と思った瞬間すら、彼の手のひらの上だった。彼は異能さえ使っていなかったのに。
「それで元気がないのかえ?」
「……はい」
 正面に立つ美容師さんの肩越しに、尾崎幹部が楽しげに笑うのが見える。私は今、彼女のもとで、今夜の招宴に相応しく着飾ってもらっていた。仕立ててもらったスーツを身につけ、彼女が重用している美容師さんに、メイクを施してもらう。こんなにキラキラしたアイシャドウのパレットなんて、初めて見た。かちかちに固まってしまっている私の緊張を解すように、尾崎幹部は私に向かって微笑んでくれた。
「あの中也に勝てる者など、そうは居らぬ。気にするでないわ」
「ですが、私は護衛です。強くなくては、務まりません」
「護衛、のう……」
 どこか含みのある笑み。普段の着物から招宴用のドレスに着替えた彼女は、同性の私ですら息を呑むような色気を湛えていて、妖精の女王様に似ている。向けられた視線は心の内を見透かすようだ。
 膝の上で握りしめた手のひらに、うっすらと汗が滲む。スーツも、メイクも、私などにはもったいないような素敵なものだ。でも、それを身につけているのは所詮、私。こんなにもうつくしい尾崎幹部の近くに控えているのが私で本当に良いのか、今日までに何度も繰り返した不安が襲う。
 俯きそうになると、美容師さんが顎を指先で掬った。ぐっと力を入れて、前を向く。
「お主、護衛の役目とは何じゃと思う?」
「護衛対象を、暗殺や奇襲から守ることです」
「ふ。真面目じゃのう」
 一通り、メイクが終わる。鏡を見せられて、鼻筋が通っている、という驚きに瞬きをすると、いつもより長い睫毛がぱしぱしと上下する。慣れない。こういう色の口紅は塗ったことがないけれど、いつも使っているものよりも馴染んでいる気がした。
 髪は短いので、軽く整えて髪飾りを付けるだけらしい。手入れが大変だからとすぐに切ってしまっていたけれど、今後は伸ばすべきだろうか。
「護衛が退けるべき刺客は、何も暗殺者らだけではないじゃろう? 特にお主は」
「……え」
 鏡から顔を上げて、尾崎幹部と目が合う。降りた霜にその色を濃くした椛のような鮮やかさに視線を泳がせながら、記憶を辿る。中原さんに教わったのは、怪しい相手を見極める術と、できるだけ暗殺者を生け捕りにしつつ、護衛対象を守る技術。それ以外には、覚えがない。
「なんじゃ、中也から聞いておらぬのかえ?」
「……申し訳ありません……」
「否、お主が謝ることではないぞ。大方、彼奴が妙な気を回したのであろ」
 過保護な奴じゃ、と尾崎幹部は肩をすくめる。中原さんが、私に気を使って伝えなかったこと。少し考えてみても、心当たりは見つからない。でもたしかに、中原さんは私を護衛役に選んだ理由を云わなかった。
 髪を綺麗に梳かされて、片耳にかけるようにしてヘアピンで留められる。それを見て、尾崎幹部が私のほうに近づいてきた。その手には、白銀に輝く何かがある。
「中也が求めるお主の武器は、強さだけではない。これも、そのひとつじゃ」
 そう云って、彼女はそれを私の髪に付けた。雪で染まったようなホワイトゴールドの髪飾り。柊を象った、今夜に似合いの品だ。目を合わせて軽く頷いて、微笑みをくれる。
「よく似合うておる」
「ありがとうございます」
「ほれ、お主も自分で見てみると良いぞ」
 その言葉に、相変わらず淡々と、仕立て屋さんが大きな鏡をカラカラと運んできてくれた。尾崎幹部に背中を押されて、おそるおそる覗き込む。
「こ、れは……」
 鏡の中の人物が誰なのか、一瞬、理解できなかった。目蓋は薄らとピンクに色づいていて、瞬きするたびにラメが光る。
 深い青色に水色のストライプが入り、胸元がVの形に開いたブラウス。その上から真っ白なジャケットを羽織る。私は身丈に比して肩幅が狭く、たいていの洋装は不恰好になってしまうのだが、きちんと採寸して仕立てられたこのスーツは、ぴったりと身体に馴染んだ。パンツの裾のフレアと青色のスリットのおかげで、いつもよりも脚が長く見える。細めのヒールの黒いブーティは、全体の固い印象を少し和らげてくれている。首には水色のチョーカー。小さく揺れる石は一見透明だが、角度によってピンクや黄緑に光るようにカットされていた。少し身動ぎしただけで、髪飾りと一緒にきらきらと光を反射する。
「よくお似合いです」
 鏡の中で、仕立て屋さんが云う。その口元はわずかに綻んでいて、なんだかぐっと息が詰まった。
「尾崎幹部」
「なんじゃ?」
「ありがとうございます」
 私の肩にそっと手を置く彼女に、絞り出すようにして感謝を告げる。こんな上品で煌びやかな恰好を、私ができるなんて思いもしていなかった。慣れていないのに変に浮いていないのは、尾崎幹部の炯眼ゆえだ。花が綻ぶように、彼女はやわらかに笑う。
「気に入ったかえ?」
「私じゃないみたいです」
「ふふ。中也もきっと見惚れるじゃろうて」
 楽しげに落とされた言葉に、呼吸が止まる。鏡の中にじわじわと赤くなっていく自分の顔が見えた。はくはくと無意味に口を開閉する。
「ご冗談を」
「冗談などではないわ。なんじゃ、私の見立てが信用できぬと?」
「いえ、いえ、そうではなく……!」
 じとりとした視線に慌てて首を振ると、尾崎幹部はそっと私の手を取った。促されるままに振り返って、真っ直ぐ目を合わせる。彼女に花を贈ったら、きっと花のほうがその身を恥じて色褪せてしまうのだろう。見惚れる、とは、こういうひとと相対したときに使うのだ、私ではなく。
 尾崎幹部がため息を吐くと、雪の結晶を象ったピアスが揺れる。
「中也がお主を選んだのじゃぞ?」
「……それは、護衛としてであって……」
 中原さんが認めてくれたのはあくまでも私の銃の腕で、こんな綺麗な恰好をして傍に控えていることを求められていたわけではないはずだ。招宴という場に出る以上、多少なりとも着飾る必要はあるけれど、私なんかに、容姿のうつくしさは期待されていない。
 尾崎幹部はもう一度私の目をじっと見てから、ゆるりと眉を下げた。呆れたような、それなのにどこか楽しそうな表情だ。ふ、と小さく息を零す。
「まあ良い。実際に中也と会わせたほうが早そうじゃ。そろそろ彼奴らも待ちくたびれている頃じゃしのう」
「あ……す、すみません、お時間を取らせてしまって」
「なに、男は多少待たせておくくらいでちょうど良い。……ほれ、しゃんとせい。私が見立ててやったのじゃ、自信を持て」
 細く白い手でそっと肩を抱かれて、どきどきしてしまう。そんな私の目を覗き込んで、彼女は悪戯っぽく笑った。
「いつもと違うお主で、中也を悩殺してやるとよいぞ」
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