死がふたりを別つとも

 雨粒のカーテンからずるりと抜け出して、マンションのエントランスの自動ドアをくぐる。折りたたみ傘を手に、降る前に帰ってくるつもりだったのになあ、なんて、詮無いことを考えた。
 LEDがぴかぴか照らす濡れた床の上、重たい足を引きずって、どうにかエレベーターに乗り込んだ。大きくため息を吐きながら、チカチカ光る数字をぼんやりと見つめた。くたくたになった身体をぐっと伸ばして、う、と息が詰まる。背骨が軽く鳴った気もする。週明け早々、今日の仕事は散々だった。……一応断っておくが、自分の仕事に不満を持ったことはない。「融通の効かない、数字を動かすだけの武器商人」。そんなふうに謗られようと、ポートマフィア武器庫管理の役職には、誇りさえある。その一丁の拳銃、一発の弾丸、一時間の射撃訓練が、本部ビルですれ違う彼らの生死を分けると知っているからだ。だというのに。
 思い返すたび、何度でもため息が漏れる。虚言癖と書類の不備の多さで前から危険視していた同期が、ついにたいへんな失態をやらかした。弾倉の発注ミスに、取引先との会合の日程調整ミス。そのうえ、当の本人は問い詰めた途端に雲隠れしてしまったのだから、たまったものじゃない。彼が今まで起こしてきたトラブル──期限ギリギリに書類を回してくるとか、引き受けた仕事にいつまでも手をつけないとか──なら、うちの部署の中だけで対処できたのだけれど、今回ばかりはそうもいかない。先輩には電話口で何度も謝罪させてしまい、私は私で、マフィア本部ビルを上から下まで駆けずり回るはめになった。首領への報告を終えて、紅葉さんの部下の方々と遊撃隊のみなさんに頭を下げて。今日だけで、いったい何度死を覚悟したことか。樋口さんが同情的だったのが、僅かな救いだった。広津さんと芥川さんの静かで鋭い眼光だけが相手であれば、たぶん、十秒ともたずに失神していただろう。
 エレベーターが到着した音にはっとして、肩からずり落ちた鞄をかけ直す。一日中走り回ったから足がぱんぱんになっていて、靴が痛い。でも、あと少しだ。
 目的の扉まで、心做しか速足になりながら辿り着く。鞄からキーケースを取り出すと、水族館で彼と一緒に買ったイルカのキーホルダーの片割れ──学生が付けるみたいな、繋げるとハート型になるやつだ──が揺れて、ふっと頬が緩んだ。カードキーをかざせば、高めの電子音とともに、中の錠が回る音がする。そのまま、半ば倒れるみたいに、玄関に転がり込んだ。
「ただいまぁ……」
 へろへろの声が廊下に響く。びっしょり濡れた折りたたみ傘を、玄関の隅に立てかけておく。しゃがみこんで靴を脱ぐと、ようやく解放された足が、じんわりとした疲れでますます重たくなった。今から夕飯の支度だなんてやっていられないと思うけど、今日の当番は私なのだ。一人暮らしの頃と違って、今は、ちゃんとしたご飯を食べてほしい相手がいる。彼はもう帰ってきているらしく、ぴかぴかの黒い革靴がぴしっと揃えてあった。私のより大きなそれを見てどうにか気合いを入れて、立ち上がる。
 ぱしぱしと両頬を叩いてから、リビングのドアノブに手をかける。遅くなってすみません、すぐにご飯作りますね。そんな言葉を用意しながらドアを開けると、意外な光景が目に飛び込んできた。それと同時に、ふわふわと温かな香りが漂っていることに気づく。
 言葉を失った私を、部屋着にエプロンをつけた中原さんが振り返った。
「おう、おかえり。夕飯できてるから、手ェ洗ってこいよ」

 テーブルに、色鮮やかな料理が並ぶ。鮭の竜田揚げに、なめことお豆腐のお味噌汁、ほうれん草と油揚げのおひたし。おまけに、ご飯はつやつやの新米だ。
「寒くなってきたからな。帰りに緑茶買ってきた」
 そう云って、熱いお茶を淹れてくれる。去年の冬にお揃いで買った湯呑みも、数ヶ月ぶりのお役目に誇らしげだ。
 よし、と中原さんが席につく。ぽかんと立ちっぱなしの私に、呆れたように笑いかけた。
「何突っ立ってんだよ。冷めないうちに食おうぜ」
「へ、あ、はい」
 慌てて向かいの椅子を引く。目の前の食事からは美味しそうな湯気が立っていて、疲れきった脳みそが、ようやく空腹を認識し始めた。
「いただきます」
「おう」
 夢みたいな心地でお箸を持つ。そういえば、夢の中で食べるご飯って、味がしないんだよな。そんなことを思い出してちょっとだけ怖くなりながら、揚げたての竜田揚げを一口齧った。サクサクの衣に脂の乗った身、下味の白だしがふわりと香っている。
「……おいしい……」
「そりゃ良かった」
 中原さんはお味噌汁をひと口飲んで、ん、と小さく頷いた。なめこのとろとろした食感は、じんわりと沁みる温かさが恋しいこの時期にぴったりだ。油揚げがじゅわっと染みてるおひたしには、ふわふわの鰹節がかかっている。目の前が薄く霞むのは、湯気の所為なんかじゃない。
「……あの、中原さん」
「ん?」
「すみませんでした。夕飯、今日は私が作るはずだったのに……」
 ちゃんと分担しようって決めていたのに、ちょっと仕事に追われたくらいで、中原さんに頼りきりになってしまうだなんて。でも、きっと今日の私ではこんなに美味しい夕飯を用意することはできなかったことも、理解している。悔しくて、申し訳なくて、お箸を持つ手に力が入る。
「気にすんな。たまたま俺のほうが早く帰れたってだけだ」
「でも……」
「あとな、こういうときは『ありがとう』って云ってくれよ」
 やさしい声に、胸のあたりがじんわり温かくなる。
「……ありがとうございます」
「おう」
 満足げな笑顔が眩しくて、強ばっていた感情がほどけていく。何も解決なんかしていないのに、それでもいいような気になってしまう。得体の知れない感覚に溺れそうで、でもそれを心地好いと感じてしまうのが、少しだけ怖かった。

「台所は俺がやっとく。風呂、入ってこいよ」
 食事を終えて、椅子から立ち上がりながら中原さんが云う。でも、と言い募る前に、
「俺は、お前が帰ってくる前に入ったから。遅くまで仕事して、疲れてんだろ? ゆっくりしてこい」
と云われてしまう。有無を云わせずにリビングから追い出されてしまって、背中を丸めながらお風呂場に向かった。
 シャワーも湯船も温度が上げてあって、疲労がじわじわと肌から溶け出していくように錯覚する。湯船に浸かりながら、ぼんやりと壁を見つめる。浴室には、窓を叩く雨音が満ちている。ほう、と吐く息は力ない。
 だめだなあ、と、ふと呟いてしまった。一度言葉になってしまった不甲斐なさはどんどん溢れて、視界を滲ませる。一日中ずっと回り続けていた脳みそが、安心感から暴走し始めた。
 今回の同期のミスは、中原さんのところには運良く影響しなかった。本部を駆けずり回っている間にも一度もすれ違わなかったから、たぶん彼は、うちの部署の惨状は知らないだろう。でも、私の顔色や帰宅時間から、忙しかったことは何となく察してくれているようだった。気を遣わせてしまっているのが、ひどく申し訳なくなる。せっかく早く帰れて、中原さんだって、ゆっくりしたかっただろうに。
 仕事が忙しかったなんて、なんの言い訳にもならない。だって、幹部である中原さんの日常のほうがもっと忙しくて、精神的にも肉体的にも疲れているはずなのだ。私の弱音なんか、そよ風にも満たない。それなのに、ああして美味しい夕飯を用意してくれた。私を責めるでもなく、恩に着せるでもなく、ただやさしく笑っていてくれた。無意識のうちに、ぐっと奥歯を噛んでしまう。
 中原さんにも、自分のために作られた美味しい食事を食べてほしい。そう願う気持ちは本物のはずなのに、何もかも上手くいっていない。ぐるぐると回る思考が煮詰まっていく。──こんな私で、いいのかな。
 ぴちゃり、と天井の滴が頭に落ちた。冷たさに意識を引き戻される。いけない。こんなことを考えていたって、どうしようもないのだ。さっさと上がって、早く寝て、明日からはちゃんとしよう。中原さんが笑っているその隣にいても、許されるように。
 よし、と意気込んで湯船から立ち上がったのに、逆上せて少しふらついてしまった。

 春秋用の長袖の寝間着を身につけて、リビングに戻る。髪の毛を乾かす前にお水でも飲んで、火照った身体を冷ましたい。中原さんはもう台所も片付け終えて、テレビのニュース番組を眺めていた。天気予報曰く、明け方にはこの雨も止むらしい。
「お風呂、上がりました。台所もお風呂も、ありがとうございます」
「ああ、気にすんな。ゆっくりできたか?」
「……はい」
 余計なことばかり考えてしまったけど、身体は十分休まったと思う。首にタオルをかけたままうろうろしていると、中原さんがテレビを消して、ちょいちょいと手招きした。
「こっち来い」
「? はい」
 どうしたんだろう。まだ髪の毛は濡れたままだから、寛ぐには早いのに。そう思いながら近づくと、ぐいと手を引かれる。何にも警戒していなかったから、そのまま抵抗もできずにソファに座らされてしまった。
「え、えと、あの……?」
「ちょっと待ってろ」
 そう云い残して、中原さんがリビングを出ていく。何もわからないまま待っていると、彼はすぐに戻ってきた。その手にあったのは、ドライヤーとヘアオイルだ。
「な、中原さん……?」
 驚いている間に、中原さんが私の背後に立つ。まさか、と思って腰を浮かすと、肩を優しく押してもう一度座らされた。
「大人しくしてろ」
「でも」
「いいから」
 そう云って、中原さんは私の首にかかっていたタオルを奪った。それをかぶせられて視界が塞がれると、身動きが取れなくなってしまう。わしわしと髪を拭かれて、幼い子供みたいな気分になった。
「あの、自分でできます」
「知ってる」
 言葉とともに視界が開けた。急な明るさに目をぱちぱちしていると、今度はポンプを数回押す音が聞こえる。顔の横からヘアオイルのボトルを渡されて、つい受け取ってしまった。優しく髪を揉み込むようにオイルを馴染ませてから、指で梳くように撫でられる。ふわりと広がった香りは、ボトルに描かれた花と同じもので。中原さんのことばかり見ている、なんて、大袈裟なんかじゃないのだ。
「熱かったら云えよ」
 カチ、と音がして、ドライヤーが低く唸り始めた。熱くはない。温風と中原さんの手の温度とで、頭がぼうっとしてくる。丁寧に髪を撫でてくれるのが心地好い。あたたかさとやさしさに安心して、身体の力が抜けていく。すごく大事なものみたいに扱ってくれるのが、むず痒いけど、たまらなく嬉しい。熱したチョコレートみたいに、溶けてしまいそう。ずっとこのままでいたい。こうやって、何にも考えずに──。

 そっと肩を抱き寄せられる感触で、目が覚めた。ぱっと隣を見ると、中原さんが座っている。
「悪ィ、起こしちまったか」
 そう云って眉を下げる中原さんの手には、もうドライヤーもタオルもなくて、私の膝の上に乗せていたヘアオイルも片付けられている。髪を乾かしてもらいながら寝てしまったのだと気づいて、顔が熱くなる。
「す……すみません……!」
「謝んなって」
 よしよしと頭を撫でてもらうと、瞼がとろとろと重くなる。また中原さんの肩に頭を預けてしまいそうになって、慌てて姿勢を正した。それを見て小さく笑われて、思わず俯いて両手で顔を覆う。
「うぅ……ちゃんとしようと思ったのに……」
 お風呂での反省をつい零せば、中原さんは意外そうな声を出した。
「お前はいつも、ちゃんとしてるだろ」
「でも……」
 泣き言を云いそうになると、やさしい声で名前を呼ばれた。指の間からそうっと目を開ければ、私の顔を覗き込んでいた中原さんと視線が絡む。慈しむように細められた目に、胸のあたりがきゅっとする。
「今日も遅くまで頑張ってきたんだろ? いいじゃねえか、たまには甘えてくれよ」
 恋人なんだから、と続けられて、泣きそうになる。
「中原さんだって、お疲れなのに……」
「気にすんな。やりたくてやってんだよ」
 云いながらぎゅっと抱き締められると、大好きな匂いが肺を充たしてくれる。じわじわとせり上がってくる涙を抑えられない。ぼろ、と一粒雫が溢れたら、もう止まらなかった。
 温かい手がやさしく背中をさすってくれるのが、心地好い。中原さんの手を煩わせたくなんてないのに、縋ってしまう。深い緋色の部屋着に、涙が濃く染みていく。
「すみ、ません……今日の仕事で、すごく、疲れちゃって……」
「ああ」
「先輩にも……他のみなさんにも、迷惑かけて……私がもっと、あいつのこと、注意してれば……」
「大丈夫だ、お前が頑張ってるのはわかってる」
「でも……中原さんに、まで……こうやって、面倒かけちゃって……っ」
「何が面倒なんだよ。お前だってこの前、俺に膝枕してくれたろ?」
 お互いさまだというその言葉に、不甲斐なさが募る。あれくらい、中原さんがしてほしいならいくらだってする。私だって、甘えてくれて嬉しかったのだ。ぐずぐずと泣きながらそう云えば、
「だから、俺も同じだって云ってんだよ。お前が甘えてくれると、すげえ嬉しいんだぜ」
と笑ってくれた。そっと頭を撫でながら、耳元で、子供に云い聞かせるみたいに低く云う。
「頑張るなとは云わねえ。俺だって幹部だ、お前の仕事が、そう簡単には休めねえ大事なもんだってわかってる。……けどよ、ひとりの男として、同じ家に帰ってきてくれる可愛い恋人のことは、めいっぱい労ってやりてえだろ」
 頑張ったなァ、お疲れさん。あやすみたいなやわらかい声で名前を呼ばれて、喉の奥に固まっていたものがほろほろと崩れていく。
 わかっている。ほんとうは、何にも解決していない。明日も他部署に謝罪と日程調整に行かなきゃいけないし、元凶たる同期もどうにかして捕まえなきゃいけない。本当なら今日のうちに片付けるはずだった書類だって残っている。そのうえ、こんなふうに泣きついて、私は相変わらず不甲斐ない。それでも、こうやって中原さんが認めてくれるなら、他に誰も私を見てくれなくたっていい。一日かけて磨り減ったこころの傷口が、中原さんのおかげで塞がっていく。
 中原さんの背中にそっと腕を回すと、それよりずっと強い力で抱き締め返してくれる。ああ、
「……わたし、だめになっちゃったかもしれません」
 くぐもった鼻声をそれでも拾い上げて、中原さんが小さく笑う。
「どうしたんだよ、急に」
「中原さんがいなかったら、私、生きていけない気がします」
 できるだけ冗談めかした声を出すと、中原さんがぐっと息を詰めたのがわかった。流石に、重たかっただろうか。怖くなって表情を窺おうとしたら、その前にぎゅうっとかき抱かれた。あたたかい。嫌われたわけじゃないとわかって、ほっとする。抱きしめてくれる力が強くてちょっと苦しいけれど、それが心地好かった。
「あのね、中原さん。……大好きです。いつも優しくしてくれて、ありがとうございます」
 どんなに暗くて寒い雨の夜でも、見上げれば、私の一等星が光っている。いつでもやさしく私を照らしてくれるその光が、どれほどこの呼吸を軽くしてくれることか。
 でも、中原さんは小さく息を吐いてから、静かな声で私の名前を呼んだ。
「勘違いすんな。俺はマフィアだぜ、優しさだけでやってるわけねえだろ」
 私の頭を抱く手は、さっき丁寧に髪を乾かしてくれたときと同じもののはずなのに、安心感だけではできていない。くしゃりと髪を指に絡めるように撫でられて、何故だか背筋がぞくりと粟立った。
 耳朶に触れそうな距離で、中原さんが口を開く。低く低く、甘い毒でも流し込むみたいな声。
「そのまま本当に、俺なしじゃ生きられなくなってくれたっていいんだぜ」
 じんわりと耳が熱くなって、ばちばちと頭の中の全部を支配されたみたいな感覚に、目眩がする。あ、とか、う、とか、意味のない音しか発せない。今日の中原さんの声、匂い、体温、笑顔、手料理、その何もかもが血液に乗って全身を駆け巡っていく錯覚。とうにあなたに明け渡してしまった心臓が、ばかみたいに早鐘を打つ。
「……なんてな」
 ぽふ、と、大きな手で頭を撫でられる。見上げた中原さんの目はやさしく細められていて、その声にも、あの火傷しそうなほどの熱はない。ただいつものようにやわらかな温度で、私のことを包み込んでくれる。
「え……あ……」
「お前が珍しいこと云うからだ。……よっぽど疲れてんだな。今日はもう寝ちまおうぜ」
 やさしい声が心地好い。さっきの甘く仄暗い誘惑はあっという間にかき消されてしまったのに、胸の奥はまだ熱く溶けている。いつもなら感じる恥ずかしさを見つけられなくて、今日はこのまま、めいっぱい甘えさせてほしかった。見た目の印象よりもしっかりと詰まった胸板に、ぐりぐりと額を押しつける。
「うん。……あのね、中原さん。寝るとき、ぎゅってしてもらってもいいですか?」
「もちろんだ。悪夢が入り込む隙なんかないくらい、抱きしめてやるよ」
「……中原さんのそういうところ、大好きです」
 そう云うと、やさしく名前を呼ばれる。そうっと顔を上げたら、ちゅ、と触れるだけのキスが落とされた。驚きのままに瞬きを繰り返して、悪戯に成功したみたいな表情の中原さんに頬を撫でられる。もう一度、今度は深く深く口づけられる。舌を絡めとられて、脳髄まで蕩かすように。必死に応えているうちに力が抜ける。ゆっくりと中原さんが離れていくのを見つめながら、肩で息をするので精一杯だ。
 中原さんは小さく笑ってソファから立ち上がると、ひょいと私を抱え上げる。自分で歩けます、なんて、云う気になんかならなかった。

 翌朝、天気予報で云っていたとおり、雨はもう止んでいた。水たまりには低い曇天が映り込んでいたけれど、マフィア本部ビルへ向かう足取りは、決して重くはなかった。
 先輩と分担して、溜まった書類を片付けていく。問題の同期のデスク周りの大量のメモをうっかり解読した所為で、彼が抱えたままの取引もいくつかあることに気付いて、頭を抱えた。仕事を発掘してはこなして、その合間に提出される戦闘訓練施設の利用申請も確認して。午後はまた取引先や他部署に行かなければならないから、お昼前には、できる限りこの未処理フォルダを軽くしておかないといけなかった。何もかもを投げ出して床に倒れ込んでしまいたい衝動に駆られるけれど、ぐっと堪える。それだけの気力は、昨日ちゃんと補充させてもらったのだ。
 マラソンみたいに仕事を続けて、どうにかお昼休憩までは持ちこたえた。ひと息つきつつ、何度か同期の携帯端末を鳴らしてみたが、当然のように応答はない。先輩と一緒に、まあそうだよね、などと半ば諦めて笑う。午後に向けて体力を回復しないといけないから、今朝、中原さんとふたりで詰めてきたお弁当を開けた。中身は、昨日の夕飯の竜田揚げとおひたし、白いご飯に、朝食のついでに作っただし巻き玉子だ。「昼飯食いに行く時間もねえんだろ」と云って、昨日のうちにおかずを取り分けておいてくれた中原さんを思い出す。彼がいなかったら、たぶん、お弁当なんて用意する気も起きなくて、ゼリー飲料か何かで済ませていたことだろう。冗談めかして零したあの言葉は、八割くらい真実だった。
 中原さんも今頃、お弁当食べてるかな。そんなことを思いながら黙々と箸を動かしていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。驚いて動きを止めると、また、コンコンコン、と音が響く。磨り硝子の小窓の向こうにはいくつかの人影が見えた。慌てて立ち上がって、またあの同期の不始末だろうか、なんて考えながら扉を開く。怒号を覚悟していたのに、響いたのは、老紳士の低く穏やかな声だった。
「食事中に失礼する。可能な限り早く引き渡したほうが良いかと思ってね」
 そこにいたのは、昨日も顔を合わせた遊撃隊の五人と──失踪中であるはずの、同期だった。
「…………え?」
 彼は漫画みたいにロープでぐるぐる巻きにされて、立原さんに首根っこを掴まれている。おまけに口にはガムテープが貼ってあって、床に放り投げられるなり、目だけで必死に助けを求めてきた。
 突っ立ったままの私の隣に先輩が駆けてきて、目の前の光景に、同じように愕然とする。二人揃って動かなくなってしまったのを見て、芥川さんが静かに云った。
「所持していた端末も凡て押収した。僕には理解らぬが、貴様らの仕事道具なのだろう」
 その言葉で、ようやく理解が追いつく。
「……わざわざ、捕まえてきてくださったんですか……?」
「普段、世話ンなってるからな」
 立原さんがそう云うと、隣で銀さんが頷いた。樋口さんは気まずそうにちょっと視線を逸らしていて、いつかの夜中に、突然、彼女に銃の持ち出し許可を求められたことがあったのを思い出す。あのときは、直後に黒蜥蜴のみなさんもなだれ込んできて、ちょっとした騒ぎになったのだ。
「武器庫をきちんと管理してくださるみなさんのおかげで、私たちは戦えます。ですから、このくらいは」
 軽く頬を掻きながら、樋口さんはそう云った。その横で、立原さんがふんと鼻を鳴らす。
「それに、俺らも此奴には腹立ってたからな。余計なことしか云わねえンだよ」
「……もちろん、我ら遊撃隊でも、独断で身内の始末はできないからね。中也君が昨日の昼間、捕縛までなら構わないとの首領の許可を取ってきてくれた」
 広津さんがそう話を継いで、それから、
「紅葉君からも言伝を預かっている。拷問が必要ならば連絡するように、とのことだ。……彼をどうするかは、君たち次第というわけだ」
と締め括った。渦中の彼は、足元に転がされたまま、ガクガクと震えている。おおかた、下手に抵抗でもして、既に散々痛めつけられたのだろう。立原さんの言葉を聞くに、きっと失礼なこともたくさん云ったのだ。今更、同情する気なんて起きやしない。
 先輩としばらく顔を見合わせて、小さく頷く。何も云わずとも、お互い、彼をどうするべきかはわかっていた。

 同期に脳内の情報を全て吐き出してもらってから、私と先輩は、事前に決めておいたスケジュールをこなしていた。本部ビルを駆け回るのは、云ってしまえば昨日と同じ。けれど、気分は全然違う。このビルにいるひとたちは、みんな、私の敵なんかじゃない。最上階の大きな窓から見下ろした街には、厚い雲の間から、陽光がヴェールのように降り注いでいた。
 首領執務室を後にして、エレベーターに乗り込む。緊張が解けて小さく息を吐き出すのと、すぐ下の階で箱が止まるのとが同時だった。扉が開いて、黒い影が一人乗ってくる。黒手袋を嵌めた手をポケットに突っ込んで立つ彼に、私は一歩、距離を詰めた。
「中原さん。あの、ありがとうございます」
「何がだよ?」
「……わかってるくせに」
 広津さんは、首領からあの同期の捕縛許可を得たのは、昨日の昼間のことだと云っていた。つまり中原さんは、夜に私がああやって弱音を吐く前から、うちの部署の惨事を知っていたということになる。もちろん、彼がしてくれたことが、全部私だけのためだなんて自惚れるつもりはない。彼は、誇り高きマフィア幹部だ。でも。
 昨晩の中原さんの言葉を思い出す。夕飯の支度は、たまたま早く帰れたからやっただけ、なんて。さっき、首領から聞いたのだ。中原さんが昨日、かつてないような速さで書類を片付けて、突風みたいに帰っていったということを。
 視線を下げて、並んだ足先を見つめる。私のより少し大きな靴は、いつだってぴかぴかに磨かれている。
「あのね、私、中原さんにだめにされちゃうの、嫌じゃないんです」
「……お前なァ」
 困ったように眉を下げた彼を見上げる。いつの間にかポケットから出されていた手に指を絡めて、笑いかけた。
「でも、私、頑張りますね。中原さんが私にしてくれることの、半分も返せないかもしれないけど……だけど、ちゃんと頑張るから。だから、これからもこうやって、隣にいさせてくださいね」
 私が願いをかける星は、中原さんだけ。あなたがいるから、私は夜空を見上げている。こうやって目を合わせるときの角度は、私だけのものだ。
 中原さんはきゅっと手を握り返して、じっと私の瞳を覗き込んでくる。
「何の心配してんだよ。地獄に堕ちても一緒だって、約束したろ」
「うん。……うん。そう、ですよね」
 中原さんの腕に、そっと肩をくっつける。昨日の弱気はもうどこにもなくて、でも、大好きな温度を感じていたかった。どんなときも、隣にいるのはあなたがいい。
「そうだ、姐さんから聞いたぜ。ただでさえ人数少ねえ部署なのに、一人減っちまって大丈夫なのかよ?」
「後始末は、今週いっぱいかかりそうですけど……でも、無駄な仕事を増やすやつが消えたので、これからはむしろ、楽になると思います」
「ふは。云うじゃねえか」
 そう笑いながら、中原さんは私の頭をくしゃりと撫でた。それとほぼ同時に、エレベーターが止まる。中原さんの降りる階だ。彼は一瞬だけやさしく目を細めてから、嬉しそうにニッと歯を見せて笑った。
「弁当の卵焼き、美味かったぜ」
 ぽんぽん、と最後に頭を撫でてから、ひらひらと手を振って降りていく。返事をする間もなく扉が閉まって、私はひとり取り残されてしまった。全身から力が抜けて、思わず壁に寄りかかる。頭を撫でてくれた手の感覚が、まだ残っている。顔が熱い。
 目的の階に着いて、熱に浮かされたまま、ふらふらと箱を降りる。大きく深呼吸をしてから、ポケットに入れていた携帯端末を取り出した。メッセージアプリのアイコンをタップして、一番上にピン留めされた中原さんとのトーク画面を開く。
『今度のお休みは、中原さんの食べたいもの作ります』
『何がいいか、考えておいてくださいね』
 それだけ送信して、端末をしまった。ちゃんと休日が来るように、とっとと仕事を片付けないと。よし、と手のひらで頬を叩いて、陽光の射し込む廊下を駆け出した。
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