死がふたりを別つとも
さらさらと砂時計の砂が落ちる音が、静かなキッチンに響く。お揃いで買ったマグカップの片割れは、お湯でしっかり温めておいた。砂が全部落ちたのを確認する。濃いのが好きなので、長めに五分だ。一人用のポットに淹れたアッサムをカップに注いで、牛乳をたっぷりと。ゆるく立ち上る湯気はなんだかデジャヴみたいで、心地好い。休日のお昼前、どこか物憂く怠惰な気配が漂う。日付が回ってから帰ってきた彼は、まだ寝室で眠っている。あの様子では、きっとまた宿酔だろう。
ミルクティーを片手にソファでくつろいでいると、がちゃりと寝室のドアが開く音がした。続いて、洗面所の水音。ドライヤーの音がしなくて、ああ、やっぱり今日は外に出る気力はないんだなと理解する。
そのまま廊下の向こうに意識を傾け続けていると、洗濯機が回り始めた音がする。今日はお天気が良いからと、さっき、いつもソファに置いてあるクッションも放り込んでおいた。それを見て、もう私が出す洗濯物はないとわかったから、電源を入れてくれたのだろう。
ぱた、ぱた、と、スリッパの足音が近付いてくる。じっとそちらを見ていると、お化けみたいな顔色の中原さんが現れた。
「はよ……」
「おはようございます。大丈夫……では、なさそうですね」
ふらふらとキッチンに向かう中原さんは、姿勢が少し悪い所為か、心做しかいつもよりも小さく見える。コップに注いだ水を一気に飲み干して、呟く。
「飲みすぎた……」
何度繰り返しても、懲りないひとだ。ソファに座ったまま、部屋着の背中に声をかける。
「もう。昨日は誰と飲んでたんですか?」
「広津……」
背の高い紳士の姿を思い出す。一緒になって騒ぐ方ではないけれど、かと云って、中原さんの飲みすぎを積極的に止めてくれるわけでもない。何を云ったところで、酔った彼は聞きやしないとわかっているからだ。
中原さんが戸棚を開けて、インスタントのお味噌汁を取り出す。月に一、二度あるこんな朝のために、箱で常備してあるものだ。ケトルの電源を入れると、すぐにぱちんとお湯が沸く。さっき私が紅茶を淹れるときに、たっぷり沸かしておいたからだ。宿酔の中原さんのルーティンは、だいたい把握している。お味噌汁と、ご飯にふりかけ。凝った朝ご飯を二人で作るときもあるけれど、元気がないときまで無理する必要なんてない。インスタントと冷凍ご飯だって、ちゃんと食べるだけ上出来である。
「お前は? 飯、食ったのか?」
「はい、トーストとオムレツを。……あ、そうだ。今日は上手くトロトロにできたんですよ。コツを掴んだかもしれません」
「マジか。ちゃんと起きりゃあ良かったな……」
「それじゃあ、明日もオムレツにしましょうか」
「お、いいな」
そうやってちょっと笑ってくれたから、ほっとする。酷いときは、こんなたわいない会話さえままならないほどぐったりしてしまって、一日中寝ていたりするのだ。心配になって寝室の外を無闇にうろうろしてしまうから、余計に寂しさが募る。でも、今日は大丈夫だった。
もくもくと朝ご飯を食べる姿をぼんやりと見つめる。お箸の持ち方は綺麗だし、余計な音は立てない。向かいに私がいないから、特に話すこともない。もちろん、宿酔で元気がないから、というのもあるだろうけれど。黙って咀嚼を続けるさまは、なんだかうさぎみたいだ。
「……どうした?」
「え?」
「ずっとこっち見てるからよ。何かあったか?」
そう云ってお味噌汁を飲む中原さんは、何故だかそれだけでちょっと絵になっていて、不思議だな、なんて思う。私や他のひとが同じことをしたって、こうはならない。
マグカップを両手で包んで、やわらかなベージュの水面を見つめる。あたたかさをカラーコードに変換したら、きっとこの色になるんだろう。砂糖を入れずともほんのりと甘みを感じるそれはやさしい中原さんにどこか似ているかも、なんて。元々好きだったものが、どんどん中原さんに紐付けられていってしまう。
「中原さんって、かっこいいですよね」
「……は?」
怪訝そうな返事に笑いが零れる。
「飯食ってるだけだぞ」
「ふふ。わかんないなら、いいです」
笑って返して、ミルクティーを一口飲む。中原さんは首を捻ってから、またもくもくと朝ご飯を食べ始めた。
しばらくして、中原さんがご馳走さま、と手を合わせたのと同じタイミングで、洗濯機がピーピーと鳴った。台所は中原さんにお任せして、洗濯物を干す。クッションは、中の綿が偏らないように平らにしておく。私が一人暮らししていた家から持ってきたお気に入りで、かれこれ数年は頑張ってくれているものだ。ちゃんと手入れしていつもふかふかにしてあるから、最近は中原さんが使っていることもある。ふざけて取り合いなんてして、笑い合うこともしょっちゅうだ。
ひと通り干してリビングに戻ると、ちょうど中原さんも食器を片付け終わったところだった。二人でソファに並んで座って、明日はどこかに出かけようかとか、SNSで見たカフェに行ってみたいだとか、そういう話をする。
「そのカフェって、この前行きたいって云ってた水族館の近くじゃねえか?」
ほら、と携帯端末の画面を見せられる。たしかに、そのマップアプリ上のカフェの近くには、大きめの建物があった。よく見ると、ピンが刺してある。
「ほんとですね!」
「だよな? じゃあ、せっかくだしどっちも行くか」
ご機嫌に笑う横顔に、全力で頷く。こうやって、付き合ってからだいぶ経っても私とのデートを計画してくれるのが、嬉しくてたまらない。
「そういえば、そのピン、何ですか?」
「あ? あー……」
ぽちぽちと操作して、ピンのリストを見せてくれる。
「お前が行きたいって云ってたとこ、メモしてんだよ」
「……ぜ、全部ですか……?」
「当然だろ」
カフェ、水族館、美術館、レストラン。いくつもの場所が載ったリストには私の名前が冠してあって、嬉しいやら照れくさいやらわからなくなる。ぱしぱしと軽く腕を叩くと、彼はやわらかく笑った。
「明日は早く起きねえとなァ」
「そうですね。なので、今夜は夜更かしはなし、ですよ」
あからさまに拗ねたような表情になる中原さんに、もう、と頬を膨らます。
「宿酔なんでしょう?」
「夜には治す」
「だめです、明日はデートなんですから」
残念そうにため息を吐いて、中原さんが背もたれに寄りかかる。
「しょうがねえ、今日は大人しくしとくか」
うんうん、と頷いて、ソファから立ち上がる。
「中原さん、ほら、ここで寝てていいですよ。私、そっちのテーブルで本読んでますから」
「あ? 別にそこまで弱ってねえよ、宿酔くらいで」
云いながらも、私が座っていたところに頭をごろりと横たえる。やっぱりちょっとはしんどいらしい。でも、何か違和感があったのか、すぐに起き上がってしまう。
「ここのクッション……って、ああ、さっき洗ったのか」
「ええ。……あ、そっか。寝室から、枕持ってきましょうか?」
そう問えば、うーんとちょっと考えてから、いや、いい、と返された。そしてそのまま、ちょいちょいと手招きされる。
「膝枕、してくれよ」
「……へ?」
「いいだろ。弱ってんだよ」
さっきと云ってることが違う! と云いたくなるけれど、そんな不満はにやりと笑った目に吸い込まれてしまう。視線を泳がせるのすら許されないみたいな気になって、私はまた、さっきまで座っていたところに戻った。
「……少しだけ、ですよ」
「ありがとな」
云いながら、中原さんがそっと私の太ももに頭を乗せた。嬉しそうな顔と目が合って、なんだか変な感じだ。
「やわらけえな」
「そ……そんなこと云ってると、もうやめちゃいますよ……!」
「っはは、悪い」
伸びてきた手に頬を撫でられる。心地好い温度に身を委ねていると、指先が耳を掠めた。ぞわりと背筋が粟立って、咄嗟にその手を掴む。中原さんは楽しそうに笑っている。
「中原さん……!」
怒ってみせても、熱くなった顔では効果がない。仕方ないので、捕まえた手指に自分のそれを絡めて、もう悪戯なんてできないようにする。そうしたら、優しく握り返された。
せっかく膝枕をしているのだからと、空いているもう片方の手で、中原さんの頭をそっと撫でる。ちょっと目を見開いてから、でもすぐに穏やかな笑みに変わった。くあ、と欠伸をして、本当に眠ってしまいそう。子供みたいだ。
「……悪いな、かっこ悪くてよ」
その言葉で、つい笑ってしまっていたことに気づく。
「かっこ悪くなんて、ないですよ」
「笑ってたろ」
「それは、」
云っていいものか迷うけれど、大好きなことには変わりないから、そっと口を開く。
「かわいいなって、思ったので」
「……んだよ、それ」
むすっとして、寝返りをうってしまう。でも、ちらりと見える耳がほんのり色づいているから、伝わったのだと思いたい。
「中原さんをかっこ悪いなんて思ったこと、一度もないです」
云いながら頭を撫でると、小さな声でおう、と返事が聞こえた。かわいい。いつも私にかわいいと云ってくれるのに、中原さん自身は、云われると照れてしまうみたいだった。なんとなく、今日は勝った気分になる。
機嫌よく、中原さんの髪の毛を指先で梳く。細い毛がやわらかな曲線を描いて、綺麗な丸い頭を包んでいる。
「髪、伸びてきましたね」
「あー……そろそろ切るか」
明るい髪色。いつかに一緒に動物園に行ったとき、ライオンと同じ色なのだと気づいた。それと、あたたかなミルクティー。
「そういえば、中原さんって、昔はもっと髪短かったんですね」
「……あ?」
「紅葉さんにね、見せてもらったんです。昔の写真」
「……マジかよ……」
「ふふ、マジです」
いくつくらいの頃だろう。私がポートマフィアに入るより前の、まだ幼さの残る中原さんの写真。ちょっと恰好つけて写るところや、聡明そうな鋭い瞳は今と変わらなくて、服装や髪型や、それから身長なんかは、少しは違っていた。
「あの赤いバイク、昔から乗ってたんですね」
「ああ、あれか」
一瞬、何かを決心するような呼吸が挟まる。
「昔、仲間にもらったんだよ」
海の上を沖へと吹く風みたいに限りなく透明になった声色に、誰ですか、とは聞けなかった。数年一緒にいても、私の知らない中原さんがこうしてたまに後ろ姿を見せる。その背中を追いかけるのは、彼がこちらを振り返ったときだけだと決めていた。そして、今はそのときじゃない。
「かっこいいですよね、あのバイク」
「お、わかるか?」
声がいつもの調子に戻って、もぞもぞと寝返りをうった。中原さんの顔が、またこちらを向く。
「後ろにお前を乗せて、海まで行ったりしたよな」
「帰りの時間のこと考えてなくて、ホテルに困ったりしましたね」
「なんだよ、いい思い出だろ?」
「もちろん」
そうやって笑って、手を繋ぐ。やっぱり、あたたかい。……中原さんにバイクをくれたひとも、きっとあたたかな手のひらをしていたのだろう。
「……ねえ、中原さん」
「ん?」
「私より先に死んだら、いやですよ」
「急にどうした?」
困ったように笑いかけてくれるけれど、死なないとは云ってくれない。ぎゅっと手を握る。
「中原さんが先に死んじゃったら、私、お盆にどこに帰ったらいいかわかりません」
「お前、方向音痴だもんな」
握り返してくれる手が力強くて、安心する。このままずっと、あたたかくて強くてやさしいあなたでいてほしい。
「じゃあ、そのあと俺が死んだら、どうすんだよ?」
「そのときは、お盆なんて忘れて、一緒にあの世観光でもしましょうね」
「……俺は地獄行きだぞ、たぶん」
「ふふ、私だって。これでもマフィアなんですよ?」
繋いだ手を頬に寄せる。いくつもの命を狩りとって血に濡れた、大好きな手。その温度はちゃんと伝わっているし、絡めた指の約束も、一度も破られたことはない。だからきっと、明日も、いつかの未来の地獄でも、中原さんは私の隣にいてくれる。
「楽しみですね、カフェと水族館」
「朝飯のオムレツもな」
「上手くトロトロにできるように頑張りますね」
そうやって笑ってから、ふと気づく。
「あれ? たまご、あといくつでしたっけ」
「あ? あー、そういや見てねえな……」
うんうんと記憶を遡って、あとふたつあるから中原さんが食べたいと云っても大丈夫だ、と思ったのを思い出す。買い置きはなかったはずだ。
「すみません、ちょっと買ってきます」
立ち上がろうとすると、中原さんが起き上がって伸びをした。
「俺も行く」
「え、でも、宿酔……」
「だいぶ回復した。ありがとな」
ぽふぽふと頭を撫でられる。立ち上がってからもう一度伸びをすると、部屋着の下のお腹がちらりと見えた。
「着替えてくるから、ちょっと待っててくれ」
そう云い残して、中原さんがリビングを出ていく。廊下から聞こえてきたスリッパの足音は、起きてきたときよりもしっかりしていた。
よし、と私も立ち上がろうとして、ふらり、またソファに座り込んだ。脚が痺れて、動けない。
「……ふふ」
太ももがまだうっすらとあたたかい。中原さんの頭の残像が乗っているみたいだ。じんわりとぴりぴりするのも、あの心地好い重さの名残りだと思えば、愛おしくなる。
もう治ったかな、まだだめか、なんて何度か試していれば、中原さんの足音がまた聞こえる。もう着替え終えたらしい。それなら、動けない、と云って困らせてみてもいいと思った。悪戯で足をつつかれるかもしれないし、お姫様抱っこで運んでくれる、なんてこともあるかもしれない。
「たまご以外に買うもんあるか?」
そう云いながらリビングに戻ってきた中原さんに向かって、甘えるように両腕を広げた。
ミルクティーを片手にソファでくつろいでいると、がちゃりと寝室のドアが開く音がした。続いて、洗面所の水音。ドライヤーの音がしなくて、ああ、やっぱり今日は外に出る気力はないんだなと理解する。
そのまま廊下の向こうに意識を傾け続けていると、洗濯機が回り始めた音がする。今日はお天気が良いからと、さっき、いつもソファに置いてあるクッションも放り込んでおいた。それを見て、もう私が出す洗濯物はないとわかったから、電源を入れてくれたのだろう。
ぱた、ぱた、と、スリッパの足音が近付いてくる。じっとそちらを見ていると、お化けみたいな顔色の中原さんが現れた。
「はよ……」
「おはようございます。大丈夫……では、なさそうですね」
ふらふらとキッチンに向かう中原さんは、姿勢が少し悪い所為か、心做しかいつもよりも小さく見える。コップに注いだ水を一気に飲み干して、呟く。
「飲みすぎた……」
何度繰り返しても、懲りないひとだ。ソファに座ったまま、部屋着の背中に声をかける。
「もう。昨日は誰と飲んでたんですか?」
「広津……」
背の高い紳士の姿を思い出す。一緒になって騒ぐ方ではないけれど、かと云って、中原さんの飲みすぎを積極的に止めてくれるわけでもない。何を云ったところで、酔った彼は聞きやしないとわかっているからだ。
中原さんが戸棚を開けて、インスタントのお味噌汁を取り出す。月に一、二度あるこんな朝のために、箱で常備してあるものだ。ケトルの電源を入れると、すぐにぱちんとお湯が沸く。さっき私が紅茶を淹れるときに、たっぷり沸かしておいたからだ。宿酔の中原さんのルーティンは、だいたい把握している。お味噌汁と、ご飯にふりかけ。凝った朝ご飯を二人で作るときもあるけれど、元気がないときまで無理する必要なんてない。インスタントと冷凍ご飯だって、ちゃんと食べるだけ上出来である。
「お前は? 飯、食ったのか?」
「はい、トーストとオムレツを。……あ、そうだ。今日は上手くトロトロにできたんですよ。コツを掴んだかもしれません」
「マジか。ちゃんと起きりゃあ良かったな……」
「それじゃあ、明日もオムレツにしましょうか」
「お、いいな」
そうやってちょっと笑ってくれたから、ほっとする。酷いときは、こんなたわいない会話さえままならないほどぐったりしてしまって、一日中寝ていたりするのだ。心配になって寝室の外を無闇にうろうろしてしまうから、余計に寂しさが募る。でも、今日は大丈夫だった。
もくもくと朝ご飯を食べる姿をぼんやりと見つめる。お箸の持ち方は綺麗だし、余計な音は立てない。向かいに私がいないから、特に話すこともない。もちろん、宿酔で元気がないから、というのもあるだろうけれど。黙って咀嚼を続けるさまは、なんだかうさぎみたいだ。
「……どうした?」
「え?」
「ずっとこっち見てるからよ。何かあったか?」
そう云ってお味噌汁を飲む中原さんは、何故だかそれだけでちょっと絵になっていて、不思議だな、なんて思う。私や他のひとが同じことをしたって、こうはならない。
マグカップを両手で包んで、やわらかなベージュの水面を見つめる。あたたかさをカラーコードに変換したら、きっとこの色になるんだろう。砂糖を入れずともほんのりと甘みを感じるそれはやさしい中原さんにどこか似ているかも、なんて。元々好きだったものが、どんどん中原さんに紐付けられていってしまう。
「中原さんって、かっこいいですよね」
「……は?」
怪訝そうな返事に笑いが零れる。
「飯食ってるだけだぞ」
「ふふ。わかんないなら、いいです」
笑って返して、ミルクティーを一口飲む。中原さんは首を捻ってから、またもくもくと朝ご飯を食べ始めた。
しばらくして、中原さんがご馳走さま、と手を合わせたのと同じタイミングで、洗濯機がピーピーと鳴った。台所は中原さんにお任せして、洗濯物を干す。クッションは、中の綿が偏らないように平らにしておく。私が一人暮らししていた家から持ってきたお気に入りで、かれこれ数年は頑張ってくれているものだ。ちゃんと手入れしていつもふかふかにしてあるから、最近は中原さんが使っていることもある。ふざけて取り合いなんてして、笑い合うこともしょっちゅうだ。
ひと通り干してリビングに戻ると、ちょうど中原さんも食器を片付け終わったところだった。二人でソファに並んで座って、明日はどこかに出かけようかとか、SNSで見たカフェに行ってみたいだとか、そういう話をする。
「そのカフェって、この前行きたいって云ってた水族館の近くじゃねえか?」
ほら、と携帯端末の画面を見せられる。たしかに、そのマップアプリ上のカフェの近くには、大きめの建物があった。よく見ると、ピンが刺してある。
「ほんとですね!」
「だよな? じゃあ、せっかくだしどっちも行くか」
ご機嫌に笑う横顔に、全力で頷く。こうやって、付き合ってからだいぶ経っても私とのデートを計画してくれるのが、嬉しくてたまらない。
「そういえば、そのピン、何ですか?」
「あ? あー……」
ぽちぽちと操作して、ピンのリストを見せてくれる。
「お前が行きたいって云ってたとこ、メモしてんだよ」
「……ぜ、全部ですか……?」
「当然だろ」
カフェ、水族館、美術館、レストラン。いくつもの場所が載ったリストには私の名前が冠してあって、嬉しいやら照れくさいやらわからなくなる。ぱしぱしと軽く腕を叩くと、彼はやわらかく笑った。
「明日は早く起きねえとなァ」
「そうですね。なので、今夜は夜更かしはなし、ですよ」
あからさまに拗ねたような表情になる中原さんに、もう、と頬を膨らます。
「宿酔なんでしょう?」
「夜には治す」
「だめです、明日はデートなんですから」
残念そうにため息を吐いて、中原さんが背もたれに寄りかかる。
「しょうがねえ、今日は大人しくしとくか」
うんうん、と頷いて、ソファから立ち上がる。
「中原さん、ほら、ここで寝てていいですよ。私、そっちのテーブルで本読んでますから」
「あ? 別にそこまで弱ってねえよ、宿酔くらいで」
云いながらも、私が座っていたところに頭をごろりと横たえる。やっぱりちょっとはしんどいらしい。でも、何か違和感があったのか、すぐに起き上がってしまう。
「ここのクッション……って、ああ、さっき洗ったのか」
「ええ。……あ、そっか。寝室から、枕持ってきましょうか?」
そう問えば、うーんとちょっと考えてから、いや、いい、と返された。そしてそのまま、ちょいちょいと手招きされる。
「膝枕、してくれよ」
「……へ?」
「いいだろ。弱ってんだよ」
さっきと云ってることが違う! と云いたくなるけれど、そんな不満はにやりと笑った目に吸い込まれてしまう。視線を泳がせるのすら許されないみたいな気になって、私はまた、さっきまで座っていたところに戻った。
「……少しだけ、ですよ」
「ありがとな」
云いながら、中原さんがそっと私の太ももに頭を乗せた。嬉しそうな顔と目が合って、なんだか変な感じだ。
「やわらけえな」
「そ……そんなこと云ってると、もうやめちゃいますよ……!」
「っはは、悪い」
伸びてきた手に頬を撫でられる。心地好い温度に身を委ねていると、指先が耳を掠めた。ぞわりと背筋が粟立って、咄嗟にその手を掴む。中原さんは楽しそうに笑っている。
「中原さん……!」
怒ってみせても、熱くなった顔では効果がない。仕方ないので、捕まえた手指に自分のそれを絡めて、もう悪戯なんてできないようにする。そうしたら、優しく握り返された。
せっかく膝枕をしているのだからと、空いているもう片方の手で、中原さんの頭をそっと撫でる。ちょっと目を見開いてから、でもすぐに穏やかな笑みに変わった。くあ、と欠伸をして、本当に眠ってしまいそう。子供みたいだ。
「……悪いな、かっこ悪くてよ」
その言葉で、つい笑ってしまっていたことに気づく。
「かっこ悪くなんて、ないですよ」
「笑ってたろ」
「それは、」
云っていいものか迷うけれど、大好きなことには変わりないから、そっと口を開く。
「かわいいなって、思ったので」
「……んだよ、それ」
むすっとして、寝返りをうってしまう。でも、ちらりと見える耳がほんのり色づいているから、伝わったのだと思いたい。
「中原さんをかっこ悪いなんて思ったこと、一度もないです」
云いながら頭を撫でると、小さな声でおう、と返事が聞こえた。かわいい。いつも私にかわいいと云ってくれるのに、中原さん自身は、云われると照れてしまうみたいだった。なんとなく、今日は勝った気分になる。
機嫌よく、中原さんの髪の毛を指先で梳く。細い毛がやわらかな曲線を描いて、綺麗な丸い頭を包んでいる。
「髪、伸びてきましたね」
「あー……そろそろ切るか」
明るい髪色。いつかに一緒に動物園に行ったとき、ライオンと同じ色なのだと気づいた。それと、あたたかなミルクティー。
「そういえば、中原さんって、昔はもっと髪短かったんですね」
「……あ?」
「紅葉さんにね、見せてもらったんです。昔の写真」
「……マジかよ……」
「ふふ、マジです」
いくつくらいの頃だろう。私がポートマフィアに入るより前の、まだ幼さの残る中原さんの写真。ちょっと恰好つけて写るところや、聡明そうな鋭い瞳は今と変わらなくて、服装や髪型や、それから身長なんかは、少しは違っていた。
「あの赤いバイク、昔から乗ってたんですね」
「ああ、あれか」
一瞬、何かを決心するような呼吸が挟まる。
「昔、仲間にもらったんだよ」
海の上を沖へと吹く風みたいに限りなく透明になった声色に、誰ですか、とは聞けなかった。数年一緒にいても、私の知らない中原さんがこうしてたまに後ろ姿を見せる。その背中を追いかけるのは、彼がこちらを振り返ったときだけだと決めていた。そして、今はそのときじゃない。
「かっこいいですよね、あのバイク」
「お、わかるか?」
声がいつもの調子に戻って、もぞもぞと寝返りをうった。中原さんの顔が、またこちらを向く。
「後ろにお前を乗せて、海まで行ったりしたよな」
「帰りの時間のこと考えてなくて、ホテルに困ったりしましたね」
「なんだよ、いい思い出だろ?」
「もちろん」
そうやって笑って、手を繋ぐ。やっぱり、あたたかい。……中原さんにバイクをくれたひとも、きっとあたたかな手のひらをしていたのだろう。
「……ねえ、中原さん」
「ん?」
「私より先に死んだら、いやですよ」
「急にどうした?」
困ったように笑いかけてくれるけれど、死なないとは云ってくれない。ぎゅっと手を握る。
「中原さんが先に死んじゃったら、私、お盆にどこに帰ったらいいかわかりません」
「お前、方向音痴だもんな」
握り返してくれる手が力強くて、安心する。このままずっと、あたたかくて強くてやさしいあなたでいてほしい。
「じゃあ、そのあと俺が死んだら、どうすんだよ?」
「そのときは、お盆なんて忘れて、一緒にあの世観光でもしましょうね」
「……俺は地獄行きだぞ、たぶん」
「ふふ、私だって。これでもマフィアなんですよ?」
繋いだ手を頬に寄せる。いくつもの命を狩りとって血に濡れた、大好きな手。その温度はちゃんと伝わっているし、絡めた指の約束も、一度も破られたことはない。だからきっと、明日も、いつかの未来の地獄でも、中原さんは私の隣にいてくれる。
「楽しみですね、カフェと水族館」
「朝飯のオムレツもな」
「上手くトロトロにできるように頑張りますね」
そうやって笑ってから、ふと気づく。
「あれ? たまご、あといくつでしたっけ」
「あ? あー、そういや見てねえな……」
うんうんと記憶を遡って、あとふたつあるから中原さんが食べたいと云っても大丈夫だ、と思ったのを思い出す。買い置きはなかったはずだ。
「すみません、ちょっと買ってきます」
立ち上がろうとすると、中原さんが起き上がって伸びをした。
「俺も行く」
「え、でも、宿酔……」
「だいぶ回復した。ありがとな」
ぽふぽふと頭を撫でられる。立ち上がってからもう一度伸びをすると、部屋着の下のお腹がちらりと見えた。
「着替えてくるから、ちょっと待っててくれ」
そう云い残して、中原さんがリビングを出ていく。廊下から聞こえてきたスリッパの足音は、起きてきたときよりもしっかりしていた。
よし、と私も立ち上がろうとして、ふらり、またソファに座り込んだ。脚が痺れて、動けない。
「……ふふ」
太ももがまだうっすらとあたたかい。中原さんの頭の残像が乗っているみたいだ。じんわりとぴりぴりするのも、あの心地好い重さの名残りだと思えば、愛おしくなる。
もう治ったかな、まだだめか、なんて何度か試していれば、中原さんの足音がまた聞こえる。もう着替え終えたらしい。それなら、動けない、と云って困らせてみてもいいと思った。悪戯で足をつつかれるかもしれないし、お姫様抱っこで運んでくれる、なんてこともあるかもしれない。
「たまご以外に買うもんあるか?」
そう云いながらリビングに戻ってきた中原さんに向かって、甘えるように両腕を広げた。