le premièr amour
風に乗って、ふわりと優しい香りが鼻腔をくすぐる。色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園。少し先を歩く彼は、深い紅色がよく似合う。白い帽子を傾けて、異国の花に囲まれたその姿は、一枚の絵画のよう。私などでは釣り合わないようなそのひとは、けれど私の婚約者だった。
お見合いのあの日を思い出す。突然の求婚の言葉に、私は何も返せずにいた。それを母が横から、是非に、と答えてしまった。そして私は動揺しながらも、なおも此方を見つめて了承を取ろうとする彼に、つい頷いてしまったのだ。
そこからとんとん拍子に話は進み、今、私たちは婚約者同士ということになっている。なっている、というのは、私がまだ実感を得ていないからだ。彼とふたり、薔薇の庭園で華やかな香りに包まれて。夢か幻だと思わないほうがおかしいと思う。
「佳い庭だろ。うちの庭師は腕が佳いんだ」
そうやって、彼は此方を振り返って笑う。その表情に訳もなく目を泳がせてから、
「素敵だと思います」
と、どうにか答えた。
「そんなに離れてんなよ。こっち来いって」
「ですが……」
三歩の距離を、彼は気に入らないと云う。でも、私はずっとそうあるべきだと躾けられてきたし、そもそも、彼の隣に並べる気はしなかった。
薔薇の香りの風を孕んで、彼の外套が揺れる。彼が身に纏う衣裳は、私でもわかるほどの一級品。それに較べれば、私が着ているのはひどい安物だ。そのうえ、とにかく流行りのものをと選んだ品だから、私には妙に浮いてしまって、却って不恰好になってしまった。そうあるように生れてきたような彼とは、正反対だ。
彼はちょっと不貞腐れたような顔をして、私に近付いてくる。思わず下がった一歩さえも埋めて、少し強引に私の手を掴んだ。触れた指先がびくりと跳ねてしまう。
「大丈夫だって。取って喰いやしねえよ」
そうやってやさしく手を引かれてしまうと、成す術がない。ぐっと近付いた彼の肩をちらちらと横目に見ながら歩く。
私が大人しく手を握られているからか、彼はまた上機嫌になった。いくつもの花を指して、うつくしいその名を教えてくれる。
曰く、この庭園と御屋敷は、彼が最近造らせたものだと云う。横濱のこんな一等地を帰国早々に手に入れたというのだから、このひとの手腕は相当のものだ。けれど彼は、
「そんなたいそうなもんじゃねえよ」
と云った。「あんたのおかげだ」とも云っていたけれど、その意味はよくわからない。
丁寧に手入れされた庭園をゆっくりと歩く。
「なァ、あんた、好きな花はあるか?」
「花……ですか?」
「ああ。少し向こう、二階の窓からよく見えるところを空けてあるんだ。あんたの好きな花を植えようと思って」
その言葉の意味を理解して、頬が熱くなる。今日のこれは、祝言の前の逢瀬であり、新居の下見でもあった。微かな火照りを誤魔化すように、思考を巡らせる。好きな、花。
「……椿、でしょうか」
「へぇ。色もいくつかあるが……赤いやつか?」
「はい。……降る雪がどんなに冷たくても、誇り高く凛としていて」
彼の胸元、襟飾 の鮮烈な色が目に入る。ああ、そうだ。
「──どこか、貴方に似ています」
つい零してしまってから、はっと彼の顔を見る。きょとんと目を丸くしてから、彼はゆっくりと頬を綻ばせた。
「嬉しいこと云ってくれるじゃねえか」
「い、今のは……っ」
なんてはしたないことを口走ってしまったのだろう。やわらかな笑みに、上手く言葉が紡げない。私と繋いだ手に、きゅっと力が籠る。厭ではない。むしろ。
ふわ、と吹いた風がやわらかく頬を撫でる。
「あんたに嫌われてなくて良かった」
「え……」
予想外の言葉。私が彼を、嫌う?
「婚約、本当は嫌だったんじゃねえかと思ってさ」
「そ、そんなことはありません」
むしろ、その心配をしていたのは私のほうだ。絡んだ手指が、今も嘘みたいに思えてしまう。
「……貴方、は。どうして、私と婚約してくださったのですか」
母はしきりに、うちが旧家だからだと云う。でも、それだけというはずはない。慥かに旧い家ではあるけれど、とうに落ちぶれてしまって、彼に釣り合うほどの家柄ではないからだ。
私の目をじっと見つめて、彼が口を開く。
「……あんたのお父上の会社は、これからきっと大きくなる。今はまだ苦しいかもしれねえが、あと二年もすりゃあ、立派な大企業の社長様だ。早めに身内に引き入れとくのが良い」
そう云ってから、彼はふっと目を細めた。
「ってのが、家の連中に云った建前だ」
「……建前、ですか……?」
「ああ」
彼の視線につられて、海のほうを見る。今日の波は穏やかで、いくつもの船が行き来している。深く、吸い込まれそうな碧色。
「一年前の夏。あんた、あの港のあたりに来ただろ。急に道で倒れた爺さんのこと、覚えてるか?」
云われて、思い出す。父の会社へ向かう途中、目の前で見知らぬご老人が倒れたことがあった。咄嗟に駆け寄ったけれど、私のような小娘にできることなど多くなくて。偶然通りがかった車が、親切にも、病院へ送っていくと申し出てくれた。
「あの車。乗ってたのは俺なんだ」
「え」
予想外の言葉に、彼の顔を見上げる。
「あの方は、ご無事ですか?」
そう問うと、彼はふっとやさしく笑った。
「そういうとこだ」
「……どういう、意味でしょう?」
「そうやって、まずあの爺さんを心配する優しいところ。あのときだって、駆け寄って声かけたのはあんただけだった」
それは、ただ、見てしまったからというだけで。それに、実際にあのご老人を扶けたのは、車に乗せていってくれた彼だ。私はそれを見送っただけ。何もできてはいない。
「あの爺さん、感謝してたぜ。礼を云えなくて残念がってた」
云いながら、彼が私をじっと見つめる。その瞳の色が横濱の海と同じだということに、今更気付く。
「だからな、いくつも来た見合い写真の中からあんたを見つけたとき、すげえ嬉しかったんだぜ。結婚なんてたいして興味はなかったが、あんたとならしたいと思った」
「で、ですが……! 私はあのとき、何もできなくて」
「関係ねえよ。だってあんた、綺麗な着物が汚れるだろうに、迷わず膝をついただろ。それで十分だ」
繋いでいた手を引かれる。その甲にそっと唇を寄せた彼の目は、あまりにも真剣で。
「改めて云う。──結婚してくれ。俺は、あんたのその気高さに惚れたんだ」
その眼差しにきっと嘘はなく、間違うこともないのだと理解してしまった。触れられている手指からじわじわと体温が上がっていって、うっすらと涙が滲む。
「よろしくお願い致します」
どうにか声を振り絞って答えると、彼は嬉しそうに笑う。何処か幼げなその表情に、心臓が逸る。
「ああ、そうだ。この土地も、あの爺さんがくれたんだぜ。死にかけたところを扶けた礼にってよ」
「こ、こんなに広い土地を……!?」
驚きのあまりぐるりと見回す。庭園をこれだけ広くとっているのに、御屋敷だってあんなに大きい。眩暈がしそうだ。
「かなりの資産家だったらしい。あれ以来、田舎に引っ込んじまったがな」
口ぶりからして、相当仲良くなったようだった。そういう懐っこさは少し意外で、けれどそれに絆されている私がいるのも事実だ。
「なァ、今度、一緒に会いに行こうぜ。列車で多少長旅にはなるが……元気な顔見たほうが、あんたも安心だろ?」
小さく頷くと、ぎゅっと手を握られた。
「屋敷の中も案内する。何か置きたいものとか、思いついたら云ってくれ」
その手の大きさとあたたかさに、じんわりと心が融けていく。こんなに素敵なひとに出会えるなんて、夢にも思わなかった。つい、頬が緩む。
「……やっと笑ったな」
「え」
「俺には、愛想笑いなんてしなくていいからな」
甘い声音にくらくらする。写真で見たあの聡明そうな目が、今は私だけを映している。海から吹いて薔薇を撫でた風は、幸福の香りがした。
お見合いのあの日を思い出す。突然の求婚の言葉に、私は何も返せずにいた。それを母が横から、是非に、と答えてしまった。そして私は動揺しながらも、なおも此方を見つめて了承を取ろうとする彼に、つい頷いてしまったのだ。
そこからとんとん拍子に話は進み、今、私たちは婚約者同士ということになっている。なっている、というのは、私がまだ実感を得ていないからだ。彼とふたり、薔薇の庭園で華やかな香りに包まれて。夢か幻だと思わないほうがおかしいと思う。
「佳い庭だろ。うちの庭師は腕が佳いんだ」
そうやって、彼は此方を振り返って笑う。その表情に訳もなく目を泳がせてから、
「素敵だと思います」
と、どうにか答えた。
「そんなに離れてんなよ。こっち来いって」
「ですが……」
三歩の距離を、彼は気に入らないと云う。でも、私はずっとそうあるべきだと躾けられてきたし、そもそも、彼の隣に並べる気はしなかった。
薔薇の香りの風を孕んで、彼の外套が揺れる。彼が身に纏う衣裳は、私でもわかるほどの一級品。それに較べれば、私が着ているのはひどい安物だ。そのうえ、とにかく流行りのものをと選んだ品だから、私には妙に浮いてしまって、却って不恰好になってしまった。そうあるように生れてきたような彼とは、正反対だ。
彼はちょっと不貞腐れたような顔をして、私に近付いてくる。思わず下がった一歩さえも埋めて、少し強引に私の手を掴んだ。触れた指先がびくりと跳ねてしまう。
「大丈夫だって。取って喰いやしねえよ」
そうやってやさしく手を引かれてしまうと、成す術がない。ぐっと近付いた彼の肩をちらちらと横目に見ながら歩く。
私が大人しく手を握られているからか、彼はまた上機嫌になった。いくつもの花を指して、うつくしいその名を教えてくれる。
曰く、この庭園と御屋敷は、彼が最近造らせたものだと云う。横濱のこんな一等地を帰国早々に手に入れたというのだから、このひとの手腕は相当のものだ。けれど彼は、
「そんなたいそうなもんじゃねえよ」
と云った。「あんたのおかげだ」とも云っていたけれど、その意味はよくわからない。
丁寧に手入れされた庭園をゆっくりと歩く。
「なァ、あんた、好きな花はあるか?」
「花……ですか?」
「ああ。少し向こう、二階の窓からよく見えるところを空けてあるんだ。あんたの好きな花を植えようと思って」
その言葉の意味を理解して、頬が熱くなる。今日のこれは、祝言の前の逢瀬であり、新居の下見でもあった。微かな火照りを誤魔化すように、思考を巡らせる。好きな、花。
「……椿、でしょうか」
「へぇ。色もいくつかあるが……赤いやつか?」
「はい。……降る雪がどんなに冷たくても、誇り高く凛としていて」
彼の胸元、
「──どこか、貴方に似ています」
つい零してしまってから、はっと彼の顔を見る。きょとんと目を丸くしてから、彼はゆっくりと頬を綻ばせた。
「嬉しいこと云ってくれるじゃねえか」
「い、今のは……っ」
なんてはしたないことを口走ってしまったのだろう。やわらかな笑みに、上手く言葉が紡げない。私と繋いだ手に、きゅっと力が籠る。厭ではない。むしろ。
ふわ、と吹いた風がやわらかく頬を撫でる。
「あんたに嫌われてなくて良かった」
「え……」
予想外の言葉。私が彼を、嫌う?
「婚約、本当は嫌だったんじゃねえかと思ってさ」
「そ、そんなことはありません」
むしろ、その心配をしていたのは私のほうだ。絡んだ手指が、今も嘘みたいに思えてしまう。
「……貴方、は。どうして、私と婚約してくださったのですか」
母はしきりに、うちが旧家だからだと云う。でも、それだけというはずはない。慥かに旧い家ではあるけれど、とうに落ちぶれてしまって、彼に釣り合うほどの家柄ではないからだ。
私の目をじっと見つめて、彼が口を開く。
「……あんたのお父上の会社は、これからきっと大きくなる。今はまだ苦しいかもしれねえが、あと二年もすりゃあ、立派な大企業の社長様だ。早めに身内に引き入れとくのが良い」
そう云ってから、彼はふっと目を細めた。
「ってのが、家の連中に云った建前だ」
「……建前、ですか……?」
「ああ」
彼の視線につられて、海のほうを見る。今日の波は穏やかで、いくつもの船が行き来している。深く、吸い込まれそうな碧色。
「一年前の夏。あんた、あの港のあたりに来ただろ。急に道で倒れた爺さんのこと、覚えてるか?」
云われて、思い出す。父の会社へ向かう途中、目の前で見知らぬご老人が倒れたことがあった。咄嗟に駆け寄ったけれど、私のような小娘にできることなど多くなくて。偶然通りがかった車が、親切にも、病院へ送っていくと申し出てくれた。
「あの車。乗ってたのは俺なんだ」
「え」
予想外の言葉に、彼の顔を見上げる。
「あの方は、ご無事ですか?」
そう問うと、彼はふっとやさしく笑った。
「そういうとこだ」
「……どういう、意味でしょう?」
「そうやって、まずあの爺さんを心配する優しいところ。あのときだって、駆け寄って声かけたのはあんただけだった」
それは、ただ、見てしまったからというだけで。それに、実際にあのご老人を扶けたのは、車に乗せていってくれた彼だ。私はそれを見送っただけ。何もできてはいない。
「あの爺さん、感謝してたぜ。礼を云えなくて残念がってた」
云いながら、彼が私をじっと見つめる。その瞳の色が横濱の海と同じだということに、今更気付く。
「だからな、いくつも来た見合い写真の中からあんたを見つけたとき、すげえ嬉しかったんだぜ。結婚なんてたいして興味はなかったが、あんたとならしたいと思った」
「で、ですが……! 私はあのとき、何もできなくて」
「関係ねえよ。だってあんた、綺麗な着物が汚れるだろうに、迷わず膝をついただろ。それで十分だ」
繋いでいた手を引かれる。その甲にそっと唇を寄せた彼の目は、あまりにも真剣で。
「改めて云う。──結婚してくれ。俺は、あんたのその気高さに惚れたんだ」
その眼差しにきっと嘘はなく、間違うこともないのだと理解してしまった。触れられている手指からじわじわと体温が上がっていって、うっすらと涙が滲む。
「よろしくお願い致します」
どうにか声を振り絞って答えると、彼は嬉しそうに笑う。何処か幼げなその表情に、心臓が逸る。
「ああ、そうだ。この土地も、あの爺さんがくれたんだぜ。死にかけたところを扶けた礼にってよ」
「こ、こんなに広い土地を……!?」
驚きのあまりぐるりと見回す。庭園をこれだけ広くとっているのに、御屋敷だってあんなに大きい。眩暈がしそうだ。
「かなりの資産家だったらしい。あれ以来、田舎に引っ込んじまったがな」
口ぶりからして、相当仲良くなったようだった。そういう懐っこさは少し意外で、けれどそれに絆されている私がいるのも事実だ。
「なァ、今度、一緒に会いに行こうぜ。列車で多少長旅にはなるが……元気な顔見たほうが、あんたも安心だろ?」
小さく頷くと、ぎゅっと手を握られた。
「屋敷の中も案内する。何か置きたいものとか、思いついたら云ってくれ」
その手の大きさとあたたかさに、じんわりと心が融けていく。こんなに素敵なひとに出会えるなんて、夢にも思わなかった。つい、頬が緩む。
「……やっと笑ったな」
「え」
「俺には、愛想笑いなんてしなくていいからな」
甘い声音にくらくらする。写真で見たあの聡明そうな目が、今は私だけを映している。海から吹いて薔薇を撫でた風は、幸福の香りがした。