le premièr amour

 はあ、とため息を吐きそうになって、ぐっと堪える。けれど隣に座る母は目敏く気付いて、私の袖を軽く引いた。微かな笑顔を作ってみせる。たくさん──それこそ、これまで生きてきた時間ずっと練習してきた笑顔。引き攣ってなどいない。それが、私には何より厭だった。
 此処は、と或る高級料亭の一室。広い和室で、私の横には母が座っていて、向かいには仲人さんがいる。何処にでもありふれた光景。お見合い、だった。
 お見合いだなんて、私はしたくはなかった。だって、私の家が上流の武家だったのは、遥か昔の話なのである。お侍様がたくさん居て、たくさん斬り合っていた時代。けれど、そんな世はとうに終わった。今の私たちは名前だけの貴族で、代々受け継いでいた土地でさえ手放さなければいけないほどに困窮している。
 対して御相手の方は、女学校を卒業したばかりの私より二つ年上らしい。仏国帰りの秀才で、おまけに家柄も良い。次男だということで苦労されたようだが、それを補って余りあるほどの才能の持ち主であり、また、その才能に溺れない努力家だ。……と云うのが、母からこんこんと聞かされた人物評だ。お金も才能も権力もある、非の打ち処のない御方。そんな彼が、どうして私などとのお見合いを受けてくれたのか。私の家が強引に取り付けたのかもしれないし、或いは、妾を囲っても構わないような身分の正妻のほうが、ちょうど良かったのかもしれない。何も知らないうちからそんなことを考えたくなどなかったけれど、でも、それくらい私は鬱々としていた。
 庭園が見える大きな窓の外、かこん、と鹿威しが鳴る。いったい、どれだけの時間が経ったのだろう。御相手の方は、一向に現れなかった。
「おかしいわねえ、何かあったのかしら」
 仲人さんが、何度目かわからない言葉を呟く。お忙しい方だから、とは云うけれど、私としては、このままご破算になってくれたらと願っていた。できれば、御相手の方には会いたくない。嫌いだと云うわけではない。ただ、母に見せられたお見合い写真に映る何処か幼げな顔立ちの、その聡明そうに鋭く光る瞳に、何となく落ち着かない気持ちにさせられてしまった。だから、直接お会いしたくはない。
 そんな失礼なことを考えていると、ぱたぱたと廊下のほうから音がする。足音だ。誰かが駆け足で此方に向かっている。そうして、部屋の前でぴたりと止まった。
 何事か、と音のほうを見つめる。すると、今度はすらりと落ち着いた様子で襖が開かれた。
「失礼します」
 少し高めの、華やかさのある声だった。
「遅れて申し訳ない。道が混んでおりまして」
 特徴的な髪型と、その小柄な身体にぴったりと合うように仕立てられた洗練された洋装。す、と細められた瞳に、息を呑む。射抜くような、見定めるような鋭い眼光。白と黒で映し出されたあの写真を見たときの何倍も、胸の奥が掻き乱される。
 目を離せないでいると、彼が私に近付いてきて、ごく自然な動作で膝をついた。脱いだ帽子を胸に当て、片手を此方に差し出す。何をしても様になるひとだ、と、頭の片隅で呑気に思う。
「──中原中也です。お嬢さん、俺と結婚してはもらえませんか」
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