游星のカノン
通学鞄の中を覗き込む。教科書、ノート、ペンケース、お財布、水筒。何の面白みもない、いつもの持ちもの。の、中に鎮座する、ピンク色の包装紙。ピンクといっても、ハートやリボンの可愛らしい感じではない。もっと落ち着いた、鴇色とでも呼ぶべき色で、少し濃い同系色で格子模様が入っている。両の手のひらに乗るくらいの、薄い正方形。それをじっと見つめているうちに、女性の声が次の駅名を告げた。電車に揺られて二十分の道のりが、今日はやけに早い。慌てて立ち上がって、ホームに降り立つ。強い風が、セーラー服のスカートを揺らした。同じ制服を着た人々の流れに乗って、駅を出る。
ヨコハマ市内、某所。桜はとうに散り切って、ツツジやシャクナゲが至るところで眩しく咲いている。ご機嫌に散歩する犬を横目に見ながら、高校までの道を歩いていく。周囲の生徒たちが仲良く会話している様子が、今日は少しも気にならない。そんなことよりも重要な事案が、私の脳内に居座っているからだ。
横断歩道で立ち止まって、ポケットからスマートフォンを取り出す。数年前から変わらない、そのへんで撮った、名前も知らない花の写真。その上に浮かぶ今日の日付は、四月三十日。私の恩人のお誕生日の、翌日である。
私の恩人——中原さんは、ひとつ上の先輩である。やわらかく波打つ髪、鋭い光を帯びた、吸い込まれそうな昏い目、荒っぽい言動とは裏腹の、どことなく優雅な佇まい。……こう書くと誤解されそうだが、私が惹かれているのは、彼の容姿だけでは、断じてない。もちろん、目が合えば一瞬心臓は止まるし、笑いかけてもらえれば落ち着かないが、それは、うつくしい星のようなひとに相対した人間としてごくごく一般的な、当然の反応だ。そうではなく。私が彼を尊敬し、その姿に憧れるのは、たとえば、しっかり目を見て話してくれる誠実さとか、たくさんいる後輩の一人ひとりに目をかけてくれる面倒見の良さとか。そういう、彼の魂の、やわらかくて靭い部分に触れてしまったからだった。
青信号に合わせて、スマートフォンをしまう。そうして通学路を歩きながら、中原さんと初めて出逢ったときのことを思い返した。今月のはじめ、入学式の日。相変わらずの致命的な方向音痴で、学校にさえたどり着けなかった私を、たまたま通りがかっただけの彼が助けてくれたのだ。あのときから、彼はずっと、こんな私にさえやさしかった。その恩を返したいと、半ば付き纏うように近くにいること、およそ一ヶ月。その間にも、返すべき恩がどんどん積み重なってしまった。近くにいても鬱陶しがらないでくれること。廊下で見かければ声をかけてくれること。あの歌うような声で、私の名前を呼んでくれること。あんなに眩しい笑顔を向けてくれること。このままでは、ただ私が彼に甘えているだけである。そんな状況を打破すべく用意したのが、鞄に入った、あの小さな箱だった。
昨日は、中原さんのお誕生日。祝日で学校がお休みだったため、会えなかったけれど。今日であれば、少しくらいならお話しできる。一日遅れてしまうのは失礼かとも思ったけれど、前日に、つまり、他の誰よりも早く、私なんかに「おめでとう」と云われたくはないだろう。せっかくの休日に寮まで押しかけるなど、論外である。可能な限り迷惑をかけない範囲で、中原さんに、この箱を——用意してきた誕生日プレゼントを渡すこと。それが、私が考えた、恩返しのひとつだった。
門の脇に立つ先生に挨拶をして、敷地に入る。校庭の桜は青々とした葉をつけていて、これはこれで悪くない。木漏れ日がきらきらと光って、綺麗だ。
下駄箱で靴を履き替えながら、思考を巡らす。声をかけるなら、やはり、昼休みだろうか。でも、食事の邪魔をしたくはない。それに、彼が複数人で楽しそうに昼食を摂っているところも、何度か見かけている。なおさら、私などに時間を割いてもらうわけにはいかないだろう。そうなると、放課後? けれど、彼にだって予定があるかもしれない。それこそ、ご友人と遊びに行くとか。
ならば、と足を止める。今は、どうだろうか。彼はたしか、いつも始業時間に余裕をもって登校しているはずだ。教室を覗けば、いるかもしれない。窓際の席、カーテンを揺らす風が彼のやわらかな髪に触れて、朝の陽光がきらきらと透けて。呼びかけたら、やさしい目で振り向いてくれる、私の恩人が。
よし、とひとりで頷いて、二年生の教室に足を向けた。外からは、運動部が走る掛け声が聞こえる。体育館、シューズが床と擦れる音。部室棟で練習している吹奏楽部の音色が、校舎全体を包み込む。帰宅部の生徒はまだまばらで、人の気配がない教室もある。そんな中を進んで、目当ての教室にたどり着く。閉じられた扉の前、深呼吸をひとつ。何度も脳内で台詞を反復してから、そっと手をかけた。
そう新しくもない所為で仰々しくなってしまう、扉の開閉音。「失礼します」と云いつつ覗くと、机に腰かけてぶらぶらと脚を揺らすひとと目が合った。赤みがかった金髪を三つ編みにして、遮光眼鏡 をかけた男子生徒。中原さんのご友人だ。このクラスではないはずだけど、と目を瞬くのと、そのひとが「お!」と声を上げるのとが、同時だった。
「中也のお供の子だ!」
「うん? おや、本当だ」
隣にいた背の高いひとも、こちらを向く。綺麗な白髪を、肩口で真っ直ぐに切り揃えたひと。たしか三年生で、やはり、中原さんのご友人だ。
「何か用事かな? 中也のやつ、ちょうど今出て行ったところなんだ。阿呆鳥 、電話してやってくれ」
親指を立てながらスマホを取り出そうとする彼に、慌てて首を振る。
「いえ、特に用があったわけでは」
「そうかい?」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
失礼しました、と頭を下げて、急いで扉を閉める。ばくばくと鳴る心臓に急かされるまま、半ば走るようにして廊下を進んだ。階段を駆け上がって、自分のホームルームに滑り込む。まだ誰もいない教室の扉を閉めて、ずるずるとその場に座り込んだ。何度も、大きく深呼吸する。
緊張した。中原さんの教室に入るだけでなく、ご友人と話すことになるとは思わなかった。しかも、私なんかのために、わざわざ彼を呼び出そう、なんて。ただ「おめでとうございます」と云いたいだけなのに、そんな手間を取らせるわけにはいかない。
そもそも中原さんは、私が彼のお誕生日を知っていることを、知らない。本人から聞いたわけではなく、たまたま彼のご友人が話しているのを小耳に挟んで、先輩——三年生で、私と同じく中原さんを慕っている、むやみに背の高い男だ——に確認をとっただけなのだ。知らない間に個人情報を掴まれているなんて、きっと気持ち悪いだろう。
ピッと鋭く鳴った笛の音に、肩が跳ねる。校庭からだ。短距離走の練習でも始まったのだろう、一定の間隔を空けて、何度も短く笛が吹かれる。のろのろと立ち上がって鞄を拾い、自分の席に向かった。
鞄の中身を取り出して、机にしまって。いつも通りの席、いつも通りの行動を取っていると、だんだんと思考が冷静になっていく。
先ほどの、中原さんのご友人の方たちの行動は、善意でできていた。悪いのは、それに慣れない私である。気を遣ってくれたのに、あんなふうに、乱暴にドアを閉めるだなんて。次にお会いしたら、謝らないと。
ふう、とため息を吐く。相変わらず、私は駄目だ。機転が効かないうえに、愛想もない。あんなふうに素っ気ない態度を取ってしまったこともそうだし、お言葉に甘えて呼んでもらうとか、そうでなくとも、中原さんが戻るまで待たせてもらうとか、そういう選択もできたはずだ。中原さんがいたら、と、中原さんがいなかったら、の予行練習 しかしていなくて、中原さんのご友人がいたとき、思考が完全に止まってしまった。見通しが甘い。頭が悪い。何ひとつ、良いところがない。
暗澹とした気持ちを抱えたまま、ぼんやりと鞄の中を見つめる。綺麗にラッピングしてもらった、小さな箱。莫迦みたいだ。誕生日プレゼント、だなんて。こんな、何の取り柄もない私からもらったって、嬉しいわけがない。そもそも、中身だって、喜んでもらえるかどうか。いや、中原さんはセンスがいいから、私なんかが選んだものを気に入ってくれるわけがない。ちゃんとあのとき、怖がらずに、店員さんに助けを求めれば良かった。そうしたら、私のつまらない感覚で選んだものじゃなく、少なくとも、お洒落なお店で働く店員さんから見ても良いと思えるものを、渡せたはずなのに。
ぼろぼろと後悔が溢れてきて、泣きそうになる。泣く資格なんて、ありはしないのに。
くだらない思考を遮るように、ガラ、と、教室の扉が開く音がした。慌てて鞄を閉めて、机の横にかける。数人の話し声。ろくに話せたことのないクラスメイトたち。彼女たちみたいに、よく笑ってよく話す、可愛らしい女の子だったなら。でも、私には無理だろうな、とも、思う。私はどうやら、他人に興味がないらしい。だから、会話が下手で、友人も作れないのだ、と、かつて云われた。そうなのだろう。私などよりよほど長く生きた人間が云うのなら、きっと。
ぼんやりと机の木目を眺めていると、
「おはよう」
と、たんぽぽの綿毛みたいな声がした。ゆっくりと視線を向ける。肩のあたりでまとめた長い髪。緩やかに垂れた目許と、困ったような眉。楽しげな口許が、私の名前を象る。
「どうしたの? 元気ない?」
「いえ、別に。おはようございます、センパイ」
ならいいんだけど、と笑って、彼女が隣の席に座る。
センパイ。中等部からの内部進学組で、本来であれば三年生であるはずのひと。生まれもっての病弱が災いして、私のクラスメイトをやっているけれど。長い手足をぐぅっと伸ばして、欠伸をする。
「昨日、夜遅くまで本読んじゃった」と、訊いてもいないのに話し始めた。「すごく面白くてね。ミステリなんだけど……でも、よくあるミステリとは違うっていうか。ね、君、ミステリって読む? せっかくなら、一緒に感想話したいな。明日、持ってきてもいい? すっごくぶ厚くって重たいんだよ。君もびっくりすると思う!」
「はあ」と返事をして、彼女のほうを見る。「貸してくれるなら、読みますけど。……センパイ、そんな重い本持ち歩いて、大丈夫なんですか? 途中で倒れたりしませんか」
「もう! 私のこと、どれだけ弱いと思ってるの? 手術のおかげで、もうずいぶん良くなってるんだから!」
そうやって、力こぶのポーズを取ってみせるセンパイ。細すぎる。ふんふんと鼻息荒い彼女に、そうですか、と返す。
センパイは、現状、私の唯一の友人である。現状、というのは、いつ私が愛想を尽かされてもおかしくないからだ。
先ほども述べた通り、センパイは、本来なら三年生だ。出席日数不足による留年と、手術のための休学。それによって二年遅れているけれど、今年で十八歳になるひとである。何となく触れづらいというだけで遠巻きにされている、朝顔みたいなひと。でも本当は、私なんかにも話しかけてくれるほど、やさしいひとだ。儚げな印象とは裏腹に、明るく、話し好きで、少しだけ調子に乗りやすい。端的に云って、良いひとなのだ。私とは正反対。十分も話してみれば、すぐにでもみんな、センパイを好きになる。そうしたら、ただ隣の席にいるだけで、何の面白みもない私なんか、すぐに不要になる。仕方ない。私は、駄目でつまらない人間なのだから。
昨晩読んだというミステリについて、ネタバレなしで読んでほしい気持ちと、早く感想を話したい気持ち。それらがせめぎ合って、言葉選びがわやわやになっているセンパイを、じっと眺める。見た目の印象と実際の性格との乖離が、何となく、シベリアンハスキーに似ている。
「それでね、この京極堂ってひとが……」と、そこで言葉を切って、不思議そうにこちらを眺める。「どうしたの? 変な顔して」
「変な顔って……失礼ですね」
云いながら、自分で自分の顔を触る。頬の筋肉に力が入って、口角がやけに上がっていた。たしかに変だ、とぺたぺた確認していると、センパイが、花が咲くように表情を変える。
「私ばっかり話しちゃったと思ったけど……君も、楽しかったんだね。良かったあ」
座ったまま椅子をずりずりと引いて、センパイがこちらに近づいてくる。
「ね、ね。君は、どんな本が好き?」
「……急にどうしたんですか」
「前から気になってたの! 同じ本読んでたら、一緒に話せるでしょ?」
そうやって無邪気に問われて、考える。
私が読むのは、ほとんどが母の蔵書だ。とはいっても、選んでいるのは父である。抱えた病の所為で日々のほとんどを入院先で過ごしている母のため、めぼしい本を買っては差し入れている、らしい。らしいというのは、直接聞いたことはないからだ。ふたりの性格と本棚の様子からして、そうだろうな、と推測しているに過ぎない。両親とは、ここ数年、全くと云って良いほど話せていなかった。
本棚には人格が出ると、誰かが云った。その通りだと、私は思う。私の本棚は、私と同じように、空っぽだ。父が母のために買った本、の、おさがりを読んでいるだけだから、私の本と呼べるものがないのである。人が死ぬ場面を避けるためか、父はミステリやホラーなんかを選ばなくて、だから、私はセンパイとは趣味が合わないと思う。
「……勧められれば、何でも読みますよ」
私の身の上なんてつまらないから、それだけ答える。クラスメイトたちみたいに上手く回らない舌が、憎い。打っても響かない私なのに、センパイは灰がかった茶色の瞳を輝かせて、
「じゃあ、明日! お気に入りのミステリと恋愛小説と怪奇小説と詩集! 持ってくるから!」
なんて、滅茶苦茶なことを云い出した。そういえば、中等部で病気を発症してから、友人らしい友人もいなかったと聞いた記憶がある。きっと、多少つまらなくとも、話せるだけましなのだろう。
久しぶりの友人が私なんかで、申し訳ないけれど。少しでも彼女と話す理由が欲しくて、
「一冊ずつでお願いします」
とだけ答えた。
放課後、かすかに橙色が滲む教室。荷物を鞄に詰め込みながら、ため息を吐く。
結局、今日は一度も中原さんに会いに行けなかった。普段であれば、移動教室の合間や休み時間に、彼の姿を探し回っている。でも今日は、廊下は可能な限り足早に進んで、必要がなければ教室から出なかった。うっかり中原さんに会ってしまったとして、上手く話せる自信がなかったからだ。
誕生日プレゼントを渡すのは、とうに諦めた。箱の中身は、自分で使えばいい。男性ものだけど、別に、咎めるようなひともいないのだ。
立ち上がって、鞄を肩にかける。センパイは、定期検診があるからと先に帰ってしまった。話す相手もいないなら、家でぐずぐずと布団にくるまっていたほうが、みっともない姿を晒さなくていい。足許ばかり眺めながら、昇降口まで降りていく。のろのろと靴を履き替えて、玄関を出る。
「——お、ようやく出てきたか」
降ってきたのは、真っ赤な花束みたいな声だった。
低く、けれど遠くの合唱にもかき消されない声。壁に背中を預けるようにしてそこにいたのは、まぎれもなく、私の恩人。
「中原さん……」
「おう」
ポケットから出した手を、軽くこちらに上げる。こんにちは、と云って頭を下げると、ふっと笑った。疑問に思って見上げると、口の端がゆるりと上げられる。
「いつもなら、第一声は『おはようございます』だからな。変な気分だ」
「……すみません」
「何で謝んだよ」そう笑って、軽く腰に手を当ててみせる。「今日は一人か?」
「はい」
センパイか、はたまた同じように中原さんを慕う〝犬〟たちか。中原さんの前に立つとき、私は彼らとともにいることが多い。一対一で話す機会が皆無だとは云わないけれど、口の中が乾いてしまう。
黙ったままの私を、中原さんは少しだけ眺める。
「なら、一緒に帰るか」
落とされた問いに、目を見開く。
「で、でも……中原さんは……ご予定とか」
「今日はもう帰るだけだ」
「ご友人と、約束は」
「特にねえな。ガキじゃねえんだ、いっつも一緒って訳じゃねえよ」
ぎゅっとスカートを握る。間違えたくないのに、耳許で鳴る心音の所為で、上手く思考がまとまらない。
「あ、あの、」黙ってしまうのが怖くて、口を開く。「いいんですか。一緒に、帰っても」
「駄目な理由がねえだろ」
そうやって目を細めて笑ってくれるから、心臓の勢いに乗って、うっかり跳び上がりそうになる。うれしい。中原さんと、一緒に帰れる。
ずるずる落ちてきてしまった鞄を、肩にかけ直す。
「では、あの、えっと。よ、よろしくお願いします」
頭を下げると、中原さんは愉快そうに笑う。
「ふ……はは。ああ、よろしくな」
そう軽く肩を叩く手のひら。こうやって、同じ地面に立っていると錯覚させるのが上手いひとなのだ。本当は、遠くの空で光る眩い星が、気まぐれで光を零してくれただけなのに。
ほら、帰ろうぜ、と歩き出した背中を追いかける。真っ黒な学生服をすらりと着こなして、背筋を真っ直ぐに伸ばして。長い襟足がふわふわと肩で揺れる。私がついてきていることを横目で確認して、薄い唇が私を呼んだ。
「最近如何だ? また校内で迷ってんのか」
「まだ、少し……」と云いつつ、横顔を見上げる。「でも、よく使う教室は、わかってきました。それに、センパイもいますから。大丈夫です。中原さんには、ご迷惑はかけません」
最初のころは、中原さん以外に頼れるひとなんていなかったけれど。もう、彼に泣きついて助けてもらわなくても、どうにかやっていける。……はずだ。
真っ直ぐ彼の目を見つめると、呆れたような声が落ちてくる。
「迷惑じゃねえって、いつも云ってんだろ」
「はい。ですが、必要のない労力を割いていただいているのは事実です」
「別に大した事じゃねえっての」それに、と、片方の眉が意地悪く上げられる。「不安そうに歩いてたお前が、俺を見つけた途端に嬉しそうに走って来るのは、仔犬みてえで可愛いからな」
うっかり声を上げそうになる。中原さんは、以前に「いつか犬を飼いたい」と話していたほどの犬好きだ。彼が好ましいと思う生きものに喩えてもらえるのが嬉しい、だなんて。揶揄われているだけだと理解していても、そう思ってしまうくらいには、私はちっぽけだった。
視線を落とす。まだ一ヶ月しか履いていない、新品同然のローファー。その隣を、きちんと手入れされた、こなれた革靴が歩く。身長差を加味しても、やはり大きく感じる、男のひとの靴。
「……中原さん」
「ん?」
「私、そんなに嬉しそうにしてますか……?」
おそるおそる訊ねると、中原さんは数度瞬きしてから、ふっと破顔する。
「千切れそうなくらい、尻尾振ってる癖に。無意識か?」
顔がかっと熱くなる。はくはくと口を開閉させてから、両手で顔を覆う。
「すみません……」
「何で謝ってんだよ」
「……だって……嫌、じゃないですか」
「何が」
「……私なんかに、懐かれるなんて」
恩返しがしたいはずなのに。彼に近づく口実だろうと云われたら、反論できない。もし、彼に金輪際関わらないことが恩返しになるとしたら、私はちゃんとそれができるだろうか。
上手く中原さんの顔を見られないでいると、低くため息が聞こえる。かすかに肩が震えるけれど、嫌悪も軽蔑も受け入れなくてはいけないと思った。そうっと顔を上げる。彼は仕方なさそうに眉を下げて、私を見下ろしていた。
「お前なァ。可愛い後輩に懐かれて、何で嫌がんだよ」
心底わからないというように尋ねられて、息が詰まる。
「鬱陶しい、じゃないですか」
「俺がお前を邪険にした事なんぞねえだろ」
「……それは……中原さんが、やさしいから」
私のこと、傷つけないでいてくれるだけで。そう答えると、中原さんは不服そうに眉を顰めて、唇を曲げた。
「云っとくが、俺はお前が思ってるような先輩じゃねえからな」
「え」と声を零せば、立ち止まって振り向く。ポケットに片手を突っ込んで、気怠げに立つ姿さえさま になった。
「誰にでも優しいとか、善人だとか、思ってんだろ」
「そう、です。だって」
「だってじゃねえよ。俺が目ェ掛けんのは、気に入った奴だけだ」
それに、と、片目だけを細めて笑う。くっと顎を上げるようにして、私を見下ろす。
「俺はなァ。お前が思ってるより、よっぽど悪い男だぜ?」
低く掠れた声に、心臓が揺れる。じんわりと鼓膜を痺れさせるみたいな甘さに、指先が震えた。言葉を失った私を見つめて、彼はくつくつと喉で笑った。
「今日、俺が如何してお前を誘ったか、判るか?」
「え。……わかりません」
「答えは、お前を尋問する為だ」
日常生活では聞かないような剣呑な言葉に、息を呑む。尋問、なんて。いったい、何を。
じっと見上げる私と、ゆっくりと視線の高さを合わせる。
「今朝、俺の教室に来ただろ。何の用だったんだ?」
「へ」と声を零してから、あのおふたりだ、と気づく。中原さんの、ご友人の。首を振って、「何でもないです」と答える。
「嘘だな。用もないのにわざわざ上級生の教室になんぞ来ねえ」
「っ……で、でも、私が中原さんに付き纏ってるのは、いつものことで、」
「ああ、そうだな。で、いつも通りなら、お前は『何か、中原さんのお役に立てないかと思いまして』とか何とか云ってる」
一言一句、普段の私の台詞そのままだ。まるで、準備したみたいに。嵌められたと理解したころには、もう罠の最深部だった。唇を噛む私に、彼はさらに追い打ちをかける。
「お前が丸一日、一度も俺に会いに来ねえのも初めてだ。何か用があったが、申し訳ねえだか迷惑だかって考えて、結局やめた。それが負い目になって、俺と会うのも避けてたんだろ」
違うか?と、勝ち誇ったような笑顔を向けられる。かかった獲物を品定めするような、猛禽の目。声が震える。
「で、も……そんなこと、どうして。中原さんが気にするようなことじゃ……」
「へえ。お前が懐いた〝優しい先輩〟は、気に入った後輩が困ってても、助けてやらねえのかよ?」
ブラックホールみたいな目に、凡百 反論が吸い込まれる。完敗だった。中原さんに、隠しごとはできない。
「……すみません」
「今度は何に対する謝罪だ?」
「私に意気地がない所為で、中原さんのお手を煩わせてしまったことです」
中原さんは、よく気がつくひとだ。私の態度のちょっとした変化から、こんなに簡単に、私の思考を云い当ててしまう。無愛想でつまらない私なんかにまで、そんなふうに気を遣わせて、わざわざ一緒に歩かせてしまった。情けない。何が恩返しだ。ずっと、ずっと、迷惑しかかけていない。
何度も瞬きを繰り返してから、彼を見上げる。輝く星のような瞳。
「私、中原さんに、云いたいことがあったんです。でも、ご迷惑かもって考えてしまって。それでなおさら中原さんの負担になるだなんて、考えもしませんでした。申し訳ありません」
そこで言葉を切って、息を吸う。
「……もし……もし、許されるなら。お伝えしても、よろしいですか」
問えば、彼は軽く首を傾けて笑った。肩口で流れる、やわらかな髪。陽を受けて、きらきらと香色に輝いている。
「尋問だって云ったろ。お前がそれを云わなきゃ、終われねえよ」
陽光と紛うほど、あたたかな声。プリズムを通したみたいに鮮やかな光が、じんと胸に染みた。下手くそな呼吸に乗せて、精一杯の言葉を絞り出す。
「中原さん。お誕生日、おめでとうございました」
ぎゅっと鞄の持ち手を握りしめる。じっと見上げていると、余裕そうな笑みを浮かべていた目が、ゆっくりと見開かれていく。
「…………は?」
数秒の沈黙ののち、零されたのは、その一音。やっぱり、気持ち悪かっただろうか。
「あ、いえ、その、ストーカーとかじゃ、なくて。偶然、日付をお聞きしたんです。それで、お祝いしたいって思ったんです、けど。ただの後輩なのに重いかな、とか、色々考えて、それで、云えなくて……」
中原さんは、黙ったままだ。教えてもいない誕生日を私なんかに祝われるなんて、嫌に決まっているだろう。身の程知らずだったと、後悔したってもう遅い。
押し潰されそうな心臓を抱えたまま見つめていると、中原さんが深く、本当に深くため息を吐いた。手のひらで、目許を覆う。
「勘弁してくれ……」
呟くような言葉に、肩が跳ねた。滲みそうになる涙を、必死に堪える。
「す……すみません……! あの、本当に、不快にさせるつもりは、なくて……。中原さんには、いつも感謝してるんです! だ、だからって、気持ち悪いのは、変わらないと思うんですけど、でも、」
「違えよ」
短く遮った彼の目が、こちらを向く。じとりと睨むようなかたちに、逃げ出しそうになる。中原さんが口を開くのが怖くて、でも、死刑宣告はきちんと聞かなきゃいけないと思った。
それなのに。
「何だよ、誕生日って。そんだけかよ」
「……へ?」
「ったく、身構えて損したぜ」
息を吐きながら、後頭部を掻く中原さん。意味がわからずに見つめていると、失敗した子どもを慰めるように、彼は笑った。
「さっきも云ったけどな。俺はお前の事、それなりに可愛がってるつもりなんだぜ。そんな後輩から誕生日祝われて、厭だとか気持ち悪いとか、思う訳ねえだろうが」
あまりにやさしい口許が、さらに信じられないような音を紡ぐ。
「むしろ、嬉しいくらいだ。知られてるとも思ってなかったからな」
痛いくらいに目を見開く。そんなことって。
「な、中原さん、そんな……気を遣わなくても……!」
「は? 何が?」
きょとん、と不思議そうに首を傾げられる。可愛い。……じゃ、なくて。
顔が熱いのを誤魔化すように、云い募る。
「わ、私、中原さんのご友人とかじゃ、なく……ただの、後輩じゃないですか!」
「そうだな」
「お誕生日のこと、勝手に知ったのに……!」
「別に隠してねえからなァ」
「一日遅れました! 失礼です!」
「毎年祝日だからな。学校くらいでしか会わねえなら、そんなモンだろ」
言葉に詰まった一瞬に、彼が意地悪く笑う。
「他には?」
そのひとことで、鞄がずしりと重くなった気がした。両手で持ち手を握って、声を絞り出す。
「ひとつだけ。……中原さんは、その。ハンカチに、こだわりはありますか」
「手巾 ? そうだな……気に入って買ったのもあるが、あとはまァ、それなりだな」
突然の質問に怪訝そうな顔をする中原さん。意を決して、彼の目の前に、鞄の中から取り出した箱をそうっと差し出した。鴇色に包装された、薄い箱。
「でしたら、一枚。その〝それなり〟の仲間に入れていただけないでしょうか」
そう。私が彼に用意した誕生日プレゼントは、一枚のハンカチーフだった。落ち着いた濃密な赤色の地に、白い星——と云っても、子どもっぽい五芒星ではなく、細身の八芒星——が、広い間隔でドット柄のように散らされている。模様が綺麗なのもさることながら、何やら良い布地らしく、かすかに光沢があるのが目を引いた。そして何より、中原さんの姿を思い浮かべたとき、これが一番似合う気がしたのだ。私の感覚だから、信用なんてできないけれど。
手が震える。重いだろうか。でも、ここまで壁を崩されてしまった私の心では、こんなちいさな箱でさえ、隠し通せるとは思えなかった。
俯いてしまいそうになる視線を必死に持ち上げ続ける。そんな私の手から、鳥が羽ばたいた。
「開けてもいいか?」
私が頷くのを待ってから、包装紙を破かないようにそっと開けてくれる。きれいな手だ。白すぎず、健康的な肌色。薄く血管が透けて、力を入れると、軽く筋が浮く。長い指、爪は短く切り揃えてある。見惚れている間に包装紙が全て剥がされたので、邪魔にならないように受け取った。中原さんの反応を窺いつつ、小さく折り畳むのに集中しているふりをする。
包装紙の下から現れたのは、白い箱。蓋の部分に透明な窓がついていて、開けずとも中身が見える仕様だ。ハンカチの柄をまじまじと確認して、中原さんがにっと口角を上げる。
「それなりどころか、一軍じゃねえか」
「え」
「気に入ったぜ。なかなか佳い色だ。いい趣味してんなァ、」
そうやって、親しげに名前を呼んでくれるから。傾いてきた夕陽に炙られたみたいに、体温が上がっていく。
用意してきた言葉を何ひとつ云えないうちに、ハンカチの入った箱が、彼の鞄に丁寧にしまいこまれる。
「洗ってアイロンかけて……来週には下ろせるか」
そう呟く横顔が、どこか嬉しそう、なんて。こんなことが、あって良いのだろうか。そわそわと、後頭部の髪を無意味に撫でつける。
機嫌良く歩き出した中原さんが、私をちらりと見下ろした。
「なァ、」と私の名前を呼ぶ。彼は、やけに他人の名前を呼ぶひとだった。返事をすると、困ったように眉を下げられる。
「贈呈品 まで用意して、あのまま一人で帰るつもりだったのかよ」
「……はい」
「お前なァ……。方向音痴も大概にしろよ」
呆れたようで、けれどあまりにもやさしい声。私なんかには、もったいない。こんなに良くしてもらっていたら、いつか罰が当たる。でも。
「すみません。……次は、間違えないようにします」
でも、まだ、少しだけ。多少は親しい後輩として、彼の近くにいたい。次を願うだなんて、強欲すぎるとわかっている。それでも、私のことも悪くないと思っていると、彼が云ってくれた。その事実は、私の不安や怯えより、尊重されるべきものだ。
精一杯のわがままをぶつけたのに、中原さんは少しも揺るがずに、愉しそうに笑った。道端のツツジが、赤く光る。
「真面目過ぎなんだよなァ、お前は。いい処 でもあるんだけどよ」
それから、何てことないように、前を向く。
「ま、少しくらいなら迷ったって構わねえよ。また探して捕まえりゃアいいだけの話だからな」
真っ直ぐに、遠くを見つめる瞳。昏いのに、夕焼けより眩しく輝いていて。
——ことり、と、心臓が落ちる音がする。
「……中原さん」
「ん?」
「返してください……」
「は? 何でだよ。俺んだぞ、もう」
不服そうに鞄を抱える彼。そうじゃない、けど。そんなこと、云えるわけがない。
こんなに熱く燃える道標になら、一生捕らわれていたいだなんて。そんな莫迦なことを思ったのは、生れて初めてだった。
ヨコハマ市内、某所。桜はとうに散り切って、ツツジやシャクナゲが至るところで眩しく咲いている。ご機嫌に散歩する犬を横目に見ながら、高校までの道を歩いていく。周囲の生徒たちが仲良く会話している様子が、今日は少しも気にならない。そんなことよりも重要な事案が、私の脳内に居座っているからだ。
横断歩道で立ち止まって、ポケットからスマートフォンを取り出す。数年前から変わらない、そのへんで撮った、名前も知らない花の写真。その上に浮かぶ今日の日付は、四月三十日。私の恩人のお誕生日の、翌日である。
私の恩人——中原さんは、ひとつ上の先輩である。やわらかく波打つ髪、鋭い光を帯びた、吸い込まれそうな昏い目、荒っぽい言動とは裏腹の、どことなく優雅な佇まい。……こう書くと誤解されそうだが、私が惹かれているのは、彼の容姿だけでは、断じてない。もちろん、目が合えば一瞬心臓は止まるし、笑いかけてもらえれば落ち着かないが、それは、うつくしい星のようなひとに相対した人間としてごくごく一般的な、当然の反応だ。そうではなく。私が彼を尊敬し、その姿に憧れるのは、たとえば、しっかり目を見て話してくれる誠実さとか、たくさんいる後輩の一人ひとりに目をかけてくれる面倒見の良さとか。そういう、彼の魂の、やわらかくて靭い部分に触れてしまったからだった。
青信号に合わせて、スマートフォンをしまう。そうして通学路を歩きながら、中原さんと初めて出逢ったときのことを思い返した。今月のはじめ、入学式の日。相変わらずの致命的な方向音痴で、学校にさえたどり着けなかった私を、たまたま通りがかっただけの彼が助けてくれたのだ。あのときから、彼はずっと、こんな私にさえやさしかった。その恩を返したいと、半ば付き纏うように近くにいること、およそ一ヶ月。その間にも、返すべき恩がどんどん積み重なってしまった。近くにいても鬱陶しがらないでくれること。廊下で見かければ声をかけてくれること。あの歌うような声で、私の名前を呼んでくれること。あんなに眩しい笑顔を向けてくれること。このままでは、ただ私が彼に甘えているだけである。そんな状況を打破すべく用意したのが、鞄に入った、あの小さな箱だった。
昨日は、中原さんのお誕生日。祝日で学校がお休みだったため、会えなかったけれど。今日であれば、少しくらいならお話しできる。一日遅れてしまうのは失礼かとも思ったけれど、前日に、つまり、他の誰よりも早く、私なんかに「おめでとう」と云われたくはないだろう。せっかくの休日に寮まで押しかけるなど、論外である。可能な限り迷惑をかけない範囲で、中原さんに、この箱を——用意してきた誕生日プレゼントを渡すこと。それが、私が考えた、恩返しのひとつだった。
門の脇に立つ先生に挨拶をして、敷地に入る。校庭の桜は青々とした葉をつけていて、これはこれで悪くない。木漏れ日がきらきらと光って、綺麗だ。
下駄箱で靴を履き替えながら、思考を巡らす。声をかけるなら、やはり、昼休みだろうか。でも、食事の邪魔をしたくはない。それに、彼が複数人で楽しそうに昼食を摂っているところも、何度か見かけている。なおさら、私などに時間を割いてもらうわけにはいかないだろう。そうなると、放課後? けれど、彼にだって予定があるかもしれない。それこそ、ご友人と遊びに行くとか。
ならば、と足を止める。今は、どうだろうか。彼はたしか、いつも始業時間に余裕をもって登校しているはずだ。教室を覗けば、いるかもしれない。窓際の席、カーテンを揺らす風が彼のやわらかな髪に触れて、朝の陽光がきらきらと透けて。呼びかけたら、やさしい目で振り向いてくれる、私の恩人が。
よし、とひとりで頷いて、二年生の教室に足を向けた。外からは、運動部が走る掛け声が聞こえる。体育館、シューズが床と擦れる音。部室棟で練習している吹奏楽部の音色が、校舎全体を包み込む。帰宅部の生徒はまだまばらで、人の気配がない教室もある。そんな中を進んで、目当ての教室にたどり着く。閉じられた扉の前、深呼吸をひとつ。何度も脳内で台詞を反復してから、そっと手をかけた。
そう新しくもない所為で仰々しくなってしまう、扉の開閉音。「失礼します」と云いつつ覗くと、机に腰かけてぶらぶらと脚を揺らすひとと目が合った。赤みがかった金髪を三つ編みにして、
「中也のお供の子だ!」
「うん? おや、本当だ」
隣にいた背の高いひとも、こちらを向く。綺麗な白髪を、肩口で真っ直ぐに切り揃えたひと。たしか三年生で、やはり、中原さんのご友人だ。
「何か用事かな? 中也のやつ、ちょうど今出て行ったところなんだ。
親指を立てながらスマホを取り出そうとする彼に、慌てて首を振る。
「いえ、特に用があったわけでは」
「そうかい?」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
失礼しました、と頭を下げて、急いで扉を閉める。ばくばくと鳴る心臓に急かされるまま、半ば走るようにして廊下を進んだ。階段を駆け上がって、自分のホームルームに滑り込む。まだ誰もいない教室の扉を閉めて、ずるずるとその場に座り込んだ。何度も、大きく深呼吸する。
緊張した。中原さんの教室に入るだけでなく、ご友人と話すことになるとは思わなかった。しかも、私なんかのために、わざわざ彼を呼び出そう、なんて。ただ「おめでとうございます」と云いたいだけなのに、そんな手間を取らせるわけにはいかない。
そもそも中原さんは、私が彼のお誕生日を知っていることを、知らない。本人から聞いたわけではなく、たまたま彼のご友人が話しているのを小耳に挟んで、先輩——三年生で、私と同じく中原さんを慕っている、むやみに背の高い男だ——に確認をとっただけなのだ。知らない間に個人情報を掴まれているなんて、きっと気持ち悪いだろう。
ピッと鋭く鳴った笛の音に、肩が跳ねる。校庭からだ。短距離走の練習でも始まったのだろう、一定の間隔を空けて、何度も短く笛が吹かれる。のろのろと立ち上がって鞄を拾い、自分の席に向かった。
鞄の中身を取り出して、机にしまって。いつも通りの席、いつも通りの行動を取っていると、だんだんと思考が冷静になっていく。
先ほどの、中原さんのご友人の方たちの行動は、善意でできていた。悪いのは、それに慣れない私である。気を遣ってくれたのに、あんなふうに、乱暴にドアを閉めるだなんて。次にお会いしたら、謝らないと。
ふう、とため息を吐く。相変わらず、私は駄目だ。機転が効かないうえに、愛想もない。あんなふうに素っ気ない態度を取ってしまったこともそうだし、お言葉に甘えて呼んでもらうとか、そうでなくとも、中原さんが戻るまで待たせてもらうとか、そういう選択もできたはずだ。中原さんがいたら、と、中原さんがいなかったら、の
暗澹とした気持ちを抱えたまま、ぼんやりと鞄の中を見つめる。綺麗にラッピングしてもらった、小さな箱。莫迦みたいだ。誕生日プレゼント、だなんて。こんな、何の取り柄もない私からもらったって、嬉しいわけがない。そもそも、中身だって、喜んでもらえるかどうか。いや、中原さんはセンスがいいから、私なんかが選んだものを気に入ってくれるわけがない。ちゃんとあのとき、怖がらずに、店員さんに助けを求めれば良かった。そうしたら、私のつまらない感覚で選んだものじゃなく、少なくとも、お洒落なお店で働く店員さんから見ても良いと思えるものを、渡せたはずなのに。
ぼろぼろと後悔が溢れてきて、泣きそうになる。泣く資格なんて、ありはしないのに。
くだらない思考を遮るように、ガラ、と、教室の扉が開く音がした。慌てて鞄を閉めて、机の横にかける。数人の話し声。ろくに話せたことのないクラスメイトたち。彼女たちみたいに、よく笑ってよく話す、可愛らしい女の子だったなら。でも、私には無理だろうな、とも、思う。私はどうやら、他人に興味がないらしい。だから、会話が下手で、友人も作れないのだ、と、かつて云われた。そうなのだろう。私などよりよほど長く生きた人間が云うのなら、きっと。
ぼんやりと机の木目を眺めていると、
「おはよう」
と、たんぽぽの綿毛みたいな声がした。ゆっくりと視線を向ける。肩のあたりでまとめた長い髪。緩やかに垂れた目許と、困ったような眉。楽しげな口許が、私の名前を象る。
「どうしたの? 元気ない?」
「いえ、別に。おはようございます、センパイ」
ならいいんだけど、と笑って、彼女が隣の席に座る。
センパイ。中等部からの内部進学組で、本来であれば三年生であるはずのひと。生まれもっての病弱が災いして、私のクラスメイトをやっているけれど。長い手足をぐぅっと伸ばして、欠伸をする。
「昨日、夜遅くまで本読んじゃった」と、訊いてもいないのに話し始めた。「すごく面白くてね。ミステリなんだけど……でも、よくあるミステリとは違うっていうか。ね、君、ミステリって読む? せっかくなら、一緒に感想話したいな。明日、持ってきてもいい? すっごくぶ厚くって重たいんだよ。君もびっくりすると思う!」
「はあ」と返事をして、彼女のほうを見る。「貸してくれるなら、読みますけど。……センパイ、そんな重い本持ち歩いて、大丈夫なんですか? 途中で倒れたりしませんか」
「もう! 私のこと、どれだけ弱いと思ってるの? 手術のおかげで、もうずいぶん良くなってるんだから!」
そうやって、力こぶのポーズを取ってみせるセンパイ。細すぎる。ふんふんと鼻息荒い彼女に、そうですか、と返す。
センパイは、現状、私の唯一の友人である。現状、というのは、いつ私が愛想を尽かされてもおかしくないからだ。
先ほども述べた通り、センパイは、本来なら三年生だ。出席日数不足による留年と、手術のための休学。それによって二年遅れているけれど、今年で十八歳になるひとである。何となく触れづらいというだけで遠巻きにされている、朝顔みたいなひと。でも本当は、私なんかにも話しかけてくれるほど、やさしいひとだ。儚げな印象とは裏腹に、明るく、話し好きで、少しだけ調子に乗りやすい。端的に云って、良いひとなのだ。私とは正反対。十分も話してみれば、すぐにでもみんな、センパイを好きになる。そうしたら、ただ隣の席にいるだけで、何の面白みもない私なんか、すぐに不要になる。仕方ない。私は、駄目でつまらない人間なのだから。
昨晩読んだというミステリについて、ネタバレなしで読んでほしい気持ちと、早く感想を話したい気持ち。それらがせめぎ合って、言葉選びがわやわやになっているセンパイを、じっと眺める。見た目の印象と実際の性格との乖離が、何となく、シベリアンハスキーに似ている。
「それでね、この京極堂ってひとが……」と、そこで言葉を切って、不思議そうにこちらを眺める。「どうしたの? 変な顔して」
「変な顔って……失礼ですね」
云いながら、自分で自分の顔を触る。頬の筋肉に力が入って、口角がやけに上がっていた。たしかに変だ、とぺたぺた確認していると、センパイが、花が咲くように表情を変える。
「私ばっかり話しちゃったと思ったけど……君も、楽しかったんだね。良かったあ」
座ったまま椅子をずりずりと引いて、センパイがこちらに近づいてくる。
「ね、ね。君は、どんな本が好き?」
「……急にどうしたんですか」
「前から気になってたの! 同じ本読んでたら、一緒に話せるでしょ?」
そうやって無邪気に問われて、考える。
私が読むのは、ほとんどが母の蔵書だ。とはいっても、選んでいるのは父である。抱えた病の所為で日々のほとんどを入院先で過ごしている母のため、めぼしい本を買っては差し入れている、らしい。らしいというのは、直接聞いたことはないからだ。ふたりの性格と本棚の様子からして、そうだろうな、と推測しているに過ぎない。両親とは、ここ数年、全くと云って良いほど話せていなかった。
本棚には人格が出ると、誰かが云った。その通りだと、私は思う。私の本棚は、私と同じように、空っぽだ。父が母のために買った本、の、おさがりを読んでいるだけだから、私の本と呼べるものがないのである。人が死ぬ場面を避けるためか、父はミステリやホラーなんかを選ばなくて、だから、私はセンパイとは趣味が合わないと思う。
「……勧められれば、何でも読みますよ」
私の身の上なんてつまらないから、それだけ答える。クラスメイトたちみたいに上手く回らない舌が、憎い。打っても響かない私なのに、センパイは灰がかった茶色の瞳を輝かせて、
「じゃあ、明日! お気に入りのミステリと恋愛小説と怪奇小説と詩集! 持ってくるから!」
なんて、滅茶苦茶なことを云い出した。そういえば、中等部で病気を発症してから、友人らしい友人もいなかったと聞いた記憶がある。きっと、多少つまらなくとも、話せるだけましなのだろう。
久しぶりの友人が私なんかで、申し訳ないけれど。少しでも彼女と話す理由が欲しくて、
「一冊ずつでお願いします」
とだけ答えた。
放課後、かすかに橙色が滲む教室。荷物を鞄に詰め込みながら、ため息を吐く。
結局、今日は一度も中原さんに会いに行けなかった。普段であれば、移動教室の合間や休み時間に、彼の姿を探し回っている。でも今日は、廊下は可能な限り足早に進んで、必要がなければ教室から出なかった。うっかり中原さんに会ってしまったとして、上手く話せる自信がなかったからだ。
誕生日プレゼントを渡すのは、とうに諦めた。箱の中身は、自分で使えばいい。男性ものだけど、別に、咎めるようなひともいないのだ。
立ち上がって、鞄を肩にかける。センパイは、定期検診があるからと先に帰ってしまった。話す相手もいないなら、家でぐずぐずと布団にくるまっていたほうが、みっともない姿を晒さなくていい。足許ばかり眺めながら、昇降口まで降りていく。のろのろと靴を履き替えて、玄関を出る。
「——お、ようやく出てきたか」
降ってきたのは、真っ赤な花束みたいな声だった。
低く、けれど遠くの合唱にもかき消されない声。壁に背中を預けるようにしてそこにいたのは、まぎれもなく、私の恩人。
「中原さん……」
「おう」
ポケットから出した手を、軽くこちらに上げる。こんにちは、と云って頭を下げると、ふっと笑った。疑問に思って見上げると、口の端がゆるりと上げられる。
「いつもなら、第一声は『おはようございます』だからな。変な気分だ」
「……すみません」
「何で謝んだよ」そう笑って、軽く腰に手を当ててみせる。「今日は一人か?」
「はい」
センパイか、はたまた同じように中原さんを慕う〝犬〟たちか。中原さんの前に立つとき、私は彼らとともにいることが多い。一対一で話す機会が皆無だとは云わないけれど、口の中が乾いてしまう。
黙ったままの私を、中原さんは少しだけ眺める。
「なら、一緒に帰るか」
落とされた問いに、目を見開く。
「で、でも……中原さんは……ご予定とか」
「今日はもう帰るだけだ」
「ご友人と、約束は」
「特にねえな。ガキじゃねえんだ、いっつも一緒って訳じゃねえよ」
ぎゅっとスカートを握る。間違えたくないのに、耳許で鳴る心音の所為で、上手く思考がまとまらない。
「あ、あの、」黙ってしまうのが怖くて、口を開く。「いいんですか。一緒に、帰っても」
「駄目な理由がねえだろ」
そうやって目を細めて笑ってくれるから、心臓の勢いに乗って、うっかり跳び上がりそうになる。うれしい。中原さんと、一緒に帰れる。
ずるずる落ちてきてしまった鞄を、肩にかけ直す。
「では、あの、えっと。よ、よろしくお願いします」
頭を下げると、中原さんは愉快そうに笑う。
「ふ……はは。ああ、よろしくな」
そう軽く肩を叩く手のひら。こうやって、同じ地面に立っていると錯覚させるのが上手いひとなのだ。本当は、遠くの空で光る眩い星が、気まぐれで光を零してくれただけなのに。
ほら、帰ろうぜ、と歩き出した背中を追いかける。真っ黒な学生服をすらりと着こなして、背筋を真っ直ぐに伸ばして。長い襟足がふわふわと肩で揺れる。私がついてきていることを横目で確認して、薄い唇が私を呼んだ。
「最近如何だ? また校内で迷ってんのか」
「まだ、少し……」と云いつつ、横顔を見上げる。「でも、よく使う教室は、わかってきました。それに、センパイもいますから。大丈夫です。中原さんには、ご迷惑はかけません」
最初のころは、中原さん以外に頼れるひとなんていなかったけれど。もう、彼に泣きついて助けてもらわなくても、どうにかやっていける。……はずだ。
真っ直ぐ彼の目を見つめると、呆れたような声が落ちてくる。
「迷惑じゃねえって、いつも云ってんだろ」
「はい。ですが、必要のない労力を割いていただいているのは事実です」
「別に大した事じゃねえっての」それに、と、片方の眉が意地悪く上げられる。「不安そうに歩いてたお前が、俺を見つけた途端に嬉しそうに走って来るのは、仔犬みてえで可愛いからな」
うっかり声を上げそうになる。中原さんは、以前に「いつか犬を飼いたい」と話していたほどの犬好きだ。彼が好ましいと思う生きものに喩えてもらえるのが嬉しい、だなんて。揶揄われているだけだと理解していても、そう思ってしまうくらいには、私はちっぽけだった。
視線を落とす。まだ一ヶ月しか履いていない、新品同然のローファー。その隣を、きちんと手入れされた、こなれた革靴が歩く。身長差を加味しても、やはり大きく感じる、男のひとの靴。
「……中原さん」
「ん?」
「私、そんなに嬉しそうにしてますか……?」
おそるおそる訊ねると、中原さんは数度瞬きしてから、ふっと破顔する。
「千切れそうなくらい、尻尾振ってる癖に。無意識か?」
顔がかっと熱くなる。はくはくと口を開閉させてから、両手で顔を覆う。
「すみません……」
「何で謝ってんだよ」
「……だって……嫌、じゃないですか」
「何が」
「……私なんかに、懐かれるなんて」
恩返しがしたいはずなのに。彼に近づく口実だろうと云われたら、反論できない。もし、彼に金輪際関わらないことが恩返しになるとしたら、私はちゃんとそれができるだろうか。
上手く中原さんの顔を見られないでいると、低くため息が聞こえる。かすかに肩が震えるけれど、嫌悪も軽蔑も受け入れなくてはいけないと思った。そうっと顔を上げる。彼は仕方なさそうに眉を下げて、私を見下ろしていた。
「お前なァ。可愛い後輩に懐かれて、何で嫌がんだよ」
心底わからないというように尋ねられて、息が詰まる。
「鬱陶しい、じゃないですか」
「俺がお前を邪険にした事なんぞねえだろ」
「……それは……中原さんが、やさしいから」
私のこと、傷つけないでいてくれるだけで。そう答えると、中原さんは不服そうに眉を顰めて、唇を曲げた。
「云っとくが、俺はお前が思ってるような先輩じゃねえからな」
「え」と声を零せば、立ち止まって振り向く。ポケットに片手を突っ込んで、気怠げに立つ姿さえ
「誰にでも優しいとか、善人だとか、思ってんだろ」
「そう、です。だって」
「だってじゃねえよ。俺が目ェ掛けんのは、気に入った奴だけだ」
それに、と、片目だけを細めて笑う。くっと顎を上げるようにして、私を見下ろす。
「俺はなァ。お前が思ってるより、よっぽど悪い男だぜ?」
低く掠れた声に、心臓が揺れる。じんわりと鼓膜を痺れさせるみたいな甘さに、指先が震えた。言葉を失った私を見つめて、彼はくつくつと喉で笑った。
「今日、俺が如何してお前を誘ったか、判るか?」
「え。……わかりません」
「答えは、お前を尋問する為だ」
日常生活では聞かないような剣呑な言葉に、息を呑む。尋問、なんて。いったい、何を。
じっと見上げる私と、ゆっくりと視線の高さを合わせる。
「今朝、俺の教室に来ただろ。何の用だったんだ?」
「へ」と声を零してから、あのおふたりだ、と気づく。中原さんの、ご友人の。首を振って、「何でもないです」と答える。
「嘘だな。用もないのにわざわざ上級生の教室になんぞ来ねえ」
「っ……で、でも、私が中原さんに付き纏ってるのは、いつものことで、」
「ああ、そうだな。で、いつも通りなら、お前は『何か、中原さんのお役に立てないかと思いまして』とか何とか云ってる」
一言一句、普段の私の台詞そのままだ。まるで、準備したみたいに。嵌められたと理解したころには、もう罠の最深部だった。唇を噛む私に、彼はさらに追い打ちをかける。
「お前が丸一日、一度も俺に会いに来ねえのも初めてだ。何か用があったが、申し訳ねえだか迷惑だかって考えて、結局やめた。それが負い目になって、俺と会うのも避けてたんだろ」
違うか?と、勝ち誇ったような笑顔を向けられる。かかった獲物を品定めするような、猛禽の目。声が震える。
「で、も……そんなこと、どうして。中原さんが気にするようなことじゃ……」
「へえ。お前が懐いた〝優しい先輩〟は、気に入った後輩が困ってても、助けてやらねえのかよ?」
ブラックホールみたいな目に、
「……すみません」
「今度は何に対する謝罪だ?」
「私に意気地がない所為で、中原さんのお手を煩わせてしまったことです」
中原さんは、よく気がつくひとだ。私の態度のちょっとした変化から、こんなに簡単に、私の思考を云い当ててしまう。無愛想でつまらない私なんかにまで、そんなふうに気を遣わせて、わざわざ一緒に歩かせてしまった。情けない。何が恩返しだ。ずっと、ずっと、迷惑しかかけていない。
何度も瞬きを繰り返してから、彼を見上げる。輝く星のような瞳。
「私、中原さんに、云いたいことがあったんです。でも、ご迷惑かもって考えてしまって。それでなおさら中原さんの負担になるだなんて、考えもしませんでした。申し訳ありません」
そこで言葉を切って、息を吸う。
「……もし……もし、許されるなら。お伝えしても、よろしいですか」
問えば、彼は軽く首を傾けて笑った。肩口で流れる、やわらかな髪。陽を受けて、きらきらと香色に輝いている。
「尋問だって云ったろ。お前がそれを云わなきゃ、終われねえよ」
陽光と紛うほど、あたたかな声。プリズムを通したみたいに鮮やかな光が、じんと胸に染みた。下手くそな呼吸に乗せて、精一杯の言葉を絞り出す。
「中原さん。お誕生日、おめでとうございました」
ぎゅっと鞄の持ち手を握りしめる。じっと見上げていると、余裕そうな笑みを浮かべていた目が、ゆっくりと見開かれていく。
「…………は?」
数秒の沈黙ののち、零されたのは、その一音。やっぱり、気持ち悪かっただろうか。
「あ、いえ、その、ストーカーとかじゃ、なくて。偶然、日付をお聞きしたんです。それで、お祝いしたいって思ったんです、けど。ただの後輩なのに重いかな、とか、色々考えて、それで、云えなくて……」
中原さんは、黙ったままだ。教えてもいない誕生日を私なんかに祝われるなんて、嫌に決まっているだろう。身の程知らずだったと、後悔したってもう遅い。
押し潰されそうな心臓を抱えたまま見つめていると、中原さんが深く、本当に深くため息を吐いた。手のひらで、目許を覆う。
「勘弁してくれ……」
呟くような言葉に、肩が跳ねた。滲みそうになる涙を、必死に堪える。
「す……すみません……! あの、本当に、不快にさせるつもりは、なくて……。中原さんには、いつも感謝してるんです! だ、だからって、気持ち悪いのは、変わらないと思うんですけど、でも、」
「違えよ」
短く遮った彼の目が、こちらを向く。じとりと睨むようなかたちに、逃げ出しそうになる。中原さんが口を開くのが怖くて、でも、死刑宣告はきちんと聞かなきゃいけないと思った。
それなのに。
「何だよ、誕生日って。そんだけかよ」
「……へ?」
「ったく、身構えて損したぜ」
息を吐きながら、後頭部を掻く中原さん。意味がわからずに見つめていると、失敗した子どもを慰めるように、彼は笑った。
「さっきも云ったけどな。俺はお前の事、それなりに可愛がってるつもりなんだぜ。そんな後輩から誕生日祝われて、厭だとか気持ち悪いとか、思う訳ねえだろうが」
あまりにやさしい口許が、さらに信じられないような音を紡ぐ。
「むしろ、嬉しいくらいだ。知られてるとも思ってなかったからな」
痛いくらいに目を見開く。そんなことって。
「な、中原さん、そんな……気を遣わなくても……!」
「は? 何が?」
きょとん、と不思議そうに首を傾げられる。可愛い。……じゃ、なくて。
顔が熱いのを誤魔化すように、云い募る。
「わ、私、中原さんのご友人とかじゃ、なく……ただの、後輩じゃないですか!」
「そうだな」
「お誕生日のこと、勝手に知ったのに……!」
「別に隠してねえからなァ」
「一日遅れました! 失礼です!」
「毎年祝日だからな。学校くらいでしか会わねえなら、そんなモンだろ」
言葉に詰まった一瞬に、彼が意地悪く笑う。
「他には?」
そのひとことで、鞄がずしりと重くなった気がした。両手で持ち手を握って、声を絞り出す。
「ひとつだけ。……中原さんは、その。ハンカチに、こだわりはありますか」
「
突然の質問に怪訝そうな顔をする中原さん。意を決して、彼の目の前に、鞄の中から取り出した箱をそうっと差し出した。鴇色に包装された、薄い箱。
「でしたら、一枚。その〝それなり〟の仲間に入れていただけないでしょうか」
そう。私が彼に用意した誕生日プレゼントは、一枚のハンカチーフだった。落ち着いた濃密な赤色の地に、白い星——と云っても、子どもっぽい五芒星ではなく、細身の八芒星——が、広い間隔でドット柄のように散らされている。模様が綺麗なのもさることながら、何やら良い布地らしく、かすかに光沢があるのが目を引いた。そして何より、中原さんの姿を思い浮かべたとき、これが一番似合う気がしたのだ。私の感覚だから、信用なんてできないけれど。
手が震える。重いだろうか。でも、ここまで壁を崩されてしまった私の心では、こんなちいさな箱でさえ、隠し通せるとは思えなかった。
俯いてしまいそうになる視線を必死に持ち上げ続ける。そんな私の手から、鳥が羽ばたいた。
「開けてもいいか?」
私が頷くのを待ってから、包装紙を破かないようにそっと開けてくれる。きれいな手だ。白すぎず、健康的な肌色。薄く血管が透けて、力を入れると、軽く筋が浮く。長い指、爪は短く切り揃えてある。見惚れている間に包装紙が全て剥がされたので、邪魔にならないように受け取った。中原さんの反応を窺いつつ、小さく折り畳むのに集中しているふりをする。
包装紙の下から現れたのは、白い箱。蓋の部分に透明な窓がついていて、開けずとも中身が見える仕様だ。ハンカチの柄をまじまじと確認して、中原さんがにっと口角を上げる。
「それなりどころか、一軍じゃねえか」
「え」
「気に入ったぜ。なかなか佳い色だ。いい趣味してんなァ、」
そうやって、親しげに名前を呼んでくれるから。傾いてきた夕陽に炙られたみたいに、体温が上がっていく。
用意してきた言葉を何ひとつ云えないうちに、ハンカチの入った箱が、彼の鞄に丁寧にしまいこまれる。
「洗ってアイロンかけて……来週には下ろせるか」
そう呟く横顔が、どこか嬉しそう、なんて。こんなことが、あって良いのだろうか。そわそわと、後頭部の髪を無意味に撫でつける。
機嫌良く歩き出した中原さんが、私をちらりと見下ろした。
「なァ、」と私の名前を呼ぶ。彼は、やけに他人の名前を呼ぶひとだった。返事をすると、困ったように眉を下げられる。
「
「……はい」
「お前なァ……。方向音痴も大概にしろよ」
呆れたようで、けれどあまりにもやさしい声。私なんかには、もったいない。こんなに良くしてもらっていたら、いつか罰が当たる。でも。
「すみません。……次は、間違えないようにします」
でも、まだ、少しだけ。多少は親しい後輩として、彼の近くにいたい。次を願うだなんて、強欲すぎるとわかっている。それでも、私のことも悪くないと思っていると、彼が云ってくれた。その事実は、私の不安や怯えより、尊重されるべきものだ。
精一杯のわがままをぶつけたのに、中原さんは少しも揺るがずに、愉しそうに笑った。道端のツツジが、赤く光る。
「真面目過ぎなんだよなァ、お前は。いい
それから、何てことないように、前を向く。
「ま、少しくらいなら迷ったって構わねえよ。また探して捕まえりゃアいいだけの話だからな」
真っ直ぐに、遠くを見つめる瞳。昏いのに、夕焼けより眩しく輝いていて。
——ことり、と、心臓が落ちる音がする。
「……中原さん」
「ん?」
「返してください……」
「は? 何でだよ。俺んだぞ、もう」
不服そうに鞄を抱える彼。そうじゃない、けど。そんなこと、云えるわけがない。
こんなに熱く燃える道標になら、一生捕らわれていたいだなんて。そんな莫迦なことを思ったのは、生れて初めてだった。
