それはこの身を焦がすほどの、
眩く輝く、一等星のようなひとだった。
血と泥と硝煙の中で、ぐっと拳銃を握る。残る弾丸はあと五発。それだけで、あの怪物を仕留めなければならない。
数メートル先から、同僚たちの悲鳴が聞こえる。ぐらぐらと地面が揺れて、先ほど掠った脚の傷が疼いた。
どこまでも無謀な仕事だった。ポートマフィア武器庫の襲撃。上層部と件の組織との間に何があったのかなんて、使い捨ての駒でしかない私にはわからない。ただ、突然呼び出されて、部隊に編成されて、駆り出された。それだけだ。
倉庫で弾倉を準備していたときの私は、どうせ相手の下っ端と撃ち合って、適当に逃げれば終わるだけのお粗末な仕事だと、高を括っていた。ポートマフィアの本当の恐ろしさを、知りもしないで。
破砕音が近付いてくる。人間同士の殺し合いでは有り得ないはずの衝撃。跳ね上がる心音が耳の中で響く。ガタガタと震えながら、拳銃は離せない。撃たなければ、殺さなければ。このヨコハマ黒社会で最も黒く大きな厄災を。
深夜二時、見張りを撃ち殺して、同僚が武器庫に侵入。私たちは、マフィアの増援を食い止めるための、いわば囮役だった。同様に配置されている二人と連絡を取り合いながら、周囲を警戒する。
入口を無理矢理突破したから、もうとっくに気付かれているはずだ。寄越されるのは、噂の黒蜥蜴か、はたまた、指名手配犯の芥川龍之介か。そんな軽口を叩いていた同僚の通信が、突然ブツンと途絶える。
──来た。ポートマフィアだ。
しかし、狙撃音もなければ、彼が抵抗した様子もない。サイレンサーでも使っているのだろうか。武器庫内の同僚と連絡を取ろうとするが、それよりも早く、背後から大きな破壊音が響いた。
振り返ると、武器庫の天井から土煙が上がっている。夜空を覆う、死の気配。マフィアが、自分の所有する建物ごと、内部の彼らを攻撃したのだ。背筋が凍る。相手は、私たちを何としても皆殺しにするつもりだ。
ああ、そうだ。あのとき、すぐに逃げれば良かったのだ。表向きは運送企業勤務の女だという身分や戸籍、血に塗れたこの数年間が詰まった六畳間のボロアパート。それから、いつか組織への借金を全額返して、陽の当たる世界に戻って、そうして、明るい窓際で、大好きな詩集を読んでいたいという、ささやかな夢。そういう、今の私を構成する全てを捨てて、逃げ出してしまえば。命くらいは、助かったのかもしれなかった。
悲鳴とともに、機関銃の連射音が響く。白い光が明滅して、遠くに転がった同僚の死体が、幽霊のように浮かんで見える。今の攻撃で、部隊長が殺された。おそらくは、他の全員、とっくに殺されているのだろう。残っているのは、私だけだ。
コツコツと鳴る足音が途中で軋んだと思えば、向こうの壁が崩れ落ちる。攻撃手段とその苛烈さから、《何》が私たちを殺しに来たのか、見当はつく。しかし、私はまだ、相手の姿を目撃できてはいなかった。
こうしてこのまま息を潜めていれば、見つからずに済むかもしれない。ぎゅっと目を瞑って、両手で祈るように銃を握る。だが、無慈悲にも、相手は私のすぐ後ろまで近付いてきていた。
軽くしなやかな足音。距離にして、およそ二メートル。覚悟を決める。そうだ。私は、逃げ帰るわけにはいかないのだ。
私が隠れていた瓦礫が破壊されたのと同時に、その影から転がり出る。拳銃を構えて、狙いはただひとつ。
「──まだいたか」
その男は、夜よりも黒く重い闇を纏って、私の前に立っている。
息が、止まりそうだった。
黒く、重い、ヨコハマ最大の厄災。ポートマフィアに楯突く者は、皆、苛烈な重力によって潰される。都市伝説の如き、その男は。
──この世のものとは思えないほど、うつくしかった。
鍔付きの帽子に、長い外套を肩にかけて。やわらかく風に靡く髪は、獅子の鬣と同じ色だ。白い頬に、同僚の誰かの血が滲んでいる。爛々と輝く瞳が、最後の獲物である私を見据える。目が眩みそうになって、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「ヘェ、佳い目じゃねえか」
すぅと細められた瞳に、くらくらする。拳銃を持ち直して、彼の額に照準を合わせた。
「撃てんのか? 手前に」
「……撃たなきゃ……殺される」
私の魂が。私自身に。
やれなくても、やるしかない。このうつくしき厄災に殺されるとしても、私は、私を守らなくちゃならない。それだけが、私がここまでどうにか生きてきた理由だった。
「いいぜ」
「……は?」
「一発、撃たせてやるよ」
どうせ無駄だがな。そう、残酷に笑う。
手が震える。呼吸が浅くなる。喉の奥で血の味がして、視界が涙で滲む。ガンガンと鳴る頭の奥から、何度も読んだ句が浮かぶ。何があっても手放せなかった、一冊の詩集。その中の、自画像と題された歌が、私は好きだった。
「……『陽気で、坦々として、而 も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!』……」
指先に血が戻る。焦点が定まる。──やれる。
渾身の一発。銃声が響き、永遠のような時間が流れる。当たった。彼の額、その秀眉の間に、確実に。呼吸を止めていたことに気付いて、そっと息を吐く。けれど、彼は倒れもせず、仰け反りもせず、にい、と口角を上げた。
ぱらりと、ひしゃげた銃弾が落ちる。
「俺に銃は効かねえ。知らなかったか?」
彼はそう云いながら、腰を抜かした私に近付いてくる。
終わりだ、と思った。殺される。それでも、不思議と怖くはなかった。私は撃った。それで十分だ。
それに。このひとに──このうつくしき厄災に圧し潰されて死ぬならば。それはきっと、私のろくでもない人生にとって、最上の最期だ。
訪れるはずの痛みに耐えようと力んだ私の腕を、しかし彼は、力強く掴んだ。何の意味もなくなった銃が零れ落ちる。
「気に入った」
ぐいと引き上げられて、ボロボロの脚で立ち上がる。意味がわからず見上げると、抜けた天井の向こうの夜空を背にして、彼は笑った。
「その目ができる奴は、ポートマフィアにもそうは居ねえ。手前の人生、俺が買ってやる」
マフィアに寝返れ。さもなくば命はないと、そういう取引だ。部隊の同僚たちは皆死に、この場で生きているのは、彼と私の二人だけ。月のない闇に、小さな星たちが遠く光っている。
全天で一番明るい星は、鋭い犬歯を見せて笑っていた。
(中原中也『山羊の歌』「寒い夜の自画像」より、一部引用)
血と泥と硝煙の中で、ぐっと拳銃を握る。残る弾丸はあと五発。それだけで、あの怪物を仕留めなければならない。
数メートル先から、同僚たちの悲鳴が聞こえる。ぐらぐらと地面が揺れて、先ほど掠った脚の傷が疼いた。
どこまでも無謀な仕事だった。ポートマフィア武器庫の襲撃。上層部と件の組織との間に何があったのかなんて、使い捨ての駒でしかない私にはわからない。ただ、突然呼び出されて、部隊に編成されて、駆り出された。それだけだ。
倉庫で弾倉を準備していたときの私は、どうせ相手の下っ端と撃ち合って、適当に逃げれば終わるだけのお粗末な仕事だと、高を括っていた。ポートマフィアの本当の恐ろしさを、知りもしないで。
破砕音が近付いてくる。人間同士の殺し合いでは有り得ないはずの衝撃。跳ね上がる心音が耳の中で響く。ガタガタと震えながら、拳銃は離せない。撃たなければ、殺さなければ。このヨコハマ黒社会で最も黒く大きな厄災を。
深夜二時、見張りを撃ち殺して、同僚が武器庫に侵入。私たちは、マフィアの増援を食い止めるための、いわば囮役だった。同様に配置されている二人と連絡を取り合いながら、周囲を警戒する。
入口を無理矢理突破したから、もうとっくに気付かれているはずだ。寄越されるのは、噂の黒蜥蜴か、はたまた、指名手配犯の芥川龍之介か。そんな軽口を叩いていた同僚の通信が、突然ブツンと途絶える。
──来た。ポートマフィアだ。
しかし、狙撃音もなければ、彼が抵抗した様子もない。サイレンサーでも使っているのだろうか。武器庫内の同僚と連絡を取ろうとするが、それよりも早く、背後から大きな破壊音が響いた。
振り返ると、武器庫の天井から土煙が上がっている。夜空を覆う、死の気配。マフィアが、自分の所有する建物ごと、内部の彼らを攻撃したのだ。背筋が凍る。相手は、私たちを何としても皆殺しにするつもりだ。
ああ、そうだ。あのとき、すぐに逃げれば良かったのだ。表向きは運送企業勤務の女だという身分や戸籍、血に塗れたこの数年間が詰まった六畳間のボロアパート。それから、いつか組織への借金を全額返して、陽の当たる世界に戻って、そうして、明るい窓際で、大好きな詩集を読んでいたいという、ささやかな夢。そういう、今の私を構成する全てを捨てて、逃げ出してしまえば。命くらいは、助かったのかもしれなかった。
悲鳴とともに、機関銃の連射音が響く。白い光が明滅して、遠くに転がった同僚の死体が、幽霊のように浮かんで見える。今の攻撃で、部隊長が殺された。おそらくは、他の全員、とっくに殺されているのだろう。残っているのは、私だけだ。
コツコツと鳴る足音が途中で軋んだと思えば、向こうの壁が崩れ落ちる。攻撃手段とその苛烈さから、《何》が私たちを殺しに来たのか、見当はつく。しかし、私はまだ、相手の姿を目撃できてはいなかった。
こうしてこのまま息を潜めていれば、見つからずに済むかもしれない。ぎゅっと目を瞑って、両手で祈るように銃を握る。だが、無慈悲にも、相手は私のすぐ後ろまで近付いてきていた。
軽くしなやかな足音。距離にして、およそ二メートル。覚悟を決める。そうだ。私は、逃げ帰るわけにはいかないのだ。
私が隠れていた瓦礫が破壊されたのと同時に、その影から転がり出る。拳銃を構えて、狙いはただひとつ。
「──まだいたか」
その男は、夜よりも黒く重い闇を纏って、私の前に立っている。
息が、止まりそうだった。
黒く、重い、ヨコハマ最大の厄災。ポートマフィアに楯突く者は、皆、苛烈な重力によって潰される。都市伝説の如き、その男は。
──この世のものとは思えないほど、うつくしかった。
鍔付きの帽子に、長い外套を肩にかけて。やわらかく風に靡く髪は、獅子の鬣と同じ色だ。白い頬に、同僚の誰かの血が滲んでいる。爛々と輝く瞳が、最後の獲物である私を見据える。目が眩みそうになって、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「ヘェ、佳い目じゃねえか」
すぅと細められた瞳に、くらくらする。拳銃を持ち直して、彼の額に照準を合わせた。
「撃てんのか? 手前に」
「……撃たなきゃ……殺される」
私の魂が。私自身に。
やれなくても、やるしかない。このうつくしき厄災に殺されるとしても、私は、私を守らなくちゃならない。それだけが、私がここまでどうにか生きてきた理由だった。
「いいぜ」
「……は?」
「一発、撃たせてやるよ」
どうせ無駄だがな。そう、残酷に笑う。
手が震える。呼吸が浅くなる。喉の奥で血の味がして、視界が涙で滲む。ガンガンと鳴る頭の奥から、何度も読んだ句が浮かぶ。何があっても手放せなかった、一冊の詩集。その中の、自画像と題された歌が、私は好きだった。
「……『陽気で、坦々として、
わが魂の願ふことであつた!』……」
指先に血が戻る。焦点が定まる。──やれる。
渾身の一発。銃声が響き、永遠のような時間が流れる。当たった。彼の額、その秀眉の間に、確実に。呼吸を止めていたことに気付いて、そっと息を吐く。けれど、彼は倒れもせず、仰け反りもせず、にい、と口角を上げた。
ぱらりと、ひしゃげた銃弾が落ちる。
「俺に銃は効かねえ。知らなかったか?」
彼はそう云いながら、腰を抜かした私に近付いてくる。
終わりだ、と思った。殺される。それでも、不思議と怖くはなかった。私は撃った。それで十分だ。
それに。このひとに──このうつくしき厄災に圧し潰されて死ぬならば。それはきっと、私のろくでもない人生にとって、最上の最期だ。
訪れるはずの痛みに耐えようと力んだ私の腕を、しかし彼は、力強く掴んだ。何の意味もなくなった銃が零れ落ちる。
「気に入った」
ぐいと引き上げられて、ボロボロの脚で立ち上がる。意味がわからず見上げると、抜けた天井の向こうの夜空を背にして、彼は笑った。
「その目ができる奴は、ポートマフィアにもそうは居ねえ。手前の人生、俺が買ってやる」
マフィアに寝返れ。さもなくば命はないと、そういう取引だ。部隊の同僚たちは皆死に、この場で生きているのは、彼と私の二人だけ。月のない闇に、小さな星たちが遠く光っている。
全天で一番明るい星は、鋭い犬歯を見せて笑っていた。
(中原中也『山羊の歌』「寒い夜の自画像」より、一部引用)
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