#文スト夢深夜の60分一本勝負

 がちゃり、と、鍵の開く音がした。
 お鍋とにらめっこしていた顔を上げて、玄関のほうを見る。そのままがちゃり、がちゃり、と似たような音が続いて、最後、高めの電子音が鳴った。いくつもかけられた鍵を開けられるのは、あのひとしかいない。駆け出しそうになる脚を抑えてきちんとコンロの火を止めてから、音のほうへと走った。
「おかえりなさい、中也さん!」
「おう、ただいま」
 ぱたぱたというスリッパの音に気づいて、彼は両腕を広げて待っていてくれた。その胸に飛び込んで、彼の香りを肺いっぱいに吸い込む。やさしくて、でもくらくらしてしまうような色気もある香り。それと、じんわり広がる珈琲。今日は血の匂いはしなくて、ほっと息を吐いた。
 中也さんはぎゅうと私の身体を強く抱き締め返してくれる。耳元にかかる息がくすぐったい。華やかな声が、低くあたたかく響く。
「今日もいい子にしてたか?」
「もう、いつもカメラで見てるんでしょう?」
「お前から聞きてえんだよ。ちゃんと俺のこと待ってたか?」
「ふふ、もちろん! ずうっと、中也さんのこと考えてました」
 そう答えると頭をよしよしと撫でてくれて、笑みが零れる。
「中也さんも。今日もお疲れさまです」
 ぽふぽふと黒帽子の上から撫でると、ふっと笑ってくれた。軽々と身体を持ち上げられて、中也さんはそのままリビングへと向かう。お姫様みたいな扱いが昔は恥ずかしかったけれど、今ではこれが心地好い。そっと見上げると、おでこ同士をくっつけてくれる。至近距離で見つめてくれるこの目が、好きだ。
 廊下を進んでリビングに入ると、やわらかなソファに優しく降ろされた。背もたれに肩を押しつけられる。天井の明かりを中也さんが遮って、その笑顔にぞくりとする。がぶり、と噛みつくように口づけられるのが好き。いつもやさしくて大人な中也さんが、こういうときは肉食獣みたいになる。私にしか見せないその顔に、どきどきしてしまう。
 貪るみたいなキスをして、中也さんがゆっくりと離れていく。と思ったら、すぐに隣に座って、ぽふ、と私の肩に頭を預けてきた。帽子が落ちるのも気にせずにぐりぐりと額を押しつけるのが、子どもみたいだ。
「ふふ、中也さん、甘えたですか?」
「……ちょっとな」
 その声には薄らと疲れが滲んでいる。きっと、今日のお仕事も大変だったんだろう。ふわふわの髪をそっと撫でる。
「んー……わかった。書類仕事、ですね? いっぱい片付けて、疲れちゃいましたか?」
「……なんでそう思う?」
「だって、前に云ってたじゃないですか。書類仕事はあんまり好きじゃないって」
 ね、合ってますか。そう云って笑うと、中也さんはちょっと黙ってから、ぎゅっと私に抱きついてきた。
「やっぱ、お前には全部バレてんだな」
 その声にはさっきみたいなしっとりした空気はなくて、からりと晴れた日のそよ風みたいに耳に届く。中也さんがじっと私の目を見つめてくれる。
「詳しいことは話せなくて、悪い。けど、お前が云ってるのでだいたい合ってる」
「うん。……うん、わかってますよ。大丈夫。中也さんが話してくれること以外、訊きません」
 あたたかな色の頭をそっと撫でる。中也さんのお仕事が何なのか、私は知らない。ただ、部下の人がたくさんいて、お疲れな日も多くて。それで、危険なことも多いということだけ知っている。怪我をしたり、誰のかわからない血を付けて帰ってきたりすることも、よくある。心配だけど、そのお仕事が中也さんの誇りで、生きる意味で、何より大切だということも知っていた。
「……ありがとな」
 中也さんの手が、私の頬にそっと触れる。革手袋の感触なんて、中也さんと出会うまで知らなかった。この手になら何をされてもいいだなんて、そんなこと、思ったことはなかったのに。
「……ね、中也さん。お仕事のことは訊かないから、ひとつだけ、我儘云っても良いですか?」
「ん? ……何だ?」
「……死んじゃわないでくださいね」
 自分でも驚くほど、その声は震えていた。
「中也さんのお仕事が危ないのは、わかってます。それが必要なんだってことも。でも、中也さんが死んじゃうのは、嫌です」
 堪えたつもりだったのに、じわじわと目の奥が熱くなって、視界がぼやけてきてしまう。頬に添えられた手に触れる。
「──私のことは、中也さんが殺してくれるんでしょう?」
 ソファと本棚とテーブルのあるリビング、そこに繋がったキッチン、広いバスルームと、大きなベッドのある寝室。今の私にとっては、それが世界の全てだ。私はこの部屋から出られない。中也さんと一緒にデートに出かけることはごく稀にあるけれど、それ以外で、ましてや一人で外に出るなんて、以ての外だ。
 今の私を生かしてくれているのは、中也さんだ。私の世界には中也さん以外に誰もいない。だから、私が死ぬときは、きっと今みたいに、中也さんの腕の中でないといけなかった。
 零れてしまった涙を、中也さんが拭ってくれる。
「中也さん、お願い、死なないで。帰ってきて。私のところに、ちゃんと生きて戻ってきて」
 誰を傷つけても、世界を壊しても、どうか。なんて、私には言えなかった。中也さんは『それ』をしないと、そのくらいのことはわかっているつもりだ。飲み込んでじっと見つめると、中也さんは目元に唇を落とした。
「俺がそんな簡単に死ぬような男に見えるかよ?」
 ふるふると首を振る。それでも、中也さんが帰ってきてくれるのが、あのいくつもの鍵を開けて私の世界に戻ってきてくれるのが、毎日毎日待ち遠しくて堪らないのだ。
「……中也さんも。私と一緒に、ずっとこの部屋にいてくれたらいいのに」
 呟くと、中也さんはちょっと目を丸くしてから、ふわりと破顔した。仕方ねえな、と頬を撫でてくれる。
「大丈夫だ。俺はちゃんと帰ってくる。そんで、また一緒にデートしよう。な?」
「……うん」
「ん、いい子だ」
 中也さんがよしよしと頭を撫でてくれるけれど、仄暗い感情は消えてはくれない。唇をぎゅっと噛み締める。これはきっと、中也さんが私に抱えてくれているものと同じなのだろう。私と中也さんの安息は、この部屋にしか有り得ない。
「中也さん」
「どうした?」
 やわらかな髪を指で梳く。ゆるりと曲線を描く襟足を指先に絡めた。
「今日の夕飯ね、カレー作ったんです。夏だから、キーマカレー」
「お、いいな」
「それでね、そこに生たまごを落とすのと、目玉焼きを乗せるのと、中也さんはどっちがいいですか?」
 問えば中也さんは動きを止めて、ぐぬぬ、と声を漏らしながらじっと悩み始めた。
「……生……いや、でも半熟の目玉焼きも……どっちが正解だ……?」
「ふふ。もう少しでご飯が炊けるので、それまでに決めてくださいね」
 ふわふわと頭を撫でながら、まだ悩んでいる中也さんを見つめる。大好きな、私の中也さん。外では何か危ないお仕事をしていて、何かすごく重いものを背負っているひと。
 ソファを立って、炊飯器の表示を覗く。
「あと一分ですよー」
「あ、おい、待て、もうちょい悩ませろ!」
 後ろから聞こえる声に、笑みが零れる。
 幾重もの鍵の内側。この部屋でだけは、ただの何でもない中也さんでいてほしかった。
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