#文スト夢深夜の60分一本勝負
ビルの谷間を刻々と染めていく朝焼けから逃げるように、路地裏に駆け込む。眩しいのは嫌いだ。でも、夜の冷たさを侵す人肌はもっと嫌い。先程まで隣にいた体温を思い出して、悪寒が走った。
震える指で、携帯端末の画面をなぞる。電話帳から目当てを見つけ出して、手が止まった。登録してから今まで、一度もかけたことのない番号。深呼吸がしたいのに、どうにも息が浅すぎる。声を、聞くだけ。それだけだ。
三コールで発信音が途絶える。一拍おいて怪訝そうな返事が聞こえる。じんわりと耳に響く声に、さっき固めた覚悟が簡単に崩れ去った。
「ごめんなさい。……あいたい」
とうに営業を終えたバー。彼の《担当》であるこの店を、店主に無理を言って貸してもらった。互いの家に上がり込むなんて私たちにはできなくて、こんな夜明けに会いたいとねだるような愚かな女を受け入れてくれるのは、アルコール以外ありえなかった。
彼がカウンターに入って、カラカラと氷水を用意してくれる。お酒がいい、なんて我儘を云えば、それ飲んだらな、と返された。
「で? どうした、こんな時間に。仕事だったんじゃねえのか」
夏色のカクテルを片手に、彼が問う。私は一応、彼の部下の暗殺者で、けれど首領から直接下る仕事も多い。そして今回はそれだった。
「でき、なかった。……失敗したの」
彼が言葉を失ったのが気配でわかった。失望に染まったであろう瞳を見たくなくて、自分の爪をじっと見つめる。綺麗に磨いて整えて、これも所詮は仕事道具だ。
私は元は、どこにも属さない暗殺者兼情報屋だった。組織上層部の男に取り入って情報を抜き取り、用済みになれば殺す。名が知れて危険になった頃、その腕を買われてマフィアに入った。だから、もしも任務を失敗すれば、私はただでは済まされない。わかっていた。わかっていた、はずだ。
今回の任務は、とある男を骨抜きにして、首領に都合の良い手駒にすること。期待しているよ、という首領の声が、今も脳内で反響している。
「殺したのか?」
小さく首を振る。殺してはいない。ただ。
「お酒を飲ませて、薬で眠らせた。夜の記憶を飛ばしたふうにしたけど、でも、何度も使える手じゃない」
「……手前にしちゃ珍しいじゃねえか」
彼の言葉に、ぐっと奥歯を噛む。その通りだった。どんな男が相手でも、私は恋を演じられた。恋したふりをして、愛されたふりをして、そうして何人の男をだめにしただろう。取るに足りなかったはずの彼らの場所に、今、どうしてか私がいる。
「……できなく、なったの」
ぽろ、と零れた雫が、彼の作ってくれたカクテルに落ちる。こんなふうに、すぐに溶けて消えられる感情なら良かった。
「たった一夜の恋のふりが、どうしてもできない。これしかないのに、これしかできないのに。全部、」
そこまで云って、言葉に詰まる。云ってはいけない。それでも、云わずにはいられなかった。あいたいという願いを伝えた時点で、私の負けだった。
「……全部、あなたのせい」
云ってしまえば、言葉も涙もとめどなく溢れてきて。見ないようにしているうちに高く高く積もってしまった感情が、最後の光を発しながら崩れていく。
「あなたになんて出会わなければよかった。あなたがいなければ、私は失敗なんてしなかったのに。あなたについてきたのが間違いだった。何もかも、あなたのせい」
この言葉が間違いであることくらい、私にだってわかっている。でも、こうやって嫌われるようなことを云う以外に、この恋の終わらせ方がわからない。嘘の恋しか知らない私に、ほんとうの恋なんてできやしない。
いつの間にか隣に来ていた彼の手が、そっと私の肩に触れる。その少し高い体温が、長くて関節のしっかりした指が、自分は何かとても大切なものなんじゃないかと錯覚してしまうような触れ方が。他の誰との夜にも見つけられなかった全てが、私をこんなにも脆くした。崩れ去った恋の真ん中にはぽっかりと穴が空いていて、そこにあったはずの心臓は、とうにあなたに明け渡してしまっていた。
「ごめんなさい。……もう私、どうしても、あなたとでないと恋ができない」
好いた男に泣きつくような、そんな女になりたくなかった。人は一人でしか生きていけないと、それを知った人生だったはずなのに。
触れていた手に力が入って、ぐいと抱き寄せられる。慰めならばいらないと云いたいのに、焦がれたあなたを振り払うことなんてできやしない。
「俺のこと、嫌いか?」
「……きらい」
「じゃあ、俺のこと、好きか?」
耳元をやわらかな声がくすぐる。私の涙があなたの肩口を濡らして、それを幸福と呼んでみたいだなんて。
「……すき。すきよ。あなたがすき」
「良かった」
くしゃりと髪を撫でられる。
「どうして。私……こんなに弱いのに」
「構わねえよ。弱いなら俺を頼れ」
「私、もうずいぶん汚いし」
「手前の生きた証だろ」
「こんな時間に呼び出して……私、めんどうなことばかり云っている」
「良いんだよ。惚れた女からの電話で、喜んでのこのこ出てきたのは俺なんだぜ?」
莫迦はお互いさまだ。そう云ってあなたが笑うから、つい、縋りたくなってしまう。崩れてバラバラになった感情を、あなたはひとつひとつ拾い集めてくれる。
「なァ、好きだぜ」
「……うん」
「大丈夫だ。どうにかしてやる」
「……ごめんなさい」
「謝んなって」
そっと顔を上げた。あなたの目はやさしくて、私の強がりを全部見抜いてしまう。スローモーションのように、口元がやわらかな言葉を象った。
「愛してる」
唇が震える。生れて初めて言葉を得た子どものように、声が喉につかえて出てこない。
「ちゅうや」
「ん?」
「……私、も。あいしてる」
隣にいるのがあなたなら、夜も太陽も怖くはなかった。
震える指で、携帯端末の画面をなぞる。電話帳から目当てを見つけ出して、手が止まった。登録してから今まで、一度もかけたことのない番号。深呼吸がしたいのに、どうにも息が浅すぎる。声を、聞くだけ。それだけだ。
三コールで発信音が途絶える。一拍おいて怪訝そうな返事が聞こえる。じんわりと耳に響く声に、さっき固めた覚悟が簡単に崩れ去った。
「ごめんなさい。……あいたい」
とうに営業を終えたバー。彼の《担当》であるこの店を、店主に無理を言って貸してもらった。互いの家に上がり込むなんて私たちにはできなくて、こんな夜明けに会いたいとねだるような愚かな女を受け入れてくれるのは、アルコール以外ありえなかった。
彼がカウンターに入って、カラカラと氷水を用意してくれる。お酒がいい、なんて我儘を云えば、それ飲んだらな、と返された。
「で? どうした、こんな時間に。仕事だったんじゃねえのか」
夏色のカクテルを片手に、彼が問う。私は一応、彼の部下の暗殺者で、けれど首領から直接下る仕事も多い。そして今回はそれだった。
「でき、なかった。……失敗したの」
彼が言葉を失ったのが気配でわかった。失望に染まったであろう瞳を見たくなくて、自分の爪をじっと見つめる。綺麗に磨いて整えて、これも所詮は仕事道具だ。
私は元は、どこにも属さない暗殺者兼情報屋だった。組織上層部の男に取り入って情報を抜き取り、用済みになれば殺す。名が知れて危険になった頃、その腕を買われてマフィアに入った。だから、もしも任務を失敗すれば、私はただでは済まされない。わかっていた。わかっていた、はずだ。
今回の任務は、とある男を骨抜きにして、首領に都合の良い手駒にすること。期待しているよ、という首領の声が、今も脳内で反響している。
「殺したのか?」
小さく首を振る。殺してはいない。ただ。
「お酒を飲ませて、薬で眠らせた。夜の記憶を飛ばしたふうにしたけど、でも、何度も使える手じゃない」
「……手前にしちゃ珍しいじゃねえか」
彼の言葉に、ぐっと奥歯を噛む。その通りだった。どんな男が相手でも、私は恋を演じられた。恋したふりをして、愛されたふりをして、そうして何人の男をだめにしただろう。取るに足りなかったはずの彼らの場所に、今、どうしてか私がいる。
「……できなく、なったの」
ぽろ、と零れた雫が、彼の作ってくれたカクテルに落ちる。こんなふうに、すぐに溶けて消えられる感情なら良かった。
「たった一夜の恋のふりが、どうしてもできない。これしかないのに、これしかできないのに。全部、」
そこまで云って、言葉に詰まる。云ってはいけない。それでも、云わずにはいられなかった。あいたいという願いを伝えた時点で、私の負けだった。
「……全部、あなたのせい」
云ってしまえば、言葉も涙もとめどなく溢れてきて。見ないようにしているうちに高く高く積もってしまった感情が、最後の光を発しながら崩れていく。
「あなたになんて出会わなければよかった。あなたがいなければ、私は失敗なんてしなかったのに。あなたについてきたのが間違いだった。何もかも、あなたのせい」
この言葉が間違いであることくらい、私にだってわかっている。でも、こうやって嫌われるようなことを云う以外に、この恋の終わらせ方がわからない。嘘の恋しか知らない私に、ほんとうの恋なんてできやしない。
いつの間にか隣に来ていた彼の手が、そっと私の肩に触れる。その少し高い体温が、長くて関節のしっかりした指が、自分は何かとても大切なものなんじゃないかと錯覚してしまうような触れ方が。他の誰との夜にも見つけられなかった全てが、私をこんなにも脆くした。崩れ去った恋の真ん中にはぽっかりと穴が空いていて、そこにあったはずの心臓は、とうにあなたに明け渡してしまっていた。
「ごめんなさい。……もう私、どうしても、あなたとでないと恋ができない」
好いた男に泣きつくような、そんな女になりたくなかった。人は一人でしか生きていけないと、それを知った人生だったはずなのに。
触れていた手に力が入って、ぐいと抱き寄せられる。慰めならばいらないと云いたいのに、焦がれたあなたを振り払うことなんてできやしない。
「俺のこと、嫌いか?」
「……きらい」
「じゃあ、俺のこと、好きか?」
耳元をやわらかな声がくすぐる。私の涙があなたの肩口を濡らして、それを幸福と呼んでみたいだなんて。
「……すき。すきよ。あなたがすき」
「良かった」
くしゃりと髪を撫でられる。
「どうして。私……こんなに弱いのに」
「構わねえよ。弱いなら俺を頼れ」
「私、もうずいぶん汚いし」
「手前の生きた証だろ」
「こんな時間に呼び出して……私、めんどうなことばかり云っている」
「良いんだよ。惚れた女からの電話で、喜んでのこのこ出てきたのは俺なんだぜ?」
莫迦はお互いさまだ。そう云ってあなたが笑うから、つい、縋りたくなってしまう。崩れてバラバラになった感情を、あなたはひとつひとつ拾い集めてくれる。
「なァ、好きだぜ」
「……うん」
「大丈夫だ。どうにかしてやる」
「……ごめんなさい」
「謝んなって」
そっと顔を上げた。あなたの目はやさしくて、私の強がりを全部見抜いてしまう。スローモーションのように、口元がやわらかな言葉を象った。
「愛してる」
唇が震える。生れて初めて言葉を得た子どものように、声が喉につかえて出てこない。
「ちゅうや」
「ん?」
「……私、も。あいしてる」
隣にいるのがあなたなら、夜も太陽も怖くはなかった。