#文スト夢深夜の60分一本勝負
「郵便でーす」
馴染みの配達員さんの声。ふわふわとした白髪の彼に、寮の学生たちが群がっていく。お揃いの制服に身を包んだ同窓生たちの賑やかな囀りが、開いた窓から聞こえてくる。ご家族からのお便りを、みな心待ちにしているのだ。
廊下を駆ける音がする。同室の彼女だろう。私が振り向くのと、大きな音を立てて扉が開くのとが、同時だった。
「一葉。廊下を走ると、」
「お手紙ですって、お姉様!」
揺れる蜂蜜色の髪。彼女の手には、一通の航空便がある。思わず立ち上がって、手を伸ばした。受け取った封筒を裏に返す。
「婚約者の方からですか?」
「ええ」
つい明るい声が出てしまって、目を伏せる。一葉はにこにこと笑って、
「それじゃあ、私、お友達のお部屋に行ってきます」
と云って出ていった。
じっと差出人の名を見つめる。もう何年も会っていない、私の婚約者。最後に会ったのは、私が五つのときのはずだ。やわらかな茶髪の、よく笑う男の子だった。今は仏国に留学中で、こうしてときどき、手紙をくれる。
窓際の机の引出しから、ペーパーナイフを取り出す。綺麗な装飾の施された欧州製で──彼からの贈答品だ。
封筒の中の手紙は、いつものようにぶ厚い。綴られた字はやはりうつくしい。彼の筆致をなぞると、なんだか胸のあたりがふわふわする。
「お久しぶりです。お変りありませんか。
俺は今、巴里 にゐる。貴女にも見せたい景色ばかりだ。写真を同封したが、きつとこの素晴らしさの凡ては伝わつてはゐないだらう。いつか連れてゆくから、楽しみにしてゐてくれ」
彼の手紙は、だいたい月に一度届く。そのたびに彼は違う街にいて、あるとき私が返事に「見てみたい」と書いたら、写真や絵葉書を同封してくれるようになった。
私たちはこの十数年間会ったこともなくて、電話で声を聞いたこともない。けれど、彼のことはよく知っている。欧州の葡萄酒が好きなこととか、仏国の詩を好むこととか。それに、彼の言葉の優しさ、世界を見る瞳の温かさ。彼が綴ってくれる長い手紙は、すべて私の宝箱にしまってある。
「次の春に、貴女は卒業でしたね。俺も、時季を合せて帰国する心算だ。土産を持つて逢ひにゆく。何か欲しい物があれば、教へてくれ。職人を脅してでも用意しやう」
くすりと笑い声が零れる。こういう冗談が可愛らしくて、彼ともっと話したくなる。話す、と云っても、届けるのに何日もかかるお手紙だけれど。
「また来月、手紙を送る。次は里昴 に行く予定だ。
中原中也」
末尾の文字に、胸が高鳴る。名前だけでこんなにときめいてしまうなんて。もう一度全文を読み直して、机から便箋を取り出す。私も、彼に伝えたいことがたくさんある。万年筆を手に、何から書こうか、なんて考えながら外を見ると、夕暮れの空を烏たちが飛んでいた。涼やかな風が頬を撫でる。
ちらりと机の端を見る。送ってくれと何度もねだって、ようやくもらった彼の写真。白い帽子をかぶって、薄い色の外套を肩にかけて。まっすぐ背筋を伸ばして、ちょっと緊張したようにこちらを見つめている。わざわざ私に送るためだけに、写真館で撮ってくれたらしい。これを飾っていると、部屋に来た友人や後輩に揶揄われることもある。それでも、彼を少しでも身近に感じたかった。
「ふふ」
写真立てをそっと指で撫でる。目の端で、太陽が目に見える速さで沈んでいく。こんなふうに陽が沈んで、また昇って、そうして幾度も繰り返せば、あのひとに会える。次の桜が待ち遠しい。
「──中也さん」
小さく呟いた彼の名前が、風に乗って届けば良いと思った。
馴染みの配達員さんの声。ふわふわとした白髪の彼に、寮の学生たちが群がっていく。お揃いの制服に身を包んだ同窓生たちの賑やかな囀りが、開いた窓から聞こえてくる。ご家族からのお便りを、みな心待ちにしているのだ。
廊下を駆ける音がする。同室の彼女だろう。私が振り向くのと、大きな音を立てて扉が開くのとが、同時だった。
「一葉。廊下を走ると、」
「お手紙ですって、お姉様!」
揺れる蜂蜜色の髪。彼女の手には、一通の航空便がある。思わず立ち上がって、手を伸ばした。受け取った封筒を裏に返す。
「婚約者の方からですか?」
「ええ」
つい明るい声が出てしまって、目を伏せる。一葉はにこにこと笑って、
「それじゃあ、私、お友達のお部屋に行ってきます」
と云って出ていった。
じっと差出人の名を見つめる。もう何年も会っていない、私の婚約者。最後に会ったのは、私が五つのときのはずだ。やわらかな茶髪の、よく笑う男の子だった。今は仏国に留学中で、こうしてときどき、手紙をくれる。
窓際の机の引出しから、ペーパーナイフを取り出す。綺麗な装飾の施された欧州製で──彼からの贈答品だ。
封筒の中の手紙は、いつものようにぶ厚い。綴られた字はやはりうつくしい。彼の筆致をなぞると、なんだか胸のあたりがふわふわする。
「お久しぶりです。お変りありませんか。
俺は今、
彼の手紙は、だいたい月に一度届く。そのたびに彼は違う街にいて、あるとき私が返事に「見てみたい」と書いたら、写真や絵葉書を同封してくれるようになった。
私たちはこの十数年間会ったこともなくて、電話で声を聞いたこともない。けれど、彼のことはよく知っている。欧州の葡萄酒が好きなこととか、仏国の詩を好むこととか。それに、彼の言葉の優しさ、世界を見る瞳の温かさ。彼が綴ってくれる長い手紙は、すべて私の宝箱にしまってある。
「次の春に、貴女は卒業でしたね。俺も、時季を合せて帰国する心算だ。土産を持つて逢ひにゆく。何か欲しい物があれば、教へてくれ。職人を脅してでも用意しやう」
くすりと笑い声が零れる。こういう冗談が可愛らしくて、彼ともっと話したくなる。話す、と云っても、届けるのに何日もかかるお手紙だけれど。
「また来月、手紙を送る。次は
中原中也」
末尾の文字に、胸が高鳴る。名前だけでこんなにときめいてしまうなんて。もう一度全文を読み直して、机から便箋を取り出す。私も、彼に伝えたいことがたくさんある。万年筆を手に、何から書こうか、なんて考えながら外を見ると、夕暮れの空を烏たちが飛んでいた。涼やかな風が頬を撫でる。
ちらりと机の端を見る。送ってくれと何度もねだって、ようやくもらった彼の写真。白い帽子をかぶって、薄い色の外套を肩にかけて。まっすぐ背筋を伸ばして、ちょっと緊張したようにこちらを見つめている。わざわざ私に送るためだけに、写真館で撮ってくれたらしい。これを飾っていると、部屋に来た友人や後輩に揶揄われることもある。それでも、彼を少しでも身近に感じたかった。
「ふふ」
写真立てをそっと指で撫でる。目の端で、太陽が目に見える速さで沈んでいく。こんなふうに陽が沈んで、また昇って、そうして幾度も繰り返せば、あのひとに会える。次の桜が待ち遠しい。
「──中也さん」
小さく呟いた彼の名前が、風に乗って届けば良いと思った。