#文スト夢深夜の60分一本勝負
「あー、もう……サイアク」
どんやりと嗤う空を睨みながら、呟く。つい零れた言葉は足元を叩く雨音に吸収されて、誰にも届かず消えていった。
紅葉様に頼まれた、御遣いの帰りだった。馴染みのお店で、来客用のお茶菓子と彼女の好きな紅茶を購うだけの簡単な御遣い。普段書類仕事ばかりで外に出ない私を気遣って、紅葉様はいつも、この役目を私に任せてくれる。他人からは、仮にもポートマフィア五大幹部の秘書がそんなことをするなんて、と云われることもあるけれど、私は週に一度のこの御遣いが好きだった。見繕ったお茶菓子をお出しするのも、密かな楽しみである。今日は梅雨らしく、紫陽花を象った砂糖菓子を選んでみた。
──そう、梅雨。梅雨なのである。
お店の軒下で立ち尽くす。いつもマフィア本部ビルに引きこもっている所為で、天気予報を確認するなんて習慣はついていない。先程までの晴れ間は、梅雨の気まぐれだったのだろう。とはいえ、お天道様に顔向けできるような身分ではないので、自然、恨み言は無計画な自分へ向く。何故、携帯端末でちょっと天気を確認するくらいのことができないのか。紅葉様が外出されるときにはきちんと調べているのに、自分のことになるとこれである。いつも叱られていることだ。
「……いつ止むんだろ……」
けぶる空の向こう、本部のビルが天高く聳え立っている。目と鼻の先だというのに、傘一本を忘れた所為で帰れない。いっそ走ってしまおうかとも思ったが、荷物が濡れたら元も子もない。やっぱり、止むのを待つしか──
「あ? お前、こんな処で何してんだ?」
突然の声。見ると、よく見知った青年が此方を見つめ返している。
「な、中原幹部……!」
「その堅苦しいの、やめろって。俺はオフだしよ」
ポートマフィア五大幹部がひとり、中原中也。重力を操り敵を砕くマフィア随一の武闘派にして──かつて紅葉様の部下であり、私の同僚であったひと。
同僚と云っても、私のほうが少しだけ先輩だった。でも、中原君はどんどん出世して、いまや紅葉様と肩を並べてマフィアを守る幹部である。別に、嫉妬はない。実力があれば上に行くのは当然だし、そんなことより、彼が今も生きていてくれることのほうが重要だった。生きている同僚よりも、死んでしまった同僚のほうが多いからだ。
「で? 如何したんだよ、こんな処で。姐さんの御遣いか?」
「……うん。でも、傘忘れてきちゃって……」
「ああ。さっきまで晴れてたからなァ」
と云いつつ、中原君は、しっかり傘を持ってきている。黒く大きいその傘は、シンプルなデザインのようでいて、持ち手に装飾が施されたお洒落なものだ。こういう細かい処までこだわるのが、中原君らしい。
「佳いお茶菓子購えたから、早く帰りたいんだけど。この雨じゃなあ……」
はあ、とまたため息を吐く。
「なら、入ってくか?」
「……え?」
傘が差し出される。たしかに、大きい傘だ。小柄な中原君と私の二人なら、荷物も濡らさずに帰れるだろう。でも。
「中原君、今日はお休みなんでしょう? 悪いよ」
「別に佳いっての」
ほら、と半ば強引に腕を引かれて、傘に入れられた。勢い余って中原君の胸に飛び込んでしまって、心拍数が一気に上昇する。慌てて離れようと思ったけれど、それでは雨に濡れてしまうことに気づく。顔を見ないようにしながら、そっと距離をとった。
「他に寄る処とか、あるか?」
「な、ない……です……」
大きな傘とはいえ、二人で入れば肩が触れる。相合傘なんて、そんな学生みたいなことでときめくなんて。この程度のことで心乱されていては、マフィア幹部秘書などやっていられないぞ。そうやって自分を落ち着かせようとするけれど、暴れ回る心臓は大人しくなってくれない。仕方なかった。隣にいるのが他の誰かであったなら、こんなふうにはならないのに。
雨のヨコハマを、無言で歩く。ぱらぱらと小気味好い音が頭上で踊る。梅雨の街を行く人々は、いつも以上に互いに無関心だ。ちらりと見た中原君の横顔は、どこか澄ましたようで、でも少しだけリラックスしているようにも見える。今日がオフだからなのだろうけれど、そのやわらかな表情の理由の一つに『隣にいるのが私だから』というのも入っていたらいい、なんて。彼が私に向ける感情が私のそれと等価でなくとも、せめて気楽にいられる元同僚ではありたかった。
そんな下らないことを考えているうちに、マフィア本部ビルに着く。もう少し一緒に歩きたかったような気もするし、これ以上は心臓がもたないとも思う。
「じゃあ、俺はこれで」
「え……あ、あの、中原君!」
帰ろうとする背中をつい呼び止めたけれど、上手く言葉が紡げない。大きな声がエントランスに響いてしまって、周りの構成員たちの視線が痛い。きょとんとしている彼に駆け寄る。
「お、お礼! お礼に、お茶淹れるから! ね、ちょっと上がってって」
「あ? あー……いいのか?」
「もちろん! 中原君のおかげで、お茶菓子も濡れずに済んだし」
「……そんなら、一杯だけ」
きっと、紅葉様も喜ばれるだろう。最近はゆっくり話す時間があまりないと仰っていたし。そうと決まれば、さっそくお茶の用意だ。中原君の手を引いて、エレベーターに向かう。困ったような顔で、でも昔みたいに笑ってくれる彼のことが、私はやっぱり、好きだった。
***
(で、まだ伝えられておらんと?)
(……はい)
(中也がこんなに手こずるとはのう)
(笑いごとじゃないですよ、姐さん……)
どんやりと嗤う空を睨みながら、呟く。つい零れた言葉は足元を叩く雨音に吸収されて、誰にも届かず消えていった。
紅葉様に頼まれた、御遣いの帰りだった。馴染みのお店で、来客用のお茶菓子と彼女の好きな紅茶を購うだけの簡単な御遣い。普段書類仕事ばかりで外に出ない私を気遣って、紅葉様はいつも、この役目を私に任せてくれる。他人からは、仮にもポートマフィア五大幹部の秘書がそんなことをするなんて、と云われることもあるけれど、私は週に一度のこの御遣いが好きだった。見繕ったお茶菓子をお出しするのも、密かな楽しみである。今日は梅雨らしく、紫陽花を象った砂糖菓子を選んでみた。
──そう、梅雨。梅雨なのである。
お店の軒下で立ち尽くす。いつもマフィア本部ビルに引きこもっている所為で、天気予報を確認するなんて習慣はついていない。先程までの晴れ間は、梅雨の気まぐれだったのだろう。とはいえ、お天道様に顔向けできるような身分ではないので、自然、恨み言は無計画な自分へ向く。何故、携帯端末でちょっと天気を確認するくらいのことができないのか。紅葉様が外出されるときにはきちんと調べているのに、自分のことになるとこれである。いつも叱られていることだ。
「……いつ止むんだろ……」
けぶる空の向こう、本部のビルが天高く聳え立っている。目と鼻の先だというのに、傘一本を忘れた所為で帰れない。いっそ走ってしまおうかとも思ったが、荷物が濡れたら元も子もない。やっぱり、止むのを待つしか──
「あ? お前、こんな処で何してんだ?」
突然の声。見ると、よく見知った青年が此方を見つめ返している。
「な、中原幹部……!」
「その堅苦しいの、やめろって。俺はオフだしよ」
ポートマフィア五大幹部がひとり、中原中也。重力を操り敵を砕くマフィア随一の武闘派にして──かつて紅葉様の部下であり、私の同僚であったひと。
同僚と云っても、私のほうが少しだけ先輩だった。でも、中原君はどんどん出世して、いまや紅葉様と肩を並べてマフィアを守る幹部である。別に、嫉妬はない。実力があれば上に行くのは当然だし、そんなことより、彼が今も生きていてくれることのほうが重要だった。生きている同僚よりも、死んでしまった同僚のほうが多いからだ。
「で? 如何したんだよ、こんな処で。姐さんの御遣いか?」
「……うん。でも、傘忘れてきちゃって……」
「ああ。さっきまで晴れてたからなァ」
と云いつつ、中原君は、しっかり傘を持ってきている。黒く大きいその傘は、シンプルなデザインのようでいて、持ち手に装飾が施されたお洒落なものだ。こういう細かい処までこだわるのが、中原君らしい。
「佳いお茶菓子購えたから、早く帰りたいんだけど。この雨じゃなあ……」
はあ、とまたため息を吐く。
「なら、入ってくか?」
「……え?」
傘が差し出される。たしかに、大きい傘だ。小柄な中原君と私の二人なら、荷物も濡らさずに帰れるだろう。でも。
「中原君、今日はお休みなんでしょう? 悪いよ」
「別に佳いっての」
ほら、と半ば強引に腕を引かれて、傘に入れられた。勢い余って中原君の胸に飛び込んでしまって、心拍数が一気に上昇する。慌てて離れようと思ったけれど、それでは雨に濡れてしまうことに気づく。顔を見ないようにしながら、そっと距離をとった。
「他に寄る処とか、あるか?」
「な、ない……です……」
大きな傘とはいえ、二人で入れば肩が触れる。相合傘なんて、そんな学生みたいなことでときめくなんて。この程度のことで心乱されていては、マフィア幹部秘書などやっていられないぞ。そうやって自分を落ち着かせようとするけれど、暴れ回る心臓は大人しくなってくれない。仕方なかった。隣にいるのが他の誰かであったなら、こんなふうにはならないのに。
雨のヨコハマを、無言で歩く。ぱらぱらと小気味好い音が頭上で踊る。梅雨の街を行く人々は、いつも以上に互いに無関心だ。ちらりと見た中原君の横顔は、どこか澄ましたようで、でも少しだけリラックスしているようにも見える。今日がオフだからなのだろうけれど、そのやわらかな表情の理由の一つに『隣にいるのが私だから』というのも入っていたらいい、なんて。彼が私に向ける感情が私のそれと等価でなくとも、せめて気楽にいられる元同僚ではありたかった。
そんな下らないことを考えているうちに、マフィア本部ビルに着く。もう少し一緒に歩きたかったような気もするし、これ以上は心臓がもたないとも思う。
「じゃあ、俺はこれで」
「え……あ、あの、中原君!」
帰ろうとする背中をつい呼び止めたけれど、上手く言葉が紡げない。大きな声がエントランスに響いてしまって、周りの構成員たちの視線が痛い。きょとんとしている彼に駆け寄る。
「お、お礼! お礼に、お茶淹れるから! ね、ちょっと上がってって」
「あ? あー……いいのか?」
「もちろん! 中原君のおかげで、お茶菓子も濡れずに済んだし」
「……そんなら、一杯だけ」
きっと、紅葉様も喜ばれるだろう。最近はゆっくり話す時間があまりないと仰っていたし。そうと決まれば、さっそくお茶の用意だ。中原君の手を引いて、エレベーターに向かう。困ったような顔で、でも昔みたいに笑ってくれる彼のことが、私はやっぱり、好きだった。
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(で、まだ伝えられておらんと?)
(……はい)
(中也がこんなに手こずるとはのう)
(笑いごとじゃないですよ、姐さん……)