〜2000字程度のSS

 無音の世界、澄みきった川面をすいと進む。浮かんだ赫は、両岸に咲く曼珠沙華の生首の色。かき分け往く小舟で蹲る少女の白い細腕には、引っ掻いた痕が生々しく濡れている。ときどき顔を上げても、川底から覗く蛆の湧いた死と目を合わせてまた俯く。ところどころ突き出された誘いの手から離れようと端に寄ると、バランスを崩した舟はぐらぐらと揺れた。
 ──それとも、いっそ死んじまったほうがいいのかい?
 淚などとうの昔に枯れ果てた。腐り落ちた羽根がばらばらと彼女の軌跡を描いて、振り返れなどするわけがない。
 ゆらり、ゆらり。薄霧の中に浮かぶ小舟。波もなく、それでもどこかへ向かっている。少女の吐息が白く濁って、震えながら肩を抱いた。何の音も、どんな生命の気配もない。延々と赫く死の花弁。暗くて静かで、幸福もなければ不幸もない澱んだ安穏。
 かつん。
「君、顔を上げ給え!」
 突き抜けるような声がする。どこかで聴いた、何かに似た声。
「……誰だい」
 己の心と夢とだけ会話を続けていた喉を開いたら、積み上げた石塔が崩されたときを思わせる、不快に掠れた音が出た。
「僕かい? 僕は天使だ。君もそうだろ?」
 少し遠くに人影が見える。霞んで顔も判らないけれど、同い年くらいの少年だ。
「ほら、顔を上げなよ。その翼は飾りかい?」
「……いやだ」
 ぎゅう、とその身体に爪を立てて、虚ろな呟きを零す。
「妾はね、だめなんだ。アンタが云うような天使じゃない。はやくどこかへ行ってくれ」
 金属片に刻まれた数えきれない正の字、ぶらり垂れ下がったあのひとの脚、艦内通信でぶれた今際の音声。繰り返して責め続けて、死ぬまでそれを繰り返したら、
「莫迦だなぁ、君は!」
「……え?」
 微かに上げた視線が、赫華を踏み倒す脚を捉える。
「後悔のままに死ねば贖罪になるとでも? 莫迦々々しい! いいかい、君は僕と来るんだ。そして、その力でひとを救う」
「そんなこと、」
「できるさ! 僕が云うんだ、間違いない」
 その大翼で川の真ん中、ひとり乗りの舟まで辿り着いて、少年は少女の手を取った。半強制的に見上げさせられた瞳が、蒼空と、笑う彼をいっぱいに映す。踊るように飛び出したふたりをよそに、小舟はまた、進む、進む。その行く手で奈落へ落ちる滝を見て、彼女はごくりと唾を呑む。
「……アンタは、いったい何なんだい」
「うん? ああ、僕の名前は江戸川乱歩。稀代の名探偵にして、君を笑顔にしてみせる大天才さ!」
 ふんぞり返って太陽に似た満面の笑みをつくってみせる彼の腕の中、彼女の肩に一羽の金蝶が舞い降りた。
1/2ページ
スキ