140字SS
☆敦鏡
人生で一番気障に決めるべきだと世界で一番信用してはいけない先輩に教わった彼は、それでも他に頼る相手も見つからず、幾度も脳内で繰り返した羞恥の極みとさえ認める台詞を抱えて、出逢ったあの日の空に似た果てなく無垢の瞳の前で、己の凡てを捧げると祈りを孕んで誓いを告げた。
「ずっと君と同じ時間を」
流れゆく雲、僻耳の風の歌、掬って消えた泡沫。喩えばそれと変わらなくても、それより脆く刹那でも、いつか来る消失を黙って待っていたくはない。
★乱与
「妾に治療してほしいのかい?」
自分でも呆れるくらい間抜けな声は、仕方ないと思う。彼が珍しく深刻そうな顔をして、躰が痛いなどと云うなんて、それは吃驚するだろう。その頭脳で『君死給勿』を回避し続けてきた彼を治療できるのは少し楽しみだが、怖い気もする。もしも異能が発動しなかったら、なんて前例のないことを考える。
そうだね、云いながらぐっと引かれたネクタイが苦しくて眉を潜めるけれど、間もなく触れる唇の感触。離れてもなお翠眼は近く、罠に嵌ったのだと気付いたときにはもう遅い。
「この胸の痛いのと熱いのとは、与謝野さんにしか治せないよ」
☆鏡銀
ペンキをぶちまけたような青の傘の下の景色は、娘が懐かしい幽霊、電波と喧嘩したラヂオ、陽に焼けた写真のあの日。じっとりと濡れた街は、描きかけの油絵のようだ。村雨に振り込められた人々がべたべたの背景に塗りつけられている。
信号待ち、彼女が戯れに傘を回す。私のそれを彼女が持っている矛盾。相変わらずの身長差が小憎らしい。見上げた横顔は青が映って綺麗だ。
激しさを増す雨脚に寄り添って肩が触れて、私たちを誰も知らない。
クレープが好きなこと、宝物の兎のぬいぐるみ、使っているシャンプー、寝巻きの色。私の知らないあなたのいくつか。私より彼が知っていて、彼よりあなたが知っていて、私が誰よりあなたを知らない。
それを些事だと落としたあなたは、陶器みたいに滑らかな体躯と夜空で染めた散らばった髪と蒼空をとって点した瞳と熱に潤んだ声とで、擽ったい愛を囁く。知らないなら知ればいい。ぜんぶ、ぜんぶ教えてあげる。私の薔薇の散り際まで。
朝ぼらけ、私のこの手に残ったもの、他の誰にだって知りえない、私だけのあなた。
★綾村
淡くぼやけて見える空気の中、二人だけが呼吸をしている。あの猫たちは別の部屋に消えた。珈琲のマグに映った影の外、一切の無音で回る天井の扇。足元に漂う薄紫の気配を私たちは見ないふり。縁遠い気のするそれは事務所だけに存在して、先生の吐く煙と似た匂いがする。
扉はきつく鎖されていて、私たちが拒めばここはエデンにだってなれる。そんな錯覚を抱き締めて過ぎる今日はずっと前にもあって、たぶんこの先も繰り返す。めいっぱい螺子を巻いたオルゴールが止まったら、今度の終末、遊園地にでも行きませんか?
人生で一番気障に決めるべきだと世界で一番信用してはいけない先輩に教わった彼は、それでも他に頼る相手も見つからず、幾度も脳内で繰り返した羞恥の極みとさえ認める台詞を抱えて、出逢ったあの日の空に似た果てなく無垢の瞳の前で、己の凡てを捧げると祈りを孕んで誓いを告げた。
「ずっと君と同じ時間を」
流れゆく雲、僻耳の風の歌、掬って消えた泡沫。喩えばそれと変わらなくても、それより脆く刹那でも、いつか来る消失を黙って待っていたくはない。
★乱与
「妾に治療してほしいのかい?」
自分でも呆れるくらい間抜けな声は、仕方ないと思う。彼が珍しく深刻そうな顔をして、躰が痛いなどと云うなんて、それは吃驚するだろう。その頭脳で『君死給勿』を回避し続けてきた彼を治療できるのは少し楽しみだが、怖い気もする。もしも異能が発動しなかったら、なんて前例のないことを考える。
そうだね、云いながらぐっと引かれたネクタイが苦しくて眉を潜めるけれど、間もなく触れる唇の感触。離れてもなお翠眼は近く、罠に嵌ったのだと気付いたときにはもう遅い。
「この胸の痛いのと熱いのとは、与謝野さんにしか治せないよ」
☆鏡銀
ペンキをぶちまけたような青の傘の下の景色は、娘が懐かしい幽霊、電波と喧嘩したラヂオ、陽に焼けた写真のあの日。じっとりと濡れた街は、描きかけの油絵のようだ。村雨に振り込められた人々がべたべたの背景に塗りつけられている。
信号待ち、彼女が戯れに傘を回す。私のそれを彼女が持っている矛盾。相変わらずの身長差が小憎らしい。見上げた横顔は青が映って綺麗だ。
激しさを増す雨脚に寄り添って肩が触れて、私たちを誰も知らない。
クレープが好きなこと、宝物の兎のぬいぐるみ、使っているシャンプー、寝巻きの色。私の知らないあなたのいくつか。私より彼が知っていて、彼よりあなたが知っていて、私が誰よりあなたを知らない。
それを些事だと落としたあなたは、陶器みたいに滑らかな体躯と夜空で染めた散らばった髪と蒼空をとって点した瞳と熱に潤んだ声とで、擽ったい愛を囁く。知らないなら知ればいい。ぜんぶ、ぜんぶ教えてあげる。私の薔薇の散り際まで。
朝ぼらけ、私のこの手に残ったもの、他の誰にだって知りえない、私だけのあなた。
★綾村
淡くぼやけて見える空気の中、二人だけが呼吸をしている。あの猫たちは別の部屋に消えた。珈琲のマグに映った影の外、一切の無音で回る天井の扇。足元に漂う薄紫の気配を私たちは見ないふり。縁遠い気のするそれは事務所だけに存在して、先生の吐く煙と似た匂いがする。
扉はきつく鎖されていて、私たちが拒めばここはエデンにだってなれる。そんな錯覚を抱き締めて過ぎる今日はずっと前にもあって、たぶんこの先も繰り返す。めいっぱい螺子を巻いたオルゴールが止まったら、今度の終末、遊園地にでも行きませんか?
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