「名前、降りられますか?」
やるせない気持ちに着地点を見つけられず俯いていた私を乗せたタクシーはいつの間にか新たな場所に移動していた。薄く開けられたままのウインドウの隙間から入り込んだ潮風が私の鼻腔をくすぐる。
そうしてジョルノに促されるまま車を降りた私の目に飛び込んできたのは一面に広がる海と石造りの立派な建造物。見覚えのあるその建造物に私はここがネアポリス南部にあるメガリデ半島に佇む「卵城」であることに気がついた。
「少し歩きましょう。卵城の屋上から見える景色はとても綺麗なんですよ」
「……へえ、ジョルノがそこまで言うなら期待しちゃうかも」
きっと気落ちした私を元気づけようとしてくれているのだろう。ジョルノの健気な態度に私は自然と笑みをこぼす。
卵城ーーまたはカステロ・デル・オーボというーーはかつて漁村であったサンタルチア地区の海岸通りに突き出すように建てられた荘厳で重厚なオーラを放つ巨大な石の城塞のことである。
呼び名の由来は魔術師が建設時に「城に埋め込んだ卵が割れる時、ネアポリスに災いが起きる」と呪文を唱えたーーという伝説にちなむ。この伝説は世界的にも有名で、日本人でも知っている人は多いことだろう。
「綺麗な海……透き通ってて魚影も見えちゃいそうだわ」
「ええ、僕もそう思います。それにサンタルチア港で採れる漁獲類は絶品です。それが関係しているからか卵城周辺にあるリストランテの魚料理は美味しいんですよ」
「ネアポリスといえばピッツアのイメージが強かったけど……確かにレストランで食べたエビとか貝!すっごく美味しかったかも!」
私は旅行1日目の夕食のことを思い返す。私が宿泊したホテルはネアポリス駅の近くだったがディナーで出てきたタコのマリネにイカスミのパスタ、ムール貝が入ったアクアパッツァ……ポンペイを訪れた日の夕食も海鮮のコースを選択しリピートするほどには美味であった。
「…… …… 名前、聞いてます?足元に気をつけて下さい、ここ段差がありますから」
「ご、ごめん……!ついつい考え事しちゃっててー……って、わッ!!」
隣を歩くジョルノに腕を引かれ私はようやく意識を覚醒させる。刹那目に飛び込んできたのは卵のようなつるりとした白い肌に金色のまつ毛、サンタルチアの海よりも澄んだターコイズブルーの瞳。
急に縮まった距離に驚いた私は顔に熱が集まるのを誤魔化すように腕を振りほどき距離をとる。そして次の瞬間、履いていたパンプスの踵が上手い具合に石造りの床にできた溝に挟まり私はその場に転倒してしまった。
「い、痛い……」
「2度も言わせないでくださいよ……パンプスなんだから足元に気をつけないと。立てますね?」
「ええ。これぐらいどうってことないけど……どちらかといえばこんな人前で転んだっていう事実にショックだわ」
「グラッツェ」と呟きながら差し出されたジョルノの手を掴み立ち上がる。男の子らしい骨張った手に私は思わず目を見張った。
「ジョルノの手、意外と大きいのね」
「そうですか?」
思わず口をついた言葉にジョルノは怪訝そうな顔ひとつせずさらりと受け流す。
どちらともなく手を繋いだまま、私たち2人は卵城の頂上へ向けて歩き出した。
幾年もの長い歳月の中、常に潮風と波に晒されてきた卵城はネアポリスに点在する他のお城ーーサンテルモ城やヌオーヴォ城と比べれば煌びやかな装飾はなく、全体的なシルエットも機能性を重視した結果か厳つく四角い2つの塔からなるまさに『要塞』であった。
それは城内も同じで、一歩足を踏み入れると格式高い石畳の床に巨大な柱が並ぶ豪壮なメインホール。
そんなメインホールを後にして階段を登っていけば先に広がるのは絶景が見渡せる屋上。先を歩いていたナポリっ子のカップルが興奮して駆け足になるのを見送った私とジョルノもまた、少し早歩きになりながら階段を上った。
「わあ……綺麗!すごいわ!」
「ええ。今日は天気も良くてよかった」
閉鎖的な城内から一気に全景が一望できる屋上へと躍り出た私の目に飛び込んできたのは吸い込まれそうな程に青いサンタルチア湾とそのはるか向こうに聳えるヴェスヴィオ山。空は快晴で雲ひとつなく、目下の漁港には早朝の漁を終えた船がいくつも停泊している。
「写真でも撮りましょうか?」
「いいの?」
まるで頭の中を覗き込んだかのように私の考えていることを当ててしまったジョルノは「嫌だったら態々言いませんよ」と呆れたように息をつく。私は鞄からパステルブルーのデジカメを取り出すとジョルノに手渡し簡単に動作説明をする。1分もかからないうちに説明を遮ったジョルノに促されるまま屋上の端の方に移動した私は早速向けられたカメラに向けてピースサインを向けた。
「なんか恥ずかしい……かも」
「誰も気にしてませんよ。ほら、笑って」
ピピッ、と短い電子音が聞こえ次にカシャ、と短いシャッター音が辺りに響き渡る。
あまり自分の写真を取らない性分の私はなんとも言えない気恥ずかしさから逃げるようにジョルノの元へ駆け寄ると撮れた写真を確認するためにアルバムフォルダを開いた。
「……逆光だね?」
「……」
画面に表示された画像に映っていたのは紺碧の海とグラデーションのかかった青い空、遠目に見えるヴェスヴィオ山と美しいサンタルチア地区の沿岸部の街並み……そして後ろから太陽に照らされ影を帯びた真っ黒な私だった。
「消してください。もう一度撮り直すので」
「ええ!?勿体ないこと言わないでよ〜一人旅だから自分の写ってる写真は貴重なのに」
私はカメラを奪い取ろうと手を伸ばすジョルノに背を向けて半笑いになりながら抵抗する。例え上手く撮れていなかったとしてもこの写真は大切な旅の思い出のひとつなのだ。
「それに逆光なのは悪いことじゃあないのよ……これ、数日前にカプリ島のリストランテで撮ってもらった写真なんだけど綺麗に撮れてるでしょう?」
観念して手を引っ込めたのを確認してから再びアルバムフォルダを開き一枚の写真をジョルノに見せる。
それはイタリア旅行2日目のカプリ島での写真。昼食にと立ち寄ったリストランテのテラスでトリッシュと共に撮った写真だった。
「この写真も太陽と海を背景に撮ってもらったものなんだけど思い切って被写体……つまり私に当たる自然光をほぼ完全に遮断しているの。上手い写真っていうのはこういうメリハリがしっかりとしているものが多いのよ」
「……それにしては貴方の顔立ちがはっきり写っているように見えますけど」
「ふふ……それはね、別の角度から反射光を当てて影になる部分を照らしているからなの」
「はあ……?」
いまいちピンとこない様子のジョルノに私は一抹の優越感を抱く。何事にも動じず、頼りになるジョルノにも知らないことがあるのだと思うと口元を歪ませてしまうのも無理はなかった。
「この真っ白なページ1枚で劇的に写真は変化するのよ。白い紙に自然光が反射して逆光により影になった部分を照らすことで被写体の映りがワントーン明るくなるの!」
そのままの調子で私が鞄から取り出したのはいつものB5サイズの革表紙の手帳。開かれたのは乳白色無地のページで今もネアポリスの太陽の光を反射しジョルノの白い肌を更に柔らかい光で包み込んでいる。
「あはは。まあ、これも全部友達からの受け売りなんだけど……覚えておいて損は無いと思うわよ」
そう、得意げになってひけらかしていた知識は全てあの日、トリッシュに教えてもらったことであった。手帳を仕舞う際に鞄の中を見れば前日の夜に聞いていたドナテラさんのCDが目に入った。
(ああ、あれから2人はどうなったのかしら。ドナテラさんが元気でいてくれたらいいんだけど)
ウナ親子に出会ったのももう6日も前の話である。それでもまるで昨日の事のように2人のことを思い出せるのはあの瞬間がとてつもなく楽しかったからに間違いないだろう。
「名前、向こう側から見える景色も綺麗ですよ。ネアポリスの全景を見渡せるんです」
「へえ、いいね!見に行くわよ〜!」
ジョルノの声に思考を中断した私は彼の案内通りに広い卵城の屋上を進む。所々に設けられた大砲が海にマズルを向ける姿はかつてこの建物がネアポリスの街を守っていたという歴史を垣間見せていた。
「うわあ……街中での喧騒がまるで嘘みたいだわ!」
「ええ、本当に。あ、あそこにカポディキーノ空港が見えますよ。こう見ると結構遠くまで来たなって感じますね」
「そうね。もう、ここまで来てしまった……って感じだわ。」
ガイドブックで見た有名なピッツェリアに豪華なホテル、海岸沿いの海鮮料理のリストランテのテラスでは何組もの旅人が食事をしているーーそんな風景に私は優美で特別で、今日までこのネアポリスに思い描いていた理想を重ね合わせる。
背の高い無機質なビルや建物に囲われながら、いつ途絶えてしまうか分からない人間関係を気にして自分を殺す生活を送っている私にはこうして一年に一度、イタリアの異文化に触れるのが好きで好きでたまらなかった。
しかし最初はそんな違いに戸惑うことも少なくは無かった。朝食はビスケットと甘いカッフェだけなんて最初は信じられなかったし、荷物をスられる経験なんて初めてだった。
それでも私が何度でもこの地に足を運ぶのはイタリアという異国が私の全てをさらけ出せる場所だから?街の景観が素敵だから?どちらもきっと正解なのだろうが最適解はそれではない。
「ジョルノ、私……君に言いたいことがあるのだけれど。聞いてもらえるかしら」
私の真剣味を孕んだ声に隣で街並みを眺めていたジョルノの顔つきが変わる。直ぐにこちらに向き直した彼は静かに、その年相応の少年の声で「勿論です」と言葉を紡いだ。
「ナランチャ君のことを探しているうちに……私はこの街の……いいえ、この国の邪悪を見てしまった。元々分かっていたことだったのに私はあの路地裏を見て、彼のルーツを探って、正直この国に失望したの。日本人はイタリアを素敵で愉快な国だってなんとなくイメージしてるからっていうのもあるんだろうけど」
「……」
「私自身も今回の旅の中で何度か危険な目に遭ったわ。パスポートは盗まれそうになったし、複数人の男に付け回されたりした……でも、それでもね。私、また来年もこの国に来ようと思うんだ。なんでだと思う?」
見上げた先にあるジョルノの瞳は私の光を帯びて少し茶色味がかった黒い瞳を真っ直ぐに捉えている。その誠実な態度に私は彼の人となりを理解し、胸が暖かくなるのを感じた。
「私ね、この国の人が大好きなの!怖い人もいることだって分かってるわ……だけどそれよりももっと沢山良い人が居るって教えてもらったから!その中にはもちろん君も……ジョルノもいるんだからね」
「……僕も、ですか?」
まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたジョルノに私は自然と破顔する。まさかこんなにもお節介を焼いてくれておいていい事をしたという自覚がないのだろうか?
「……ありがとね、ジョルノ。初めて会ったばかりの私にこんなに優しくしてくれて本当に嬉しかった。君が案内してくれたこの卵城からの景色は一生忘れないわ。ううん、それだけじゃあない……これから何度ネアポリスを訪れても、貴方と過ごした今日の事だけは決して忘れない!」
すべて本心だった。もちろん今回の旅で出会った誰もが特別で一生忘れたくない相手だったが、ジョルノは格別だった。
彼の紳士的な行動の中にほんのすこし垣間見える奸邪な性格は共にいて程よい緊張感があり、生ぬるい平和な日本で育った私にとって一緒にいると身が引き締まるような良い相手だったのだ。
「だから……あのね、ジョルノ……私と友達になってほしいの!ええと、次にネアポリスに来た時にまた会えたらなーって……思って」
尻すぼみに小さくなっていく私の声はサンタルチア湾の波が城壁にぶつかる激しい水音にかき消されていく。それでも最後まで、言いたい所までは彼の耳に届いたはずだ。
あとは私の告白にジョルノがどう答えるかだけが問題であった。
所詮彼とは雇う側と雇われる側の立場である。私は彼と時間を共にしているうちに親愛の感情を抱いたが相手がそうとは限らない。
不安から沈んでゆく心に追い打ちをかけるように周りの観光客の声や雑踏が遠ざかっていくような錯覚に襲われる。ただ目の前に立つジョルノの二の足を踏む靴音と近くで鳴くうみねこの鳴き声がやけに大きく聞こえた。
すると突然、一際大きな風が私達を吹き付ける。屋上には風を遮る障害物が無いのでほんの小さな風でも衣服や髪を乱すのは容易いことであった。
恨めしげに風が飛んできた方向ーー遠くにカプリ島が見える方向を睨んだ私は鬱陶しく顔に張り付く横髪を後ろに優しく撫でつける。その際に手が当たったからだろうか、耳元でカチャリと音を立てるイヤリングに送り主の少女のことを思い出した私はつり上げていた瞳を垂らし、慈しむようにカプリ島をみつめた。
その時だった。不意に私のすぐ側でカシャ、と乾いた人工的な音が鳴ったのだ。慌てて音の鳴った方を振り返るとそこには難しい顔をしたジョルノが先程までは持っていなかった筈のインスタントカメラを手にして立っていた。
「僕は無駄なことは嫌いです。再会を約束するならせめて相手の写真ぐらいは持っておくべきだと思うんです」
現像されたフィルムを左手に持ったジョルノは私の方からは見えないが次第に浮かび上がってくる写真に満足したのか小さく笑みをこぼす。
「だからこの写真は僕が持っていてもいいですよね?」
そう言ってジョルノがこちらに見せつけてきたのはカプリ島を見つめる私の横顔だった。
暗い髪色は太陽の光に当てられほんのり金色を帯び、耳元ではレモンのイヤリングが揺れている。黒地白水玉のワンピースの襟元の隙間からはペンダントの銀色のチェーンが光を反射させ、私の肌をより一段と輝かせていた。
「……もちろんよ。ジョルノ!なんならもっといっぱい撮ってもいいわよ」
「そうですか。でも残念だな……もう手元にカメラがなくて」
「え?」
小首を傾げて見せたジョルノは薄く口を歪めフィルムを持っていない方の手を広げてみせる。その手にはインスタントカメラは無く、彼の制服のポケットにもカメラは無いようだった。
「……もしかして誰かのカメラ、盗んだの?」
「……さあね。言いがかりはやめて欲しいな」
声を小さくしてそう問えばなんとも言えない人を小馬鹿にしたような表情で否定も肯定もせずジョルノはそう言ってのける。ああ、この感じだ。こういう所が好きなんだなあと再認識させられる。
「……もう!行くわよ!騒ぎがあってからじゃあ遅いもの。すぐにここを出るべきだわ」
「ええ、分かりましたよ。名前」
だが、ここで盗難騒ぎが起き、飛行機の時間に遅れるなんてことがあってはならない。被害者には申し訳ないがここは逃げるが勝ちだろう。
急ぐ私を他所にどこか呑気なジョルノはフィルムを制服のポケットに入れるとのそのそと着いてくる。堪らず彼の手を取って催促の声をあげると、彼は驚いた顔をしたあとほんの小さな声で何かを呟き、ほんの少しだけ力を込めて地面を蹴った。
「11時50分ジャスト!グラッツェ、助かったわ。ジョルノ」
「いいえ。当然ですよ、これぐらい。」
ジョルノが運転するタクシーは空港近くの一般の駐車場の隅に停車した。そう、ついに楽しかったイタリア旅行はここで終了である。
「それより国際線に乗るんでしょう、 時間は大丈夫なんですか?」
「平気よ。2時間10分も前に着いているもの。これでも私、イタリア語得意なんだからチェックインも保安検査場も楽々通り抜けちゃうわよ」
後部座席に積まれた私の荷物を取り出しながらジョルノがそう問う。私は気丈に振る舞いながらも今まさに頭上を飛ぶ飛行機を恨めしげに見つめていた。
「帰りたくない……って顔してますけど」
「……う〜ん、本音を言えばそうね」
なんでもお見通しのジョルノ相手には取り繕う必要も無いか、と私は観念して困ったように笑う。いい歳してみっともないものだと自分に言い聞かせ、涙がこぼれ落ちそうになるのをぐっと堪える。
「そうだわ!デジカメで撮った君の写真、消すからちゃんと見てなさいよ〜……後で因縁つけられたら困るんだから」
「あ、それ消さなくてもいいですよ。僕も貴方の写真持ってるんですから」
「え……?でもこの写真、ジョルノの個人情報たくさん載ってるわよ?いいの?」
「……まあ、貴方に悪用する度胸があるとは思えませんし。別に構いません」
私に荷物を渡し、後部座席のドアを閉めながらジョルノはなんてことないようにそう言い放った。デジカメの小さな画面では分かりにくいがパソコンに移して拡大すれば彼の生年月日や住所は丸わかりだというのにだ。
「じゃあ私からはこれ……会社の名刺。私の名前とケータイ番号と勤め先が載ってるやつ。表は日本語だけど裏面はイタリア語になっているから読めるわね?」
「……!名前こそいいんですか?僕にこんなもの渡して」
「いいのよ。ジョルノの誠意に答えたまでだから。平日の昼間以外なら出られるけど国際電話だから気をつけてね」
そうーーあれはジョルノからの信頼の証だ。彼もこの短時間で私の人となりを理解してくれたのだ。ならば私もその期待に応えねばなるまい。
大人しく名刺を受け取ったジョルノに追い討ちと言わんばかりに次は約束の報酬の100万リラとチップとして10万リラを差し出す。本当ならばもう少し上乗せしてやりたいが私もそこまで金銭的な余裕があるわけではなかった。
「……え?ちょっとジョルノ!?」
しかし次の瞬間、ジョルノは札束に目もくれず颯爽と運転席に乗り込むなり車のキーを回した。私の手元には彼に受け取って貰えず行き場を失った110万リラがずっしりと鎮座している。
「勘違いしないで下さいよ……僕らはまだナランチャという男に荷物を返し終えていないんだ。だからその『100万リラ』は受け取れない」
「気にしないでよそんなこと!私もう彼を探すのは諦めたし……」
「そうなんですか?」
運転席のウインドウを開けたジョルノはそのターコイズブルーの瞳で私を射抜く。私から見た彼の性格上、ここで100万リラを受け取らないのは意外だった。
「名前、僕から1つ提案があります。その紙袋……ナランチャへの届け物を僕に預からせて貰えませんか?」
そして更に予想外な言葉を続けたジョルノに私は自分の二の腕を軽くつねる。その痛みから今の出来事が現実であることを理解した私は後に続く彼の言葉を無言で待つ。
「ナランチャはネアポリスにいるんですよ?彼に荷物を届けるのなら僕の方が適任だと思いませんか」
「それは……そうだけど……」
「なにも無償であなたに尽くす訳ではありませんよ。名前には彼に荷物を届け次第、100万リラ払って貰いますから。そのために電話番号を教えてくれたんでしょう?」
小悪魔な笑みを浮かべたジョルノに私はもう頭が上がりそうも無かった。私は彼に対するこの身から溢れ出るほどの感謝の気持ちを隠す気も起きず、目じりに溜めていた雫を頬につたわせる。
左手に持っていた紙袋をウインドウを介して車内にいるジョルノに手渡す時には、尋常でないほどに震えるその手に彼がふっ、と笑みをこぼした。
「……ありがとうジョルノ。これ以上の言葉は見つからないわ。……これ、ナランチャ君についてまとめた手帳の切れ端。少ない手がかりだけどないよりかはましだろうから」
震えていて、更に掠れた美しいとは言えないその声色で私はジョルノに微笑みを向けた。その手にはいつもの革表紙の手帳にまとめたナランチャ君の情報が書かれたページの切れ端が握られている。
運転席から手を伸ばして切れ端を受け取ったジョルノは数時間前に目を通したその紙を凝視する。すると突然彼はその切れ端の左上部分をビリビリと四角くちぎったのだ。
口をあんぐりとあけた私とは対称的になんてことない表情のジョルノはその切れ端の切れ端を私に差し出すと目元を細めながら口を開いた。
「日本に帰ったらレ・ミゼラブルを読むんでしょう?あなたの事だ、メモがなかったらすっかりド忘れして読む機会を逃してしまいそうだからな」
「……え、なんで!?日本語で書いたメモだったのに!」
ジョルノから帰ってきたその切れ端の更に切れ端を私は2度見する。しかしどこからどう見てもその字はイタリア語ではなく、日本語で書かれていたし、それどころか「ひらがな・カタカナ・漢字」で形成されたその文章は並の外国人には到底読解できるものではなかった。
「母親が日本人でね……簡単な日本語なら僕も多少は読み書き出来るんですよ。驚きました?」
そういったジョルノの容姿を改めて見るも、髪色から顔の造りまで日系の雰囲気は微塵も感じられない。余程父方の遺伝が強いのだと私はひとりでに納得すると「そうだったんだ……」と呟き、手帳に切れ端を挟んだ。
「次にネアポリスに来た時はレ・ミゼラブルの話が出来たらいいわね」
「ええ。僕も他の人の意見や感想を聞くのは嫌いじゃあありませんから。期待してますよ、名前」
「あはは……期待されても月並みな感想しか浮かばないと思うけど。あ、もうこんな時間……そろそろ行かなきゃ」
そんな2人の話の腰を折ったのはカバンの中の折りたたみケータイの12時を知らせる電子音だった。素早く音を停止させ、ついでに電源を切った私はいよいよこれでお別れだとジョルノに向き直ると深く深く頭を下げた。
「私、君に出会えて……イタリアに来てよかったと思うわ。グラッツェ、ジョルノ!Buona giornata!(素敵な1日を)」
「こちらこそ。それじゃあ名前も…… Buona giornata 」
顔を上げた先に見えたジョルノの表情は今まで見た彼のどの表情よりも優しく、あたたかい。
せっかくこんなに素晴らしい友人ができたのに日本へ帰らなければならないなんて!と、やるせない気持ちになっていた私には引っ込んでいた涙が再びぶり返すことを止める手段など持ち合わせていなかった。
すると突然、するりと車から伸びた手が私の頬をまるでお気に入りの陶器を愛でるかのように撫で付ける。その手の主の顔色を伺うように私が膝を浅く曲げ、ウインドウの枠の位置に顔を出した次の瞬間、私の唇に柔らかくて人肌の温度を持ったものが押し当てられた。
「……つッ!」
全てを理解するのにそう時間はかからなかった。突然脳内にその事実を突きつけられた私は誰が見ても分かるぐらいに顔を赤く染めあげるとジョルノの手を払い除け車と距離をとる。
当の本人はいつもと変わらぬ余裕綽々の笑みで私の反応を楽しんでいるかのようだ。
「ああ、そうそう。『100万リラ』は受け取らないと言いましたけど『チップ』を受け取らないとは言ってませんでしたからね。僕は「さっきの」と「コレ」を『チップ』として頂戴させて貰いますよ」
「……あ!それは!」
コレ……と言ってジョルノの手中にあったのは先日ローマのホテルで聴いていた為にキャリーリュックに入れず肩掛け鞄に入れたままにしていたドナテラさんのCDだった。職場の洋楽好きの先輩にも聞いてもらおうと予備も購入していたので困りはしないが、彼の手癖の悪さには驚かされる。
「ドナテラ・ウナですか……いい趣味だと思いますよ。さて、早速この曲を流しながら午後からもうひと仕事と行きましょうかね」
「ああッ!もう!」
ジャケットに描かれたドナテラさんのイラストとその名前にジョルノは感心したように呟く。やはり彼は最後の最後まで気の抜けないーー一緒にいて非常に愉快で最高な友人である。
「でも……許してあげる。私たち友達だもの。それじゃあ本当にさようなら。Buona giornata ジョルノ」
「ええ。僕も……柄にも無いようなことを言うようだけど名前に会えてよかったと心から思います。また会いましょう。Buona giornata 」
深く息を吐き、肩を落ち着かせた私の頬にはもう涙はつたっていなかった。
彼なりに気を使ってくれたのであろう。一切の躊躇なく閉じられたウインドウが二人の間に透明だが確かな壁を作り、やがてマフラーからけたたましい音を奏でた水色のタクシーは私たちの距離をグングンと引き離してしまった。
「……そしてありがとう、イタリア。」
市中へ消えるタクシーを最後まで見送った私はひとりでにそう呟くと自らの唇に手をそわせる。
そこに当てられた確かな熱を思い出し、頬が熱くなるのを理解した私はそれを誤魔化すように空港までの道のりをコツコツと小高い足音が鳴るパンプスで走り出した。
こうして私の8日間のイタリア旅行は無事に終了したーー……。
Buona giornata!! The,last day Neapolis②
「わっ!」
「きゃっ!ごめんなさい!少し急いでて……」
ネアポリス国際空港、第1ターミナルの一角でのことーー目下で荷物を散らかした学ランを着た背の小さな少年が短く声を上げる。チェックインを済ませ、足早に保安検査場に向かう私とぶつかった時に転んでしまったのだろう。
しりもちを着いた少年の代わりに彼が持っていたであろう1枚の写真ーー黒い髪でジョルノと同じようなトルコ石色の瞳をもった美少年が写ったものを拾った私はそれを彼に手渡す。灰色の髪に空色の瞳のその少年は自身のキャリーバッグの埃を払うと空いた片方の手で写真を受け取り、たどたどしく日本語で「すみません」と浅く頭を垂れた。
「怪我はしてないかしら?あとこれ、あなたの写真?」
「あ、大丈夫です……!ボクも周りが見えてなくてすみませんでした!写真もありがとうございます」
写真に写った美少年と目の前の背の小さな少年は同じぐらいの年齢だろうと勝手に推測した私はひとりでに「留学?ホームステイかしら」と納得すると感心したように少年の顔をじっと見る。
「ええと……何か?」
「へ?……ああ、ごめんなさい。学生さんなのにひとりで海外に来るなんて凄いなって思っただけよ」
少年は困ったように笑いながら「そうですか?」とはにかむ。先程までひねくれた美少年と対峙していた私にとってはそんな素直な反応が新鮮で思わず頬を緩める。
「ふふ……それじゃあ私行くわ!イタリアでの勉強、がんばってね」
「あ……ハイ!ありがとうございます!」
しかしいつまでも引き止める訳にはいかない。彼には彼のイタリアでのスケジュールがあるし、私にももう時間が迫っていた。
だけど最後にこれだけは伝えたかった。私は踵を返しかけた足を再び元に戻すと少年に向き直す。
目の前の少年はこれからイタリアでいろんな街に行き、いろんな人達と出会うのだろうーーそしてこの国の良いところも悪い所も知ることとなるのだ。
だが、これからこの異国の地で経験する全ては彼の人生の糧となることは紛れもない真実である。
限られた人生の中で、そしてその限られた時間の中でこの少年は街の景観に、人情に何を思うのか?
私はかつて、この空港のキャビンアテンダントが出迎えてくれたように少年の元へ1歩距離をつめると満面の笑みを浮かべて祖父に教えてもらった『特別なさよなら』の言葉を紡いだ。
「Buona giornata!!(素敵な1日を)」