朝日が登り、街はそれなりに活気づいてきた頃。
ローマはテルミニ駅前発着、ネアポリスはナポリ・カポディキーノ国際空港終着のバスにてビスケットを食べながらネアポリス市内の地図を食い入るように見つめるはこの私、苗字 名前。
私は今日、ネアポリスを、イタリアを発ち、日本に帰国する。長かったようで短かった8日間の旅に今、終止符を打たなくてはならないのだ。
ーーが、しかしその前に私にはこの街ネアポリスにてやらなければならないことがあった。それは3日前、ヴェネツィアで出会ったナランチャ・ギルガという少年の忘れ物を届ける事である。
現在時刻は午前7時40分を回ったところだ。
私が再びこのネアポリス空港に戻るのは今からちょうど4時間後の12時。このわずかな時間で住所も連絡先も知らない彼に荷物を届けなくてはならないのだ。
「このたびはテルミニ駅前ターミナル発、ナポリ・カポディキーノ国際空港終着のバスにご乗車いただき誠にありがとうございます」
頭上に備え付けられたスピーカーから運転手のアナウンスが響き渡る。それを合図に顔を上げた私は窓の外に映る7日ぶりに見るネアポリス空港ーー正式名をナポリ・カポディキーノ国際空港ーーを捉えた。バスは空港前のロータリーを徐行し、やがて緩やかにブレーキを効かせ車体を完全に停止させた。
そう私は今、再びネアポリスに来ていた。
Buona giornata!! The,last day Neapolis①
「う、嘘でしょ〜……」
パンパンに膨らんだキャリーバック片手にこれまた大きく膨らんだキャリーリュックを背負った私は目の前で起きている光景ーーいや惨状に思わず言葉を漏らした。
場所はネアポリス空港内部、荷物預かり所の前だ。私が非難の声をあげた理由はたった一つ、荷物預かり所の前に設けられた電光掲示板の表示が「空き無し」と無慈悲な文字列を光らせていたからだ。
イタリアの4月は気候もよく、ベストシーズンであるというのは知っていたがそれにしてもこんな朝早くからロッカーが満杯になるなんてことがそうそうあるものだろうか?
「ちょっといいですか?荷物を預けたいんですけど」
「残念だけど空きのロッカーがないの。また時間を改めるか日を改めて来てください……それと、私は外にいる警備員達と違ってこういうものは受け取らない主義ですので」
「……最悪ゥ」
ダメもとで!とお札を片手にすりよる私をバサッと切り捨てる預かり所の職員に捨て台詞と言わんばかりに悪態をつくとさっさと踵を返す。
突っ返された10万リラをクシャリと片手で乱雑に畳んだ私はそれをコートのポケットに無造作にしまい込んだ。
(どうしよう……今日帰るからどこかのホテルに預ける訳にもいかないしこれを持ったまま市中を歩き回るのは大変だわ)
頭の中でぐるぐると解決策を練っているうちに気がつけばすでに空港の外に足を踏み出していたようだった。はあ、とひとりでにため息をついた私はとりあえずタクシー乗り場に出来た多くの隊列のほうへ足を進めた。
「ボンジョルノ、お姉さん。タクシー探してるの?」
「……?あなたは?」
「よければ僕のタクシーに乗っていきませんか?市中まで今ならたったの5万リラでいいよ」
突然の提案に驚きつつも私は5万リラ……と頭の中で瞬時に日本円に換算する。
5万リラとは凡そ日本円で3000円だ。ネアポリス空港から市中までの相場は大体8万リラから10万リラ。この程度なら本当に安くしてくれているだけかもしれないと思うかもしれないが問題なのは金額よりも話しかけてきた男の風貌だった。
金色の髪を後ろに流し編み上げ、前髪は独特なカールでくるりと丸まった中身が空洞のお団子が3つ横に連なっている。そしてそんな特徴的な髪型に違和感を感じさせないのはその端麗な容姿のおかげだろう。大きくて切れ長の瞳は優美なトルコ石のような澄んだターコイズブルーで、距離を詰めずとも目視できる程の長い睫毛。そして年相応以上に鍛えられた体も相まって少年を一言で例えるのなら現代に生きるミケランジェロ。
今回の旅で出会った誰よりも「綺麗な男の人」という感想がいの一番に頭をよぎった。
「とっても魅力的な提案だけれど遠慮させて貰うわ。あなた学生ね?それもまだ中学生……こんな朝早くから空港でアルバイトだなんて感心しないわね」
私は目の前の金髪の少年に吐き捨てるようにそう告げるとすぐさまそっぽ向いてタクシー乗り場の方へ向かう。
近年日本でも国からの営業許可を得ていない個人が運転するタクシー……所謂「白タク」が増えているがイタリアも同様のようだった。
海外の白タクに乗ろうものなら結果は散々なものになるのは目に見えている。品のない運転手の耳障りな世間話を聞かされ料金メーターを弄られ不当な金額を請求されるというのはもうお約束のようなものだ。
「分かるわよ、観光客だからって馬鹿にしないで頂戴。その制服、改造されているけれどネアポリス中・高等学校の制服でしょう?」
だからこそ、ここで押し負けてはいけない。正規のタクシー乗り場のすぐ側で客引きをするような少年の口車に乗せられようものならばお金を多く取られるどころか荷物をすべて奪われてしまう可能性もある。
「……そうですね。僕はたしかにあなたの言うとおりまだ中学生だ。でももう1年以上はこうしてタクシーの運転手として働いているしちゃんと空港の警備員にも許可を取っているんだ」
「許可って……ショバ代払っただけでしょ。荷物預かり所の所にいたお姉さんが言ってたことってそういうことだったのね」
「荷物預かり所に行ったんですか?……その割には荷物で手一杯の様ですけど」
「うっ……それは……」
私は思わぬ所で墓穴を掘っていたようだった。こうした他人の言葉のあらを探し当てるのが上手い人間は仕事仲間となれば頼もしい限りだが、今回のケースでは最悪であった。
「ああ〜そういうことですか。この時期はいつも観光客がたくさん来ますからね。空港以外に荷物を預ける場所のアテ、あるんですか?」
目の前の少年は表情を変えず薄く口を釣り上げたまま淡々とした様子で私を見つめている。端麗な見た目に機転の利く性格ーー何たることか私には言い返す言葉など思い浮かぶはずもなかった。
「……その、やっぱり乗るわ!実は今日イタリアを出国するからホテルにも預けられなくて空港だけが頼りだったのよ。だから是非あなたの車に乗らせて欲しいなあ〜……なんて」
「そうですか?それじゃあ行きましょう……ああ、荷物は僕が積み込みますよ」
「ちょっと待った!荷物を積み込む前に話を聞いて」
目の前の少年はしたり顔を隠す気もないのかニコニコ……というよりはニヤニヤとした表情で私のキャリーバッグに手をかける。そんな少年の手を上から掴み、車に向かおうとしていた足を止めた私は彼と視線があったのを確認してから口を開いた。
「私はこれから4時間かけてネアポリスのどこかにいるはずの少年を探したいの。お金なら払う、チップも弾むわ。……そうね、前払いで50万リラでどう?」
「……全額でいくら出してくれるんです?」
「150万リラよ。前払いに50万、後払いに100万リラってことね……あとはあなたの働き次第でチップも付けてあげる」
ここで舐められてはいけない。あくまでリードするのは私でなくてはなかった。
ただでさえ危険な白タクを利用するのだ。最初から高めの値段を設定しておくことで後々のトラブルを回避するのは賢いやり方だろう。
「だから変な気は起こさないでくれないと困るわね……例えばこのまま荷物だけ持ってトンズラ、とか。これは結構大きな取引だとは思わない?」
「そうですね。とても素敵な取引だ……もちろん謹んでお受け致しましょう」
視線の先の少年は自分よりも10歳ほど年が離れている筈だというのに、よほど肝が据わっているのだろう。私が押さえていた手を離すまでーーいいや、手を離した後ですらも動揺するような素振りひとつ見せることは無かった。一般の中学生男子ならたったの4時間で150万リラ、ともなれば隠しきれずに笑みがこぼれてしまうものではないのだろうか。
「それじゃあ車のナンバープレートと免許証……は無いでしょうから学生証、それに君自身の顔もハッキリ写っているような写真を撮らせてくれない?これがこの取引の最終条件よ。もちろん4時間後にはあなたの目の前で写真を削除すると誓うわ」
背負っていたキャリーリュックを下ろし、私が肩にかけていた鞄から取り出したのはデジカメ。某有名アニメのサッカー少年のマスコットがぶら下がったポーチに保管されていたパステルブルーのそれには今回の旅の思い出がたくさん詰まっている。
「ええ、もちろん……ですが少し意外ですね。僕の見解だとあなたはもう少し警戒心の低い方だと思っていたんですが」
「……まさか、こういう面倒な女は嫌い?」
「いいえ、その逆ですよ。僕はあなたの事が気に入りました。」
私のキャリーバッグを2つとも転がしながら自身の車まで誘導する少年はこちらを見ることなく呟く。
少年が先程の最後の取引について言っているのなら海外旅行者で尚且つ一人旅をする人間ならば当たり前の知識である。
今回のような白タク相手には勿論、パキスタンなどの地域では正規のタクシーであってもこうした証拠の写真は撮っておくに越したことはないと言われているのだ。勿論、相手に許可を撮って撮影をしなければ余計なトラブルになるので注意が必要である。
「僕はジョルノ・ジョバァーナといいます。4時間だけの付き合いになりますがよろしくお願いします」
「こちらこそジョルノ。私は苗字名前よ。気軽に名前とでも呼んでね」
車の前に着くとすぐに学生証を取り出した少年は私に見えるようにそれを翳すとそこに書かれている通りの自分の名前を名乗った。私はすかさずにナンバープレートと学生証、そしてジョルノの顔が写った写真をデジカメに収めると、彼に促されるまま助手席に乗り込んだ。
「それでは名前、手始めにどこへ行きましょうか」
私から前払い分の50万リラを受け取ったジョルノは財布に現金を詰め込みながらこちらを伺うように少しだけ首をもたげてみせた。
「そうね……最初に向かうのは勿論ーー……」
「……あの、ここって僕の通っている学校なんですけど……まさか授業を受けに行け、とか言い出しませんよね?」
「もちろん違うわよ。でも折角協力者が地元の学生なんだもの、活用しない手はないわ!ジョルノ、今から高等部の寮に行ってナランチャ・ギルガという少年が在籍していないか寮母さんに聞きに行くわよ」
ジョルノが運転するタクシーが停車したのはネアポリス中・高等学校の傍にある路肩。
颯爽と車を降りた私に続くようにして運転席をとび出たジョルノは車のキーを抜きしっかりと戸締りをすると私の横に並んだ。
「なるほど……この学校は全寮制ですから探し人がこの学校に在籍しているのなら必ず寮の名簿に名前が載っているはず」
「その通り。でも助かったわ、いきなり私が単身乗り込んでいたら不審者としてつまみ出されても文句は言えないもの」
在学生ジョルノ・ジョバァーナという最大の後ろ盾がある私は難なく検問を通り抜けると警備員の案内通りに高等部寮へ向かう。途中、何人かの生徒とすれ違ったが首に下げられた来校証に不信そうな目を向ける者はいなかった。
「朝早くから申し訳ありません。私は日本から来た苗字 名前といいます。お尋ねしたいことがあるのですが只今お時間よろしいですか?」
たどり着いた高等部寮の窓口に座る女性に来校証を差し出しつつ声をかける。深く深く刻まれた無数のしわの数から優に60歳は超えているであろうことがうかがえた。
「勿論、あたしの名前はカルメル。この高等部寮で寮母をしています。苗字さんに……後ろにいる坊やは中等部のジョルノ・ジョバァーナ君だね?いやあなに、孫娘があんたのことが好きみたいでねえ。名前と容姿だけは知ってるんだよ」
「光栄ですね、カルメルさん。僕もあなたのことは良く耳にしていますよ。確かもう20年はこの学校で働いているんだとか」
「20年!へえ……すごい……!」
20年もこの学校に勤務しているのなら、ナランチャ君の情報を何か持っているかもーーと私は感嘆の声をあげた。
閑話休題、時間は有限なので早速本題に取り掛かった私は、「本校にナランチャ・ギルガという生徒は在籍していますか?」と寮母長に問いかける。
その問いに「少し時間を下さい」と返したカルメルさんは手元のパソコンで大量の文字の羅列が映し出されたページを開き、数分後難しい顔で口を開いた。
「ナランチャ・ギルガ……その名前は間違っていないのよねえ……うーん……残念だけどこの学校には在籍していた記録がないわ」
「そんな……!」
パソコンから視線を外し、こちらに振り返ったカルメルさんは申し訳なさそうにそう告げる。
「……過去の名簿にも名前がないんですか?」
「無いね。直近6年間の名簿で検索をかけてみたけれど該当する名前はナシ……別の高校か中等部の方じゃないのかねえ」
「で、でも……お酒は飲める歳だって言ってたのよ?」
「でも、じゃあないですよ名前。時間が無いんでしょう。次の場所を探すべきです」
ジョルノが私の肩を掴み言葉を遮る。確かに名簿に彼の名前が乗っていないのならここにはもう用はない。時間は刻一刻と迫っているのだ。
「そうね……ありがとうございました……カルメルさん。失礼します……」
受付に座るカルメル主任寮母に深深と頭を下げた私はうーんとうなりながら車に向かって歩く。隣を歩くジョルノも何やら深く考え込んでいる様子で校門を出て車に乗り込むまで私たち二人は一言も会話を交わすことは無かった。
「……収穫なしですね。他に目星は付けてるんですか?」
「地元の子みたいだからきっと学校にいると思ってたんだけど……そうじゃないってことはそこら辺で遊び歩いているのかも」
再び助手席に乗り込み、シートベルトを締めた私は「路地裏とか、観光客の目にはうつらないところに」と前言に補足をする。
それと同時に車のマフラーから「ブロロロ」とけたたましい音が鳴り、2人を乗せた軽自動車が走り出した。
「きっとそうでしょうね。ですが名前、あなたを連れて裏道を通るのはあまり気が進みませんが……」
「?」
「ふう、少し体験してみますか?」
私はジョルノの返答の真意を理解出来ず小首を傾げて見せた。それに呆れたようにため息をついたジョルノは左手にウインカーを出すと安全確認を行った後に左折し、車1台分しか無い車道をゆっくりと走りだした。
「……これは!君がそういうのも理解できなくはないわね」
私は思わず窓の外に向けていた視線を外し、隣に座るジョルノへ向ける。たった1本、賑やかな大通りから裏路地に入っただけだと言うのにそこにはネアポリスという街のーーいいや、イタリアという国の闇が広がっていた。
痩せこけた野犬。散乱するゴミ。民家の壁にスプレーされた卑猥な言葉。血相の悪い肌着同然の格好の女の腕には注射痕。服のあちこちに血が付着しボロボロ姿な男の顔は何者かに襲われたのであろう腫れ上がり、それを見て指を指し笑うのは地元の不良少年グループだ。
「そうでしょう。これがこの街の当たり前の光景なんです。あなたの言うとおりその少年が高校に通っているような年齢で、どこの学校にも在籍していないようならきっと彼もそこいらにいる浮浪児のように麻薬と暴力に明け暮れる毎日を過ごしているはずです」
「そんな……」
2人を乗せた車は裏道を抜け、再び大通りに飛び出だす。交通の流れを妨げることなく合流したタクシーはそのままスピードをあげて走っていく。
まさか、ナランチャ君が浮浪児?でもヴェネツィアに観光に来るだけの財力はあったことからそんなことは考えられない。私は頭の中でナランチャ君の素敵な笑顔を思い浮かべた。
「僕朝ごはんまだなんでちょっと買ってきます」
「えっ!ちょっと!!」
「名前はオレンジジュースでいいですね?」
すると突然、タクシーは1軒のバールの前に停車し、運転席に座るジョルノもまた席を立つ。すぐさまウインドウを開けて声を上げた私にジョルノはそう告げると颯爽と店内に入っていってしまった。
「えー……なんかデジャヴかも……?」
そううらめしそうに呟いた私は気分を切り替えるためにもジョルノを待つ間も時間を無駄にせぬよう3日前のヴェネツィアでの出来事を頭の中でフラッシュバックさせる。早速ペンと革表紙の手帳を持ち、両開きのページの真ん中に「ナランチャ・ギルガ」と名前を書いた。
そう、あの日の早朝ーーまず初めに目が覚めた私はヴェネツィア運河にて溺れていた所をナランチャ君とフーゴ君に救助されたことを知る。互いに自己紹介をし、2人がネアポリス在住である事を知り、身体の具合を訊ねられた時にフーゴ君の口から「仕事」という単語が持ち出された。
「ン……?その事から考えられるにナランチャ君とフーゴ君は幼くしてすでに職に就いているってことじゃない!ああもう!私ったら初っ端から見当違いな所を探していたのね……」
そして助けてくれたお礼にと昼食を共にする約束を立て一時的に別れ各自観光を楽しんだ後、昼過ぎに合流しリストランテへ向かったのだ。
(そしてその時、ヴェネツィアで出会った2人と前日フィレンツェ行きの列車で出会ったミスタ君が知り合いであることが分かったのよね)
私は1度くるりとペンを回すとナランチャ君の名前の下の部分に「ネアポリス在住」「職に就いている(ネアポリスにある会社?)」「明るい性格」「ヴェネツィアで出会った」と記入する。更に矢印を引いてフーゴ君の名前を書き「同行者」「同じ会社に所属(?)」、ミスタ君の名前を書き「前日フィレンツェ行きの列車にて出会った・ナランチャ君の知人」と記入した。
「なんだか紙に書いて確認してみると一気に頭の中が整理できるわ!この調子でこの後のことも思い出していくわよ〜!」
ーーリストランテに到着後、席に着くやいなや2人が喧嘩を始める。理由は店内で騒ぎ立てるナランチャ君がフーゴ君の静止を求める声を無視したことからである。突如激昂したフーゴ君がカッフェのスプーンでナランチャ君の頬を突き刺したのだ。そしてそれに応戦するようにナランチャ君もポケットから携帯ナイフを取り出し互いに罵詈雑言を吐き始めた……。
(その後私が割って入ったから良かったものの、今考えれば警察沙汰になっていてもおかしくなかったわよね……)
私はその時思い出すことも躊躇われる程の緊張感を覚えていた。周りの人は助けてくれる気配も無いし目の前の少年達もまた正気を失っているような気さえしたのだ。
手帳のナランチャ君の項目の頭に黒点を打ち箇条書きのマークを付ける。「キレやすい性格」「常に携帯ナイフを所持(?)」と続けて記入すればほんの少しだが彼の人となりがわかってきたような気もする。
ーーリストランテから逃げるように退店した後、目に付いたパニノテカの屋台で昼食を購入し私の部屋でワインと一緒に飲食。そのまま眠りについてしまうも何とか2人の乗る列車の時間前に目を覚ますことができ一件落着……。
「この時フーゴ君の口からお酒を飲める歳……つまりは16歳以上である事は言及されているから多く見積っても彼の年齢は16から20歳の間と言ったところかしら。それとーー」
私は足元に置いていた紙袋から中身を取りだし広げてみせる。そう、今回ネアポリスに来た理由であるナランチャ君の忘れ物ーー彼の衣服である。
男性用の衣服の割にはあまり大きなサイズではないそれは日本人女性の平均的な身長を地で行く私の体格から一回りほど大きいと言った程度であった。つまるところ大体身長は165から170センチ程度といったところだろうか。
今打ち出された2つの新情報も箇条書き内に加えればなかなかに見栄えの良い資料の完成である。だがここで満足して終わりではない。
問題は十代後半もそこらの少年が学校に通わずどこで働いているのか、ということだ。
「ただいま戻りました……随分と難しい顔をしてますね、何かありました?」
バタン、という運転席の扉の閉まる音に私は顔を上げる。隣に腰を落としたジョルノは約束通り私にオレンジジュースが入ったカップを差し出し、自分のカッフェをひと口すするとカップをホルダーに置いた。
「……おかえりなさいジョルノ。とりあえずここから300メートル先にあるスーパーマーケットの駐車場まで走ってくれないかしら。いくつか手がかりを書き出したから君にも見てもらいたくて」
私の提案に「分かりました」とだけ短く返事をしたジョルノはハザードランプを消し後方確認をした後に再び本道に合流し近くにある大型スーパーマーケットに向けて車を走らせる。
車内は静寂に包まれていた。私は目下の手帳に、ジョルノは運転に集中している為口を閉じていたのだ。
「……ねえ、カラーペンとかない?見やすいように色分けしたいのだけど」
「ありますよ、グローブボックスの中です」
「借りるね?」
コンパクトな軽自動車の為、私の行動はジョルノの視野の範疇のようだった。グローブボックスを開けたはいいものの肝心のペンケースが見つからず四苦八苦している私を横目で見た彼は体を少し前に倒して運転席から手を伸ばすとものの数秒で探し物を取り出した。
「わあ……!助かったよ、ありがとうジョルノ!」
「いいえ」
ジョルノはそのまま流れるような手つきでグローブボックスを閉め、姿勢を正す。その間に車は大きく揺れたりすることも無く極めて普遍的に走っていたことから彼が相当運転が上手なのだということがうかがえた。
「あなたってレ・ミゼラブルとか読むのね」
「!……ああ、ボックスの中に入れたままにしていたんですね……意外ですか?」
「いいえ、そんなことはないわ。でも随分と使い込んでいる雰囲気だったから何度も読み返しているんだろうなと思っただけよ」
ジョルノがグローブボックスを閉める際に目に入った小説の名前を何気なく口にしてみると途端に彼の表情が少しだけ揺らぐのがわかった。恐らくジョルノはヴィクトル・ユーゴーのレ・ミゼラブルが好きなのだろう。
私自身も高校生の頃、夏休みの課題で読書感想文を書く際に岩波文庫版・豊島氏翻訳のものを目に通していた。しかし文体の古さから最後まで読むことなく諦めてしまったという悔しい出来事は記憶に新しい。
(それに1999年の2月頃放映だったかしら……アメリカで制作されたビレ・アウグスト監督のレ・ミゼラブルは劇場まで足を運んで見に行ったのよね)
私はナランチャ君のことが事細やかに書かれたページの空白の部分に「日本に帰ったらレ・ミゼラブルの原作を読み直す!」と小さくメモ書きをして赤い水性マーカーでぐるぐると囲む。高校の頃は学が浅く断念してしまったあの本も、大学を出て社会を経験した今ならば不自由なく読むことが出来るかもしれないからだ。
(そうしたら、またいつかジョルノに会った時に楽しい会話が出来るでしょうから)
私は手元の手帳に視線を向けたまま来年の今頃、再びこの地に足を踏み入れている自分の姿を想像して微笑んだ。空港前のタクシー乗り場で客引きをしているジョルノの姿を見てしまえば、いけないと知りながら誘われるように彼の車に乗り込んでしまうのだろう。
「ーー名前、駐車場に着きました。早速その手帳を見せて下さい」
「……もちろん!」
スーパーマーケットの駐車場の隅の方に駐車されたジョルノと私を乗せた車はちょうど建物の陰に隠れて日陰になっており、薄く空けられたウインドウからは気持ちの良い風が吹き抜けていた。
私の手帳を片手にたっぷりのチョコレートスプレッドが塗られたコルネットを頬張るジョルノは暫し無言のまま手帳の内容を吟味し口内のものを飲み込んだあと、ようやく口を開いた。
「……こういうものは前日のうちに作っておくべきだったんじゃあないですか?4時間しか時間が無いのにすでに無駄な行動を3つもしています」
「うぅ……耳が痛い……でも、3つって?」
「1つは勿論ネアポリス高等学校まで足を運んだ事ですよ……手帳の内容を見るにナランチャという男は既に社会に進出しているんじゃあないですか」
ジョルノのぐうの音も出ない程の正論に私は気まずくなって視線を逸らす。まさにその通りだった。すでに1時間ほど時間を無駄にしてしまっていた。
「2つ目は……僕が勝手にしたことですが一応中等部寮の方にも電話で確認を取っていたんです。まあ当然、『過去の名簿を見ても』そんな生徒はいませんでしたが」
「……その、ごめん……それで3つ目は?」
「押し問答などせずにさっさと僕のタクシーに乗るべきだったと思いません?」
「…… …… ……そうね」
ウインドウの隙間を縫って入り込んできた風が私の前髪を揺らす。現実逃避をするかのようにそれを目で追っていた私を見てジョルノは深くため息をついた。
「それで?こうしてこの男のことを文字に書出してみて、改めて貴方はナランチャという男をどんな人物だと考えているんですか?」
「……きっとナランチャ君は、『ネアポリスに住む社会人』で『それなりに安定した収入を得て』生活をしている筈だわ」
「そう考えるのは彼がネアポリスからヴェネツィアまで観光に来ていたからですね?」
私はジョルノの問に首を縦に振る。
ナランチャ君が生活困窮者や浮浪児であるなら国内とはいえ旅行など出来るはずがない。そして旅の同行者であり、恐らく同じ会社に勤めているフーゴ君の身に付けていた服やアクセサリーから見ても収入は決して悪くなさそうであった。
「突然ですが貴方はイタリアでの就職において、最も重要視される点はなんだと思いますか?」
「ええーっと……どの学校で、どんな勉強をしてきたか、とか?」
ジョルノは私の答えに首を横に振る。
何となく間違っているのだということは私にも分かっていた。ちなみに日本の若者の就活において最も重要視されるのは「新卒ブランド」である。
「答えはコネです。イタリア社会ではたとえ難しいこともコネがあれば何とかなります。逆に言えばコネがなければ簡単なことすらも困難を伴うことになるんです」
「ああ!そういえば何かで読んだことがあったかも……イタリアではコネを作るためにインターンで無償労働をする人も少なくないって」
「そのとおりです……ですがそれは弁護士や会計士などの人気の職業を志す人の話です。……時間がありませんからハッキリと言いますが今僕らが探しているナランチャという男は恐らく「高校に入学してすらいません」つまりはまともな学歴はないんです」
ジョルノの告げた無慈悲な言葉に私は声を上げることも出来ずにただ息を飲んだ。今の会話の流れからイタリアの就職難について察することが出来ないほど私は頭が悪くはない。
ネアポリス中・高等学校は全寮制の一貫校。10年ほど寮母として務めていたという高等部寮のおばさんも、同じく5年以上務めているという中等部の寮母さんも誰もナランチャ君のことを知らなかった(過去の名簿にも載っていなかった)。それが意味していることはたった一つである。(またネアポリスにある他の中・高等学校は前述した学校よりも偏差値や授業料が高めの為そちらに在籍している可能性は恐らくゼロに近い)
「名前いいですか?あなたが探しているナランチャ・ギルガという男は確かに社会人だ……けれどそれは表の世界ではなく『裏社会』と呼ばれるこの国の闇の部分に携わっているんだ。まだ全ては憶測の範疇を超えないが僕はそう考えている」
「裏社会……まさか……」
「ギャング?」その言葉は口の中に溜まった唾液とともに深く深く飲み込んだ。
私は何を考えているのだろう。
あんなに楽しい時間を共にしたナランチャ君をギャングだと疑おうというのか。
それはナランチャ君の友人であるミスタ君とフーゴ君をも疑うことに直結すると理解しているのか名前よ。
それと同時に先程ジョルノに連れられて通りがかった路地裏でみた光景を思い出す。
なにも前述した事だけが全てではないーー生気が抜けたように顔を真っ青にした腕にいくつもの注射痕のある男や、乱れた服を直そうともしない赤いルージュがやけに妖艶な女。10代半ばの不良少年グループは身の丈に合わない立派な財布を囲って大はしゃぎ。
認めたくは無いがきっとナランチャ君はこんな世界にその身わずか10歳程度で放り出されてしまったのだろう。ナランチャ君はジョルノの最初の推測通り浮浪児だったのだ。
コネもない、学歴もない、年齢もなにもかも足りない彼が生きるためには裏社会の扉を叩くしか道が残されていなかったのだろう。
普段は優しいのにキレると途端に暴力的になる性格も、常に携帯しているらしいナイフも、ナランチャ君がこの街でーーこのネアポリスで生きる為に必要な事だったのだ。
「…… 名前、どうしますか?まだ彼を探しますか?」
「ごめんなさい。少し考える時間が欲しい……かなあ」
そう言ったジョルノの声色はすっかり落ち込んでしまった私を気遣うように優しく、温情に溢れている。
彼をドライな人間だと思い込んでいた私はジョルノのそんな行動に心苦しくなり、黒地に白水玉が映えるハイウエストワンピの上から大切な人との思い出が詰まったペンダントをグッと握りしめた。
ウインドウの隙間から入り込んだ一房の風が心地よく私の頬を撫でる。
4月のネアポリスの風は暖かく、私の冷えた身体を優しく包み込むようだった。