現在時刻は午前9時。
サルディニア港発のフェリーにて一晩過ごした私はローマの外港であるチヴィタヴェッキア港に降り立ち、更にそこから列車で1時間揺られ到着地はローマ、テルミニ駅へ来ていた。
私は早速宿泊予定のホテルに赴き手荷物を預け必要最低限の荷物を持って外へ出る。少し遅めだが朝食にしようと考えているのだ。
もちろんフェリーの中にも食堂はあったが折角ならローマで1食でも多く名物料理が食べたかった為にそれは見送らせてもらった。
そんなこんなで地図を頼りに辿り着いたパン屋のイートインスペースに腰を下ろした私は早速購入したローマ名物の一つであるマリトッツォを頬張る。ドリンクにはカプチーノ、そして朝から豪華にデザートのクロスタータも添えている。
マリトッツォとは丸いパン生地に生クリームをたっぷりと挟んだラツィオ州、主にローマの伝統的なお菓子であり、朝食やティータイムに最適と観光客や地元の人々に愛されている一品である。
そして、そんな長い間愛され続けているマリトッツォだからこその特徴がある。それは各店舗によってパン生地の種類やクリームの味が様々なことだ。
テルミニ駅に隣接されていたパスティッチェリア(お菓子屋)のマリトッツォの生地はシュークリームのシューに似ていて本当にあっさりとしていていくらでも食べられそうであったし、ガイドブックにも掲載されるほどの有名なバールのマリトッツォは17センチほどのコッペパンにこれまでかってくらいに生クリームを盛り込み粉砂糖をまぶしたお腹にどっしりときそうなものだった。
各店舗それぞれーーいや、それどころかパティシエごとに特色の出る、決して侮れないスイーツと言えるだろう。
そんな中、私が頂いているのはブリオッシュのようなパン生地の中に生クリームとカスタードクリームが入ったボリュームたっぷりだが、ペロリといけちゃう大変美味しいマリトッツォ。
昨日のことで悶々としていた私も午前中に完売は当たり前のこのマリトッツォを前にすれば頭の中に浮かんでいたモヤモヤはいつの間にか消え去っていた。
お行儀が悪いというのには目をつぶってガイドブックに目を通しながら指についたクリームを舐めていると『ここで1つ、マリトッツォに纏わる明日誰かに言いたくなるかもしれない小話を』なんて小粋な小見出しが目に入った。
マリトッツォやバールの大きい写真に幅をとられ端に端にと追いやられたその項目には「3月初めの金曜日に、男性がお菓子の中に指輪や金のアクセサリーを入れて婚約者にプレゼントする習慣があったそう。」と小さな字で綴られていた。
「……へえ、でももう4月だし」
私は日本語で、且つ小さな声でそう言葉をもらす。残念ながら自分の周りにはそんなロマンチックなプレゼントをくれるお相手はいないというのが実情である。
数秒後、ガイドブックを鞄に放り込んだ私はカプチーノで喉を潤すとデザートのクロスタータに手を伸ばした。もちろんマリトッツォはもうとっくのとうに食べ終わっている。
オシャレな装飾が施された小さなフォークを蜂蜜とヘーゼルナッツのフィリングの乗ったクロスタータへ振り下ろせば、ザクザクとタルト生地を切り分ける音だけが皿の上で静かに響いた。
Buona giornata!! Day,Seven Roma
朝食を終えた私は店を出るとテルミニ駅に向かって歩き出した。日本で立てたスケジュール通りに行動できたおかげか、私がバス乗り場へ到着すると共に目的地行きへのバスがタイミングよく目の前に停車した。(ちなみにイタリアのバスは基本時刻表通りには来ない。数十分程遅れるのは当たり前のことだと割り切る気持ちが大切である。)
これから私が向かう先はヴェネツィア広場。
『ローマなのになぜヴェネツィア?』と思う人のために説明するならば理由はひとつ。この広場にヴェネツィア宮殿があるからである。
しかし実際広場に立ってみると宮殿よりも隣接されている記念堂の方がインパクトの強いというのだからなんだか拍子抜けなのだ。
そんなヴェネツィア広場の最も特筆すべき特徴はやはりなんと言っても交通量の多さだろう。
「コルソ通り」「フォーリ・インペリアーリ通り」に「ナツィオナーレ通り」「コルソ・ヴィットーリオ」そして「テアートロ・ディ・マルチェッロ通り」とロータリーになっており、それぞれの通りに見どころがあるのだ。
例えば一つ挙げるならばナツィオナーレ通り。
ナツィオナーレ通りは「トライアヌス帝のマーケット」という西暦110年に建てられた今でいうショッピングモールへのアクセスが可能となっている通りで、現在は博物館となっていて当時の柱やその装飾を間近で見ることが出来るローマの有名観光地だ。
そんな5つの通りのうち、まず最初に私が向かうは勿論コロッセオのあるフォーリ・インペリアーリ通りだ。ちなみにテルミニ駅の地下鉄からコロッセオ駅まで乗り継ぎ無しの便が出ていたが地下鉄にはスリや小銭目的の危険な人が沢山いるので今回は見送らせてもらった。
バスに乗車してから約10分……と、徒歩5分。 私の目の前には大量の人と広大で写真で見るよりも遥かに重厚感を感じるコロッセオが立ち塞がっている。
すでに入場券を持った人々が手荷物検査のため隊列をなす中、その左横には入場券売り場が設けられていた。そこには既に長蛇の列が出来ていたが入場チケットを持たない私は重たい足を動かして最後尾に並ぶことにした。
そして更に待つこと10分。後ろにも前にもそれなりに人が並んでいて、とてもじゃないけれど列を立ち去ることもできない状態。
だが終わりが見えない訳では無い。券売機もどんどん近づいてきているのでおよそあと5分ぐらいの辛抱ではないかと私は高を括ると頭の中で今朝読んだコロッセオ内部の見学スポットに思いを馳せる。
「チョ〜〜ット避けてもらおうかなァ?」
「キャッ!」
刹那、後方から発せられた乱暴的な声と、それに続き短い悲鳴が私の鼓膜をふるわせた。
ちらりと後ろ振り返ればそこには中東系の顔つきの外国人男性が先に並んでいた人たちを押しのけて前へ前へと足を進めている。
(危ない人もいるものだわ……でもここは大人しく道をあけた方が身の為ね)
私は再び前に向き直すと中東系の男に目を合わせない様に俯きながら体を全体的に横にずらした。あわや肩がぶつかった、なんてことになってはどんな因縁をつけられてしまうからわかったものじゃない。
しかし私の真後ろに並んでいたピンク髪の少年は違った。あんな大声で騒いでいたというのに中東系の男の存在に気づいていなかったのかそのまま堂々と列の真ん中を陣取っていたのだ。
「チッ、邪魔だ。どけ」
「うわッ!」
そして後ろから思い切り肩を押されたピンク髪の少年は中身の入った紙カップを片手にバランスを崩し転倒。その場にいた誰もが中東系の男へ冷たい視線を送り、次に私の純白のカーディガンに出来た茶色の染みに絶句した。
「熱ッ! 」
バシャリと水音を立てて白のカーディガンとミルキーピンクのフレアスカート、及び足元を染めあげたのはピンク髪の少年が片手に持っていたエスプレッソ・コンパナ。カシミヤ100%の細かい編み目は余すことなくコンパナを吸水して、もはや誰の目から見ても手遅れだ。
そしてその光景を唯一目の当たりに出来ない私は急に背面部に感じた刺激に声を上げるとオドオドした様子の少年に促されるがままにカーディガンを脱ぎ背面を確認し口をあんぐりとあけた。
「す……すみません!ぼくの不注意です……弁償します」
「え……ええと、とりあえず顔を上げて?」
私はそう言うと少年の肩を軽く叩き顔を上げさせる。しっかりと正面から見つめてみれば特徴的なのはピンク色の髪の毛だけではなく、大きな丸い黄金色の瞳に顔の中心に散らばるそばかすーー少年の顔立ちはまだ幼さが残っていて私の見立てでは若年16歳くらいだろうかというところだろうか。
「私は平気よ。……それよりあなたの方こそ怪我はない?思い切り突き飛ばされていたでしょう」
「へ……?は、はい。僕も怪我とかはしてないです」
胸部のところに独特の切れ込みが入ったマゼンタカラーのニットの少年は「でも……」と歯切れが悪そうに呟き目を伏せた。
これが故意によるものであるならばともかく、今回に限っては少年も被害者なのである。一部始終をほぼ全て目にしていた私には少年に過失がないことが分かっていた。
そして何よりも恐らく学生であろう少年にカシミヤのカーディガンを弁償させる気にはなれなかった。お気に入りのハイブランドの物の為、意外と値が張るのだ。
「いいのよ、気にしないで頂戴……でも、互いに視野を広く持ってあたりに警戒しておかなくちゃ駄目ね」
「そ……そうですよね、すみません」
私の言葉にそう返した少年は力ない表情で自傷気味に微笑んだ。
ああ、悪いように捉えられてしまっただろうかと私は後悔の念が頭をよぎったがあえてそれを口に出すことはなかった。
そうーー視野を広く持ち、警戒を怠らないということは本当に大切なことなのである。遭わなくてもよい危険に巻き込まれることも無くなる。
私自身今回の旅で何度も何度も被害に遭いかけているーーそしてその度に助けられてきたのだ。
思い返せば1日目にブチャラティに出会った時もスリ被害に遭いかけていたし、5日目の入水事件だって夜間の無防備な外出が原因でナランチャ君とフーゴ君に助けてもらっていた。それに6日目にペッシ君にボールをぶつけてしまったのだって不注意からであった。
「……謝らなくていいわ。次に気をつければいいんだから、ね?それじゃあ私は行くわ Buona giornata(素敵な1日を)」
私は次こそ威圧感を与えないようにと心得ながら渾身の笑みでそう告げ、踵を返した。乱暴男が無理矢理通ってきた道がまだ空いているのを目視した私はその道を通って10分かけて並んだ隊列をものの数秒で抜け出した。
(ホテルの荷物の中に替えの服がある筈だけど……ここからホテルまではバスか地下鉄に乗らなくてはならないわね。現実的なことを考えるなら近くのブティックに行くのが最適解かしら)
私は道行く人達の突き刺さるような視線を無視して歩き続ける。ええ、分かっていますとも!ミルキーピンクのスカートについた黒い染みが気になってしょうがないのだろう。
無意識のうちに寄せてしまっていた眉間のシワを直接手で触れ緩和させるもつかの間、指に付着してしまったフェイスパウダーのオークル色を見るやいなや再び私の眉間にはさらに深いシワが刻まれてしまった。どうも今日は間が悪い。
私はそんな気分を落ち着かせようとふと目についたベンチへ小走りで向かうなり腰を落ち着かせた。アンティーク調の装飾が施されたそのベンチは街の雰囲気を壊すことなく自然に溶け込んでいる。
(……昨日のあの3人のギャング達……やっぱり私なんかが深く関わるべきではなかったのかもしれない)
が、しかし気分が晴れない中、ベンチに腰かけた私がヴェネツィア広場近郊の地図を広げながらつい思い出してしまうのはつい昨日のこと。
先日サルディニア島にて出会った3人の風変わりな男たちーーリゾットにプロシュート、ペッシは恐らくギャングだった。
明確たる証拠があってそう述べている訳ではないが私の直感が、彼らの立ち振る舞いがそう物語っていた。
「……今思えば彼らにトリッシュのことを話したのは不味かったのかも。まるで関係性は感じられないけれど……いいや、それにしたって根掘り葉掘り聞かれたわね」
私は空を仰ぐとぽつりとそう呟いた。大勢の人々が行き交うこの広場ではそんな小さな声など儚く溶けて消えてしまった。
(ーーそれよりも、なによりも気がかりなのはおじいちゃんとおばあちゃんのことよ。ギャング達の質問に「嘘」を答えたり、私の鼻血を見るなりピッチャーを落とすことも厭わないほどの速さで私を庇うような動きをした……。何か彼らに聞かれては行けない秘密があったのかしら?そしてあの時私の身に降りかかった強烈な頭痛と鼻血は本当にたまたま起きたことだったの?)
私は心の中で誰かに問いかけるように言葉を紡ぐと手に持っていた地図をグッと力強く握りしめる。クシャクシャと乾いた音をたてて深いシワを作っていく地図に一足遅く気づいた私はパッと手を離しシワを伸ばす。
(そして私の鼻血を押さえていたハンカチに付着していた『ホチキスの芯』……芯はコの字の形のままだったから偶然おばあちゃんのハンカチにくっついていたとは思えない。あれは一体なんだったの?後でよく見てみても特に変わったところはなかったけれど……)
私はあの時の情景をできるだけ鮮明に思い出す。
激しい頭痛のすぐあとに鼻血が出て祖父に抱きとめられ、祖母にハンカチを鼻にあてられた。
その後ギャング達と一言二言会話を交し、3人全員が店をあとにする頃には鼻血は止まっていた。
(そしておばあちゃんにもう少し様子を見るように勧められてハンカチをあてていた時にホチキスの芯を見つけたんだわ!文房具屋で売られている時のような数個綴りで現れたソレは私の血で赤く光っていた……ん? …… ……まさか、それが意味することって)
未だに少しヒリヒリする自らの鼻に手を触れた私は高鳴る心臓の速度がさらに急激に早まるのをひしひしと感じとっていた。
まさか私の身体から「ホチキスの芯」が出てきたと言うのだろうか?……いいや、そうでなくては説明がつかない。
だからといって身体の中にホチキスの芯があったという明確たる証拠はないが私の推理では間違いはなかった。相手は表側の世界で生きてきた平和ボケした一般人とはかけ離れた裏社会の人間なのだ。自分たちの利益の為なら多少の演出でそんな突拍子のないことをするのかもしれない。
(ゾッとする ……まだ私の体内にホチキスの芯が埋め込まれているかもしれないと考えるだけでおかしくなりそうだわ!……!もしかしておじいちゃんのあの反応も私よりもいち早くギャング達の「仕掛け」に気づいたからだった……?そうならあの機敏な反応になるのも無理はない筈)
私はそこで一旦推察を中止することにした。自分の中でいくつもの疑問を並べ、解決しようと頭を捻るが満足のいく答えは得導き出せなかったからだ。
ただ私が気がかりなのは祖父母の安否。
そして著しく思うは3人のギャングに対する不信感。
「……電話、するべきよね」
私は自分自身がポツリ呟いた言葉に後押しされるかのように手早く地図を折りたたみ鞄の中に放り込んだ。そして入れ替わるように携帯電話を取り出すと連絡帳から店の電話番号を探る。
ローマに無事に着いたことを報告するーーその為の電話。なにも問題がないのならそれでいい、それがBEST!
そう言い聞かせるように深呼吸をした私は震える指で着信ボタンに手を伸ばす。
しかし、不意に自身の後方より聞こえたこちらの気を探るような声にあと少し親指に力が入ればダイヤルが回るといったところで私の体は一時全停止した。
「あの……さっきの、コロッセオの前にいた人……ですよね?」
「……!」
聞き覚えのあるその控えめな声に私は瞬時に携帯を折り畳みそちらに振り返る。
ドクドクと早鐘を打つ心臓に、落ち着くようにと強く願えば様子を伺っていた目の前のピンク髪の少年は小さく「あっ……」と声を漏らした。
「ええと、さっきは本当にすみませんでした!怒ってますよね……」
「……へ?」
深々と頭を下げる少年に今度は私が疑問符を口にする番となる。息を切らし、肩を上下させる少年は「とりあえずよかったらコレ着てください」と自身の鞄から取り出したのであろう皺のついたベージュのスプリングコートを差し出した。
「ヴェネツィア広場を抜けた先にショッピングストリートになっている「コルソ通り」って所があるんですけど、そこならブティックが幾つかあるのでダメにしてしまった物と似た物が売っているかもしれません……もっ、勿論、代金は僕がお支払いします」
いくら若くても流石はイタリアの男だーーと、私は感激を通り越して最早狂気じみたものを感じた。もしも日本で同じことが起きたとしてもクリーニング代を三千円握らせて終わりだろう。
「ふっ、ふふふ……っ!まさか追っかけてくるなんて!……ありがと。それじゃあコルソ通りまで案内してくれる?」
「はい!勿論です!」
私は少年の律儀で物腰の低い態度に張り詰めていた緊張の糸が解かれるのを感じ取ると破顔した。彼に促されるままにしわくちゃの少しだけ大きめのコートを羽織り、カバンを片手に立ち上がりスカートの染みがコートの裾で隠れているかチェックする。
その際にちらりと目に止まった携帯電話に「そういえば電話出来なかったな」と未練がましく視線を向ければ、数メートル先で私の出発を待つピンク髪の少年の催促の声が私の意識を覚醒させた。
「どうかしましたか?」
「……いいえ、問題ないわ行きましょう……ええと……」
一歩二歩と小走りになりながらなんとか少年の隣に落ち着いた私は自分より一回りほどだけ高い位置にある顔色をうかがう。すると、私の次の言葉が予想出来たのか、少年は花が咲いたように微笑むとこちらに向き直った。
「ぼくの名前はドッピオ。ヴィネガー・ドッピオっていいます」
「丁寧にありがとうドッピオ君。私は苗字 名前、気軽に名前って呼んでね」
ドッピオ君の愛らしい笑顔に倣って私も笑みを浮かべると、彼は一瞬驚いた顔で口をポカンと開け、次には顔を赤く染めて照れたように頬をポリポリと優しく掻いた。
「ドッピオ君!おまたせ!」
リビングコーラル色の春ニットにハイウェストでベルトを締めたブルーのワイド型ジーンズを身にまとった私は颯爽と試着室を飛び出すと少し離れたところで店員さんと話をしていたドッピオ君目掛けて声を張り上げた。私の声に気がついた彼はさらに顔を一段と輝かせると足早にこちらへ近づいてきた。
「わあ、よく似合っていますよ!名前さん!生き生きとした珊瑚色のニットとカプリの海を模したイヤリングがマッチしてると思います。……さっきの女の子らしいコーディネートも似合ってましたけど今みたいにカジュアルな格好も魅力的に見えます!」
「あ、ありがとう……ドッピオ君……」
本日二度目のイタリア節の褒め言葉に顔を赤くさせた私は思わずキラキラと顔を輝かせるドッピオ君から視線を逸らす。
それにしてもよく分かったものだーーと私は感心する。私が今付けているイヤリングはほんの五日前にカプリ島で出会った少女からのプレゼントの品であった。
先程ほどのドッピオ君の見解通りイヤリングはカプリの名所「青の洞窟」イメージの雫と名産物のレモンを模したチャームで出来ていた。その澄み切った青のしずく型のチャームはブルーのジーンズの色としっかりマッチしている。
「それじゃあ会計を済ませてきます。それと店員さん曰くカーディガンについた染みはクリーニング屋に出すまで手を加えない方が良いとの事でした」
「わかったわ。ありがとうドッピオ君」
私が元々着ていた服が入った紙袋を手渡される。中身を覗けば大きなメモ紙が入っておりそこにはクリーニングに出すまでの注意事項が事細やかに書かれていた。
(……ふふふ、本当に気が利く人なんだわ。ドッピオ君って)
私が心の底からそう思ってひとりでに笑みを浮かべているとこちらに戻ってきたドッピオ君とパタリと目が合う。彼が不思議そうにこちらを見つめるので私はほんの少し恥ずかしくなって「じゃあ行こうか」と催促の声を上げた。
「……もうすぐ12時ね。ごめんなさい、こんな時間まで付き合わせてしまって」
「いいえ。僕の買い物にも付き合ってもらいましたし、お相子ですよ」
ブティックを後にしてから2時間弱程経っただろうかーー私とドッピオ君はそのままの自然な流れで市中観光を楽しんでいた。
私もドッピオ君も明日にはローマを発つということで各個のお土産を物色したり、ガイドブック片手に観光地をゆっくりと話しをながら歩いた。
「あの…… 名前さんがもし良ければこの後もお昼をご一緒させて頂けませんか?その、もう少し話がしたいなって思ったんですけど……」
「もちろん!食事っていうのは一人で食べるより誰かと一緒に食べた方がず〜っと美味しくなるものだからね」
「そうですね……僕もそう思います!」
数日前にフィレンツェでミスタ君が語った言葉をそのまま口に出せばその時の私のようにドッピオ君は目じりを垂らし口もとに弧を描く。
刹那、肩にかけていたいくつもの紙袋を持ち直し近くのリストランテを探そうと歩みを進めようとした私の腕を引いたドッピオ君は近くにあったベンチに私を誘導するとそこに腰掛けるように促した。
「あ……ごめんなさい、気が利かなくて……荷物が嵩張って大変ですよね。僕が何か買ってきますからここで待ってて下さい」
「そ、そんな、悪いわよ!紙袋の中身だって殆どお菓子だから重たくないし」
ヴェネツィア広場から少し離れた先にある自然公園の一角にあるこのベンチは近くに見える噴水の白い彫刻のオブジェに映えるようほんのり黄色味がかったクリーム色の塗料で染色されていた。
観光地からは少し離れているとはいえここはローマ、公園内には多くの人々で溢れかえっていた。犬の散歩をする老夫婦や、休日のピクニックだろうかーー僅か3歳ほどの少女を連れた若い女性の視線の先では伴侶であろう若い男性が「こっちにおいで」と優しく手招きをしている。
そしてそんな光景の向こう側には軽食を販売しているのであろうキッチンカーがパステルカラーの枠組みが特徴的な大きな窓から美味しそうなウインナーの焼ける匂いを醸し出す。
「……実はお土産を沢山買いすぎてレストランに行くだけのお金がなくなっちゃったって言ったらどうします?」
「ええ!?」
ドッピオ君は眉を八の字にし、前のめりになり私の耳元に口を近づけるとまるで後ろめたいことを言うかのように小さな声でポツリとそう囁いた。その表情には僅かに赤みがかかっていて、嘘をついているようには見えなかった私は思わず驚愕の言葉を漏らし彼の顔をまじまじと見つめる。
「はは、飲み物はオレンジジュースで良いですか?それじゃあ待っててくださいね、絶対ですよ」
「え?ちょ、ちょっと待ってよ!ドッピオ君!せめて自分の分は払うからお金持って行ってーー……って、行っちゃった」
次の瞬間、パッと身を引いたドッピオ君は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべると颯爽とその場を立ち去ってしまった。
1人取り残された私は暫くドッピオ君の後ろ姿を目で追っていたが、数十秒後には諦めたように再びベンチに深く座り込んだ。
「……はあ、気配り屋で大人しそ〜に見えて意外と強引なところがあるのね……」
時刻は12時。日差しは私のいるベンチの上に茂る木の葉に遮られ心地よい春の風だけが私の肌を撫でる。
今回のイタリア旅行もいよいよ明日をもって終わりを迎えるーーいいや、明日の朝ネアポリス空港に到着してから滞在できる時間はたったの4時間であるから実質今日で観光は終わりだ。
ネアポリスにカプリ島、ポンペイ遺跡にフィレンツェ。ヴェネツィアにサルディニア島……そしてローマ。どの街も特別でガイドブックを見ているだけでは伝わらない魅力があった。
そして何よりも今回の旅では色々な人と出会い、別れを繰り返してきた。
とびきり優しくて明るい人だったり綺麗で芯のある可憐な人だったり、時には関わるべきではない人とも出会ってしまったがその全てが大切な思い出であり私にとっての財産であることは間違いないだろう。
(それに、レオーネにも会えた。ずっと会いたかった、一番会いたかった人に)
私はニット越しにペンダントを握りしめ俯くと、ポンペイ行きの列車にて再開した初恋の男の子のことを思い返す。ぶっきらぼうで少し厳つい雰囲気に成長していたその男の子は恐らくもう警察官の仕事はしていないのであろう。それでも、生きていたことにーーそして私のことを覚えていてくれたことに酷く感動していた。
「名前さん!今戻りました!遅くなっちゃいましたか……?」
「……ううん、むしろ早すぎるぐらいよ」
俯いていた自分の視界に影がかかり、長いこと思い出にふけっていたのだと自覚する。顔を上げた先にいたのはジェラートを両手に持ち、その両腕にビニール袋を吊り下げたドッピオ君だった。
「マンゴー味といちご味なんですけどどっちが好きですか?」
「う〜ん、じゃあマンゴーにしようかな。ありがとうドッピオ君」
二人がけのベンチの大半を占領していた紙袋たちを地面に置きドッピオ君に隣に座るように催促する。小さく「ありがとうございます」と微笑んだドッピオ君に「どういたしまして」と返せば彼はすぐさまその手の中にあるいちご味のジェラートを口の中に放り込んだ。
「ん〜……やっぱり美味しいですよこのジェラート!名前さんも早く食べないと溶けちゃいますよ」
「そうね……そうよね」
今回の旅行の思い出にすっかりノスタルジックな気持ちになっていた私はそんなこともつゆ知らず不思議そうにこちらを見るドッピオ君に促されるままジェラートを口に運ぶ。
「う〜ん!!Buono!!(美味しい)」
「気に入って貰えたようでよかったです!」
まったりとした強い甘みの中にほのかに感じられる酸味が絶妙なマンゴー味のジェラート。ひと口ごとに鼻に抜ける果実の香りを楽しみながら食べ進めていけばあれよあれよというまに私の胃の中に吸い込まれてゆくものだから気がつけばもう3分の1ほどしか残っていない。
(……はあ、帰りたくなくなっちゃうなあ)
いくら美味しいものを食べていても明日には日本に帰らねばならないーーその事実が重く私に伸し掛る。楽しい時間はあっという間、明日の今頃は飛行機の中だ。
今こうしてイタリアの地で、イタリアの味をイタリアの人と共有しているのは特別なことなのだと思い知らされる。
「……ねえ、ドッピオ君」
「……ハイ、なんですか?」
「その……午後からも良ければ一緒にいてくれないかしら……明日にはイタリアを経つと思うと……なんだか寂しくて」
「名前さん……」
無理にとは言わないけどーーと、付け足した私はカリッと爽快な音を立ててコーンを噛み砕いた。溶け始めていたジェラートが重力に従いコーンの細い隙間にも染み込んできている。
「はい!ぼくで良ければ……!ご一緒させて下さい」
「そっか……ありがとねドッピオ君」
最後の一口を口の中に放り込む。口の中でザクザクとコーンの砕ける音を十分に楽しんだ後、それを飲み込み私は「ふう」と息を漏らした。
今日この日に、ローマで出会えたのがドッピオ君でよかった。
互いに口に出して確認した訳では無いがたしかに二人の間には友情があるーー私はそう確信してその口許を僅かに吊り上げた。
私のイタリア旅行7日目はまだまだ続く。