フカフカのベッドで目が覚めた私は部屋中に漂うワインの香りと激しい頭痛に顔を顰める。
冷蔵庫に入れられたミネラルウォーターを口に含み、幾分か楽になった身体に鞭を打った私は覚束無い足取りで内線電話に手を伸ばした。
しばらくしてーールームサービスで朝食を済ませた私はヴェネツィア・テッセラ空港へ向かうために水上バスに乗り込んだ。
これから向かう先は「サルディニア島」。テッセラ空港から到着港であるオルビア・コスタ・ズメラルダ空港までは直行便が出ている。
超高級リゾート地であるコスタ・ズメラルダ(エメラルド海岸)周辺は1962年以降リゾート開発が進みマリーナ、ゴルフ場、別荘に一流ホテルが立ち並ぶ高級国際保養地と言われていて、とても私のような凡人が足を伸ばすような所では決してなかった。それは中心部であるポルト・チェルボに寄れば寄るほどだ。
水上バスの中、クロスシート横に座る人物が居ないのをいいことに私は姿勢を崩すと再びぶり返した頭痛に眉を寄せた。
Buona giornata!! Day,six Sardegna
「おじいちゃん!おばあちゃん!たっだいま〜!!」
そう勢いよく正面玄関を開けた私を出迎えたのはガラガラの室内と静寂だった。幾つか並べられたテーブルと椅子のセットにもカウンターにも、イタリアでは珍しい小上がりの席にも人っ子一人いない。
「やっぱり……相変わらず『お客さん』来ないんだね」
私はそのままタイルの敷かれた滑りやすい床に注意を向けながら店内を迷わずに進む。すると見えてきた『staff only』と書かれた扉を迷うことなく開けるとそこには夫婦で仲良く囲碁に没頭する祖父母の姿が見えた。
「おおっ!名前じゃあないか!待っていたよ!一年ぶりかの 」
「おかえり名前。長旅でつかれただろう。 ようし、ばあちゃんが朝飯作っちゃる」
「えへへ……久しぶりだね、ふたりとも!ただいま」
そう、私はサルディニア島、オルビアにある祖父母の家に来ていた。2人は先述したようにいつ来ても閑古鳥が鳴いている様な人気のないトラットリア(軽食堂)を営んでいる。ちなみにイタリア料理の他に日本食を売り出しているらしいが如何せん人が来ないのだから本当にあるのかどうかも怪しいところだ。
そしてトラットリアの2階が祖父母の住居スペースになっていて、私は年に一度ここを訪れてはそのうちの1部屋を間借りするのが恒例となっていた。
すでに朝食の準備の大半を終わらせていたのか、すぐに祖母の私を呼ぶ声が聞こえる。部屋の窓を開け、吹き込んでくる風にどこかスッキリとした私は祖母に元気よく返事をすると老夫婦には急勾配すぎる階段を音を立てて下った。
「それでね、3日目にポンペイに行ったんだけど! ……なんと! レオーネと再会できたんだよ!!」
大胆にも店内のテーブル席に並べられた祖母の手料理の数々に舌鼓を打ちながら私はこの5日間の出来事を祖父母に目一杯伝える。ブチャラティの話をしながらマグロのたたきを頬張り、トリッシュとドナテラさんの話をしながらもずくと大根の味噌汁を口に含んだ。
「そうか……!変わりなかったか?」
「うん!ちょっと ガラが悪くなってたかもだけど……なんて」
椅子から腰を浮かせて前かがみになりながら生ハムとモッツァレラ、ベビーリーフのサラダを取り皿に移す。味噌汁にも白米にも合わないサラダなのだがバルサミコ酢のちょうど良い甘みが堪らなく美味しいのだ。
「ふふっ 久しぶりにレターセットの用意もしておいた方がいいんじゃあないかしら? ばあちゃんのとこにある便箋はあまり可愛くないからねえ」
「うーん……だけどその前にあの時の手紙の返事、書いてくれるかなあ」
私はオープンショルダーのシフォンワンピース越しに胸元に輝く銀色のペンダントを握りしめると困ったように笑う。そんな私の様子に1番に気がついた祖父はあえて明るい顔を浮かべた。
「まあまあ、とにかく今日はゆっくりしようじゃあないか。どうせ今日は泊まっていくんだろう? 便箋も彼のことも今は後にしよう」
静まってしまった空気を一転させるために気丈に振る舞う祖父の言葉に私は「あっ! 」と、声を上げると、椅子の下に置いていた昨日宿泊したホテルの名前がプリントされた紙袋を手に取った。
「実は……今日の夜、フェリーに乗るんだ。ネアポリスに届け物があってね 旅行の日程をずらさなきゃならないの」
その言葉と共に紙袋に入れられた忘れ物ーーナランチャ君の衣服を2人に見せるように目元の高さまで持ち上げる。
「洗濯しておこうか?」と問いかけてきた祖母に素直に甘えた私は、ついでにと最終日に着る予定の黒地水玉のクラシカルワンピースも手渡した。
「去年来た時は3泊もしてくれたっていうのに……冷たいなァ」
「ごめんね、おじいちゃん。もうフェリーのチケットも予約しちゃったのよ。今日の夜に出たら明日朝の7時頃にはローマに行けるの」
晩御飯は食べていくからーーと、怨めしそうな表情の祖父に言えばそれはほんの少しだけだがそれは和らいだ。その隙に味噌汁と白飯をかきこんだ私は手を合わせて席を立つ。台所に向かい食器をつけ置きにし、冷凍庫から棒アイスを取り出すと私は再び祖父母の待つ店内に戻った。
「だからさ! 朝ごはん食べ終わったらみんなで海に行こうよ! コスタ・ズメラルダ!」
しかし祖母の反応はあまり良くないようで困ったような顔で祖父の方を見つめている。祖父も何か思うところがあるのか申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「それが……今日はお客がくる『はず』なんだ」
「ええ!そうなの!?何時頃御予約なの?」
「いや……いつも占ってもらっている占い師が「今日は3人の若者が訪れる」って教えてくれて」
私は思わずズッコケそうになる身体を整えるとなんとも言えず苦笑いをうかべた。
祖父母が毎日占ってもらっている占い師といえばオルビアの路地裏でひっそりと活動している男性占い師のことだろう。
しかし彼の占いは意外と馬鹿にできず、去年占ってもらった際には「近い内に探し物が見つかる」と言われ翌週には数年前に失くした500円貯金箱が見つかったのだ。
「ごめんねえ。 わたしは仕込みと名前の洗濯物もしなきゃならないし、実はじいさんもこの間まで風邪を引いてたんだ。1人でも行けるかい? 」
「わかったよう……それじゃあビーチのサッカーチームにでも入れてもらおうかな」
コスタ・ズメラルダは先述したとおり、たくさんの富裕層が訪れるリゾート地。大人たちがビーチで熱い関係を結んでいる間、その子供たちは海岸近くで必ずサッカーをしているのだ。
「またかい? 名前がビーチを一歩でも歩けば適当な資産家なんかがすぐに寄ってくるだろうに!」
「おじいちゃん 余計なお世話よ! 第一私にはレオーネがいるし……それに……ぶ、ブチャラティだっているんだから……」
「アラアラ、白昼堂々と二股宣言!? 名前も隅に置けないわねェ」
ついにはおばあちゃんにまでからかわれてしまった私はアイスの棒をゴミ箱に乱雑に投げ入れる。ほんのりと頬を朱色に染めた私を見てニヤニヤと笑う祖父母に睨みを効かせれば2人は我に返ったかのように食事を再開させた。
祖父母の店を出て、バスに乗り込んだ私はコスタ・ズメラルダに来ていた。ビーチを歩けばやはりと言うべきか、たくさんの男女ーーそれもスタイル抜群の美女や筋肉モリモリの美男子、宝石を身につけた老夫婦など、素人目で一目見ただけで分かる程『特別な人間』がそこかしこに溢れかえっていた。
私はそんなビーチから早々と視線を外すと、あまり人気のないところへ抜けていく。
すると数メートル前から聞こえていた少年たちの叫び声がどんどん大きくなってくる。しまいには声の発生源と思わしき所からサッカーボールが転がり出てきた。
「チャオ、コウタ。 今年も遊びに来たよ」
「げぇ! 名前じゃん! 」
恐らくタッチラインから出てしまったのであろうボールを拾いに来たのは毎年長期休みの時期になるとサルディニアの別荘に遊びに来るメロニード一家の一人息子のコウタ。私の祖父母とメロニード家の主人の仲が良く、私たち二人は数年来の友人なのだ。
コウタは悪態をつきながらも私の手を掴むと一緒にサッカーをしている男の子達のところへ連れて行ってくれた。
「みんな集合!!こいつは 名前。大人だけどサッカーのセンスはないから安心していいよ」
「もう!……あはは、名前です。みんなよろしくね」
私がグループに加わると、その場の人数が丁度偶数になったようでミニゲームをしようと提案が飛び交う。極めて公平な組み分けの結果、私は赤チーム、コウタは青チームとなった。
「ぜーったいに勝とうね!おばさん!」
「お……おば……さん!? 」
チームメイトの心無い言葉にショックを受けている私にはお構い無しに敵チームの少年が仲間にパスを出したところから勝負は始まった。ルールは簡単、先に3点先取で勝ちのシンプルゲームだ。
「3番ゼッケンを前に出させちゃあダメだ!ふたりでもいいから圧をかけて!」
「オーケイ! おねえさん、いける?」
「……勿論! 」
我がチームのゲームメーカーの指示通り、私とMFの少年でボールを保持する3番ゼッケンに圧をかける。3番ゼッケンは空かさず後方を走る味方にパスを出すがそちらにもすでにマークは付けていた。
「そのまま突っ切るぜッ! 」
「させるかよォ!」
パスカットに成功するも束の間ーーボールを持つ自軍7番ゼッケンにコウタが立ち塞がる。高度な鍔迫り合いの末、勝利を収めボールを奪取したのは敵チームのコウタ。彼はハーフウェーラインから少しだけ後ろに下がっていた私の方へ突っ込んでくる。
「させないわよ! コウタ! ここは通さないッ」
私は手を広げて腰を落とすと前方を走るコウタを見つめる。ついに一寸先あたりで一秒程見つめ合うとコウタは右足から左足にボールを遊ばせそのまま私の横を通り過ぎてしまった。
「……へ? 」
そのまま呆然とする私を置き去りにして、さらに後方の守備陣をもあっさりと躱しゴールを奪ったコウタは軽快な足取りでハーフウェーラインの先へ走っていく。何かテクニックを使われたのだろうが全く分からない。
「おねえさん ディフェンスの時は腰を落とさない方が素早く相手の動きに反応できますよ。……あと、手を広げる必要は無いかと……」
「あ……あぁ、そうなんだ……ありがとう」
文字通り開いた口の塞がらない私を見兼ねたのかアドバイスをしてくれた少年にお礼を告げる。前にテレビで見た時はこうしていたような気がしていたのだけれどーーと自身の記憶を辿るが、正直いって朧気だった。
「手を広げて腰を落とす……そりゃバスケの構えだろーが。……サッカーの技術だけじゃあなくて基礎的な部分まで不得手になっちまったのかよ」
「むっ! 試合中にダラダラとお喋りなんかしちゃって……舌噛んでも知らないわよ 」
まさに売り言葉に買い言葉ーーそんなコウタと私をよそに試合再開の掛け声が轟いた。
先程とは一転して我らが赤チームのFWがガンガンと前に切り込んでいく。しかし敵チームだって負けていられない。青チームのDFは3人がかりになってそれを止めるとボールをタッチライン外に押し出した。
「……『カットイン』をする。点決めに行くぜッ!FWもMFもみんな前にあがれ!」
「「オウッ!」」
そう私たちに号令をかけたのは7番ゼッケンのFWの少年。彼に続いて前方へ出た私たちはペナルティーエリアへ向かう7番ゼッケンからいつでもパスを受けられるような配置についた。
「よしッ! お前が決めろッ」
「ええっ!? わたし? 」
鋭く正確なそのパスを何とかこぼすことなく受け止めた私は直接狙える距離にあったゴールに向けて足を振る。全力のキックで勢いをつけたボールはゴールのラインを容易に超え、後ろに鎮座していた岩場に当たり跳ねた。
「わーい! やったあ! みんなナイスプレイ……ってあれ?」
手放しで喜ぶ私をよそに辺りは静まり返っていた。同じチームの子も、敵チームの子達も皆口を噤ぎ一方を見ていた。
皆に倣ってそちらに目をやるとそこには一際目立つ黒地にビビットピンクハートのオーバーオールを着た緑色の髪の青年とヘリンボーン柄のスーツの似合う気品漂うプラチナブロンドの男、そして黒い頭巾を被った190センチを超えていそうなまでの大男が立っていた。
一目見て「関わってはいけない人達」であると判断した私は近くにいたコウタにそっと耳打ちする。
「ここは離れた方が良さそうだわ……別のところへ移動しましょう」
「おれもそう言いたい所だけど……無理だね。サッカーボール、あのデカくて黒い男が持ってるんだぜ」
「えぇ!?」
私はコウタの言葉にもう一度男たちの方へ視線を向けた。よく見てみると確かに黒頭巾の男の手にサッカーボールが抱えられていた。そして隣の緑髪の青年は後頭部を押さえている。もしかすると緑髪の青年にサッカーボールが当たってしまったのかもしれない。
「ど、どうしよう……謝りにいった方がいいよね? 」
「まあね……でもそれは普通の人間が相手ならの話だ。名前も分かってるだろ? ああいうのには関わらない方がいい」
日本で平穏な生活を過ごしている私にも彼らの風貌から何か良くないものを感じ取ることは容易かった。そしてこの国イタリアに何度も訪れている私には彼らの正体もなんとなく予想が出来てしまっていた。
「……ギャング?」
「……多分」
「ええーっ!?」
すると私たちの会話が耳に入ってしまったのか声を荒らげた少年を皮切りに周りの子供たちは皆口々にざわめき始め、仕舞いには一人、また一人とその場を離れて行ってしまった。
そしてそれはコウタも例外ではなく、彼は立ち去ろうと男たちから背を向けると私の手を引いた。
「名前、おれたちも行こう。まだ母さんにも挨拶してないだろ」
「う、うーん……いいのかな? このまま逃げちゃって……後から大変なことにならない? 」
「それはなんとも言えないけど……」
私の問いに自信無さげに目を伏せたコウタはなんともはっきりとしない返答を返す。その表情はどこか不安げだ。
私は今日中にサルディニア島を発つが他の彼らはどうだ?自分よりも年下の守られるべき子供達を置いて1人だけ逃げ出していいのか?ーーそこまで考えればあとはもう十分だった。
強引にコウタの手を振り解いた私は男達の方へ駆け出す。後ろから静止を求める声が聞こえるが追ってきてはいない様で私はそっと胸をなでおろした。
「すみませーん! 私の蹴ったボールなんですッ! 怪我はありませんでしたか!?」
3人の男達の前まで全力疾走した私は彼らの前に立つなり頭を深く下げた。相手はギャングであるという先入観からすっかりと怯えていたのだがより近くで鮮明に見る彼らはかなりのハンサムで私は驚き数回瞬きを繰り返した。
「こちらこそすまない。折角の試合を台無しにしてしまったようだな」
「えっ」
私の謝罪に予想外の返答をしたのは『黒頭巾の大男』。彼は一際大きな黒目を瞬かせると私にサッカーボールを手渡す。
思わずサッカーボールと黒頭巾の大男の間で視線を彷徨わせているとすぐ近くで「きゅー」と子猫が鳴く様な、か細い音が鳴り響いた。
「……ペッシよォ、お前もう一遍アタマ見せてみろ」
「へ……? ヘイッ分かりやした 」
一拍、間を置いて声を紡ぎ始めたのはヘリンボーン柄のスーツの男。『ペッシ』と呼ばれている人物は緑髪の青年の事のようで、先程まで押さえていた後頭部をスーツの男に見せるためにこちらに背を向けた。
「ペッシペッシペッシよォ……ここに『コブ』が出来ちまってるじゃあねぇか こういうのはハッキリ言わなきゃ駄目だ」
「ア、アニキ……?何を言って……」
「アニキ」と呼ばれたのはスーツの男で、彼は動揺するペッシ君の背中を思い切り叩くと今度はこちらににじり寄って来た。
サッカーボールを胸の前で抱いた私はその威圧感から逃れようと身体の向きはそのままにゆっくりと後退するも、それが逆にスーツの男の逆鱗に触れたのか彼は歩を早めると思い切り私の肩を掴んだ。
「おい……なに逃げてんだ」
「ご、ごめんなさい……つい」
思わず震え、上擦る声が出てしまう。私は助けを求めて黒頭巾の大男の方へ視線を向けるが彼は難しい顔をしてスーツの男の背中を見つめているだけで助けてくれるような気配はなかった。
「そんな怯えてンじゃあねェ……危害を加えようなんざ思っちゃあいないからな。オイ ペッシ、お前 腹空いてるだろ」
「ええ……まあ 「昼時」ですし……」
「そうだよなァ……「昼時」だからな」
『昼時』という言葉をやたらと強調したスーツの男はペッシ君にちらりと向けていた視線を再びこちらに戻すとブルーの力強い瞳で私を刺すように見つめる。何かを訴えかけているようだ。
しかし私とてもう子供ではない、社会経験こそは浅くとも人生経験ならば優に20年を超えているのだ。この程度の要求に答えることは容易かった。
「ええと……よかったら 一緒にご飯でもどうですか? ご、ご馳走しますから……ッ」
「…… ……だ、そうだ。こんな若くて綺麗なセニョリータにここまで言われちゃあな。これは行くしかねえよな、リゾット」
どうやら大正解だったようで刺すような視線と肩に重くのしかかった重圧がすっと消えていく安堵の感覚が体中を駆け巡る。
ふう、と大きくため息をこぼした私は額に浮かんだ汗を袖で拭うといつの間にか足元に落としていたサッカーボールを手に取った。
すると次は別の方向から鋭い視線が送られてきているのを感じる。振り返ってみればそこには身を隠したつもりのコウタがこちらを見ていた。その様子がおかしくて、可愛らしくて。私は1度口元に弧を描くとコウタを目掛けてボールを蹴る。コウタがしっかりとボールをキャッチしたのを見届けた私は彼に向かって小さく手を振ると3人の男達へ向き直った。
コスタ・ズメラルダからバスで向かったのはとあるトラットリア。店前に着いたスーツの男はあからさまにガッカリとした表情を浮かべた。
「のれん」が架かっているのが開店中のサインなのだと簡単に口頭で説明した私を先頭に店の扉を開ければそこには当然のように他のお客の姿はなく、更には店員の姿さえも見えなかった。
「……ええと、好きな席に……あぁ……いやあ、テーブル席のほうが食べやすいですかね? 」
店内の異様な様子に当惑気味のペッシ君に申し訳ない気持ちになりながらも海が見えるテーブル席に案内すると3人は思い思いの席に着く。すかさず他の空きテーブルからメニューを数枚抜き取った私は最年長と思われる黒頭巾のリゾットさん(先程、スーツの男にそう呼ばれていた)から順にそれを手渡した。
「こちらメニューです。イタリア語で書いてあるので読めるとは思うんですけど……なにか分からないことがあったらいつでも お声掛けくださいね」
私はそれだけ言い切るとすぐさま彼らに背を向け祖母を呼びにスタッフルームに足を進めようと左足で一歩踏み出す。どうせまた祖父と囲碁に勤しんでいるのだろう。
「ちょっと待て。先程から店の者の姿が見えないようだが……」
そんな私を呼び止めたのは重量感のあるテノールボイス。振り返ってみると声を発したのはリゾットさんのようだった。
私は彼のかなり大きめな瞳孔がちょっぴり恐ろしくて少し視線を口元に下げると自分の気持ちを隠すように苦笑いを浮かべた。
「えっとォ……多分今の時間帯はスタッフルームにいるんだと思います!今から呼びに行きますので! 」
務めて明るくそう言えばそれ以上リゾットさんは何も追求してくることも無く、メニューに視線を戻した。それにほっとして小さく息を漏らした私は再びスタッフルームのほうへ歩を進めた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。お客さん来てるよー……ってあれ、ここじゃあないのね。珍しい。」
予想外にもスカだったスタッフルームを後にした私の次に耳に入ってきたのは「カラン」と、アルミ製の鍋蓋が何かにぶつかった時のような音だった。もしかして厨房?と眉を寄せた私の考えは的中したようでそちらからは味噌汁の良い香りが漂ってきている。
「おばあちゃん! ただいま」
「あれ、名前じゃない。はやかったねえ」
「まあね……っと、そうじゃあなくて お客さんもう来てるよ」
「あらまあ! やっぱり あの占い師はホンモノねぇ!」
祖母は口上ではゆったりとしているがそれに反比例するように体を素早く動かすとあっという間に3人分の味付けゆで卵ととろとろ手羽煮込みのお通しを完成させトレイに乗せた。私がその動きに感心の表情を浮かべていれば祖母にトレイを押し付けるように持たされてしまった。
「それと『カンノナウ』とグラスも一緒にお出ししてあげて。久々のお客さんだからねえ、リゼルヴァとラベルに書かれてるやつを頼むよ、名前」
「はあい。 ……まったく、人使い荒いんだから!」
「あとこれ、今日の日替わりメニュー表ね」
「もう! 注文も私に取らせる気なのね……」
私は1度トレイを手近な場所に置くと祖母からメモ帳と伝票を受け取り、ポケットにしまう。そして晴れて両腕が自由になった私はワイン貯蔵庫となっている戸棚から『カンノナウ・ディ・サルディーニャ』を取り出し、空いた方の手で事前に冷やされていたグラスを3つ掴むとお通しの置かれたトレイに一緒に並べた。合計して、それなりの重量物に成り果ててしまったトレイに「ふう」と息をつくとそれを慎重に持ち、彼らの元へ向かった。
「失礼します。こちらサービスのワインとお通しになります」
お通しを彼らの前に配膳し、一人分ずつグラスにワインを注ぐ。普段飲食店で働いていない私からするとなんだか異様な感覚だった。
どぎまぎと不慣れな動作でなんとか全員分のワインを注ぎ終え、最後にフォークセットを卓上に並べているとふとコチラをじっと見ていたらしいペッシ君と視線がぶつかった。彼はなにか言いたそうに視線をあちらこちらに散らしながら口を何度か開閉するのを繰り返している。
「えっと ペッシ君……どうかした? 鶏肉だめ? それともワイン? 」
「い、いや違くて……そうじゃあなくて……」
煮え切らない返事のペッシ君に今度は私が当惑する番になってしまう。お通しに困っているわけでないのなら何に困っているのだろう。
「俺からひとついいだろうか」
「はっ はい! どうぞ! 」
「今日の「日替わりテンプラ」はなんだ?」
私はリゾットさんからの問いに答えるべく厨房で祖母に渡されたメモ帳を取り出すと天ぷらの項目を開く。今日の日付とともに記されている食材一つ一つへの解説に私は目を見張った。
「ええ〜っと、今日の天ぷら盛り合わせは塩モズクとマグロ、プンタレッラに春の野草ブルスカンドリになります」
「……それをいただこう」
「はい! 日替わり天ぷらをおひとつ」
伝票に手早く日替わりテンプラと記入する私をよそにテーブルを囲むスーツの男とペッシ君もリゾットさんに続くようにメニューを凝視し、口々に注文を告げていく。
「……それではご注文を繰り返させて頂きます。 日替わり天ぷら、マッロレッドゥス・アッラ・カンピダーノ、日替わり寿司十巻セット、カルタ・ディ・ムージカをそれぞれおひとつずつ。食前にラッテを3つ、食後にセアダスをおひとつーー以上、間違え等無かったでしょうか」
意外にもなんとかなるもので、一切の記入漏れもなく注文を書き留めた私は胸につっかえていた重い息を吐き額に浮かんだ汗を拭う。
しかし今、改めてお通しに手をつけている彼らを見てみるとなんだか海岸で会った時よりかは幾分か雰囲気が丸くなった様な気がする(まあ口に出すほど命知らずではないが)スーツの男の機嫌も良くなったようだし、後は小一時間程の辛抱だろう。
「それで お前はどうするんだ? 」
「……えっわ、私ですか? 」
そんなスーツの男のさも当然のように、それでいて拍子もなく放たれた主語の抜けた言葉にすっかりウェイターモードに入っていた私は思わず吃ってしまう。
そんな私を一目見たスーツの男は内側の胸ポケットから煙草を取り出すとGUCCIのガスライターで火をつけた。
「よければ『一緒に』ご飯でもどうですか……って言ってたのはお前だろーが。席ならリゾットの隣が空いてる」
フッと、煙を吐いたスーツの男が顎で指し示したのは窓際に座るリゾットさんの隣の席。
意図は理解したが、実行に移すには少し勇気がいる。そんな私の思考を汲み取ってくれたのだろうか、リゾットさんは片手で空いた席を掴むと人一人分のスペース分だけ引きエスコートしてくれた。
「それじゃあ……失礼します」
小さくリゾットさんに「グラッツェ」と告げた私はできるだけ丁寧にちんまりと席につく。
私ったらもっと他の言い方はなかったのかしら……と、心の中で自分自身に小言を言いながらメニューを目で追っていくと、見たことの無い料理名に目が止まった。
「パレルモ風アランチーニ……? 」
パレルモはシチリア島北西部にある都市のことを指しているとして『アランチーニ』とは何を意味している言葉なのだろう。私は自分の頭の中の辞書を引く。
「どうした アランチーニは食ったことなかったのか」
「え、ええ……どんな料理なのか考えていたんです」
そんな私の呟くような声を拾ってくれたのは以外にも正面に座るスーツの男。彼からの問いにそう素直に返せば彼は親切に説明を続けてくれた。
「カンタンに言えば「サフラン」っつう香草のリゾットに肉のラグーとチーズ詰めて丸っこく形成したモンをオイルで薄オレンジ色になるまで揚げた……まあ所謂 昼呑みのツマミだな。好き好んで食ったことはねえが美味いんじゃねえの」
「へえ……! 美味しそうですね! 私、それにします!」
さすがにこんなに詳しく説明してくれるとは思っていなかった私は思わず感嘆の声を上げてしまう。さっきまではスーツの彼のことを1番怖い人だと思っていたが話を聞いてみればそんなことないのかもしれない。
「それじゃあ 私は一度厨房へ注文を伝えに行きます。ありがとうございました! ええと……」
伝票を片手に立ち上がった私はお礼を言おうとスーツの男へ視線を送る。すると当惑する私に気づいてくれたペッシ君がスーツの彼の肩を柔く叩く。
「あ? ああ……プロシュートだ」
「はい プロシュートさん! ありがとうございます」
笑顔でプロシュートさんにお礼を言ってお辞儀をする。厨房へ向かう私の足取りは先程から比べればかなり軽やかなものになっているだろう。
優しくしてもらえたことが嬉しくて、思わずスキップしてしまいそうになる心を抑えながら厨房へ向かっていると、店の玄関が開く、ガラガラという引き戸の上吊りランナーの音が辺りに響いた。
「おーい 助けておくれー」
「エエッ! おじいちゃん水浸しじゃない! 風邪ぶり返しちゃうよ!?」
そこに立っていたのはなんとびしょ濡れになった祖父だった。白色のシャツがシワシワの皮膚に張り付いている。その手には籠いっぱいの山菜があった。
「名前! 帰ってきてたのかァ! いやぁなに。山菜を洗っていたらホースが勝手に暴れてしまってな」
「もう!ドジなんだから。早くお風呂に行ってきなよ。山菜は私が運んでおくから」
フラフラとした足取りで2階に上がっていく祖父を心配しつつも、私は私で伝票と採りたての新鮮な山菜を厨房へ運ばなくては!と気合いを入れて息を吐く。
伝票はポケットに押し込み、空いた両手で勢いをつされば一瞬ふらついたものの、なんとか籠を持つことができた。
(オッ……重たッ! )
意識せずとも籠は次第に重力に従い下に下にと落ちていく。それに負けじとカニ歩きになりながらも進む私。
ついに籠は床すれすれ。私は1度足を止めると勢いよくまた籠を担ぎ上げるように持ち上げた。
「……わッ!」
しかし持ち上げる際に踏ん張っていた足が濡れたタイル床にとられたのか勢い余って私と山菜籠は同時に後ろに体勢を崩した。このままでは転んでしまう! と私はぎゅっと目を瞑り衝撃に備える。
「……ってアレ? 痛くないし転んですらいない? って何これ! 首が詰まってるゥ!? 」
そんな私を待っていたのは痛みではなくなんとも不思議な現象。何故かまるで襟首を引っ掛けられて一本釣りされたかのようなとんでもないポージングで私は間一髪、立っていたのだ。
しばらくして落ち着きを取り戻した私がしっかりと地に両足をつけると、私の首根っこに引っ掛けられていた釣り糸のような張り詰めた感覚は消え、詰まっていた私の服も元通りに戻っていた。しかし何はともあれ助かったと後ろを振り向けば不思議なことにそこには誰もいなかった。
「おいペッシ……」
「ア、アニィ……」
そんな中、静まる店内でただ唯一言葉を発したのはプロシュートさんの咎めるような声だった。それにどこかまずいことでもした様な怯えた様子のペッシくんの声が続く。
私が見ていないほんの数秒の間で2人に何があったのだろう。私はいたたまれなくなり2人の方へ視線を向けていると視線に気づいたペッシくんが立ち上がり、こちらに駆け寄ってきた。
「よければオレ! 手伝います」
「え? いいの? ありがとうペッシ君」
急に現れ、率先して重い籠を持ってくれたペッシくんにお礼をしつつ、厨房が分からないであろう彼を先導しながら私たちは無事に伝票を運び終えた。
「ええーっと。今更ながら自己紹介させていただきますね……私は苗字名前っていいます」
厨房からホールへ戻る際、言いずらそうに唇をとがらせたペッシ君は私に「あの……お名前を聞かせてもらっても?」と言ったのだ。
「そういえばまだ自己紹介もしていなかったわね」と返せば「よかったら皆の前で自己紹介してもらえないかな」と申し訳なさそうに言われたのだ。
「そしてここは私の祖父母の経営するトラットリア。普段からずうっと閑古鳥が鳴いているようなお店だけど味の方は保証するわ!」
なんとなく察していたのだろう、驚く素振りも見せないリゾットさんはただ一言「そうだったか」とだけ呟く。残りの2人も言わずもがなだ。
「俺はリゾットだ。2人の名前はもう知っているな?」
「え?ええ……プロシュートさんにペッシ君ですよね」
あまり自分たちのことは話したくないのだろうか?自分の名前を短絡的に言ったリゾットさんはそれ以外の事は喋ろうともしない。
このままでは場に静寂が訪れてしまう!と、危惧しつつもこれ以上の会話の糸口は見つけられそうもない。
私は目の前に置かれたワイングラスにカンノナウをなみなみと注ぐと零さないように慎重にそれをあおる。
こうなったら飲んで飲んで場を誤魔化すしかない!
空になったグラスに再びワインを注いでいく私を正面に座るペッシ君が若干引き気味に見ていたことは触れないことにするーー……。
「名前、そろそろ起きたらどうだ? 」
「……ンン〜? 」
私は優しく体を揺すられて、いつのまにか失っていた意識を取り戻した。ぼやける視界の中、だんだんと鮮明になっていく景色。黒い頭巾。白色の髪の毛。そして赤と黒の双眼。
「へっ!? リゾットさん!? 」
ガバッと擬音がつきそうなほど勢いよく顔を上げた私は早鐘を打つ心臓を抑えながら辺りを見渡した。そこは祖父の営むトラットリアの窓際の席で、私は食事中に酔い潰れていたようだった。
「凄いペースで飲んでいたからな。どこまで覚えてる? 」
「……ははぁ、全く。食事に手をつけたどころか運ばれてきた記憶もないわ」
それでも食卓をみればアランチーニはひとつも残らず食べ終えているようだし、他のみんなの皿もきれいさっぱり片付いていた。祖母の料理を完食してくれたらしい。
「どうでした?祖母の料理。お口に合いました?」
「ああ。ブルスカンドリが美味かった」
「それはよかった。私も夕食で作ってもらおうかしら」
「ハン、昼メシが終わってもう晩メシの話しか?」
プロシュートさんのからかうような言葉に一瞬だけ不貞腐れそうになるもここはグッと堪えてグラスに少しだけ残ったワインを飲みきってしまう。かなり酔いが回ってきているのか頭がポーっとして何だか熱っぽい感じがした。
「ところで話の続きだが…… 名前、お前の友人の『トリッシュ』という娘は今どうしているんだ」
私は隣に座るリゾットさんのその一言で一瞬動きをとめた。私は酔っている間にベラベラと色んなことを話すタイプの酔い方をするタイプじゃないと思っていたからだ。
「……え?わたし、トリッシュの話をしていたの?あなた達に?」
「ああ。どうでもいい話を沢山きかされたぜ。どこで出会ったーーだとかプレゼントを貰っただとかな」
「……ええと、そのトリッシュって女のコは歌手だって聞いて……その、おれきになっちまってよォ〜。今どんなことしてるのかとか知ってたら聞きたいなって」
プロシュートさんの言葉のトゲを覆うようにペッシくんが補足の趣旨を伝える。有名人である彼女のことをつい自慢したくなってしまったのだろうか?自分の軽すぎる口に怒りを通り越して悲しみすら感じてきた。
「そうですね……あの、リゾットさん達って、イタリアの人なんですよね?」
「そうだが?」
「じゃあ話してもいいかな……。人助けだと思って聞いて欲しいんですけど」
もうここまで話してしまっているならしょうがないーー私はリゾットさん達にトリッシュとドナテラさんが『ソリッド・ナーゾ』という男を探していることを話した。
彼女たちは私を信用して人探しをしていることを打ち明けてくれたのかも知れないが、日本で暮らす私なんかでは猫の手ほどの助けも出来ないだろうことは明白だった。
それならばイタリア在住であるこの男達に探してもらった方が何十倍も見つかる確率は上がるだろうとふんだのだ。
「ソリッド・ナーゾ……ふうん、俺たちも知らねぇな」
表情一つ変えずにそう言い放ったのはプロシュートさん。長いまつ毛の下のスカイブルーの瞳は目下のタバコに向けられている。
「この男とドナテラという女性はサルディニアで出会ったというのは間違えないのか?」
「ええ。そのはず……この話はドナテラさん本人から聞いたんだもの」
「ならお前の祖父母に聞いてみたらどうだ?この店も中々年季が入っているように見えるし、サルディニアでの生活は長いんだろう」
凄く親身になって聞いてくれるリゾットさんの提案に賛成した私は席を立ち祖父母へ声をかける。2人はテーブルの側へ来ると何故か険しい顔で彼らに挨拶をし、早速私の問に答えた。
「私達夫婦がサルディニアに移り住んだのは今から10年ほど前…… 名前が初めてイタリアに来た頃ぐらいのことだね。トリッシュって子は15歳だろう?それ以上前の話はあまり詳しくは分からないねぇ」
「え……?」
「店を開店したのもそれぐらいの年だったかな?……なァ、名前」
祖母の返事に納得のいかなった私は思わず困惑の声を上げる。そんな私を牽制するように言葉を続けた祖父の瞳は「余計なことは言わないで欲しい」と語りかけてきているようにすら感じられた。
「……ちょっとお水持ってくるわ。皆さんも飲みますよね?」
私は食卓に置かれていたピッチャーを手に取り席を立つ。この異常な空気の中留まるのは少しばかり嫌だったのだ。
それにリゾットさんとプロシュートさんのグラスは空だった。彼らも水の一杯ぐらいは飲んだ方がいい。まだ昼頃だし、彼等も仕事が残っていることだろう。
(……急に後頭部辺りが痛み始めた?昨日の分の二日酔いの症状にしちゃあおかしいぞ!)
すると不意にポーっとしていただけだった頭が次はガンガンと警鐘を鳴らすかのように痛み始める。立ち上がりと同時におきたソレに私は心の中で悪態をつく。ああ、もう!どうしたってこんな時にーー。
「……あ?」
不意にポタリと垂れたソレでオープンショルダーのシフォンワンピースに一滴の赤いシミができる。先程から少しうつむき加減だった私の目にはその赤い液体が白色の服の繊維を染め上げていくまでがゆっくりとはっきりと見えていた。
「名前! 鼻血!」
「!」
急に叫んだ祖父に抱き寄せられ手に持っていたピッチャーが床に落ちる。すかさず祖母が持っていたハンカチで私の鼻を押さえ、心配そうにこちらを見つめている。当の私とはというとそのまま何故か祖父に抱き抱えられたままだ。
「……さて、俺達も仕事に戻るとしようぜ。リゾット」
「ああ」
プロシュートさんはそう言うと持っていたタバコを灰皿に押し当て鎮火させるとおもむろに席を立った。それとは対照的に慌ただしく席を立ったペッシ君が後に続く。
「あの……よければまたいらしてくださいね。今度はしっかりと接客してみせますので!」
「……勿論だ」
最後に、極普遍的な動きで立ち上がったリゾットさんは通りすがりに私の頬をするりと撫でた。その自然すぎる動作に目を見張った私は優しく祖父の手を振り払い彼らを見送るために店先に飛び出す。
「Buona giornata!(素敵な1日を)午後からもお仕事頑張ってくださいね!」
私の見送りに言葉で返事をするものはいなかったが、片手を上げたり、または軽く会釈をしたり……はたまたそのまま歩いって行ってしまったりと三者三様の別れの告げ方に私は困ったような笑みを浮かべた。
彼らのことを(恐らく)ギャングであるからという先入観から勝手に怖い人だと思い込んでいたがそんなことは決してなかった。
私の知らないところで彼らがどんな汚いことに手を染めているのかなど露ほども知らないが、今優しくしてもらえたという事実が何よりも大事だった。
「名前!鼻血が出てるのにハンカチも持たずに歩かないの!」
「ごめんなさい、でももう止まってるから大丈夫。まだ鼻の奥がヒリヒリするけど!」
なにはともあれ一件落着!と私は安堵の溜息を零す。そんな中、やはり気になるのは様子のおかしい祖父のことだ。私が鼻血を出してからーーいや、私が『ソリッド・ナーゾ』の話をしてからおかしくなってしまったように感じる。
それにあの時祖母は10年ほど前にサルディニアに移り住んだと話していたがそれは嘘であった。10年というのはこのオルビアにある家に越してきた年数のことであって、サルディニア島に住んでいる期間でいえば外交官として務めていた頃からずうっと。およそ「40年」は下らないはずだった。
それでも、理由がわからずともどこか一回りほど小さくなったように感じさせられる祖父の背中を無視できるほど私は無情にはなれなかった。
ガンガンとサイレンが鳴る極めて穏やかじゃあない頭の中で私は懸命にかける言葉を探した。
「おじいちゃん。私、夕食にはブルスカンドリの天ぷらが食べたいな」
こうして私のイタリア旅行は6日目を終えた。