4日目の夕刻頃、フィレンツェからヴェネツィアまでを特急列車で移動した私はヴェネツィア・サンタルチア駅へ来ていた。
駅から10分強程歩いたところにある滞在予定のホテル(サンジョルジョ・マッジョーレ教会まで0.7キロ圏内の13万のホテル)にチェックインを済ませた私は晩酌用に赤ワインの「ネグロマロ」を購入し、フィレンツェで買ったチョコレートと共に部屋の冷蔵庫に詰め込む。
一通り部屋を見て回った私は適当な服に着替え、化粧直しを済ませると夕食を食べに街に繰り出した。
街に出た私は数時間前フィレンツェ行き超特急内で知り合ったミスタ君に進められたお店に来ていた。運良く待ち時間もなく入店できた私は手帳に書かれていた一通りのメニューを注文していく。
食事を済ませ、食後のティラミスとカッフェに舌鼓をうっていると「いかがだったでしょうか」とウェイターに声をかけられた私は素直に「素晴らしかったですよ」と返す。
1人で来店していているからだろうかやけに声をかけてくれたウェイターに『夜のサンジョルジョ・マッジョーレ教会』を進められた私は写真だけでも撮って帰ろうと会計を手早く済ませた。
結論から言わせてもらえばウェイターの彼が言う通り、確かに夜のサンジョルジョ・マッジョーレ教会はライトアップもされていて素晴らしい景観だった。しかし時刻は既に午後8時を回っている。私は腕時計を確認すると予定よりも時間がかかってしまったことにドキリと心臓を跳ねると即座に撮影をやめ、デジカメを鞄に仕舞った。
小走りでホテルへ向け足を進めていると、背後に嫌な視線が付きまとう。不自然な感覚に当惑した私が振り返りを見回してみるが数グループ程の男達が自分と同じように教会を見物したり写真に収めているだけで特段変な人間は見当たらない。
しかしそれでもまだネットリとつきまとう絡みつくような視線に堪らなく気分が悪くなった私はできるだけ視線から逃れようと裏道へこっそりと逃げ込んだ。そして数メートル程進んだところで数人の男の声が聞こえてきたーーそれはとてつもなく良くない内容のもので私は更に彼らとの距離を離そうと駆ける。
逃げた先には水辺のみで追い詰められた私はパンプスを手に待ち覚悟を決めて海に飛び込む。
ヴェネツィアの地理になんて詳しくないのにこんな路地裏に逃げ込むなんて! 私の馬鹿馬鹿!と自分自身を攻めるも後の祭りである。4月上旬のイタリアの海は冷たかった。
水中に影が指すのが見えた私はぐっと息を詰める。何も出来ない私はただ、彼らがいなくなってくれることを待ちわびた。
Buona giornata!! Day,five Venezia
「ーーーはっ!? 」
詰まらせていた息をどっと吐き出すようにして勢いよくベットから体を起した私はそう声をあげた。汗ばんだ身体に見慣れない部屋、そして見知らぬ衣服を身にまとった自分に動揺し、新たに1粒の汗を流す。
ベットから抜け出した私の目に最初に映りこんだのは自分の鞄。大きめの窓から差し込む日差しで乾かしてくれているのだろうか、カバンの中身である財布や紙幣、カメラケースなども同様に干されていた。
次に目に止まったのは全身鏡。自身の格好をよく見てみるとホテルの部屋着のようだった。自身の泊まる予定だったホテルとは違う名前がプリントされている。
それと同時にサイドテーブルの上に置かれた衣服と『着替えです』と、英語で書かれたメモ紙を見つけた。自分のものでは無いその服は意外と大きく、自分より一回りほど大きな体の持ち主の物だろうと推測できた。
壁に掛けられた時計の針は午前6時過ぎを指している。介抱してくれたであろう心優しい素敵な人もそろそろ起きる頃だろうかーーと、私が頭の中で考え事をしながらホテルの部屋着を脱いだ時だった。私は全身鏡に映る自身の姿を見て思わず「ぎゃ!」と声を上げた。驚くべきことに下着を身につけていなかったのだ。
慌てて手で口を覆うが後の祭り。隣の部屋からバタバタと数歩足音が聞こえ、次の瞬間には勢いよく扉は開かれた。悲鳴を聞いて駆けつけてくれたであろう黒髪の少年は「なにかあった!? 」とこちらに目を向け……「あっ」と声を漏らす。
しかし神は私に恥ずかしがっているスキも与えてくれないのかすぐに遠くから「馬鹿野郎! 女性の部屋にノックもせずに入るんじゃあない!」と別の少年の声が耳腔を掠める。ドキリとした私は黒髪少年の藤色の瞳に見つめられながらもとりあえず着替えのズボンを手に逃げるようにしてベッドへ戻った。
それとほぼ同時にこちらに顔を出したのは金色の髪の少年で、「目が覚めたんですね。よかった 」といって私に人当たりの良い微笑みを見せてくれた。
コッチの事情などはつゆ知らずそのまま近づいてくる金髪の少年は昨日の夜、何があったのかと私にいくつかの質問をなげかける。しかしこの状況を頭の中で整理しきれない私は黙りを決めることしか出来ずに、せめて察して欲しいと少年に熱視線を向けるが効果は全く無く、彼も困ったように顎に手を添えた。
「あれ……もしかしてイタリア語は分からない? 」
そう言って次は英語で質問を始める金髪少年。そうじゃあないんだ。私にとっていま1番気になることはブラとパンティーの在り処なんだーーなどとは当然言えず、困り果てていた私がふと視線を散らすと入口で惚けていた黒髪の少年と数秒目が合った。
助け舟を出してくれ!と願ったのが功を奏したのか数秒後ハッとした黒髪少年は「なあフーゴ」と金髪少年の名前を呼ぶと「その人 今ハダカだから部屋から出てやった方がいいんじゃあねーかな」とあっけらかんとした表情で言い放った。思っていた助け舟とは違ってこちらも無傷では済まなかったが、これが少年なりの気遣いだったのだと自分自身に強く強く言い聞かせた。
その後、少しだけ頬を染めたフーゴ君によって下着を持ってきてもらい(水に濡れていたので洗濯してくれたらしい)用意されていた服に着替えた私は寝室を出てすぐの部屋で改めて彼らと向き合った。
私が寝室を占領していたせいでソファで寝ていたのだろう、掛け布団とクッションの置かれている光景を見てなんだか申し訳なくなった。
「さっきはごめんなさい 動揺していて上手く話せなかったの。私は苗字名前イタリアには旅行できているのよ 」
先程の会話でイタリア語は分からないのだと思っていたのだろう。フーゴ君は私の口から出たそれなりに流暢なイタリア語にに目を見開き、感心の表情を見せた。
「イタリア語喋れるのか!おれはナランチャ!ナランチャ・ギルガ! よろしくな! 」
「……ふふ よろしく! ナランチャ君って呼んでも構わないかな? 私のことは気軽に名前って呼んでね」
とりあえず黒髪の少年ーーナランチャ君からの第一印象は良かったようだ、と私はほっと一息つく。続けて「名前の着てるその服、俺のなんだぜ」と誇るようにして言い放ったナランチャ君には「へえ! カッコイイね」と返しておいた。
「僕はフーゴです。よろしくお願いします」
「丁寧にありがとう。フーゴ君、こちらこそよろしくね 」
初対面の人間相手にそこまで気を許していないのだろう、フーゴくんはそう質素に自己紹介をすると「ナランチャ、きみは余計なことを言わないように」小声で釘を指した。
「それで……早速だけどあなたの事を聞いても? 」
「勿論いいわ。先程も言った通り名前は苗字名前、年齢は25。日本から観光でイタリアに来ているの……パスポートもちゃんとあるわよ 」
続けて「今は持ち合わせていないけど」と付け足すとフーゴ君は分かりやすくムッとした表情で私をキツく見つめる。宿泊先のホテルのスーツケースの中に入れているのだと補足すると納得したようで彼は「なるほど」とだけ言葉を紡いだ。
「それで昨日は8時頃にリストランテをでてサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の写真を撮りに行ったの。そうしたら怪しい人たちに付けられちゃって逃げて……逃げ場が無くなったから海に飛び込んで……お恥ずかしいのだけれど そこからの記憶が無くって」
「……」
私の話を聞いたフーゴ君は分かりやすく頭を抱えて深く項垂れた。頭の中で情報を整理しているのだろうか、私の行いに呆れているのではないと信じたい。
「フーゴ!おれもう喋ってもいい? 」
「……いいですよ」
釘を刺されていたナランチャ君はフーゴ君から直接『喋る許可』を貰うと「なぁ」と私に諭すような含みを持たせた言葉を投げかけた。彼の表情はとても真剣で私も乗せられるようにして表情を整える。
「その、さ。歳下のおれなんかに言われてもって思うかもしれねーけどさ!あんたは女なんだから、あんまり遅くまで出歩いてちゃあいけないんだぜ」
「ナランチャ君……」
不意に頭の中でブチャラティとの会話がフラッシュバックするーー彼は私の話に親身になってくれた親切で優しくて私の『憧れの人』だ。ヒーローといってもいい。
私にとっての憧れの人がブチャラティならば、ナランチャ君にもそういう人がいるのだろうかと、見つめ返せば彼は肩を大きく揺らし気恥しそうに視線をずらし身を捩った。
「……私ね、とある素敵な人に貴方と同じようなことを言われた事があるのよ。ネアポリスで出会った、優しくてあたたかな人」
「ネアポリスっつーことは知ってるやつかもな。おれもネアポリスに住んでるんだ! 」
どんな人なのか聞くナランチャ君に敢えて名前をふせれば残念そうな顔をした彼が「名前にとってのヒーローかあ……」と、どうやら思い当たる節を探しているような素振りを見せる。約90万人ほどいるネアポリスの人口の中から『ブチャラティ』にたどり着くにはどれぐらい時間を有するのかと私は苦笑いを浮かべた。
「ま、とにかくこの騒動はこれで解決だよな!フーゴ? 」
ナランチャ君は既に考えるのをやめていたようで大きな瞳を私の方からフーゴ君へ向けるとそう声をあげた。
「まあ彼女に絡んでいた男たちもただの地元のチンピラだったようだし……僕らの方で片付けるような仕事ではなかったということですね」
「……? 」
フーゴ君の言葉からは要所要所首を傾げたくなるようなキツい言葉が紛れ込んでいる。しかし彼の安堵の表情を見るからに事態は良い方へ向かい収束したようだ。
「さてと……貴方の身体の方も特に異常は無いようですし……よかったら僕らが宿泊先のホテルまで送ります。ナランチャ、きみもついてこいよ 」
「そんな!そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ……?」
明らかに歳下の彼らにここまでお世話になってしまうのはあまりにも情けなさすぎる!と私は内心酷く焦った。さも当然のようにここまで甲斐甲斐しくエスコートしてくれるのは彼らが情熱の国イタリア生まれだからなのだろうか?
「いーんだよ!こういうのは大人しく送ってもらうのが逆に礼儀ってモンだぜ! 」
「……ふふ、そういうものなの? それじゃあ お願いしようかな」
先程のナランチャ君のように考えるのを一度やめた私は、差し出されたフーゴ君の手を取ってソファからゆっくりと立ち上がった。
部屋を後にした私達がロビーをぬけ外へ抜けるとそこには既にタクシーが1台だけ停まっていた。
ほんの僅かな間しか時間を共にしていない私だが誰がタクシーを手配したのかは容易に分かる。大きな欠伸を盛大にかますナランチャ君か、特徴的なたくさん穴が空いたスーツをピッシリと着こなしているフーゴ君か……一目瞭然だった。
早速タクシーに乗り込み、目的地に着くまで手持ち無沙汰になった私が水に濡れてしまったガイドブックを開く。『ヴェネツィア』と書かれたページをめくると、横目で見ていたのだろうフーゴ君が私の宿泊するホテルの写真を見て「うわっ」と短く声をあげた。
「このホテル 高かったんじゃあないですか? 」
「まあね……はは 」
気の毒そうにこちらを覗き込むフーゴくんに苦笑いを返す。今回の事件は夜間外出の際の最低限の警戒を怠った自分への「かなり高い授業料」として胸に留め、戒めとしておくことにした。もし今度ブチャラティと出会うことがあれば美味しいドルチェのひとつやふたつ、ご馳走しようと思う。彼の言ったことは物凄く正しかったのだ。
「ところでふたりは今日1日ずっとヴェネツィアにいるの? 」
助手席に乗り、呆けた表情で外を眺め欠伸を零していたナランチャ君にも聞こえるように問えば彼は待ってましたと言わんばかりに口を釣りあげ目じりに涙を貯めながらこちらに振りかえる。
「おう!予定だとリアルト橋あたりにいってェーそのあとは……」
「近くの格安ワイン店とパスタ屋にいってお土産を買うんですよ」
「リアルト橋近くのパスタ屋さん……あ! いろんな味のパスタが売ってる所だよね!コーヒー味とか 」
またもやナランチャ君への話題提供に成功した私は内心ホッとしながらも話題が途切れてしまわないように気をつけ言葉を選ぶ。
リアルト橋周辺といえばパスタ屋やワイン店の他にもオーダーメイドのカメオが作れるヴェネチアン・ジュエリー屋やファサードに見える大きな時計が目を引くサン・ジャコモ・リアルト聖堂などが建ち並ぶ立派な観光名所だ。初めてジュエリー屋へ行った時は予備の小銭入れがスられてしまったという思い出もある。
「んで 名前は? 」
話もひと段落着いたのか、目じりに貯まった涙を手で拭ったナランチャ君が至極真っ当、といったカオでこちらを見た。対するフーゴ君は昨日のこともあってか少し心配そうな表情。
「私は……王道だけどサンジョルジョ・マッジョーレ教会の大鐘楼の上に登ろうかな ヴェネツィアって物価が高いからサンマルコ広場からあまり動かない予定 」
そのあと小さく「治安も悪いし……」と付け足すと安心した顔のフーゴ君が「言わなくても分かっているでしょうけど気をつけて下さいね」と先程ナランチャ君にしたように釘を刺す。私が素直に「そうするよ」と返答すると彼は満足そうに頷いた。
「そうだ、2人共お昼に予定は無いかしら。特に無いのであれば オススメのお店があるんだけど……お礼も兼ねて一緒にどうかな」
「エッ いいのかよォ〜!! 」
「いいんですか? 折角の旅行なのに……」
嬉々とした声を上げるナランチャ君と遠慮がちな声を出すフーゴ君。対象的な反応を返された私は自然とはにかみながら「貴方たちが良ければ」と言葉を続けた。
もう行く気満々のナランチャ君に対してまだ浮かない顔を浮かべるフーゴ君に「ナランチャ君の服も……その時返したいから、ね? 」とトドメのダメ押しすると彼はようやく「それじゃあよろしくお願いします」と少し照れくさそうに笑った。
現在時刻は午後12時15分。ナランチャ君達との待ち合わせ予定時刻まではあと15分といったところだ。
午前中の間に、水に濡れてしまって嫌な触り心地になってしまった革の手帳に書かれたミスタ君のオススメのお土産を購入した私は待ち合わせ場所であるサンタルチア駅、ライオン像の下に来ていた。
無事故障していなかったデジカメのディスプレイにはサンジョルジョ・マッジョーレ協会の大鐘楼の上からの景色を写した写真が表示されている。今日は薄い雲が数個だけ浮かぶ晴天で写真映りは最高だ。
「おーい 名前ー!」
そうこうしていると人混みの中、荷物片手に大きく手を振り自分の名前を呼ぶ声が聞こえて私は顔を勢いよく上げて声のした方へ視線を向ける。男の子にしては高めの可愛らしいその声は数メートル先で手を振るオレンジヘアバンドの彼のものだ。
「チャオ!ナランチャ君にフーゴ君!観光は楽しかった? 」
「おう! 途中で食べた ジェラートがめっちゃうまかった!」
「ええ 予定よりも早く買い物も終わりましたし……なにより僕も朝食に食べたピアディーナが美味しくて 」
満足そうな顔をしたふたりに私は心の底から愛おしいなと感じ、口元を緩ませるとそのまま「それじゃあ 行こうか」と手に持っていたデジカメを鞄の中に放り込んだ。
「いまから行くお店、すっごく美味しいのよ!昨日の夜もそこで食べたの」
「僕らもきちんと調べてから行こうと思っていたんですけど……仕事仲間にこういうに詳しい奴がいるんです」
「へえ!実は私も昨日知り合ったばかりの友人に教えてもらったお店なの。イタリアにはグルメな人が多いのね」
サンタルチア駅から到着したリストランテまでは徒歩で約5分。少しだけ重たい扉を開けるとドア・ベルの心地よい音が辺りに響く。こちらにやってきたウェイターに「午後12時30分に3人で予約していた苗字です」と短く言いつければ賑やかな通りが見渡せる窓際のBOX席に通された。
「オーダーは貴方にお任せしても? 」
「……いいの?」
有無を言わせずナランチャ君達を上座に座らせた私はフーゴ君の問いかけに戸惑いつつも頷いてみせた。彼らにソフトドリンクの好みだけを一通り聞いた私はすぐにウェイターを呼び寄せ料理を注文していく。
「イカスミのパスタと蟹のサラダを人数分。ドレッシングにオリーブオイルと赤ワインビネガーも一緒に持ってきて」
そこまで言い終えた私は1度ウェイターに向けていた視線をテーブルの上に置かれたメニューに戻すと、ソフトドリンクの一覧を目で追うーーその視界の端にはナランチャ君の真剣そうな表情。彼が見つめる先にあるソレはきっと好物なのだろう。
「……あとポルチーニダケの乗ったマルゲリータをひとつ。それとカッフェをふたつとオレンジジュースを食前にお願いします 」
上記のメニューをテキパキと手慣れた動作で注文を書きを終えたウェイターは「Ho capito(分かりました)」とこちらに微笑みを見せて立ち去っていく。
歳下のふたりの前で情けない姿を晒すことにならなくてよかった!と安堵の溜息をついた私はいつもよりも少しだけ早鐘を打つ心臓に手をそえた。
「やるなぁ! イタリア人顔負けって発音だったぜ!」
「ええ 本当に。ここまで上手にイタリア語を話せるなんて相当の努力をしたんでしょうね…… ナランチャ、きみには彼女を見習って欲しいくらいですよ」
ふたりが口々に褒めてくれるのですっかり嬉しくなった私は胸に当てていた手を下ろして代わりに満面の笑みでお礼を告げる。
「ーーそれで名前さんは今日もヴェネツィアに泊まっていかれるんですか?」
「ええ。明日の朝にここを発つつもり 」
私は心の中で夜の移動はもう懲り懲りだと自傷気味に苦笑いをこぼす。今回の1件で今後海外旅行の計画を練る際には絶対に早朝の移動を規則にすることにするのだと力強く誓ったのだ。
「いいなあおれ達ももっといろんなトコ行きてーよな」
「わがまま言わないでくださいよ。こうして休日をくれただけでも感謝しないと」
「そうだけどよォ〜」と渋るナランチャ君を後目になんだか最近 こんな会話をしたような……と頭を捻る。
タイミングを見計らったように現れたウェイターにより運ばれてきたドリンクに彼らも言い合いを1度止め、私も思考を放棄した。
ソーサーの上に乗せられたラッテとズッケロを入れて掻き混ぜる。昨日も同じくカッフェを注文したからだろうか、最初からふたつ置かれていたラッテに私は1度驚いた顔をした後にそれをそのまま流し入れた。
「名前はさ、なんかお土産とか買ったのか?」
スプーンでカッフェを掻き混ぜていると前に座るナランチャ君がストローを片手にそう訊ねてくる。お土産は既にホテルに置いてきてしまったので私は代わりに手帳を開き2人に見えやすいように180度回転させてテーブルの上に乗せた。
「この店を教えてくれた友人が一緒にオススメのお土産を教えてくれたのよ。私が買いに行ったのはヴェネチアンジュエリーのネックレスとーー」
「ミスタだァ!この字は ミスタの字だぜーッ! 」
そう声を張り上げたのは御察しの通りナランチャ君。静かにするように私が声を掛けるも「そうだよな フーゴ!? 」とまともに取り合ってくれない。どうやらかなり興奮しているらしい。
「ナランチャ、静かに 」
「コレってスッゲー偶然だと思わねェ?なァフーゴ!」
そこからはもう一瞬だった。
フーゴ君は右手にコーヒースプーンを握るとナランチャ君の顔に勢い良く突き立てたのだ。そして捲し立てるようにフーゴ君の口から放たれる罵詈雑言の嵐。対する頬から血を流したナランチャ君は携帯ナイフを取り出し構えると「殺してやる! 殺してやるぜ〜〜フーゴ」と、もはや自暴自棄の様子。
「え……あ……?ちょっ……」
突然の出来事に息が詰まった私は周囲を見回し助けを求めるが呆然とした様子でこちらを見ているだけで助けてくれそうもない。意を決した私は震える手で自分の鞄を掴みそれを盾にすると勢いよくナランチャ君に突進し押し倒した。
キズモノになってしまった本革のお高めの鞄とプルオーバーのブラウス、そして何よりもミスタ君のオススメが書かれたページにナランチャ君の血液が染み込んでしまったことに私は深く落ち込み、一瞬涙ぐんだのだった。
店内に居づらくなった苗字御一行は当然リストランテを後にした。ふたりは私に押されながら店を出たきりだんまりを決め込んでいる。
どんよりたした雰囲気のまま歩いていると1軒のパニノテカの屋台が目にとまった。私は有無を言わさずにふたりを最寄りのベンチに座らせると小走りで屋台へ寄っていく。昼食を食べ損ねてしまったし、彼らも残念がっているだろう。気分を一新させる為にも、まずはお腹に美味しいものを溜め込むべきだ!と私は考えたのだ。
「ボンジョルノ!おにいさん!生ハムとトマト それとモッツァレラチーズのパニーニをひとつ ……それと貴方のオススメで適当にふたつ作ってもらえるかしら」
店主は了承の意を口にするとすぐに作業に取り掛かっていく。彼は私のプロシュット・コットのパニーニを手早く作り終えると、先程とは違う種類のパンを手に取った。五穀パンだ。具材に七面鳥とほうれん草を挟みハーモニーを完成させる。最後のひとつは鶏むね肉のグリルのパニーニ。鶏むね肉に赤チコリ、ゴルゴンゾーラチーズを挟んだパニーニが完成した。
「すっごい美味しそう……」
私が思わず感嘆の声を上げると店主はこちらに微笑みを見せる。とても人当たりの良い笑顔だ。
3つ分の代金を支払った私は「グラッツェ」と店主に告げ、ナランチャ君達の待つベンチへ小走りで向かう。遠くから見える彼らはまだ俯いていて暗い雰囲気を引きずっていた。
「お待たせ。美味しそうなパニノテカの屋台があったんだ!よかったら2人も食べない? 」
私が明るく務めてそういうとふたりは勢いよく顔を上げこちらに目をやった。その様子に驚いた私は1歩後ずさりしまう。
「名前!その……ゴメン! おれ達……」
「すみませんでした! ぼくは……カッとなると恐ろしいことをしでかしてしまうんです」
三者三様ならぬ二者二様の謝罪に私は驚き見開いていた目をさらに大きく見開いた。そしてすぐに私は辺りからの痛い視線に気づいた。
すぐに2人に顔を上げさせた私は「ひとまず私の部屋に上がっていかない?」と場所を変えるように促した。
「ところで……いかにもミスタ君に教えて貰ったんどけど貴方たち 知り合いだったの?」
「ええ……まあ」
私は「ふうん」とフーゴ君の煮え切らない返事にそう返す。ホテルで洗濯してもらっていたナランチャ君の衣服を彼等の荷物の傍に置き、何か部屋に飲み物がないかと冷蔵庫を開けてみるが中身は昨日のチェックインと同時に放り込んだワインで占領されていた。ルームサービスのミネラルウォーターはそこらに放られたままで常温だ。
「……ごめんね ワインしかないや。2人とも何か飲み物頼もうか? 」
「いいえ お構いなく。僕らはもうお酒を呑める年齢なので」
「ああ そうか。イタリアじゃあ16歳から飲酒が認められているんだったね」
冷蔵庫からネグロマロを取り出し、食器棚からグラスを3つ掴むとガラスのテーブルに置き注ぐ。さっき買ってきたパニーニも並べれば立派な昼食だ。
「さあ、パニーニが冷めないうちに 『Alla vostra(私達、貴方たちの健康祝って)』……」
私がグラスを目の高さ程まで持ち上げ薄く笑みを作ると2人も倣うように乾杯の儀式の準備を始める。
「「「Cin Cin !! (乾杯)」」」
私達3人はお互い目を合わせ先程よりも笑みを深めるとグラスを更に少しだけ上にあげ、軽くグラスを当てた。
その後ーー私達はナランチャ君達のお土産のワインも開けて見事に酔いつぶれていたようだった。
私が2人よりもほんの少し早く目を覚ますとガラスのテーブルに突っ伏すようにして眠るフーゴ君とカーペットに寝そべるナランチャ君が目に止まった。
私はヴェネチアン・ジュエリー屋の紙袋から藤色のガラス玉が装飾されたアンクレットを2人の足首に付けてみた。昨夜のお礼に買った物だったが結構似合っているように思う。
フラフラとした足取りで台所に向かいぬるいミネラルウォーターを呷る。幾分かだがさっぱりとした頭で改めて部屋全体を見渡すと私は「あっ!」と短く悲鳴をあげ急いでフーゴ君の身体を強く揺さぶった。
「ごめん!! フーゴ君、起きて!時間! 帰りの列車に遅れちゃうよ! 」
呼び掛けと共にすぐに意識を覚醒させたフーゴ君は勢いよく顔を上げ、すぐに頭に手を添える。頭が痛いのだろう。
彼は私の手に持ったミネラルウォーターのペットボトルを強引にひったくると口に運ぶ。フーゴ君に強く蹴りを入れられたナランチャ君も痛みから勢いよく飛び上がると催促されるまま服装を整えて帰る準備を始めた。
私はすぐに支度を終えたナランチャ君に未開封のぬるいミネラルウォーターを2つ投げ渡すと列車に乗ってからでも飲むように勧める。彼は「ありがとう!」と笑みを浮かべると別れのハグをしてくれた。
「また会おうぜッ! おれ 名前とまた話がしたい! 」
純粋そうに、天真爛漫に、可愛らしい顔つきとは裏腹に鼻腔を掠めるはワインの背徳の香り。そのギャップになんだか頭がぽーっとした私は思わず顔を赤く染める。
「そうだね ……約束!私これから何度でもイタリアに来るよ!今度はネアポリスで会おうね」
フーゴ君も無事準備を終えたのかナランチャ君の名前を呼ぶ催促の声が聞こえる。私達はお互いに体を離すと急かされるまま玄関に向かった。
「いろいろとお世話になりました。名前さん、残りの旅行も十分に気をつけて楽しんでくださいね」
「へへ……素直じゃあねーなァ フーゴは!コイツもまた名前とちゃんと食事がしたいって言ってたんだぜ」
「なっ……ナランチャ!きみって奴は……ッ」
焦った様子のフーゴ君にナランチャ君は「嘘だったのかよ?」とさらに追い打ちをかける。フーゴ君の表情、声色、何をとっても嘘だとはとても思えない。
「ふふ……私もまた貴方たちと食事がしたいな。その時はよろしくね 」
「ええ、今度こそは……っと 本当に時間がマズイぞ。それじゃあ Ci vediamo(また今度) ぼくらはもう行きます」
「……あはは Buona giornata!(素敵な1日を)ナランチャ君、フーゴ君。家に帰るまでが旅行だからね」
だだっ広い廊下を走り抜けていく彼らの姿が見えなくなるまで見送った私は部屋に戻り静かに扉を閉めた。
テーブルの上に置かれた飲みかけのミネラルウォーターを口に含んだ私は備付きのコンポにドナテラさんとトリッシュのCDを差し込む。
ソファーに体を預け、いつの間にかテーブルの上に載せられていた数粒だけ残ったジャンドゥイオッティをひとつ口に放ると甘いショコラの味が広がる。
もう少しだけ眠ろうーー大好きなチョコレートの味を噛み締めて、親愛なる友人の歌声に耳を傾けたまま。
部屋の隅、ナランチャ君の服の入った紙袋を見つけてしまうのはあと数時間後でかまないだろう。
こうして私のイタリア旅行は5日目を終えた。