朝一番に出航する船でカプリ島からソレントへ向かった私は少し遅めの朝食を済ませた。デザートに食べたデリツィア・アル・リモーネのレモンクリームの味を噛み締めながらつぎの目的地への買い物を済ませておく。
そしてベスビオ周遊鉄道に乗りネアポリスを経由した先に目的地がある。
列車の中、はやる気持ちを抑えて私は鞄の中にしまい込んだいくつかのCDを取り出すとジャケットに写る2人の見知った女性に自然と顔をほころばせた。
「どこかでラジカセの借りれるホテルとかないかしら……はやく聴きたいなあ。ふたりの歌」
腕時計を確認すると到着予定時間までまだそれなりに時間があると分かった私は目を瞑った……昨日の晩酌の分の酒気がまだ抜けていないのかもしれない。すごく眠い。
「おい アンタ、寝るんじゃあねー……スられても知らねえぞ」
「あー……はい。気をつけますぅ……」
クロスシート横に座る男の咎める声が聞こえるがそれでもカンケーない。第一隣に座る黒のロングコートのこの男だってさっきまで目を瞑っていたんじゃあなかっただろうか。
一応忠告通り荷物を男から離れたところに置くとと私は再び目を瞑った。
これから向かう場所はポンペイーーイタリア・ネアポリス郊外にある古代都市(紀元前6年建設)だ。
ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流で地中に一夜にして埋もれてしまったというのが有名でユネスコ世界遺産にも登録されている。近場であるネアポリスの小中学生などが遠足で訪れることもあるようだ。
実はこの私、ネアポリス、カプリ島は共に初めての滞在だったのだがここポンペイだけは通算4回ほど訪れていた。
そして昨日のトリッシュのーー「あんたが泣いてた理由とポンペイってなにか関係あるの? 」という言葉を思い出す。
その時私は何て答えたんだっただろうかと考えた所で私はついに睡魔に敗北を喫してしまった!
Buona giornata!! Day,three Pompeii
時は私が中学生だった頃まで遡るーー。
それは私にとって第1回目のイタリア旅行のことだった。
イタリアにて外交関係の仕事に就いていた祖父と共にポンペイに来た私だったが当時はなんの興味もなく、非常に退屈していた。
もちろんジュピター神殿やフォロの浴場などに美しさを感じなかった訳では無いが、何よりも不気味さの方が勝ってしまっていたのだ。
当然せっかく案内してくれている祖父に対して「嫌だ」だとか「つまらない」などと言える訳もなく、ただただ何も考えずについて回っていた私はあろう事か隠し持って来ていたゲームボーイに目をつけてしまった!
祖父がヴェッティの家でフラスコ画に目を奪われている間、私はこっそりとアレイウェイ(ブロック崩し)に目を奪われていた。
天罰が下ったのだろう、私がどうにかして手に汗握る難所をクリアし終える頃には既に後の祭り、周りに祖父の姿はなかった。
じわりと嫌な汗が滲んできて、ヴェッティの家をそう急に飛び出した私は肩掛け鞄に適当に突っ込まれていたガイドブックに縋り付く。しかし何処も彼処も同じ場所に見えた私はついに困り果ててしまった。
当時の私はまだイタリア語の勉強など始めていなかった為、そこら辺にいる観光客達に声をかけることも出来ない。
とりあえず何か行動を起こさなくては! と駆け出した私は少し先にあった個人住宅のような所を発見し一応ガイドブックと照らし合わせてみる。
「あ……あった……!これだ!『悲劇詩人の家』……あまり気は進まない名前だけど、走り回っているだけじゃ見つからないよね……」
玄関と思われる床にはガラス張りにされた黒い犬の床絵が。モザイク画だがそれでも伝わってくる力強い雰囲気にごくりとつばを飲むーーがしかし、ガイドブックにも載っていたのだ、きっと観光名所に違いない!ならば祖父もここにいるかもしれないと私は覚悟を決め、家の中に入ることを決意した。
「おい あんた大丈夫か? 」
「ひっ!?」
一歩踏み出そうとして持ち上げていた片方の足が背後からの声に驚きとんでもない速度で降ろされる。幸い床絵にも私自身の足にも危害は及ばなかった。
振り向いた先にいたのは自分より少しだけ背丈の低い現地の少年だった。辺りに保護者や先生の姿は無く、少年もまた迷子なのだろうかと大袈裟に膝を曲げて目線を一緒にした。
「……ええとノット キャン スピーク イタリアン 、キャン ユー スピーク イングリッシュ ?」
身振り手振りを交えて、文法や発音もお構い無しにとにかく伝えてみる。
本当なら日本語が伝われば一番だが高望みはしない。英語がイタリアでも必須科目なのかも分からないがとにかく今一番喋れる外国語である『英語』だけが唯一声をかけてくれた少年に返せる言語だった。
「英語は少しぐらいなら大丈夫だ……というかアンタのがヘタなんじゃあないか? 」
「うっ……そ、そうかな? ところで君の家族やお友達はどこか思い出せる? 」
その問いに心底意味がわからないと言った表情を見せた少年は黄昏色の美しい特徴的な瞳を1度閉じると私の腕に付けられた子供用の安っぽいアナログ腕時計を見るように催促した。
「……11時50分、お昼時だね? 」
「オレはこの辺の小学生で今日は遠足で来てんだ。今は弁当の時間だし、よければ先生のところに連れて行ってやろうか? すぐ近くだしきっと英語も伝わるぜ」
お弁当の時間ーー少年の言葉に私は空腹を自覚し、無意識に腹の音を鳴らしてしまった。恥ずかしさから頬に熱を帯びた私が「へへへ」と笑みを浮かべると少年は強く私の手を引いて歩き出した。
「あら レオーネ、そちらの子は? 」
「迷子だって……あと、お腹がすいてるようだから弁当を分けてやるんだ」
少し開けたところに出ると、そこでは少年ーーレオーネのクラスメイト達が思い思いのところで昼食をとっていた。生徒達から少し離れたところに座る美人な先生に呼び止められた私は足を止めると同時に浅く会釈を返す。
「……ボンジョルノ」
事情を理解した少年の担任の先生は私のヘタクソな発音に笑顔でボンジョルノと返すと少年の手からレジャーシートを受け取り隣に広げた。
「お父さんお母さんを探す前に私達と一緒にご飯を食べましょう? ……お腹がすいていては何も出来ないもの」
そう言って木陰に座る先生は自分の分とレオーネのレジャーシートを合わせた真ん中当たりをポンポンと叩き私に座るように催促した。
促されるままそこに座るとウエットティッシュを差し出され「グラッツェ」と言って受け取る……いたせりつくせりな状況に緊張し、逆に居心地の悪くなった私は恥ずかしくなってレオーネの方に視線を向けた。
戻ってくるなり声をかけられていたあたり、きっとスクールでは人気者なのだろう。大声で話されている会話はたぶんイタリア語で1ミリだって分からなかったがきっと一緒にお弁当を食べようと誘われているだとかなのだろう。
「……悪いな、ひとり分しか持ってきてねーもんだから少ないんだが」
そんな会話を一方的に断ち切ったのはレオーネだった。静かに舌打ちをした彼は僅かに赤く頬を染めていて、鞄からお弁当であるアルミホイルに包まれたパニーノを取り出すなり半分に分けて片方をこちらに差し出した。
「グラッツェ、レオーネ」
「ン……」
適当に千切られたパニーノの断面からはモッツァレラとプロシュート・コット(ハム)、ポモドーロ(トマト)がこちらに顔を覗かせている。分けた際に躊躇なく大きな方をこちらに差し出したレオーネは早速大きな口を開けてパニーノにかじりついていた。
「……美味しい! 」
「……?」
「あっ……ボーノ!」
彼に倣って大きく口を開けてパニーノにかじりついた私は思わず声をあげるとレオーネに不思議そうな顔を向けられすぐにイタリア語に変換する。
意味が伝わった彼は嬉しそうに微笑むと「そうだろうな これはおれの母さんが作ったんだから」と自信ありげに言ったので私も「それもそうだよね」と笑みを返した。
「ふふっ……あなた達もうすっかり仲良しさんなのね? きっとそれだけじゃ足りないでしょうし先生のブルスケッタはいかが? 」
現にお腹の空腹具合と美味しさ、そしてサイズも相まって私とレオーネはすぐにパニーノをたいらげてしまっていた。私達は顔を見合わせると先生に向かって頷く。
私の隣に座る先生はタッパーに入れられたプチトマトのブルスケッタを2人の前に差し出し、「邪魔しちゃあ悪いし……私はこの辺で」とひとつウインクをすると立ち上がって自身の教え子たちのところへ行ってしまった。
「素敵な先生だね……」
「まあな」
私の言葉に適当に返事をしたレオーネが一番乗りにブルスケッタを口に運ぶ。張り合うようにして私も急いで手に取ると口に放り込んだ。
オリーブ油が塗られたバケットはこんがりと焼かれていて噛む度にサクサクと音を奏でる。バルサミコ酢と蜂蜜を絡めた深みのあるソースにプチトマトの酸味が合わさった爽やかな味つけ、そして口内に広がるわバジルの香りで本当にいくらでも食べられそうだ。
ハイペースで食べていくと当然ブルスケッタは少なくなっていく。私たちが次に手を止めたのはタッパーに残るブルスケッタが残りひとつになった時だった。お互いに顔を見合わせたあと私は不意にタッパーに伸びていた手を引っ込めるとウエットティッシュでベタついていた手を拭きながらレオーネに最後のひとつを譲るために口を開いた。
「……お腹いっぱい! レオーネが食べて? 」
しかしレオーネはブルスケッタに手を伸ばさない。どうしたのだろうと彼の顔を見ると彼もまた私の方を見ていたようでばっちり目が合った。
「遠慮なんてしなくていいんだぜ……本当にいらねーのか?」
「うっ……いらないよ」
「そうか? なら食っちまうぜ」
正直食べたかったがパニーノを大きな方を貰っておいてブルスケッタまで奪おうという気にはなれなかった……それに女の子たるもの食いしん坊の卑しん坊のレッテルを貼られる訳にもいかない。
口を開けたレオーネが人差し指と親指でブルスケッタを摘んで今にも口に運ぼうとしている。それをぼうっと眺めていた私は極自然に、無意識のうちに口を開けていたのだろうーーレオーネはブルスケッタを持っていない方の手をレジャーシートに付くと、こちらに身を寄せ無意識に開かれていた口の中に最後のひとつであるブルスケッタを放り込んだのだ。
驚き声をあげようとしたがもう後の祭り、ブルスケッタは全て口内に、爽やかな風味が強く広がる。
「レオーネ? どうしてこんなこと……」
「……大口開けてたからやっぱ欲しかったんだと思って」
「そっかあ……ありがとう……」
私は思わず手で口を覆った。ぼうっとしていたからと言って口を開すぎではないだろうかと自分に呆れた。
咀嚼し飲み込んだ後、彼に何かお返しができるような物はないだろうかと鞄を漁った私が発見したのはアーモンドキャラメルとキャンレディ。どちらも好きなお菓子で日本でよく食べているお菓子だ。
レオーネは……キャンレディって顔じゃないなと自己完結をした私はキャラメルをひとつ取り出すと彼の方に向き直った。
「レオーネ、目瞑って」
「は? なんでだよ」
「いいからいいから!」
しょうがないなといった様子のレオーネが目をつむる……しかし、彼は警戒しているのか口を開けてくれないのでキャラメルを放り込むことが出来ない。
「……ねえ口あけて」
「……なんでだよ」
「なんでもだよ」
「……なんか企んでるな?お前」
逆に何がなんでも口を開けてやらない!といった様子になってしまったレオーネに私はうーんと唸ると同時にキャラメルの包装を解くとそのまま彼の唇にあてがった。
「……これ……甘いな」
「……美味しいからそのまま口に含んでごらんよ」
私の言う通りにキャラメルを口に含んでしまったレオーネに内心かわいいなどと思いながら「美味しいでしょ? 」と返す。どうやらお気に召したらしい。
「ポケットに数個入れておくからお腹空いたら食べてね!」
「ああ、グラッツェ……ええと」
困った顔をしたレオーネは何かを察して欲しいようにこちらを見る。銀色の、男の子にしては長めの髪が風に揺れて先程までは見えなかった白い耳があらわになる。そこでようやく私はレオーネが自分の名前がわからなくて困っているのだと気づいた。
「名前だよ そういえば自己紹介してなかったね」
「名前か……よく分からねぇがいい名前なんじゃねえの」
「ふふふっ ありがとう! レオーネって名前も素敵だよ!」
私の言葉に顔を赤くして照れた様子のレオーネはブルスケッタの入っていたタッパーを乱雑に片付けると「ン」とだけ呟いて私に左手を差し出した。意図が読めずに困ったように首を傾げた私の手を今度は無理やり掴むと彼は私を立ち上がらせる。
「そろそろ本格的にお前の保護者を探してやらねーとな……別れちまってから何分ぐらい経った? 」
「あっ……そうだよね!ええとだいたい40分ぐらい……きっと今頃心配してるかも」
私とレオーネはどちらともなく顔を見合わすと一度手を離した。私はレオーネのレジャーシートを片付け、彼は担任の先生に保護者探しを手伝うための許可を取りに行ったのだ。
ほんの数分後戻ってきたレオーネは「先生は同行できないけど、あと30分間だけなら一緒に出歩いてきてもいい」と言われた趣旨を私に説明すると、善は急げと言わんばかりにすぐに歩を進めた。
後ろから聞こえてくるレオーネのクラスメイト達の野次に私が困ったように彼の顔を覗き込むとその顔は何故かポモドーロのように赤く染っていた。
「おじいちゃーん!!」
「名前っ!どこに行ってたんだ……ッ!心配したんだぞうッ」
「……ご……ごめんなさい!」
あれから数十分後、無事に私は祖父と再会することが出来た。自分よりも数個年下の子にここまで助けられるとはと私は酷く感謝した。
途中見た「抱き合うふたりの乙女」に私が泣き叫んだ時も、ディオニュソスの秘技の間での壁画を不気味だと感じた時もレオーネは冷静に私に付き添ってくれていたのだ。
「おじいちゃん、紹介するね……彼の名前はレオーネ。ここまで案内してくれたの!ネアポリスの小学校の子だって」
「そうかそうか……ようし、この老いぼれが何かお礼をしよう……何か欲しいものはあるかな? 」
急に話を振られたレオーネはぎょっとした顔で私を見た。そしてしばらく考え込んだ後ただ一言「写真」と呟く。
「……写真?」
「おれと名前、2人が写った写真が欲しい」
「……ええ!? そんなのでいいの?」
「おれは……それが一番いい」
快く承諾した私と祖父は後日、個人情報の保護も兼ねて学校側に現像写真を送ることを約束するとすぐに写真撮影に取り掛かった。
本当かどうかは定かでないが昔はカメラマンとしてブイブイ言わせてたという私の祖父がポンペイのメインストリートであるアボンダンツァ通りの地形を巧みに利用して角度を決めていく。孫である私も初めて見るような高そうなカメラをかっこよく構えた祖父は、ばっちりとベストポジションを見つけたようで声高らかに「OK!」と叫んだ。
「どんなポーズにする? ぴ、ピース……は日本だけなのかな?」
「……自然体でいいだろ」
「うーん……それじゃあ手でもつなごっか」
手を繋いで身体を寄せるーーレオーネと私の距離はゼロセンチだ。空いている方の手を大きく振って祖父にシャッターを押す様催促をすると、祖父もまた手を軽く上げ了解の意を示した。
「 uno(ウノ)」
静かに、それでいて響く特徴的な祖父の声があたりに漂う。隣に立つレオーネの瞳はカメラに向いたままだ。
「 due (ドゥエ)」
イタリア語で「2」を意味する言葉が祖父の口から紡がれる。そろそろ私もカメラの方を向かなくてはならない!
「 tre (トレ)」
この1拍後、シャッターは切られる。それなのに何故か無性にレオーネの方を見ていたくなった。
シャッター音がなりフラッシュがたかれる。しかしその刹那、なんということか私とレオーネはお互いを見合っていた。
写真の確認をした祖父の呆れたような「もう1回撮るか」という問いかけに2人は笑顔で首を横に振った。
「レオーネ、今日は本当にありがとね」
その後、レオーネのクラスメイトたちの所へ戻った私たちにはついに別れの時が訪れてしまった。こちらはプライベートで来ているがレオーネは学校行事で来ているのだから引き止めることは出来ない。
「私、撮った写真をペンダントにするよ!あとお手紙も書いちゃう!」
「ちゃんと読める字で頼むぜ」
「む……やっぱり書かないでおこうかな……」
「……冗談だ」
おれも返事書くよと付け足したレオーネは写真を撮っていた時からずっと繋がれたままだった手を離すと今度は強く抱擁してきた。
「……レオーネ? 」
「名前……」
もしかしたら寂しがってくれているのかもと思った私は思い切り顔を緩ませると力強く抱擁を返してやる。するとレオーネもまたさらに強く抱擁を返す。
しばらくそれを繰り返していると不意にレオーネが私の名前をぽつりと呟いた。自然と彼の声のトーンに合わせた私は静かに「なに?」と囁くと次の言葉を待つ。
「 ……Ti amo 」
「 ティ アーモ ?イタリア語……かな? 分からないや……その言葉の意味は? 」
腕の力を緩めたレオーネは鼻で笑った後、1歩後ずさると「それは自分で調べてみろ」と微笑んだ。それに対して私は、教えてくれてもいいのになぁと思いながらも「そうするよ」と微笑み返す。
「……それじゃあな 写真と手紙、楽しみにしておくぜ」
「うん! 期待しといて! 」
レオーネはそれきりこちらに背を向けて歩き出してしまった。勿論もっと一緒に居たかったがこれ以上駄々をこねる訳にはいかないなと自分を押さえ込む。
「ねえ おじいちゃん。こういうとき……お別れの言葉ってイタリア語でなんて言えばいいのかな」
「ふむ……アリーヴェデルチ かのぅ」
「違うよ! それは「ただのさよなら」でしょ。私が言いたいのは「特別なさよなら」のことだよ! 」
私の言葉に困ったように苦笑いをうかべる祖父はすでにこちらからどんどん離れて行ってしまう小学生の隊列に目を向けている。
その悠長な様子に焦りを感じたわたしが「早くしてよう」と急かすと祖父は何か閃いたようにこちらに向き直った。
「これはどうじゃろうか……Buona giornata 」
「 ブォーナ ジョルナータ? 」
「意味は「素敵な一日を」じゃ……しっかしもう遠足は終わっちまったようじゃがのう」
「……いいじゃない! 素敵だよ! ブォーナ ジョルナータ! 」
私はレオーネ達の隊列の元へ駆け寄るとすぐに彼を見つけた。驚いて一瞬足を止めたレオーネの目元には涙が浮かんでいるーー彼もまた別れを惜しんでいるのだ。
「レオーネ! Buona giornata! ……きっと私たち また会えるよ! 」
すぐに上着の裾で目元を拭ったレオーネは今まで見た中で一番の笑顔で「おう」と声を上げた。
ガタンッーーと一際大きな揺れで目を覚ます。少しの間だけだが眠っていたようだ。
今の揺れで落ちてしまったのだろうか、足元に転がり落ちた鞄とその中身を拾い上げる。
イタリア旅行のガイドブックに財布、パステルカラーのデジカメとウォークマン。ペンと手帳、キャンレディの箱に入った予備のお金……。
順当に拾い集めていくが何かが足りない。私はもう一度鞄をひっくり返して調べてみたい気持ちを抑えてあたりを見渡すーーと探し物は早速見つかった。
ヒラヒラと風に舞ってしまうほど軽いその一通の便箋は不幸なことに前方斜め右のクロスシートの下に入り込んでしまっていた。私の座る席からは立ち上がらないと取れない所だ。
隣に座る黒のロングコートを着た銀髪長髪の男はヘッドホンをつけて目を瞑っている。こんなこと言いたくはないがいかにも「本職」といった風貌だ。……私ったら眠りにつく前、何か無礼なことを口にしていなかっただろうか?
まあ第一寝ているかもしれない相手に声をかけれるほど切羽詰まった状況ではないし、自分で取るのが無難だろう。
(こっそ〜り動いて こっそり席に戻る!たったそれだけよ )
私はできる限り静かに席を立った。ポンペイの広い敷地を歩き回れるように用意した有名スポーツメーカーのシューズはヒールと違い足音を吸音する。慎重に慎重に1歩進んだ後、膝ごと姿勢を低くすると見事、便箋に手が届いた。
しかし便箋を拾い上げた私が、席に戻ろうとした時、不意に列車は大きく揺れ私自身も体勢を崩してしまった。
「あっ! 」
なんという度重なる不幸か! 私が倒れた先は隣の席のヘッドホンの男の上。それだけでなく首から下げていたペンダントはチェーンの揺れで男の体に激突ーー痛くはなかったかもしれないが確実に目を覚まさせてしまっただろう。
「ごめんなさいっ……ッ! 今すぐよけるわ! 」
「……」
目を瞑ったままーー静かな動作でヘッドホンを外した男は流れるような手つきで私のペンダントを開いた。
「な……何を……? 」
薄く目を開けた男はペンダントに写る私とレオーネを一目見ると次は閉じた。
そして私の頬に流れるような動きで手を添えると次はこちらに黄昏色の目を向けて口元に弧を描く。
「レ……レオーネ? あなたレオーネなの……?」
嬉しいような困ったような、自分でもわからない気持ちに戸惑いながらもその見覚えのある瞳の色から彼の名を呼ぶ。
しかしそれを遮ったのはポンペイへの到着を知らせるチャイムの音だった。後ろの席の年配の夫婦もいそいそと荷物をまとめて列車を降りる準備を始めている。
「……チッ ご到着だとよ。はやく降りた方がいいぜ」
すました顔で手を引っ込めたその男はそれだけ言うと再び目を瞑ってしまった。
男の体に負荷をかけないように慎重におりると、素早く鞄の中に便箋をしまい込んだ私は荷物をまとめて立ち上がると男の方に向き直った。
「最後に……ひとつ言わせて欲しいわ」
「……」
返事はない。それでも寝ている訳では無い筈なのできっとこれは肯定の意味での沈黙なのだろう。
「Buona giornata!(素敵な1日を) ……レオーネ・アバッキオ!いつか……手紙の返事を書いてくれることを信じて待ってる……!ずっと」
それだけ言って彼に背を向ける。もちろん今の言葉にレオーネからの返事はなかったが私は特に気にはならなかった。
ある日突然途絶えた文通に気落ちしていた私に、日本と比べられないほど治安の悪いイタリアでは何があったとしてもおかしくないと祖父が慰めるように言った時からきっと彼はもうこの世にいないのだと思っていた。
今のレオーネがたとえまともな職業に就いていないとしても彼が今生きていることが嬉しくて、列車を降りた私はひとり静かに涙を流した。
こうして私のイタリア旅行の3日目が始まった。
いつの間にかポケットに入れられていた『Buona giornata!』と書かれたキャラメル箱に気づくのはあと数時間後のこと。