ネアポリスから50分程の船旅を経て、私はマリーナ・グランデへ上陸した。視界いっぱいに広がる紺碧の青い海から吹く潮風が気持ちいい。
そしてそこからケーブルカーを利用して島の中心部へ向かう為に島の特徴でもある坂道を進んでいく。もちろんその手の中にはレモン味のジェラートは欠かせない。
そう、ジェラートが欠かせない気温なのだーー道中のお土産屋さんで買ったレモンチョコレートが溶けてしまわないかと私は一雫の汗を額から頬にかけてすべらせる。現在この島は半袖で十分な程の温かな気候だ。
そう、私はカプリ島に来ていた。
Buona giornata!! Day,two Isola di Capri
マリーナ・グランデから無事にカプリへケーブルカーで移動できた私はすぐさまにホテルへ向かいチェックインを済ませた。
そして鞄の中からチョコレートの箱を取り出して恐る恐る中身を確認する。残念ながら触れると私の指紋がくっついてしまうほどに溶けている……ヒジョーに残念だ。
私は冷蔵庫に箱ごとチョコレートをしまうと忘れてしまわないように『チョコ有!』と書かれた付箋を貼り付け、少し早めの昼食をとるためにホテルを後にした。
カプリ島はとても小さな島だが、青の洞窟やその他自然環境の美しさからイタリアにおける観光地として名高い。特産物はレモンでわたしも既に晩酌用にリモンチェッロ(レモンのリキュール)をホテルの売店で買って冷蔵庫に冷やしている。
そしてなんと言ってもここは海産物が美味しい。ティレニア海に面した島で地中海で採れた新鮮な魚介を味わうことの出来る「港が近い島の特権」を味わえる観光地なのだ。
結構お腹がすいていた私はいくつか並んでいたレストラン街の中で一番空いている店に入ると貸し切り状態になっているテラス席に腰を下ろした。先日、ネアポリスの優男に褒められた流暢なイタリア語で注文を済ませるとウエイトレスは厨房へ向かっていく。
海が見えるこのテラスからは今朝の漁を終えた漁師が巻き取り機から取り出した網を乾燥させていた。
鞄から電源が長持するのに特化したウォークマン、WM-EX909型を取り出すとお気に入りのサザンを流してみる。ハイな気分になろうと思ってかけた音楽だったが流れたのはバラード。歌詞が心に刺さり、気持ちが違う意味で昂ってしまうのを感じた私は一時停止ボタンを押すとイヤホンを外した。
ほんの少しだけでてしまった涙を手の甲で拭うとウォークマンをそそくさとしまう。こんな姿、誰かに見られたら変な誤解をされてしまいそうだ。
そんなことを考えた矢先だった、テラスと店内をつなぐ扉が音を立てて開いたのだ。反射的にそちらに振り返った私が目にしたのは綺麗な桃色の髪を正面でくるりと巻き上げたクセのあるヘアスタイルに仕上げた女の子の姿だった。
見たところ中学生かそこらの少女は1人ーー格好をみたところ現地の人間ではないだろうに辺りに保護者が居ないことに私は少しだけ首をかしげた。
対する彼女は私の顔を見てギョッとした表情を見せた。もしかしなくても目元が赤くなってしまっているのだろうか。
とりあえず目が合ってしまったのだから、このまま無視をするわけにもいかないと私は笑顔で一言「ボンジョルノ」とだけ会釈する。
「……ボンジョルノ」
後ろで組んでいた手を前で組み直すと彼女はそう返す。びっくりした表情はすぐに俯いてしまい見えなくなった。
少女から視線を外した私がよくよく見ると、店内に彼女に似た女性が雑誌を読んでいる姿を発見した。彼女とは違い髪色は暗い色だが顔立ちや眉の形なんかが似ている気がする。
視線を戻せば少女のエメラルド色の瞳が遠慮がちにこちらを捉える。すると彼女は私との距離を少しだけ詰めた。
「……この風景をバックに写真を撮って貰いたいのだけど」
その言葉と共に差し出された彼女の手にはカメラが握られている。シルバーの飾り気のないカメラに、彼女自身の私物ではないなと私は直感した。
「もちろん 任せて」
綺麗なピンクを帯びた白い肌からはほのかに化粧品の良い香りが漂う。イタリア製の化粧品なのだろうか肌に良く馴染んでいる頬紅の色は暖かく、彼女の冷静な雰囲気(イメージ)を緩和させていた。
彼女はそこら中にある空席に自身の持ってきたバッグを乱雑に置くとテラスの手すりに身を預けた。
「自然な雰囲気で撮ってくれる?」
「う〜ん……やってみるわ」
こちとらカメラに関する仕事に就いている訳では無いし、カメラ小僧的な趣味がある訳でもないので自然体で撮って欲しいなんて要求に沿った撮影ができる自信は全くなかった。
しかしなんとかなるもので、彼女に撮った写真を確認のために見せてみると一発合格をいただいた。
「……よければあなたも撮る? 」
そう言った彼女の視線は私の鞄の中から覗かれたパステルブルーのデジカメに向いていた。「じゃあお願いしようかな」というと当然のようにポーズを要求する少女。……もしかすると彼女はこういったカメラを向けられる仕事をしているのだろうか。
「ポーズかぁ……ねえ 君ならどんなポーズとる? 」
「えっ あたし? 」
先程から記述している通り彼女はとても美しい女性だ。女性らしい華奢な体つきに、年齢を感じさせない独特の雰囲気を纏っている。
イタリアには何度か訪れているがこんな美少女にあったことはなかった……やはりモデルか何かなのだろうか。
少女はバッグから雑誌を取り出すとページめくっていく。まるで付箋がはられていたかのようにびったりとページを揃い当てた彼女は私に見えやすいように雑誌をこちらに向けた。
「グウィネス・パルトロウ……恋におちたシェイクスピアの? 」
「そうよ アメリカの大女優……あなたも知っていたのね」
「ええ 日本でも人気だったわ! 」
感心したように一度深く頷くと「こんなポーズはどうかしら」と彼女は雑誌の右側を指さした。
そこに写るグウィネス・パルトロウは長く手入れの行き届いたプラチナブロンドの髪をフロントからバックまですべて流し、白を基調としたノースリーブのドレスのスリットから長く艶やかな脚をさらけだしていた。
このポーズが上手く決まるのはグウィネス・パルトロウが平均よりもよりもうんと高い身長があるからだ。写真をこちらに見せ、さも当然といった表情の彼女もグウィネス・パルトロウの170センチ代には届かずとも(着用中のヒール付きのブーツ込みで)160センチ後半は確実だろう。
結局彼女の提案通りにポーズをとるもなんとも言えない結果に。それものそのはず半袖白のシフォンブラウス……までは写真のように清楚で可愛らしいのだが、今日に限ってパンツがサルエルパンツだったのだ。レディースものでユルユル感は少なめのものを着用しているとはいえシルエットはあまり良くない。
そして極めつけに足元はヒールのないサンダル。坂道が多いことを考慮した結果、実用性ばかり気にかけていたことが誰の目にも見てわかるコーデネートだった。
「あの……」
「ちょっと動かないでくれるかしら」
「……うん」
もういいよと言おうとした時、それは彼女の強い言葉によって止められてしまった。
彼女は私の身体の角度などをとことん押しては引いて、下げては上げてと無遠慮に動かしていく。私ももうデッサン人形のようにされるがままだ。
すると次第にベストポジションを見つけられたのだろうか、足元から順に彼女の手は上へ上へと登ってくる。なんとも言えぬエロティックな行為に私はごくりと唾を飲んだ。10代半ばの少女にこんなことをされちゃあ異性は黙ってられないだろうと自然とにやけてしまう口元を右手で覆った。
「ねぇ」
「……ごめんつい」
下手したら10歳ぐらい離れているであろう彼女の強めの咎める声に私はほんの少しだけ萎縮した。右手を元の位置に戻してやると彼女はついに私の顎に手を添える。直接目を合わせることをためらった私は目を伏せると彼女の思うままにさせてやった……その時だった、店内とテラスを繋ぐ唯一の扉が小さな音を立てて開け放たれた。
私がそちらへ顔を向けた時、すでに少女も扉の方を見ていた。振り向いた先にいたのは店のウェイトレスーー私はひとつ安堵の溜息を零した。
「ありがとう……そこに置いておいてくれるかな? 」
「は はいっ」
この光景に動揺したのかウェイトレスはカチャリと音を立てて食器を並べていく。騒ぎ立てるような人でなくて良かったと私は再び彼女の方へ振り向いた。
「……あなた 随分と肝が据わっているのね 」
「君こそ! そんなことを言いながら私から手を離さなかったじゃない」
それだけ会話を交わすと私はすぐに目を瞑った。近くにウェイトレスがいるのだからせっかくだし一緒に撮ってもらおうと考えた私はすぐにでも自分の分の撮影を終えたかったのだ。
「そのまま 動いちゃだめよ」
「うん」
「……口元は少し角度をつけて微笑むようにして」
完成されたポージングはすでに最初のものとはかなり違っていていた気がする。それでも彼女がこんなにも真剣に考えてくれたポーズなのだ……写真の出来は期待以上のものが出来るだろう。
不意に耳元辺りに誰かが顔を寄せている気配を感じた……がそれはすぐに誰か分かった、彼女だ。最終調整中なのかただただ近いがそれは特に気にならなかった。
そしてついにシャッターが切られる。
次に一緒に写真を撮ってもらおうと私は彼女の方へ向き直すためにシャッター音のなった方へ視線を向けた……しかしそこにいたのはウェイトレス。
「すごくいい写真が撮れましたよ」
そういったウェイトレスに私はありがとうと返してデジカメを受け取る。呆けた顔の私は彼女がどこに行ったのかと首を90度曲げるとそこには満足そうな彼女の姿が。
「確認してみていい? 」
「もちろんよ 期待に添える結果になっている筈」
確認するために写真を画面に表示するとそこに現れたのは私と……彼女だった。
2人の間には心地よい逆光が差し込み、私の暗い色の髪は光を帯びていた。そして1番喜ばしいのは私と彼女のこの写真は「恋におちたシェイクスピア」のパンフレットと同一のポージングだったということだろうか。
彼女はこのカプリ島の良い所である美しいティレニア海を景観に含ませるという技術と、ほんの少しの会話で知った私の好きなものを取り込むという思いやりの気持ちを持ち合わせていた。誠実で優しい子なのだと私は瞬時に察して彼女にとびきりの笑顔を見せた。
「ありがとう とても素晴らしいわ!! 」
私は自分のパステルブルーのデジカメの電源を落とすと鞄に放り込んだ。きっとこれ以上の写真なんて一生涯撮れっこないだろう。
「……私は苗字名前!よければ私と友達になって欲しいな」
差し出した手をビックリとした表情で見つめた彼女は数秒経ってから私の顔へ視線をずらした。年相応に表情がくるくると変わっていく様子に私はより一層笑みを深める。
「あたしはトリッシュ・ウナ……これからよろしく」
握り返してくれた彼女の手は想像よりもずっと温かかったーー……。
それから私とトリッシュはすぐに彼女のお母さんをテラスに呼び出し、共に食事をすることにした。
トリッシュの母親……ドナテラさんは僅かな余命の中で自分の死後ひとりになるトリッシュの為に行方知らずの夫を探すことに死力の限りを尽くしているらしい。
しかし、イタリアに住んでいる訳では無い私には『ソリッド・ナーゾ』などという男の名など当然聞いたことも無く、力にはなることはかなわなかった。
「……それで、今日はどうしてカプリ島へ? 」
ホタテのオーブン焼きを完食すると共に、私は話題を切り替えるためにトリッシュに話を振った。
「気分転換みたいなものよ。あたし達ふたり共イタリアで歌手をしているんだもの」
「えっ!? 」
当然のように、さも常識であるようにトリッシュはレモンのトッピングがされたカニのサラダをひと口だけ口に運んだ。ドナテラさんもニコリと微笑んだまま肯定の言葉を口にする。
「そうだったの……もう、言ってくれれば良かったのに」
「自分から「あたしは有名人です」なんて言う芸能人がいるわけある? ないじゃない名前」
そう若干呆れたように言ったトリッシュは私の注文したピッツアを一切れ奪い口に放り込んだ。それもそうだねと笑いながら返した私は油断していたトリッシュの蛸のマリネを1口分奪ってやった。さっきのお返しだ。
「ところで名前さんはいつまでこちらに滞在する予定なのですか? 」
「今日までです。明日の午前中には……その……ポンペイへ行く予定がありますので」
少し言い淀んでしまった私にトリッシュは何故か黙り込む。数秒後、彼女は突然私の方へ顔を向けると「ねえ」と切り出した。
「あんたが泣いてた理由とポンペイってなにか関係があるの? 」
すぐに私の口の中へ入っていく予定だった大ぶりのエビは見事に私の取り皿の上に着地した。
食事会を終えた私達はそれから数時間、共に観光をした。折角の家族団欒の息抜きにお邪魔しちゃったかなと思わないでもなかったが、トリッシュの誘いを無下には出来なかった。
「それでは 私はこれで失礼しますね」
「今日は私も娘も充実した日になったわ! ……それも名前さんのおかげかも」
「ドナテラさん……」
病気を患い、身体的にも精神的にも辛いだろうに他人を気遣えるドナテラさんの姿に私は心がぎゅっと締め付けられた。
すると突然、ドナテラさんは隣に立つトリッシュの背中を優しく叩くと「トリッシュ」と彼女の名前を呼ぶ。それに対しトリッシュは「……分かってるわ」と返すと1歩こちらに踏み込んだ。
「あたしも楽しかった。ありがとう ……それで こ、これあげるわ! 」
片手で無造作に差し出されたれたのは小さ紙袋。トリッシュの表情からして私への贈り物なのだろう。
「……トリッシュ 今開けてもいいかな 」
「勿論よ」
プレゼントの包装紙には買ったお店のシールがペタリと貼られている……カプリ島のお土産さんで買ったもののようだ。できる限り丁寧にシールを剥がし終えると慎重に中身を取り出してみる。
「わあ……! イヤリング……!」
「こんなの安物よ そんなに喜ばないで」
私は早速タグを外し、自身の耳に付けてみる。顔を揺らすとレモンとティレニア海の雫をイメージしたチャームも一緒に揺れた。
「ありがとね! トリッシュ! 大切にするから!」
頬を染め照れた様子のトリッシュにかわいいなと思いながら包装紙をそのまま鞄の中へ放り込む。その時ちらりと自身のウォークマンが目に入り、私はひとつ閃く。
「そうだわ! 明日CDショップに行くからふたりの曲のタイトルとか教えてよ! 」
「えっ? いいわよわざわざ聴かなくたって」
「私が聴きたいから聞いてるの! 」
ひとつため息を零したトリッシュはメジャーだという楽曲と私の好きそうな曲をいくつか候補に挙げてくれた。私は手帳とペンを取り出すと先日の『ブチャラティのおすすめ』の隣にそれらを一文字一句聞き逃さないように気をつけながらなんとか書き終えた後、開けていた最上部に『トリッシュのおすすめ曲』と書き添えた。
「ようし! これでふたりのファンになること間違い無しだわ!」
手帳を鞄にテキトーに戻すと私はふたりに向き合った。ドナテラさんは柔らかな笑みを浮かべ、トリッシュは少しだけ頬を赤らめていた。
「じゃあ本当に今度こそ」
「ええ……さよなら」
「帰りも気をつけてね 名前さん」
ふたりはそのままの表情でーートリッシュはほんの少しだけ顔を俯かせて別れの言葉を口にした。
「……Buona giornata(素敵な一日を)」
そんな私の言葉に表情を変えたのはトリッシュだった。呆れたように、それでいて堪えきれないというように鼻で笑うと俯いていた顔を上げる。
「馬鹿ね 名前。もう1日の半分も残ってないわよ」
トリッシュは最後にとびきりの笑顔を見せた。それは私にも連鎖してふたりは人目もはばからず大口を開けて笑った。
そしてそんな私たちをドナテラさんがシルバーの飾り気のないカメラでこっそり撮影していたことに今の私は気づくことは出来なかった。
こうして私のイタリア旅行は2日目を終えた。